第九話
ざくり。
虚空に響く、無慈悲な肉穿つ金属の音。
あまりにも残酷な響きを残しながら、ミナはもう一度ナイフを振り上げる。そして、先ほどと全く同じ動きでヤコを刺した。
舞い上がる血飛沫を避けることなく、コンピューターのループ処理のように何回も何回もミナはナイフでヤコの体を突き刺す。そのたびに、ミナの全身は彼岸花のような鮮明な赤色に染まっていき、ナイフの先端が頸椎にぶつかる度に、ヤコの体は生きることを思い出したように跳ね上がった。
ようやくヤコの首が胴から解放された時、ヒトミは心内でミナの悲哀を求めていた。しかし、ミナは軽くヤコの頭を一瞥しただけで、作業の邪魔だと言わんばかりに砂の上を重い球のように転がして、再びナイフに手を伸ばす。
その時、ヒトミは自分の中の何かが壊れる音を聞いた。一体何が壊れたのかを知るより速く、自分の中に流れる血汐が沸騰するような熱を感じた。ミナに対する不信感や劣等感はあっという間に憎悪へと還元され、燃料となってヒトミの体を動かした。
ニオの介抱する手を振り払い、ミナの元へずかずかと近づいていく。呆気に取られたニオは口をぽかんと開けて、事の行く末を見守っていた。
自身の背後に立つヒトミの気配に気づきながらも、ミナは無視して遺体の右腕に刃を突き立てようとした。そんなミナのナイフを握る手を掴み、ヒトミは骨を砕く勢いで力を込める。
「離せ」ミナは身動きせずに短く言い放った。
ミナの返答にヒトミは奥歯をギリッと噛みしめ、今にも吠えたくなるのを必死に堪えながらも、ミナに「説明してください」と息を押し殺しながら迫った。
その言葉にミナは首だけで振り返った。粗暴に自分の手首を握る、ヒトミの怒りに震える手と、自分の瞳孔に焦点を合わせたままの据わった目つきをじっとりと眺めた。
「説明したら納得するのか?」
ミナの無機質な言葉はヒトミを憤慨させるに充分だった。
「一体何をしているのか説明してください!」
ミナの手を思い切り引いた。後ろ手を引かれたにも関わらず、ミナはごく自然に立ち上がり、くるりとヒトミの方へ向く。そして、ゆっくりと口を開いた。
「見ての通り、解体だ」
「見ての通りじゃないですよ! どうして解体しているんですか!」
「……ヤコの体はもう使えない。内臓をある程度回収したら、残りは『喰う』しかない。だから、解体している」
「喰う……?」
「文字通りな」
「そんな……ふざけたこと……」
ヒトミの手には自然と力が入る。握り締められる痛みに耐えかねたのか、ミナの手からはナイフが離れ、サクリと地面に突き刺さる。
「そんな風に、そんな風にヤコさんの体を扱っていいわけがない! あなたは自分が死者を冒涜していることを分かっているんですか!」
「……それが、どうした?」
ヒトミはカッとなるのを感じた。しかし、それが怒りの感情だと脳が咀嚼するより先に、ヒトミは自分がミナの頬を殴るのを見た。
ガスッと鈍い音が砂の上を走る。
衝動に任せて手を挙げてしまったことに戸惑いながらも、ヒトミはミナを弾劾することを選んだ。
「……ヤコさんは私を庇って死んだんですよ……そんな立派な人を……人の体を、あなたは無下に扱って恥ずかしくないんですか? 一緒に戦ってきた大事な仲間でしょ! なのに、こんな……こんな……酷く惨めな目を死んでも遭わなければならないんですか! それでヤコさんに顔向けができるんですか!」
そこまで吐き出したヒトミはミナの表情に気がついた。
喜怒哀楽どれにも当てはまらない絶妙で形容し難い面様でありながらも、何かを訴えるような瞳は同情でも哀れみでもなく、すべてを包み込んでしまいそうな奥深さがただあった。
「なんですか、その顔は! 私を馬鹿にしているんですか?」
「……」
ミナの沈黙にヒトミは狼狽した。なぜ何も言わないのか、なぜ少しも抵抗しないのか、なぜ何もやり返さないのか、なぜそんな顔ができるのか。ヒトミにはミナのすべてが異質に見えた。そしてその不愉快な異質性を迫害しなければならないと誰かがヒトミに囁く。
「このっ!」
ヒトミはミナに飛びかかり、地面に押し倒す。そのままミナへ馬乗りになると、両の拳でミナの顔面を殴りつけた。
骨と骨がぶつかり合い、痺れるような痛みが殴った方の腕の中を疾走する。しかし、怒りが鎮痛剤と化したのか、それが痛覚であることをヒトミは認識できなかった。それどころか、ヒトミの脳は『そうだ、もっと殴れ』と、命令に変換していた。
『ヤコさんは立派に死んだ』
『ヤコさんは私を助けてくれた』
『ヤコさんは死に際も笑顔だった』
『なのに、あなたはヤコさんを二度も殺した』
『英雄の体をただの肉片と言った』
『あまつさえ、喰うと言った』
『あなたには人の心がないのか』
『あなたはそれでも私なのか』
『私はあなたを私と認めない』
暴力は言葉となり、醜悪なコミュニケーションを作り出す。音にならないヒトミの言葉は、振りかぶった拳に乗せられる。口を開けば届くはずの想いは、なぜか歪んだ形でしか明示することができなかった。
対するミナも苦しそうに呻き声で返事をしながら、その拳の重みを享受していた。それでもミナは、ヒトミの原始的で幼稚な感情表現を拒むようなことはしなかった。
殴られるたびに頭蓋が揺さぶられ、尖った石のように鋭い痛覚と、皮膚に沁みるような鈍い痛覚が交互に襲われるものの、ミナの瞳は常に加害者の泣きそうな顔を捉えていた。
ミナはその顔をよく知っている。自分の中が腐った肉のようにぐちゃぐちゃになって何も分からない時に見せる私の顔であると。どんな感情とも一致しないやるせない気持ちは、衝動となって誰かに手を伸ばそうとする。
それがたまたま
肯定も否定もする気はなく、ミナはただ時が過ぎてヒトミの気が済むのを待った。だが、ニオがヒトミを突き飛ばしたことによって、一方的な暴力は唐突に終わりを告げる。
体が砂まみれになりながらも、素早く起き上がってヒトミは標的をニオに変えて掴みかかる。だが、ニオは簡単にヒトミをいなし、逆にヒトミの手首を持って投げ飛ばす。
細やかな砂とはいえ、顎が叩きつけられたヒトミは軽い脳震盪を起こす。ちかちかする視界の中で体をよじって暴れ回れるものの、ニオはヒトミの体をがっちりと押さえて動けなくする。
「ごめんね」と短い言葉のあとに、ニオの爪先がヒトミの顔面に迫り、今度こそヒトミの意識は闇の中へと消えた。
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