立ち止まる必要はなかった
「君っていいやつだよな、わざわざ見送りに来るなんて」
ジョークを飛ばすように軽やかに言い、ズカズカと距離を詰める。
「うぬぼれないで。たまたま、きただけよ」
「そう言うと思ったよ」
彼は涼やかに流す。分かっていると言わんばかり。むしろ、先ほどの言葉を引き出そうとしていたかのよう。要するに相手が一枚上手だった。
「ああ、それ」
秋人の視線がペンダントに向く。
彼は美冬の手を取るとチェーンを掴んで、彼女の首にかけた。
「ちょっと、やめてよ」
これは返す予定だったのに。
焦る美冬とは対照的に、秋人は落ち着いている。
「やっぱり似合うよ」
「え?」
眉をピクリと動かし、視線を上げる。
胸のあたりでハートのチャームが揺れた。
「それは君が身につけていてほしいんだ」
懇願するように言われると、返しづらくなる。
美冬は口をモゴモゴとさせたが、ついに否定の言葉は出なかった。
遅れて、先ほど秋人が繰り出した言葉を、脳内で復唱する。
――「似合うよ」
思い出すと、頬が緩む。
内心、嬉しい。
それとは別に彼のペースに呑まれているようで、モヤモヤする。
気持ちがごちゃごちゃとしてきて、妙な気分だ。
感覚が狂うのは、彼のせい。
秋人と美冬には明確な隔たりがあった。
にも関わらず、彼は自然な態度で接してくる。
なにもなかったかのように普通の恋人――いや……友達のように。
懐かしいやり取りだった。
共に過ごした日々――オレンジ色の思い出が脳内にあふれ出す。
香ばしくて甘酸っぱい味を覚えている。小学生のころ、遊びにきた秋人を招き入れて、居間で菓子を食べた。チョコレートやクッキー。ジャム入りだったため、見た目も華やかだった。
二人で歩くと近所の男性と接触して、「デートか?」とからかわれる。少女は真顔で、「違うよ」と否定した。
だけど実際には恋人にもなって――
花のように色づいた日々だった。温かな気持ちが胸に流れ込む。
それゆえに切ない。
時は過ぎ去ってしまった。苦くとも甘い想いを押し流して。
「僕は一緒にいてほしかったんだよ」
急に声のトーンを下げる。
淡い口調で、でも確かに彼女の目を見て、彼は告げた。
「ほかの人たちはいい。だけど、君は。君にだけは」
なぜこの期に及んで、未練のようなことを口にするのか。
それではせっかく無にしたはずの想いが、帰ってきそうになる。
戻りたく、なってしまう。
しかし、それはできない。
夢の続きは闇で覆われている。
時は止まったまま、動かない。
二人の関係は終わっていた。
燃える尽きるほどに熱く想っても、焦がれるようにように求めても、ひだまりのような日々は戻ってこない。
それでもあと一度だけ、チャンスがあるのなら。
もう一度、彼を見上げる。
唇を開いた。
かすかな糸をたぐり寄せるように、淡い光にすがるように。
「どうして私だったの?」
深く息を吐くように、問いを繰り出す。
「君しかいなかったからだよ」
彼は柔らかな口調で答えた。
「僕が選びたかったのは、君だけだよ」
はっきりと、迷いはなく。
瞬間、胸の上でハートのネックレスが、跳ねる。
美冬は黙り込み、固まった。
彼の言葉はずっと欲しかったものであり、同時に受け取ってはならないものでもあって。
されども本当の感情はそんなものではなく。
心の奥で消したはずの火が、ふたたび灯る。
張り詰めていたものが溶ける音がした。
ああ――同じだ。
自分には彼しかいない。
秋人が日常から消えて、歯車が狂った。その時点で悟ってはいたのだ。
そう、最初から分かっていた。
どれだけ心を抑えつけても奥底に眠る炎だけは、否定できない。
「行かないでよ」
想いがあふれ出し、決壊した。
目が潤み、視界が滲む。
雫がこぼれた。
流れ落ちた涙。春に溶けた雪に似ていた。
一方で青年は澄ました顔で、首を横に振る。
「それはできない。僕は君を置いていく」
伸ばした手を振り払うように頑なに、彼は告げる。
悔しさを抱きながらも、美冬は納得した。一度逃げた人間に、旅立つ者を止める資格はない。取り残されたのならばそれらしく、暗闇に沈むしかない。
負の感情を呑み込むように諦観し、割り切ろうとする。
「だから、追いかけてくるんだ」
彼の声が届く。
想像もしていなかった答えに、目を見張った。
彼を仰ぐと澄んだ瞳と目が合う。秋人は爽やかな顔をしていた。まるで明るい未来を語るように。
雲は退き、晴れ間が覗く。柔らかな日差しが差し込んだ。
「待ってるから」
ハッキリと伝えると彼女に背を向け、前に進む。彼が電車の中に入ると、扉が閉じた。発進。
美冬は一歩も動かない。体から力が抜けていた。
その内に電車は離れて、見えなくなる。鉄の箱は秋人を連れ去っていった。
終わってしまえば一瞬だ。
雪の降る夜に再会して、苛立った瞬間も。
過去を思い出して濁った感情がこみ上げたときも。
ベッドの中で心が曇っていったことも。
なにもかもが遠く、押し流されてしまった。
彼はもういない。一人になった。
喪失感はあるものの気持ちはすっきりとしている。
長いトンネルを抜けて、光を見た。
少女はかすかに口元をほころばせる。
穏やかな風が吹いた。はらはらと桜吹雪のように雪が舞う。
長く伸びた黒髪もゆるやかになびいた。横髪を耳にかけながら、彼方を向く。電車が向かった先を明確な意思を持って、見据えた。
闇に似ていた瞳はクリアになり、光を浴びると茶色を帯びる。
涙の跡は消えていた。
雪を溶く熱 白雪花房 @snowhite
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