逃げただけ

 雪の降る晩。

 藍色に染まった広場で、美冬は切り出す。


「別れましょう」


 葛藤に葛藤を重ね、心身ともにすり減ったすえに出た答えだった。


「どうしてなんだ?」


 たちまち秋人は狼狽する。


「私はあんたにふさわしくない」

「そんなことはない。僕を理解してくれるのは、君だけだ。だから僕は」


 彼は必死になって説得をする。

 大きく手を動かし、口を開けて、声を張り上げて。


「だからなに? 私はなにもできないのよ」


 付き合っていても彼に得はない。それなのに、なぜすがろうとするのだろうか。

 なお、相手は美冬の声に耳を傾けない。


「僕にできることだったら、なんでも言ってくれ。必ず直す」


 強く前に出る。


「君に悪口を言うやつがいても、気にするな。だから」

「あんたにできることなんて、なにもないわ!」


 ついにこらえきれなくなったように叫ぶ。

 少女の金切り声に、青年は閉口した。

 それを見て彼女はしおれたようにおとなしくなり、肩を落とす。美冬は眉を垂らし、口を開いた。


「違うの……」


 消え入りそうな声で。


 心は決まっている。

 彼を受け入れられない。

 たとえ相手が暗闇を照らす救世主で、国宝級の宝石を送ってきて、心を溶かすような想いをぶつけてきたとしても――

 ――少女は絶対に青年の手を振りほどく。


「私が辛いの」


 震える声で訴えた。


「あんたと一緒に、いたくない」


 途端に青年は口を閉ざす。

 傷ついた表情。顔から色が抜ける。


 少女はうつむいた。

 罪悪感がチクチクと胸を刺す。

 されども一度、言ってしまったのだ。どうあがいても覆せない。


 目をそらし、顔をそむけた。唇を引き結び、押し殺した声を出す。

 少女は走った。青年の視線を振りほどくように。

 そして彼女は彼の前から姿を消した。




 秋人とは会わないと決めた。縁を切って彼との関係を終わらせる。未練を断ったつもりだった。


 自らの意思で決めたことなのに、今でも彼と過ごした日々は、脳裏をよぎる。

 そして何度も夢に見た。

 最愛の人にダイヤを渡され、式を上げる。

 豪華な花で飾られた会場でドレス姿の男女に見守られ、純白の花嫁はレッドカーペットを歩く。

 プラチナのリングを交換し、大切な人と笑い合う彼女は、この世の誰よりも幸せな人。

 二人は同じ家に住み、末永く暮らした。


 打ち切りになった物語の続きを想像するように、彼女は夢を見続けた。


 所詮は叶わぬ夢。一瞬で溶けてしまう幻想だ。

 理解はしているのに幻の夢をたぐり寄せたくなって、たまらない。彼女は終わった想いに手を伸ばし続けている。


 ああ、どうしてこうなってしまったのだろうか。


 秋人を思って身を引いたつもりだ。彼には自分よりもふさわしい人物がいる。それは正しい選択だったと、何度もおのれに言い聞かせた。


 けれども、今なら分かる。

 逃げただけだと。


 ――「そばにいたくない」


 なんて。

 身勝手な物言い。

 自分のためにこぼした弱音。


 ――「君にだけは言わなきゃいけない。そう思ったんだ」


 まっすぐな言葉。

 真摯な目。

 思い返すと胸が張り裂ける。


 彼の想いは分かっていた。


 それなのに今さら、彼のためだなんて……。







 バカみたいだ。

 口の中でつぶやきいた。




 翌日。

 ハートのペンダントを握りしめて、家を飛び出す。


 外の空気は張り詰めていた。空は灰青に曇っている。

 昨日降った雪は残っていた。滑る路上に気をつけながら、彼女は進む。吹き抜ける風に肌寒さを感じ、身をすくめた。


 ほどなくしてプラットホームにたどり着く。人影はまばらで閑散としている。学生が数名、ほかは会社員や老人。

 彼はどこだろうか。高校生と大学生の間くらいの後ろ姿を探す。

 傍ら、ペンダントのチャームを、ギュッと握りしめた。


 彼からのプレゼントは返さねばならない。決意を決めたのはよかったものの、内心は緊張している。心の準備はできておらず、海に呑まれるような気分だ。


 やはり、嫌だ。会いたくない。立ち去りたくなったとき、軽快な音が聞こえてきた。ガタンゴトン。レールが軋る音だ。

 電車が到着したところで、目の前を影が横切る。栗色のコートを着た後ろ姿。よく見ると紅葉色のマフラーを身に着けている。それは彼へのクリスマスプレゼント。美冬が渡したものだった。


 気付くや否や、鼓動が跳ね上がる。

 一瞬のときめき。

 空白。

 そして、罪悪感。


 青年は一人で入口へ赴こうとしている。行ってしまう。

 切迫した気持ちはすぐに冷めて、美冬は体から力を抜いた。


 これでよい。

 彼は今や赤の他人。

 本来なら関わるはずのなかった相手。

 最初は一つだったこと自体が、なにかの間違いだ。


 元は同じでも切れ込みが入れば真っ二つに割れて、離れてしまう。

 実際に進学するにつれて、距離は広がっていった。小学生から中学生、高校生。友達から恋人へ。

 両者の関係は密着しているはずなのに。否、そばにいるからこそ感じていた。埋めようのない溝を、見えない壁を。


 それでも、見送るくらいは許してほしい。

 彼の姿を目に焼き付けるくらいはと。


 だけど、本当にいいのか。

 自分に向かって問いかける。

 これで終わりなのに。

 彼とは離れてしまうのに。

 二度と顔を合わせることはないのにと。


 心を覆う雲は晴れない。冷たい風が心を吹き抜ける。

 空っぽになったように立っていると、不意に爽やかな声がかかった。


「やっぱり来たんだ」


 前を向くと電車の手前に秋人が立っていた。

 深く澄んだ瞳が美冬をとらえる。

 容姿はさらに大人びたが、雰囲気は数年前と変わっていない。

 一瞬、時が巻き戻ったかのように錯覚した。

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