故郷は爆ぜた。
綾乃雪乃
故郷は爆ぜた。
「ふぁ~あ」
夏の暑さがピークを越えて、秋が顔を出しては隠れるようになった季節。
私はお風呂上がりにベランダへ出て、1つ大きな欠伸をした。
「欠伸するなら、早く寝なさい」
「ん」
部屋の中から網戸越しにお母さんの声が聞こえる。
お風呂上がりのふわふわな気分のまま適当な返事をすると、ぱちり、と音が返ってきた。
真っ暗になる。
その黒は、生まれた時から過ごしたにしてはあまりに殺風景なリビングを隠していった。
安っぽくてボロボロな椅子に座り、片膝を立てる。
「おやすみ」
「おやすみ」
軽いやりとりを交わしながら、私はその膝に顎を乗せた。
お父さんが、亡くなった。
それは突然ではなかった。
2年も前、ずっと胃腸を壊していたお父さんが、ある日散歩中に道端で嘔吐した。と聞いた。
異変を感じたお母さんと兄が、大きい病院で検査をさせるとある意味予想通りの結果が出た。
胃ガン、ステージ3。
それからは少し大変だった。
家族の病気なんて、兄が幼いころに1度きり。
私が社会人になって3年が経つまで、とても縁遠いものだった。
入院に必要な物を集めたり、担当医と話したり。
私は独立して新宿に1人暮らしをしていたから、携帯に報告がくるばっかりだったけれど。
手術した後、再発。末期まで進行。
転院をして3か月、私たちの目の前で、お父さんはこけた顔のまま、旅立った。
葬式にはたくさんの人が来てくれた。
いつも無口なお父さんの、若い頃の明るい話で大輪の花が咲いた。
そうしてようやく落ち着いたとき。
私と兄に、お母さんは言った。
引っ越そう。
この家はもう、広すぎるから。
「
ガラガラ、と滑りの悪い網戸の音が聞こえた。
名前を呼ばれて、膝に顎を乗せたまま横を見る。
お兄ちゃんが寝巻姿で隣に立っていた。
「お兄ちゃん、寝ないの?」
「お前こそ…俺も座りたいんだけど」
「えー」
お兄ちゃんは私をどけとばかりに見下ろしてくる。
動く気のなかった私は、傍の発泡スチロールを指さした。
「そこに座れば」
「は?壊れそうなんだけど」
「大丈夫でしょ、中身もゴミで詰まってるし」
少し間を置いて、お兄ちゃんは言われた通り発泡スチロールを手で押して弾力を確かめると、足を広げて座った。
ジャリ、と砂で地面を削るような音が聞こえた。
「明日、引っ越しだな」
「うん」
この家は、私が生まれた時に引っ越した。
東京都の大都会から電車で揺られること40分。
日野駅から少し離れたマンション。12階の3LDK。
虫が飛んでこないし、邪魔な建物がないから風が通って気持ちがいい。
子供が大きくなっても暮らせる、それがこの家を選んだ理由らしい。
お風呂上がりにベランダで涼むのは本当に久しぶりだった。
小学生の頃はよくお兄ちゃんと一緒に涼んでいた。
夏はアイスを食べながら。
冬は10秒だけ数えて、どちらが早くコタツに潜り込めるか競走して。
あの頃、視界に映る美しい武蔵野の星空を遮ってきたベランダの高い壁は、もう陳腐な塊に見える。
「覚えてる?お前、小さいときに自分のスイカ落として大泣きしてた」
「ああー」
「父さんと半分こしてたな」
「あ!」
「今思い出したろ」
くすくす笑いが夜空に響いた。
今思えばお兄ちゃんはお父さんに似てる。
毎晩お父さんが布団を敷いている和室で、積み木をしたり、ままごとしたり、コマを回して遊んだり。
嫌な顔をせず私の遊びに付き合ってくれたこととか、特に。
「お兄ちゃんだって前にリビングの壁を変えたとき、夜泣いてたじゃん」
「何それ」
「模様替えの時、お父さんが黒い木目の壁紙貼ったじゃん」
「…あ」
お兄ちゃんは思い出したようで、短い髪をくしゃくしゃとかいた。
夜になると木目に恐怖を感じたらしく、お兄ちゃんが泣いた。
お父さんが剥がして白い壁に戻したっけ。
今思えば、無表情だったけど相当焦ってたんだろうなぁ。
わざわざ夜中にやることもなかったのに。
私はその壁に振り返った。
確か和室との仕切りになっている一面に貼ったんだっけ。
その白い壁を記憶で黒く染めると、懐かしい気持ちになった。
ふとリビングを見渡す。
カーペットを剥がすまで知らなかった床の色。
膨らんだ段ボールの山が積まれている。
私の知らない私の城だったものが、そこに広がっている。
見ていられなくて、すぐにいつもの星空へ視線を戻した。
「…そろそろ寝ようぜ」
「もうちょっと」
「…」
沈黙。
深夜の静かなベランダの隙間から、ハイビームの車が1台だけ、道路を右折して消えていくのを見送った。
「…じゃ、俺もまだ寝ない。…ふぁ~あ」
「何それ、お兄ちゃん眠いんでしょ」
「眠いけど、寝たくないっつーかさ」
そう言ってお兄ちゃんはもう一度大きな欠伸をした。
「明日、業者って何時に来るんだっけ」
「10時くらいだって聞いたよ」
「なら9時まで寝られるな」
「片付けがあるから、7時には叩き起こされると思う」
「まじか」
やっぱ寝るかな。
お兄ちゃんはいつもの手のひら返しを決めて、立ち上がる。
「寝るぞ」
「えー、だからまだ…ふぁ~あ」
「眠いんじゃねえか」
「はいはい」
片膝を伸ばして立ち上がれば、馴染みの椅子がギギギっと泣いた。
そのまま悲鳴をあげさせて畳み、燃えないゴミの山に添える。
リビングに戻れば、裸足にペタリと固い床の感触が伝わってきた。
「お兄ちゃんの隣で寝るとか」
「文句言うな。あと寝言も言うなよ」
「お兄ちゃんこそ蹴ってこないでよね」
既に和室には布団を敷いていた。
毎晩、お父さんはここで寝ていた。
そして、最後に一時帰宅した日も、ここで嬉しそうに一晩を明かした。
今は、私とお兄ちゃんが並んで寝ている。
「なんか、久しぶりな感じだな」
「ねっ……おやすみ、お兄ちゃん」
「うん」
目をつむる。
寒くないけど、薄い掛布団を顔まで被せる。
お兄ちゃんの寝息が聞こえるようになった頃、私はようやくうとうとした。
「瀬奈!」
お母さんは本当に7時に叩き起こしてきた。
タブレットのワンセグから大音量のニュースが聞こえる。
お兄ちゃんはもう隣にいない。
…なるほど、7時より前に起こされたか。
どんまい、と思いながら私は寝不足の身体を起き上がらせた。
引越し業者は10時過ぎにチャイムを鳴らしてきた。
元気な挨拶が和室まで響いてくる。
私は『お父さん』をバッグに仕舞っていた。
「…緩衝材、巻きすぎたかな」
写真や位牌が傷ついたら大変、と巻き付けていたらもこもこになってしまった。
だいじょうぶ、お父さんはこんなことで怒る人じゃない。
たぶん、苦しい、なんてぽつりと呟くだけだ。
「我慢してて」
自分で言って、笑ってしまった。
そして青いバッグに詰め込み終わると、ひっかかりながらもちゃんと閉じることができた。
「瀬奈ー『父さん』終わった?」
「終わった!」
「おし」
滝のような汗をかくお兄ちゃんが隣にきて、軍手のままバッグを持ち去っていった。
今日はいつもより暑い秋晴れだった。
「さあ、私たちもすぐ出るわよ!」
引越し業者を見送ると、お母さんは楽しそうに言った。
遺品整理や引っ越し準備の時はどこか暗かったけれど、今は晴れやかだ。
「荷物持って!早く―」
「母さん、待って、『父さん』誰が持ってくんだよ」
「重いから
「えー」
先ほどまで詰め込んでた青いバッグは、素手のお兄ちゃんによって持ち上げられた。
「父さん、ぶつけたらごめん。我慢してて」
「ぶふっ」
「んだよ瀬奈、お前もその荷物持って来いよ」
やっぱ私たち兄妹だな、なんて思う。
言われた通り傍にあった黄色くて小さいバッグを持ち上げた。
その時だった。
ころん
「…?」
目の前に茶色い何かが落ちた。
軽い音を立てて、目の前を転がって止まった。
「どんぐり…」
『瀬奈、見ろ、大きなどんぐりがあったぞ』
『わあ!パパ、ありがとう!それにするね』
『今日はなんで4つなんだ?』
『へへ、どんぐりに顔を描くの!
これがママで、これがお兄ちゃんで、これが私。
パパが持っているのが――――』
「お父さん…」
不格好な目と口。
修正液で書かれたそのどんぐりは、お父さんの顔。
思わず振り返ってがらんとした家を見た。
ああ、そうか。
終わるんだ、これで。
帰った時の落ち着く匂いも。
走り回ってよく怒られた廊下も。
4人で囲んだ食卓も。
ベランダで毎年眺めた八王子の花火も。
お父さんに『お帰り』と言った毎日も。
想い出すための
「…っ」
ぐっと、こらえた。
どんぐりを拾って、ポケットにしまった。
背を向けて、玄関の向こうの空をまっすぐ見て、私はそのまま外へ出る。
お兄ちゃんを抜かして、先にエレベーターを目指して歩いていく。
ガチャリ
その音は確かに、私の耳にしっかりと届いた。
「重かったら言えよ」
エレベーターを待ちながら、お兄ちゃんは私の頭に手を置いて言った。
―――――――――――
「おおおおーーーっ!」
引っ越し先はそう遠くないところにあった。
多摩都市モノレールに乗ってしばらく先、東大和市。
小さなマンションの2階、2LDK。
景色は日野市と似ているけど、確かに違う風が吹いていた。
「やっぱりいい部屋だな、母さん!」
「そうねー!粘って探した甲斐があったわね!」
これから新生活を始める2人は元気いっぱいに段ボールを開けて回っている。
私は昼食に必要なものを詰めた段ボールの中身を取り出しながら、その姿を眺めていた。
棚にはもう、『お父さん』が置かれている。
不格好に笑う写真が、ぐるぐる巻きの緩衝材から解放されて嬉しそうに新居を眺めているようだった。
私はポケットに手を入れながら、立ち上がる。
『お父さん』の前に立って、手を伸ばした。
お母さん、お兄ちゃん、私、そして。
不揃いのどんぐりを並べる。
私はそうやってあの家の風景を作り上げた。
全ての物事には、終わりがある。
それは、父として、1人の人間として、最期に私に教えてくれた大切なことだったじゃないか。
だから、その大切な記憶を抱えて生きていくって、決めたじゃないか。
「わたし、頑張るね」
ぽん、と頭に手のひらが乗った。
故郷は爆ぜた。 綾乃雪乃 @sugercube
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