神様と文通

言端

神様と文通

 それは特段害もなく、しかし確かに奇怪な出来事で、そして非常に緩く穏やかに私の日常へ来訪した。

 私は特に読書家ではないが、人並みに本は読む。気分が良かったり、定時に仕事を切り上げたり、なんとなく目についたり、そんな条件が揃えば書店へ立ち寄り、それなりに気に入っている作家の本が新たに出ていれば買い求める。見切れないほど多種多様な新刊が面を向けた平台を、冷やかしもする。所有する書籍は、それほど多くはないと思う。その程度だが、「ごく普通の人間」が送る「ありふれた日常」を突如冒険へ導く「非日常」が無償で降って湧くような物語はあまり選ばない。彼らは必ず無自覚の素質を備えた「ごく普通」ではない人間であり、その日常とて「ありふれ」てはいない。少なくとも私には、突然の出会いを引き寄せる運命力や、大人の決めた規律を無視して冒険できる青春時代はなかった。何よりも、そう卑屈な大人になることに嫌気が差し、甘く手招く夢の物語に手を伸ばすのは止めた。私は毎日の中に意図的な非日常を程々に混ぜて楽しみながら、少しずつ退屈の軌道をずらして、昨日によく似た一日を死ぬまでループする。もうそうしよう、とどこかで決めた時から、文字通りのごく凡庸な人間になったのだ。そういう、どこにでも山ほどいるつまらない人間たる私には、趣味が少ない。


「だからって万年筆は玄人っぽすぎない?」

「万年筆がやりたかったとかじゃないんだよ。インクをもらってしまったから」

 休日の昼間。友人との買い物後の休憩は、品のいい年季を感じる和カフェでのティータイムとなった。テーブルの向かいで悠々と珈琲を飲む、垢抜けた女のチョイスだ。若かりし頃の酒の失敗が発端で出会った彼女、啓とは、思いがけず長い付き合いになっている。特技欄の紙幅が足りなくなりそうな彼女と、茶なり酒なりを頻繁に飲み交わす関係が続こうとは、いまだに、少し不思議だ。彼女は私が凡庸で少々卑屈で、特記事項の少ない人間であることをよく承知している。私もまた、彼女は私と比べるべくもなく才知に恵まれる一方で、致命的な退屈に壊死せしめられていることを、知るともなく知っている。私たちはきっとお互いが羨ましい。しかしそれ以上に、似ているとも似ていないとも言える人間的質量の部分で共鳴していた。

 約一ヵ月ぶりに会う今日は、来たる太陽の猛威を憂いながら、その憂慮を誤魔化すかのようにまだ着られないペラペラの服を買い、そして小休止の今、珍しく私の日常に漣を立てた出来事を話している。つい一昨日、私はたまたま中古の万年筆を手に入れた。会社から駅へ向かう道を少し逸れると、ハイエンドな文具屋と一体化した大型書店がある。三連休を控えた木曜日、週末には一日気が早いが、首尾よく片付いた仕事の褒美を兼ねてもいいだろうと、書店へ立ち寄った。書店では、贔屓の作家が推挙するという煽りを冠した帯が目に留まり、初見の作家の本を買ってみた。地下フロアの文具屋へも足を伸ばしてみたのは、ただの気まぐれでしかない。なにしろハイエンドな文具屋なので、プライベートブランドの品もあるし、ヴィンテージの買取と販売もしている。何の凝り性でもない私には、普段なら用のない場所だが、ここのところ軽くながら頭の片隅に蟠り続けている懸かりごとがあり、足が向いたのは、そのせいでもあったのかもしれない。


 私の職場には、少し変わった人がいる。良くも悪くも目立たずあまり表情の変わらない女性で、歳は近しそうではあるが、訊いていない。無表情で無愛想というわけでもない。一見極端なところが何もないから、目立たないのかもしれない。しかしよく見ていると、明確に“一般的”ではない。例えば昼休み、彼女が昼食にかける時間は二十分もない。「摂取」とでも形容したらいいような単調さで少ない食事を片付けると、残りの時間で何かしらを一所懸命やっている。何をしているのかまではわからないが、私の見かけた限りでは、スマートフォンに向かって携帯キーボードを叩いたり、手帳やスケッチブックに猛然と書きつけていたり、樹木のような静けさで読書をしていたりした。私とて、その他多くの同僚と同じに、彼女に対して仕事以外の用事ではほとんど話しかけないが、給湯室で鉢合わせれば世間話はするし、何を読んでいるのか訊けば教えてもくれる。それが彼女にとっての「親しい」の基準にはまったのか、はたまた全く違う理由があったのかはいざ知らず、その彼女が突然物を譲ってくれたのが、二週間ほど前のことだ。給湯室での偶然の接触の折、珍しく彼女が先に口を開いた。珍しいどころか、初めてではなかっただろうか。

「あの、卯月さん、プライベートなこと、少し訊いてもいいですか」

「はい、なんでしょう?」

「万年筆に興味はおありでしょうか」

「万年筆」

 ものの二往復目にして、私は答えに窮した。興味の有無、それ以前の問題だったからだ。考えたこともない。私の世界の字引きで、「万年筆」の項は初めて開かれた、それくらいの接点のなさだ。私の沈黙を悪いように捉えたのか、彼女は遠慮がちながら様々に説明を付け加えた。曰く。

 多趣味な彼女は、去る先週末、文房具の祭典なるものに参加し、ここでは説明しきれないほどの戦利品を獲得したが(それが彼女にとっていかほど楽しかったかというのは、敢えて訊くまでもなく、戦利品について語る様から明白であった)、そのうち、万年筆インクの一つがダブってしまったという。

「自分で買ったのと同じ色を、あ、その小さいサイズの同じのを。お恥ずかしながら、買いすぎたので、オマケというか、いただいてしまい…厳密には重複というわけでもないのですが」

「使わないの?」

「こうなるとは思わなくて、通常のはもちろん使うつもりで買ったものですけど、どうしようって、予定になかったものなので、あの」

「誰か、知り合いにあげるとかはどうです?」

 こんなに言葉を交わすことが初めてだから当然初めて知ったが、彼女はあまり話すのが得意な方ではないらしい。無愛想ではないし、業務的なコミュニケーションに問題を感じたことはなかったが、確かにすすんで多弁な方ではなかったな、と思い当たった。そのせいか、私が意図せずして出した形になった助け舟に、彼女は勢い込んで飛びついてきた。

「あっ、そう、それが言いたくて、そうなんです。すみません、それだけなのに」

「いえまぁ、構わないけど」

 思いも寄らず、私は彼女の中のつっかえ棒を外せたようで、それは僥倖だったが如何せん凡庸な私は、この時になっても、続く彼女の言葉を想像できていなかった。

「あ、あの。よかったら卯月さんに」

「へ」

「ご迷惑でなければその、インクを、もらって、いただけないでしょうか」

「私に?」

「あの本当にご迷惑でなければ、ごめんなさい。急に、言われても困りますよね、すみませんやっぱり」

「ま、待って待って。嫌ではないんだけど。えーと」

 慎重に言葉を選ぶ。一つピースを間違えたら彼女は今にも逃げてしまいそうで、私ごときの言葉を待つのに瞳を右往左往させる様は小動物じみて、可哀想ですらあった。

「その、なんで私なんでしょう?自分で言うのもなんだけど、趣味人には見えないと思いますが」

 その質問は想定外であったようで、彼女は一瞬固まった。しかしすぐに顔を上げる。おそらく、この数分間で初めて合ったその瞳は煌めいて、一度も瞬かなかった。そして別人かと思うほど毅然と、彼女は明瞭に答を示した。

「色が似合います。私がお話しのできる方の中で一番」

 今度は私が硬直する番であった。少し話しただけで彼女はただ目立たないタイプであるだけの、しかし非凡庸に奥行きのある人間だと、解った。その彼女が、まるで告白のような言葉を、私に、それもごく自然に真実そのものだという顔をして、返した。頷く以外にできることがあっただろうか。少なくとも未だ私には、思いつかない。


 自宅のデスクでまだ客人の顔をしている「時雨」という名のインクを思い浮かべながら、私は文具屋をあてどなくふらついた。人からもらって初めて、万年筆インクにも名前があるのか、こうも洒落たものか、としみじみ感心したような人間が、高級そうなペンのずらりと並ぶショーケースに近寄るのには中々度胸がいる。実はボールペンの付近にカジュアルに立てられているものもあり、万年筆とは広く深い世界なのだが、それは後から知ったことだ。その時の無知な私は、硬派そうな店員の影を気にしながら、ショーケースのエリアを遠巻きに、店内を何周かした。そうしているうちに、エスカレーターの降り口のすぐそばに、「SALE」の板を掲げたワゴンがあるのを見つけた。よくあるセールワゴンの風体だが、その類にしては整然として、“魅せる”陳列だ。大きくも小さくもないメモ帳、「INK」とシンプルに印刷された小さい紙箱、よく見かける商品名だが今一つパッとしないカラーのペン。陳列の努力虚しく、ワゴン送りがどこか納得できてしまうような品々を眺めていると、その中で一点しかないものを発見した。本来の箱はもうないのか、PET素材の組立箱に厚紙が敷かれ、糸で固定された、万年筆であった。値段と「USED」のシールが並べて貼ってあるそのパッケージは店員の手仕事なのだろうと一目で判るが、見続けていると、可能な限り丁寧にそうされたこともわかる。万年筆自体も確かに使用感はあるが、見えている部分の状態は少し古いだけでむしろ良いくらいだ。何より、安い。万年筆のグレードなど見当もつかないが、店内を徘徊しながらあたりをつけた相場からはかけ離れている。要は破格だ。心配するとすれば品質だが、この店が安い粗悪品を客足の餌にするというのは、どうにも想像がつかなかった。こうして、初心者に分不相応な風格の万年筆は私の元へやってきた。


 時々珈琲を含み、レアチーズケーキを惜しみ惜しみ切り崩しつつ、思い返してみれば突飛と言えなくもない経緯を話し終えた。相槌と笑いと軽口をテンポよく挟みながら聞いていた啓は、やおら人差し指をクイっと、「来い」のジェスチャーに似た感じで曲げた。

「見して」

「ん?」

「それ。買ったやつ。持ってるでしょ今日」

「ああ。万年筆ね。あるけどまぁ、察しのいいことで…」

「その日のうちにググって使えるようにしたんでしょ。あの分厚い手帳にでも挟んだ?」

「はい大当たりー」

 この程度の洞察力という才能には、もう慣れたものだし、不思議と啓のそれは私をざらつかせはしない。過剰に肥大した劣等感と、何をしてもサマになる万能感との間には価値的な距離がありすぎて、感情を麻痺させるのかもしれない。啓の名推理どおり、購入した一昨日のうちにインクの充填方法を調べ実行し、書けるかどうかまで確認してみた件の万年筆を、リフィル式手帳ごと取り出した。ちなみに、啓が分厚いと称したそれは、私の中では最適化したベストパートナーで、無駄に分厚いわけではない。

「あら素敵。アンティーク?渋くていいじゃん」

「よね」

「もう書いたの?」

「んー、まぁ…試し書きくらい。私そういう趣味ないし日記とかないし」

「これを機に始めれば?結構いいインクなんでしょ、その貰い物」

「えっ、いやわかんないけどシリーズ?っていうか、コンセプトがあって趣味人が使うような…うん。上等だな。うわ本当、なんで私なんかに」

「でも受け取っちゃったんでしょー。上等なインクも使わなければ汚水とおんなじ末路ね、残念」

「あぁぁやめて、私そういうの弱いんだって」

「分かってやってるから。ねぇねぇ何でもいいから書いてみてよ。色見たい」

「それが本音かい…」

 ハイスペックな啓だから許される横暴に歯噛みするものの、言っていることは一理ある。本来の機能を無視することは、物の命を殺す。給湯室での記憶を辿るだに、善意か、もしかしたらそれ以上の意図的な譲渡としか思えない上質な品をゴミにするのは、確かに失礼な気がした。

「んじゃあ…」

 スケジュール帳の今日の日付がある項は、クリップのマーカーを付けていてすぐ開く。ウィークリータイプの左半分には、今日啓と会う予定が書いてあり、右半分はメモ仕様だ。仕事でこの手帳は使わないから、右半分はあまり使ったことがない。万年筆のキャップを外す。しかし趣味もない素人が急に何か書こうと身構えると、難しいものがある。小学生の宿題のように、今日の天気でも書いておけばいいのだろうか。

「なんでもいいと思うけどねぇ。私あんたのそういうとこが結構好きなのかも」

 鷹揚に言って、啓はそっけない素振りを崩さず珈琲のおかわりを注文した。その言葉の意味を深追いしたかったが、不器用な私は幸か不幸か、書くことを考えている間にその期を逃した。結局、

「【2020年5月某日、「時雨」。西嶋さんからいただいた記念に。】こんな感じ?」

「へぇ。ほうほう、ふーん。いいじゃない。「時雨」っていうんだね、そのインク。じゃ、そろそろ出ようか」

「面目ない」

 他愛のないを手帳の隅へ書きつけるのに、珈琲一杯分啓を待たせて、私たちは店を出た。


 それ以来、手帳の右半分は以前より少しだけ意義あるものになった。書くことに慣れると、書けることは次から次へ出てきた。まるで白紙だと思い続けていた自分の中にも、こんなに言葉が眠っていたんだという驚きは、実家の自室で無価値そうな小石が沢山入った小箱を発見した時のそれに似ていた。まるで身に覚えのないそれは、幼い私が一所懸命海やら川やらで集めて大層執心していたらしい。ニヒリズムの自慰に浸かって格好つけていた青年期の私は、その過去が無性に腹立たしかったが、新しく自分を再発見するという感覚自体は、年齢や心境が変わってもそれなりに普遍的らしい。日記というほどでもなく、詩文というほどでもなく、生理的な涙のようにポロリと指先を伝う日常の感想を、日付の延長線上に綴っていく行為は気負いなく続き、啓曰く、それは趣味の領域に入った。そして時同じくして、穏和な怪異は訪れ始めていた。スケジュールの確認以外で手帳を見返すことも、すっかり習慣化している。十数日経たずとも忘れてしまうものだなと歳を実感しながら捲っていると、ふと毛色の違う文字列が目に留まった。

【寒さで青ざめた額や頬はそれでなくとも血管が透ける白さで、作り物のような喉元がアンバランスに隆起していた。】

 書いた覚えがないのは勿論のこと、記憶や筆跡を疑うまでもなく、その文章からは他人の匂いしかしなかった。存在しない引き出しは開かない。改めて探してみれば私の痕跡でない文章はそこかしこに散在していて、またいつの間にか増えもした。最初に見つけた小説じみた一文に、英語の詞、欠片も学んだことのないフランス語の一節や、古めかしい日本語の覚え書きと、時雨色の悪戯は多岐に渡った。


「と、いうことがあの日から続いておりまして」

「いやホラーじゃんまたは犯罪の予兆じゃん」

 テラスでそれぞれ違う銘柄の瓶ビールをラッパ飲みしながら、軽い口調で啓にその話をしてみた。太陽の季節にはもう手が届きそうだが、あの日買った夏服にはまだ気が早い。けれど日の長い金曜日の夜、バルのテラスで一週間の澱みを揮発させるには最高の空気だ。啓は思いのほか、真剣な表情で迫ってきた。私も最初は相当に恐怖したものだから、当然と言えば当然の反応だ。

「さすがに私もそこまで暢気じゃないからさ。調べたんだけど」

「何を?」

「書いてないのに増えてるのがどれかと、いつ増えてるか」

「んで?」

「結論一、生きてる人間の仕業じゃない」

 件の手帳は、自宅に置いて出かけたことはない。仕事には使わないにしろ、外でもほとんど手放すことはなく、しかし確実に携行していたタイミングの前後でも、見知らぬ文章の数は変わった。つまり手帳と万年筆が手元から離れずとも、事は起こった。

「なるほど?まぁまぁ納得できるね。じゃあホラー説は?」

「生きてる人間の線がなくなったからとりあえず安全だし、これ、勝手に増えるけど私のやつは消さないし、呪いっぽいことも言ってこないし、害ないからまぁいいかと」

「それが結論二?」

「うん」

「ふーん」

 啓は瓶を景気よく傾けて、いいんじゃないと、少し楽しそうに言った。私はその口角の上がり方に少なからず見覚えがあって、少々嫌な予感がした。

「見して」

 予感的中。退屈で死にそうと繰り返す啓がこんな都合のいい怪奇に首を突っ込まないはずがないし、それでなくても手帳はいつも通り持っている。そうするつもりだったという顔をしてみせ、私は付箋が沢山生えた手帳を差し出した。

「これ、勝手に書かれたとこ?」

 付箋を示した啓の問いに頷く。自分が書いた以外の文章は、発見したそばから付箋を貼って日付も書いた。几帳面だねぇと、いかにも気まぐれな口調で言って手帳を捲っていた啓が、あるページで手を止め、テーブルに伏せていたスマートフォンで何かを調べた。私は店内スペースの冷蔵庫へ、ビールを物色しに行った。国内外のブルワリーからバラエティ豊かに揃ったビールの楽園からチェコ生まれの一本を選び取り、カウンターで支払いをする。ついでに追加のつまみも注文して、テラス席に戻ると、啓は珍しく愉快そうな顔をしていた。何か発見があったらしい。

「楽しそうだね」

「雛子これ、ただもんじゃない」

「なにか分かった?」

 啓は好奇心を凝縮したような表情をしたまま、付箋のついたページの一つを開いてこちらへ向けた。癖のあるアルファベットで綴られた、私には読めない一節の箇所だ。

「なんか見覚えあると思ってね」

 今度は先ほどまで熱心に見比べていたスマートフォンの画面を向けてきた。小奇麗なウェブページに、見たこともない外国人のバイオグラフィが載っていて、まだ没してはいないが生年を見るに結構な歳であることと、詩や写真を中心とする活動を長く続けているアーティストだということが分かった。彼と謎の文章が何か、と視線で問うと、啓はタンタンとリズミカルに画面を叩いて、ある作品の紹介をこちらへ向けた。

 欠片も学んだことのないフランス語の、唯一目にしたことのある詩文が、そこにあった。

 手帳と啓の持っている画面を何度も往復する。同じ文章、などではない、同じ物だ。見ず知らずのアーティストのカンバスから私の手帳へ、転送されてきたとしか思えないほど、筆跡から掠れまでもが同一だ。事態が飲み込めない私に、啓はさらに追いうちをかけてきた。そのアーティストの詩集のいくつか、無名の近代作家の雑多な覚え書き、どこかの誰かのSNSにアップされた日記の一文、それらがすべて、元の形のまま私の手帳に映っていた。

「……」

 言葉を失った。怪奇としか言いようのない出来事。それがよりにもよって自分の手の中で起こっていることに、一体どんな説明がつけば、ホワイトアウトした頭が再起動するのかわからない。硬直する私を見て、啓はさらに楽しそうだ。人が悪い。

「あっは、「絶句」を絵に描いたような顔。いいもん見れたからさぁ、私の妄想、聞く?」

「妄想?」

 漫然とオウム返ししたのを肯定と取り、啓はドラマチックに語りだした。大げさな語り口も指を立てる仕草も、やはりサマになる。

「その万年筆はさ、覚えているんじゃない。前の持ち主のこと。前の持ち主が書いたこと、書きたかったこと、かも。手帳に、ううん、呼び名がないと不便ね。インクの名前で「時雨文」とでも呼びましょうか。時雨文が出始めたのは、雛子が書くことを続けるようになってからでしょう?きっとそれがトリガーだったんだよ。とにかくね、時雨文は万年筆に残った思念で、それは歴代の持ち主の文章オリジナルってこと。この人たちがそれを持ってたって確証はないけど、箱なしだし、残ってる手癖が一人のものじゃないし、パーツを交換したような跡もある。曰くつきで持ち主を転々、っていうのはあながち妄想でもないと思うよ」

「時雨、文」

 啓の話は頭に入ってきてはいたが、私自身の凡庸な生に紛れこむにはあまりにもつくり話じみていて、しかし目の前にある現実となまじ符号するために、どこか納得する自分がいる。それが一番理解できずに、啓が編み出した怪奇の呼び名を徒に口にした。

「いいなぁいいなあ。私のところに来てくれればよかったのに。でも、雛子に言いたいことがあるんならしゃあないか」

「え?」

「や、わからんけどね。そうなぁ…雛子はさぁ、自分のこと超超超フツウのつまんない人間だと思ってんでしょ」

「痛、いやうん、そうだけど急になに…痛いんだけど心が」

「時雨文さんは、勝手に雛子のところに現れたんじゃないでしょ。あんたが見つけて、あんたが選んで、あんたが持つって決めた。それで時雨文さんはせっせとメッセージを送ってきた。これはさ、私が夢を見たいんだけど」

 啓が急に言葉を切るとパッパー、と遠くでクラクションが鳴った。言葉は切ったというより、切れたようだった。明後日の方を見るともなしに見る横顔は、不帰の主を待つ忠犬に少し似ていて、諦めがこびりつき酷く寂しい。いつも退屈そうに眉根を下げて色褪せた瞳で世界を見下す啓が、そんな顔をするのを、私は多分初めて見た。

「きっと雛子が問いかけるのを、待ってるよ。その万年筆」

 何を問いかけるのかとか、啓は何かを待っているのかとか、一切合切が言葉にならなかった。私たちはそれから、残った酒を各々黙って飲み干して、気まずくはない沈黙の中駅までゆるりと歩き、「じゃあまた」の一言で何事もなかったかのように解散した。


 帰路の電車でぼんやりと思い返していたことがある。手帳に拙いよしなしごとを綴りだしてしばらく、書いている量の割にインクの減りが早いなと思ったのだ。そして、ちょうどそのすぐ後くらいに、最初の「時雨文」を発見した。帰宅し、雑事を整え、さて、と机に手帳を広げる。今日の日付の右側に滑らせたペン先はカシ、と音を立て、インクが掠れた。

「あ」

 インクの補充にもすっかり手慣れた。自分が書いた分だけではここまで頻繁にやることはなかったろうが、万年筆自身が使っていたというなら納得のいく減り具合だ。つらつらと考えながら、啓の仮説、万年筆が残留思念を吐露し続けているという怪奇を、存外受け入れているなと苦笑した。啓ほどではなくとも、私も退屈に心音を止められそうになっていたのかもしれない。補充を終え、その辺りの紙にさっさっと線を引いてペン先を整える。いよいよ、不可視の無機物に生を問いかける時が来る。

 帰路の考え事の中で、私は啓の仮説にもう一つ、可能性を加えていた。それを確かめるために考えた言葉を、届け届けと、書いた。

「【私は卯月雛子です。付喪神様の御名はなんと仰いますか?】」

 手帳を閉じる時、少しだけ鼓動が高鳴っていることに気づく。凡庸でありふれた、つまらない私の世界で静かに降り出した小夜時雨。もしも明日の朝、神様が返事をくれていたなら、ただ穏やかに日々を語らうだけの文通がしたい。

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