第二話 廊下

 美術室を出てすぐ隣は、八角形をちょうど半分にした形の展望室になっていて、縦長の大きなガラス窓が一片ずつめ込まれていた。深緑色の森の向こうには、まばらな建物の間の空白を埋めるように、定規で引いたような真っ直ぐなうねの筋が幾本か規則正しく伸びていた。校舎の最奥にある展望室から一階へと続く階段はあまり使われることがないため、真新しいワックスが未だに残っていて、静止した水面のように陽の光を眩しく反射させていて、段差の距離感を曖昧にして足元をおぼつかなくさせた。

 一階の廊下にはもうほとんど人はおらず、外からかすかに聞こえてくる部活に励む生徒達の歓声や、時折鳴り響くホイッスルの音が、露悪ろあく的な程に晴れ渡った空の静寂を一層色濃くしていた。校舎を一直線に結ぶ廊下の終点は、窓から差し込む光に輪郭をかき消されて溶暗ようあんしていた。それを見つめれば見つめる程、どんどんと遠ざかって行き、まるで引き伸ばした水飴のようにか細くなったそれは、いずれ重力に打ち勝てずに千切れてしまい、互いに隔絶かくぜつして、所在もなくひらひらと宙を舞うように感じられ、今ここにいる自分と、この空間が何の関わりもないように思えてくるのだった。

 まもるは小さい頃からこの感覚を度々覚えていた。

 それがいつ、どんなきっかけで訪れるかは分からなかった。寂しさや虚しさに近いが、悲壮感はなく、かといって幸福や充足とも異なる、浮遊感にも似たこの感覚を特別なものとして大切にしていた。しかし、これが長く続くと、胸の内側に真っ黒くて、砂粒程に小さい球のようなものを感じはじめ、それがどんどんと質量だけを増して重くなり、胸の内側に開いた重力の洞穴ほらあなに引き込まれていくと同時に、寂寞とした虚脱感が深い谷底をう冷気のように身体にまとわりついてくるのだった。

 まもるはこれを忌み嫌っていたが、中学校を卒業する頃には既に疎遠になっていた。

 自販機は購買部の一角にぽつんと設置されていた。缶やペットボトルではなく、紙コップ式で、氷の有無、カップのサイズなどを好みに応じて指定できるボタンがいつくも並んていた。まもるは指定された通り、濃いめで砂糖多めのアイスコーヒーと、自分用に砂糖を抜いたものを買い、美術室に戻った。

 両手がふさがっていたまもるは、上履きの先端のゴムの部分を使って、ゆっくりと扉を横に滑らせたが、バランスを崩してコーヒーが手元に少し溢れた。葉子ようこまもるに貸すつもりで持ってきた漫画の一冊に落としていた視線を上げて言った。


「こぼしたでしょ」


「ごめん。でもちょっとだけだから」


 まもるは、ふやけて少し柔らかくなった紙コップを注意深く葉子ようこに手渡し、親指の付け根に下唇を這わせ、舌先でコーヒーの滴を舐めた。そして、やっと緊張がほぐれたように小さく息を吐いてソファに腰掛けた。

 汗で少し湿った頬に横髪を張りつかせたまま、リズミカルに、静脈の透ける真っ直ぐな喉元を上下させる葉子ようこまもるはじっと見つめていた。手渡されたアイスコーヒーを勢いよく飲み干した葉子ようこは、空の紙コップをまもるに差し出した。


「ごちそうさま」


 まもるは片方の眉を上げ、少し呆れたような笑みを作り、氷の残っている空の紙コップの上からまだ飲み干していない自分の紙コップを重ねた。


「来週から夏休みだね。どっか行きたいとこない?」


 葉子ようこは両足を少しだけ宙に浮かせ、つま先と両腕をぴんと伸ばして、伸びをするような姿勢で真っ直ぐに天井を見つめながら言った。


 まもる葉子ようこの問いに対して開きかけた口に一瞬戸惑い、二重になった紙コップで飲み難そうに塞いでごまかした。氷が溶けてほとんど水になってしまった上澄みを飲み込んで、一呼吸置いてから呟くようにして言った。


 「ちょっと遠いけど、香香神社ってとこで夜に篝火を焚きながらやる能舞台があるらしくて、ちょっとそれ観に行ってみたいんだよね。 薪能たきぎのうっていうんだって。」


 「お能? なんでまたお能なの? 守、そんな趣味あったっけ?」


 守の見当外れな答えに、葉子は少し不満そうに眉をひそめてみせた。


 「最近、能がテーマになったロボット系の古いアニメを観てさ。 それが面白くて、本物もちょっと観てみたいなって」


 「何それ。 守、ほんと影響されやすいよね」


 葉子は眉間の皺を緩めて、呆れたように小さく笑った。

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花と鏡 アイヴィさん @ivymaven

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