第一話 よどみ

 最後の授業が終わり、せきを切ったように一斉に騒音に包まれる教室で、ひとり午後の気怠さから未だ抜け出せずに、んだ動作で帰る準備をしていると、扉の方から声がした


「ねえまもるー、今日は美術室寄ってから帰るのー?」


 鼻の奥になにかが詰まっているような、甲高かんだかく間延びした声で呼びかけてきたのは二つ隣のクラスの葉子ようこだった。つやのある真っ黒な前下がりのボブカットで、小さく丸みを帯びた鼻と口とは対象的な切れ長の一重の瞳を見開いて、きょとんとした様子でまもるを見ていた。


「そうだなぁ。ちょっとだけ寄ってから帰ろうかな」


 何かを期待する時、目を見開いてじっと真っ直ぐに相手の目を見つめるのが葉子ようこの癖だった。


「オッケ。まもるが読みたいって言ってた漫画持ってきたから」


 葉子ようこはくるりと向きを変えて、黒い革のふたのついた大きなナイロン製のリュックを揺らしながら、ぴょんぴょんと片足ずつステップを踏み、早く行こうと促した。

 校舎は森に囲まれたゆるやかな丘陵きゅうりょうの上に建てられており、美術室は三階建ての最上階の角にあった。

 晴れた日には、美術室の窓からは木漏こもれ日が差し込み、さらさらと葉がこすれ合う音が静かな室内に響いていた。

 もともと絵を描くことにさほど興味がなかったまもるが入部した理由は、油絵の具の独特のじっとりとした鈍くて甘い香りと、乱雑に散らばった画材や絵の具が、この静かで穏やかな空間にとてもよく調和しているように思えたからで、それを眺めているのが好きだからだった。大きな大理石調のタイルを敷き詰めた乳白色の床は、飛び散った様々な色の油絵の具によって点々と汚されていたが、きらきらと気まぐれな反射を繰り返すタイルの上で無邪気に踊っているようにも見え、その子供じみた悪意の無さが、胸の奥にべっとりと沈みこんだ鈍色にびいろおりを幾ばくか軽くしてくれるのだった。

 担当の美術教師はほとんど顔を見せに来ることはなく、部員数も数名だけという小さな部で、まともに絵を描いている生徒は一人か二人くらいなものだった。ろくに絵を描きもしないまもるが美術室に来るもう一つの理由は、もともとは恐らく画題のために購入されたのであろう、飴色あめいろをした二人がけの革のソファだった。手入れらしい手入れもされずに、幾人もの怠惰たいだな生徒達を迎え入れたこのソファの革は、びょうが打たれた部分から放射状にひび割れていて、プラスチックのように固くなってしまっていた。革ががれかけている箇所もところどころあったが、そんなことはお構いなしに、まもるはいつもの定位置に深々と腰を下ろした。

 まもる達の他には二人の先輩女子が既に来ていたが、やはり絵は描かず、机に頬杖ほおずえをつきながら、ファッション雑誌やカメラの専門書などをパラパラとめくっていた。

 葉子ようこはリュックを肩から下ろして、大切に抱え込むようにしてまもるの隣に身を寄せた。


「あー、なんか飲み物買ってくればよかったなー」


 不満そうに唇を少し突き出しながら、リュックから漫画の本をニ冊取り出した。

 文庫本より一回り大きなサイズのそれらは、真っ白く粉を吹いたような質感の表紙に小さく題名が書かれたものと、小豆色のまだら模様が描かれた半透明のプラスチック製の表紙がついたもので、どちらもかなり凝った作りの本だった。


「はいこれ。読みたいって言ってたやつ」


 葉子ようこは軽く叩くようにまもるの膝の上に本を置き、間を開けずに言った。


「喉乾いた」


 少し悪戯いたずらっぽく笑いながら小首をかしげる葉子ようこの仕草を、まもるはいつも取り分け愛らしいと感じていた。提示された交換条件は校舎の一階まで降りて、濃いめで砂糖多めのコーヒーを買ってくることだ。


「了解、アイスでいい?」


 本をソファの脇へ寄せ、立ち上がったまもるを見上げながら、葉子ようこは返事の代わりにまた笑った。

 触れ合っていた太ももの付け根あたりで、汗でしっとりと湿った葉子ようこの体温が蒸発し、冷たくなっていくのを感じながら、まもるは階段へ向かった。

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