花と鏡

アイヴィさん

プロローグ

「結局さ、なんにもない空っぽなんだよ。そういうの何ていうんだっけ?」


 水に濡れて、ビニールのような光沢を発した薄黄色うすきいろの髪をバスタオルでゴシゴシと無造作に拭きながらみつは言った。


 いかにも面倒くさそうに、濡れたタオルを体に巻き付けながら、たった一個の白熱灯で照らされたリビングに戻って来たみつの細くすらりと伸びた首筋と、真っ直ぐに張り出した肩の曲線が作り出す影の輪郭りんかくが、少し黄ばんで擦り切れた壁紙に優しく溶けていた。


 柔らかな影の濃淡を描く鎖骨のくぼみへ水滴をしたたらせながら小さくうねる髪を邪魔くさそうにかき上げて、みつは冷蔵庫から缶ビールを一缶取り出した。冷蔵庫の場違いな程白い庫内照明に照らされて、体に巻いたタオルが薄いピンク色だったこと、いつもは不健康な程に白い肌が汗ばみながらうっすらと上気していること、そして、少し眠そうな瞳がうっすらと赤くなっていることに気づいて、まもる咄嗟とっさに目をそらした。


 初めて訪れた、見知らぬものがあふれすぎていているこの部屋には、自分の居場所など何処にもないような気がして落ち着かなかった。床には何冊もの漫画や日焼けした文庫本のほか、巻きたばこ用の紙や、底に灰が真っ黒くこびりついたアルミ製の丸い灰皿、ヒンドゥー教の神様ガネーシャが浮き彫りされたスチール製の小物入れなどが散乱していて、靴べらのような形の木製の香立てからは灰がこぼれたままになっていた。緑や黄、赤などの色も形も不揃いなプラスチックライターが部屋のあちこちに点在していて、ガスはどれもほとんど残っていないようだった。その様々な色の点をつなぐと、おそらくこの部屋でのみつの日々の行動の軌跡きせきが全て現れるはずだ。全ての物が使われたままの状態で放置されている雑然としたこの薄暗い空間にあって、唯一の空白地帯である狭くて冷たいフローリングにやっとのことで腰を下ろしても、焦点はいつまでも合わないまま気まずく漂っていた。


 みつはプシュッと勢いよく片手で缶ビールを開け、タオル姿のまま一気に半分ほど飲み干してしまったかと思うと、今度はゆっくりとまもるの近くにある椅子に腰掛けた。一人暮らしの部屋にはおよそ似つかわしくないほど大きくて分厚い、少し時代遅れな感じのする木製のダイニングテーブルと椅子は、いつだったか、みつが家を出る時に唯一持ってきた家具だという話を聞いた。ところどころコーティングのげた椅子の座面に片足を乗せ、背もたれに肘をかけて額からしたたる汗を拭いながら、缶ビールを愛おしそうに眺めているみつが、ふと思い出したようにまもるの方を見下ろして言った。


「自分の空っぽに気づいてからが、本当に生きるってことじゃない?」


 みつは残りのビールをまた一気に飲み干して、空になった缶を優しく握って少しだけ凹ませると、ふうと小さく息を吐いて、バスルームへ消えて行った。

 煙草たばこ白檀香びゃくだんこうの甘くて少し苦い香りと、古い本の紙の匂い、香水や化粧品が入り混じった部屋の匂い。まもるは呼吸をするたび、鳩尾みぞおちのあたりが鈍く波打ち、乗り物に酔った時に似た感覚を覚えながら、開け放たれたバスルームから漏れるオレンジ色の光とみつの影をぼんやりと見つめていた。


 太陽に照り返された運動場の砂は目を細めてしまうほどにまぶしくて、とても乾いていた。

 誰もいない運動場の静けさは、長らく放置されたままの建造物のような、もの寂しさと孤独を感じさせる。まるで誰からの認識も意に介さないように、無遠慮に、無神経に存在していた。周囲から完全に孤立して、日常の外に立つもの独特の雰囲気を眺めるのがまもるは好きだった。それが一時的であれ、恒久的であれ、本来の目的を放棄して意味を剥奪はくだつされたものが、ただそこに在るという無意味さで、存在そのものを押し付けてくる感覚。孤独なものから発せられる認識の暴力に敗北する時の、両手をあげて屈服するしか無いあの感覚は彼をとても安心させてくれた。今、この世界の外に立っているものと繋がっているのは自分だけだという孤独を独占することを許して包み込んでくれる空間的な広がりが、生きるための言い訳を探し続けているまもるにとっては、とても心地よい逃避場所となった。


 目に砂の白さが焼き付いて視界が薄ぼんやりとしてきた時、運動場の中央で螺旋らせんを描きながら勢いよく砂が舞い上がり、消えて行った。

 眩んだ目を教室の中へ向けると、薄緑色うすみどりいろに焼き付いた室内で教師が古代エジプト史に関する講義を続けている。昼食後の気怠けだるさからまだ目覚めていない生徒達とは対象的に、短く折れたチョークを激しく黒板に叩きつけ、口角泡こうかくあわを飛ばしながら熱弁する教師の鼻梁びりょうは、汗と脂が混じって鈍く光っていて、欠伸あくびを喉の奥で押し殺しながら、ぼんやりと黒板を眺めている生徒達との熱量の差をより一層際立たせていた。

 教室内に虚しく響く教師の弁舌鮮やかな口上を聴きながら運動場に再び目をやると、垂直に落とされた校舎の影も少しだけ形を歪め始めていた。

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