マリアナ海溝より心の闇

須永 光

マリアナ海溝より心の闇


「マリアナ海溝ってどのくらい深いのかな」


 沙耶香さやかは文庫本片手につまらなそうな声音でいった。手元の漫画に落としていた視線を上げて、正面の彼女を見やる。

 初夏の漫画部室は熱がこもる。8畳ほどの空間は、アルミの引き戸をわずかに開いて、対角線上にある窓を開け放しても、じわりと制服に汗がにじむ。


「マリアナ海溝?」

「そう、マリアナ海溝。『両者の間に横たわる溝はマリアナ海溝よりも深く』ってあるけど」


 ほら、と彼女は該当の箇所をわたしにしめした。

 汗ではりつく前髪を指でよけて読む。確かにそう記載されているが、わたしが読んだことのない本だったので、どういう状況でその発言になったかまではつかめない。


「想像出来ないよねえ。もっと分かりやすく書いてくれないかなあ」


 作者に言うべき愚痴をわたしにぶつけながらも彼女はページをめくる。構わず読み進める気らしい。

 代わりにわたしは、かたわらに置いていた藤色のスマートフォンを手にとり、『マリアナ海溝 深さ』と打ちこむ。表示された答えを読みあげてやる。


「最新の計測では、約10,911mだってさ」

「やば。深すぎ。逆に分かんない」

「10kmかあ」

「それだけ深ければ、そりゃ溝も埋まりませんって。じゃあ最初から深さ10kmって書けばいいのに、なんでマリアナ海溝をたとえに出すかなあ」


 なおも沙耶香はぶつくさと言っている。

 理知的な思考の結果か、生まれ持ってそういうたちかは知らないが、彼女は自分の理解をこえた比喩を嫌う。

 小2で初めておなじクラスになった時、彼女は当時の担任に「石の上にも三年」について聞いていた。なぜ石の上なのか。なぜ三年なのか。三日じゃダメか。誰か試したのか。

 矢継ぎ早にまくしたてる彼女に、おばさん先生は「なんでかしらねえ」と困り顔で笑っていた。


 わたしがそこで「じゃあ、沙耶香ちゃんは石の上なら何年平気?」と気まぐれに声をかけたところから、わたしたちの関係ははじまったのだ。

 彼女は「5分でもヤダ」ときっぱり言ってのけた。

 そんなに食い下がっておいて5分でもダメなのか、と大声を上げてわたしは笑い、沙耶香もつられてほほえんだ。その日は一緒に帰り、わたしの家でことわざに関する本を読んだ。


 それから、高校2年の今日まで同じ学校を選んできた。ともに何かスポーツに熱中しては飽き、ともに好きな男子を打ちあけあって秘密を共有し、ともに門限を破って遊びたおしてこっぴどく親に叱られた。

 特進クラスのわたしと理系クラスの彼女はクラスこそ違えど、同じ漫画部に所属している。部活としてやるほど好きなスポーツがなく、漫画をたくさん読めるからという理由だけで選んだ。もっぱら描くではなく読むばかりだ。

 描く側の部員たちがめいめい自宅で創作活動にいそしみ部室を使わないのをいいことに、わたしたちは放課後になると部室にいりびたり読書活動にはげむ。先輩たちが置いていった漫画や小説を、好きなだけ。

 沙耶香はもっぱら漫画派だ。気まぐれに小説に手をだしたかと思えば、さっきみたいに比喩表現について不満を漏らす。


「じゃあ、どれくらいの深さならいいわけ」


 わたしの問いに、沙耶香は大喜利のお題をだされた若手芸人のごとく目を輝かせた。「ちょっと待って、考える」と言い、読みかけの小説にしおりをはさんで閉じる。

 腕組みをし、首を傾けて考えこむ端正な顔を、そっと盗み見る。


 真面目を地でいき、漫画キャラよろしく「委員長」なんてあだ名をたまわった眼鏡のわたしと違い、沙耶香は年を重ねるにつれ大人びてオシャレになった。

 校則に引っかからない程度に髪を染めうすく化粧をし、とがめられないギリギリのラインでスカートを短くしている。

 彼女がわたしとつるんでいることを、周囲の生徒は不思議に思っているようだった。大したことはない。わたしたちは自然と気が合う。それだけの話だ。


「待って、なんも思い浮かばないんだけど。深さに関係するたとえってなくない?」

「あるでしょ、闇とか」

「闇って、心の闇? それこそ測れなくない?」


 真由美ウケる、と彼女はけらけら笑った。「両者の間に横たわる溝は心の闇よりも深く」と改めて口に出し、言い終わるやいなや噴き出した。


 彼女の後ろから射しこんでくる夕日が、その茶色がかった髪を照らし、燃えるようなオレンジ色を宿してわたしの目に映る。同じ室温の空間にいるはずなのに、彼女のセミロングの髪はちっとも汗ばんでおらず、さらさらと流れている。

 うしろでひとつにまとめたわたしの髪はじっとりと汗ばみ、うなじに不快にはりついているというのに。


 わたしたちの間には、独自のことわざと比喩がある。

 石の上には五分、野良猫も木から落ちる、猫にニンテンドースイッチ、犬も歩けば犬の糞を踏む、馬の耳にヘビーメタル。

 「首を長くして待つ」は「えんえんとスマホをスクロール」で、「耳にたこができる」は「もはや作業用BGM」、「喉から手が出る」は「すんでのところでポチる」だ。


 すべて沙耶香が異を唱え、ふたりで「このほうがしっくりくるよね」と言いあって考えた、無数の表現。

 数え上げればきりがないそれらは、ありていに言えばわたしと彼女の仲の良さと絆の深さを表しているもので、これから彼女と出会ういかなる人間も、わたしのように彼女とこういった話をすることはないという並々ならぬ自信をわたしに与えてくれる強固な砦でもある。


 沙耶香は再び文庫本に手をのばしかけ、その手を引っこめた。ちらりと表情をうかがうと、ばっちり目が合う。


「なに?」

「……このまえの、話」気まずそうに切り出すと、彼女は目を伏せて続ける。「リョウの」


 ああ、田島くんの。

 何の気なしにはなったつもりの声に思った以上に棘がふくまれていて、とりつくろって優しい声をかぶせた。「まだ返事してないの? 付き合っちゃえば?」


 わたしと同じクラスの田島涼介が、沙耶香に興味を持っているのはすぐに分かった。教科書を忘れるたびにわたしに借りに来る彼女が気になるのか、ちらちらと視線を送っているのは視界に入っていた。

 ある日、彼女が借りにきた物理の教科書を、わたしは持ってきていなかった。「あ、俺、持ってるよ」と話に割り込んできた彼は、わたしにとっては人の話に割りこんでくるデリカシーのない闖入者ちんにゅうしゃであったが、沙耶香にとっては救いのヒーローだったに違いない。

 それをきっかけに徐々にふたりは距離を縮めていき、つい先日、沙耶香は彼に告白をされたとわたしに打ち明けた。


「実は、このあと返事するつもりで」

「だから珍しく小説読んでたんだ」

「バレた?」

「分かるよ」


 だってわたしだからね、という言葉は抜いた。「沙耶香は、緊張すると小説のあら探しをはじめる」

 あー、と観念した声をあげて沙耶香は顔を伏せた。「お見通しですなあ」


「沙耶香のことなら大体分かる」わたしは演技ぶって言い、次ぐ言葉を突きつける。「OKするんでしょ」


「そのつもりなんだけど……真由美はどう思う? リョウのこと」


 田島くん、だったのが田島、に。田島、はリョウ、に。呼び名の変化を間近で聞いているだけで、彼女が田島にどういう感情をいだいていったかを、つぶさにわたしは知っている。知らされた。知らしめられた。知ってしまった。知りたくはなかった。


「いい人だよね。いい彼氏になるんじゃない」


 わたしの目にも彼は誠実に見えた。授業中の応対もきちんとしているし、成績も申し分なく、軽いノリのクラスメイトもいなす。顔も整っているし、沙耶香の脇にいても遜色ない。


 沙耶香は多分、わたしと彼の関係が、いつまでもよそよそしいクラスメイトの域を出ていなくて、お互いに敬語を使っているのを気にかけている。

 好きな子の親友というのは「将を射んとする者はまず馬を射よ」で言うところの馬で、まあわたしたち風に言い換えると「母親を懐柔したければまず父親」の父親なんだけれど、いずれにしても仲良くなるに越したことはない。

 田島の態度はそれが透けていて、何かにつけてわたしとも話したがっていたが、わたしがそれを良しとしなかった。ただそれだけだ。


 小姑や姑の気持ちはこんなものだろうな、と思うこともあったし、沙耶香にも申し訳なさがあったが、本能的にどうしても田島とは仲良くなれそうになかった。あの優しそうな、人懐こい笑みが苦手だった。

 普通のクラスメイトならまだしも、沙耶香に思いをよせているとあればなおさら。


「いい彼氏かあ。……そうかなあ」


 もう告白を受けいれるつもりでいて、返事をする心構えだけができていない沙耶香は、照れたような、恥ずかしさを押し隠すような笑みを浮かべた。

 背後から照らす夕日が彼女の顔を暗く見せても、その笑みはまばゆいとすら感じられた。


「そうだよ」


 沙耶香にとって初めての彼氏だ。

 これまでずっと「仲良しこよしの二人」だった世界に、知らない色が混じる。受けいれつつも、どこかで何かが変わってしまうのではと恐ろしくもあった。

 彼氏ができたことで部室に来なくなるかもしれないし、教科書を借りるのも田島に頼るかもしれない。休みの日に服を買うのにも雑貨を見るのにも、隣にいるのはわたしではなく田島になるかもしれない。

 うっすらと浮かぶ焦り。小さくくすぶる、表現できない感情の炎。

 だが、彼女の前でそれを顔に出したくはない。ひとりの親友として、彼女の恋にまつわる相談に乗った心ゆるせる親友として、このスタンスを保たねばならない。


「じゃあ、頑張るね。……待ち合わせ、そろそろだから」

「頑張れ。あとでいろいろ聞かせて」

「うん」


 短いやりとりののち、彼女は赤色のスマートフォンを手にし、かばんを持って部室を出ていった。

 カラカラカラ。

 引き戸が軽い音を立て、小さな風が入り、わたしの長いスカートを揺らす。


 次に会う時、彼女とわたしの距離はどれくらい離れているだろう。きっと彼女はこれまで通りわたしに接するに違いない。わたしとの関係は、何も変わらないと思っているに違いない。

 彼女がわたしに寄せる気持ちと、わたしが彼女に寄せる気持ち。ふたつの間に、それこそ心の闇ほどの深さの溝があるのを、彼女だけが知らない。

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マリアナ海溝より心の闇 須永 光 @sunasunaga

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