夏の浜辺の一大事

烏川 ハル

夏の浜辺の一大事

   

 真夏の砂浜は、太陽に焼かれていた。

 ビーチサンダル越しでも、砂の熱さが足の裏に伝わってくる。

 でも心地よい感触だ。足元を見ながら、ギュッギュッと少し踏みしめていると、

「何やってんの、由貴子。早く行きましょうよ。男の子たちが、きっと待ちくたびれてるわ」

 友人に声をかけられて、私は顔を上げた。

 視界に入るのは、人懐っこい丸顔。もたもた着替える私を待ってくれた、優しい友人の微笑みだった。

「……うん、今行くわ」

 いつものような小声で返してから、彼女の後を追うようにして、私も歩き出す。

 それ以上は、口に出せなかったけれど。

 心の中では、彼女の背中に向かって、感謝の言葉を投げかけていた。

 ありがとう、久美ちゃん。あなたのおかげで、私も海水浴に来られたのよ。


――――――――――――


 大学生になっても高校時代と同じように、一人でポツンと、窓際の席で授業を受けていた私。休み時間に友人たちとワイワイ騒ぐこともなく、ただ大人しく、教科書とノートを広げる毎日だった。

 ところが、十日くらい前のこと。

 一限目の授業が終わり次第、次の教室へ向かい、指定席のような窓際をキープ。ノートに書かれた先週の講義内容を、ボーッと眺めていた時。

「あいかわらず、由貴子は移動が早いわね」

 名前を呼ばれて、驚いて顔を上げると、隣に座った女性が、私に話しかけていた。

「ええっと……」

 学部主催の新入生歓迎会にいたから、私と同じく、教育学部の学生のはず。おそらく、その際に挨拶も交わしたのだろう。見覚えはあるけれど、名前が出てこなかった。

 向こうはこちらの名前を覚えているのに、なんて失礼な私なのか……。

「あら、忘れちゃった? 久美よ、山本久美」

「ああ。ごめんなさい、山本さん」

 ぺこりと頭を下げると、彼女は手を振って笑う。

「大げさねえ、由貴子は。『山本さん』じゃなくて『久美』でいいわよ。それとも、私も『由貴子』じゃなくて『岡野さん』って呼ばないといけないかしら?」

「そ、そんなことないです!」

 ぶるんぶるんと、凄い勢いで首を横に振る私。まるで首振り人形のようだと自分では思ったし、彼女も同じように考えたのかもしれない。

「ハハハ……。面白いわねえ、由貴子は」

「はあ、どうも」

 と返しながら、ふと考えてしまう。彼女は、何か用事があって声をかけてきたのだろうか。

 あからさまに私は、疑問の表情を浮かべていたらしい。問いかけるまでもなく、彼女の方から用件を持ち出してくれた。

「それでね、由貴子。今度、一緒に海へ行かない?」

「えっ、私が? 久美ちゃん……と?」

 下の名前で呼べと言われても呼び捨ては抵抗があるし、かといって『さん』付けでは他人行儀だと言われそう。だから、間をとって『ちゃん』付けになった。

「もちろん『二人で』って意味じゃないわよ。学部のみんなで行きたいね、って話になったから、由貴子にも声をかけたの」

「ああ、それなら……。都合さえ合えば……」

「今週末じゃなくて、来週末なんだけど。どう? 予定あいてる?」

 正直、予定なんて空っぽだ。

 せっかく誘ってもらったのだから、と思うと、素直に首を縦に振っていた。

 それに、私も純粋に、海水浴には行きたい。高校の時に買ったけれど一度も機会がなかった、あの黄色のビキニを着る絶好のチャンスだ。

 そんなことを考えていたら、

「じゃあ、決まりね。そうそう、三島くんたちが車を出してくれる話になってるから、行きも帰りも楽チンよ」

「えっ! 男の子も一緒なの?」

 少し大きな声で叫んでしまった。教室にいる他の学生の視線が、いくつも私の方に向くくらいだ。

「由貴子ったら、そんな声も出せるのねえ……」

 と、少し感心したように呟いてから、

「もしかして、男どもに水着見せるのが恥ずかしい? 大丈夫よ、水着は水着であって、下着じゃないんだから」

 久美ちゃんは、バンバンと私の背中を叩く。

 まあ、それもあるのだけど……。

 私が驚いて反応したのは、『三島くん』という名前だった。

 新入生歓迎会で少しだけ話をした、爽やかな印象の男の子。内向的な私からも会話を引き出せる、話し上手で聞き上手な人だった。こういう人が彼氏だったら幸せだろうな、と感じたくらいで……。

 その三島くんと一緒に海へ行く。想像したら、もうそれだけでドキドキしてしまう。

 正直、この日の二限目の授業は、全く頭に入ってこないのだった。


――――――――――――


 特徴的な海辺の香りが漂う中。

「ほら! やっぱり男の子たち、待ちくたびれてる」

 久美ちゃんが指し示す方向に視線を向けると、見覚えのある人たちが視界に入ってきた。

 男の子たちと、先に行った女の子たち。みんな大学の授業とは違って水着姿で、特に男の子たちは上半身裸だから、とても新鮮。

 もちろん、三島くんもその一人。水色の海パンは彼の爽やかイメージそのままだけど、胸板の逞しさは、まるで想像とは違う。見ているだけで、ドキマギしてしまった。

「……由貴子、ひょっとして誰かに見とれてる? お目当の男の子がいるのかな?」

 久美ちゃんの言葉に驚いて、ビクッと体を震わせる私。

「そ、そんなことないよ……」

「じゃあ、そういうことにしといてあげるから……。さあ、急ぐよ!」

 久美ちゃんはニヤニヤ笑いながら、バンバンと私の背中を叩く。彼女に急かされる形で、私も走り出した。


 私たちに気づいて、みんなが手を振っている。

 男の子たちの視線が少し、いやらしいようにも感じるのは、走る久美ちゃんの胸が揺れているせいだろうか。いや久美ちゃんほど大きくないにせよ、私の胸だって、向こうからは揺れて見えるのかな……?

 恥ずかしい、なんて思ってはいけない。今日は、私にしては大胆な、ビキニの水着のお披露目なのだから!

 とりあえず、三島くんも手を振ってくれているから、私も同じように振り返そう。

 そう思って、ガバッと勢いよく、腕を振り上げた瞬間。

「……えっ?」

 はらりと落ちる水着。

 真夏の空気がダイレクトに、私の胸に伝わってきた。


 みんなが目を丸くしている。

 その姿が視界に入ると同時に、

「いやあああああああああ!」

 大きな叫び声を上げた私は、自分で自分を抱きしめるようにして、両腕で胸を隠しながら……。

 友人たちのいない方角へ、逃げるように走り去るのだった。


――――――――――――

――――――――――――


「……ということがあったの、覚えてる?」

「何度目だよ、この話。それに、あれが俺たちのきっかけだからな。忘れるわけがないさ」

 隣のベッドで横になっている彼が、私に微笑みかける。

 確かに、彼の言う通りだ。あのアクシデントこそが、私たち二人を結びつけてくれたのだ……。


――――――――――――

――――――――――――


 あの後。

 いつのまにか砂浜を走り抜けて、私は岩場でしゃがみこんでいた。

「みんなに見られた。三島くんに見られた。どうしよう。もう合わせる顔がない……」

 恥ずかしい。本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい、というのは、まさに今こういう時の心境なのだろう。

「ビキニなんて、着るんじゃなかった。慣れない水着なんて、着るんじゃなかった……」

 ワンピース型とは違って、紐で結ぶタイプ。脱ぐ時にほどけないと困るから、蝶結びにしておくのだが、まさか少し腕を動かしただけでほどけてしまうとは……。

 もしかして、私の結び方が悪かったのだろうか?

 今さら遅いが、そんなことを考えていると、

「由貴子ちゃんって、あんな大きな声も出せるんだな。由貴子ちゃんの新しい一面を見せてもらえて、なんだか嬉しいよ」

 後ろから声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。

 首だけで振り返ると、そこに立っていたのは三島くん。

 つい先ほど、合わせる顔がないと思ったはずなのに、まじまじと彼の顔を見つめてしまう。

「三島くん……? どうして……?」

「忘れ物を届けに来た」

 彼が手にしているのは、私の水着のトップ。

 いや、持ってきてくれたのは助かるけど、普通こういうのは、同性の久美ちゃんあたりの役目だよね……? なんで男の三島くんなの……?

 頭の中に疑問符をたくさん浮かべながらも、とりあえず、ビキニを返してもらう。私が付け直す間は、彼も背中を向けてくれた。

 しかも。

「ビキニの紐の蝶結びは、一度ではなく二度結んでから蝶を作るようにすればほどけにくい、という話だ」

 と、アドバイス。私としては、なぜ男なのにそんな知識があるのか、と詰問したいくらいだった。

 さらに。

「それでも『また落ちるんじゃないか』と心配なら、今日は俺が、つきっきりでガードするからさ」

「えっ?」

「ほら、せっかく来た以上は、ちゃんと海で遊ばないと、もったいないだろ? でも、みんなのところには、ちょっと顔を出しづらいかと思って……。だから今日は、人気ひとけのないところで、俺と二人で海水浴を楽しむ、というのはどうかな?」


――――――――――――

――――――――――――


「……そう言って、あなたは私を独占したのよね、あの日」

 当時の私にしてみれば、むしろ独占されて嬉しかったわけだが……。

 後で彼から聞き出した話によると。

 あの場面における、私の「いやあああああああああ!」という叫び声。それを耳にした瞬間、彼は「この子は放っておけない」という気持ちになったのだという。私のことを、強く意識したのだという。

「そして海水浴から帰ってからも、あなたは私を構ってくれて……。二人で一緒に遊ぶようになって、今に至るのだから、人生ってわからないものね」

 普通ならば「そうだね」と言ってくれる彼なのに、返事がない。

 よく見ると、もう彼は目を閉じていた。耳をすますと、寝息も聞こえてくる。

「あら。それじゃ、私も……」

 大学時代の海水浴のアクシデントについて振り返るという、結婚記念日の恒例行事を切り上げて。

 夫の隣で、幸せな眠りにつくのだった。




(「夏の浜辺の一大事」完)

   

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