雪を溶く熱
誰にも言ったことがない秘密がある。まだ小さな子供だった頃、俺は雪女を見たことがあった。あれはたぶん、いや、間違いなく雪女だと思う。強烈な記憶となっているのに、なぜか肝心の雪女の姿を思い出そうとすると顔がぼやけてはっきりとは思い出せない。ただ、深い湖のような瞳の深さに魅入られて動けなかったことは覚えていた。
悪ガキ3人組の弥助と喜三太が凍り付き、深い雪の中に無造作に捨てられる様ははっきりと記憶している。次は自分の番だ。近づいてきた美しい人の双眸をじっと見つめると、女の人はふっと笑った。そして、俺の頬に手を添える。ひんやりとしていたが想像していたほどは冷たくなかった。そのまま身をかがめると俺の耳にささやく。
「あなたは生かしておいてあげる。だけど、今日見たことを誰にも言っちゃ駄目。それから、ここへは2度と来ないこと。いいかしら?」
俺が僅かに頭を動かしたのを見て、女の人も頷く。俺の頬をひと撫でして身を起こすとびゅうと雪と風が吹き荒れ、その姿を隠す。次に俺が意識を取り戻した時は、家の布団の上だった。
それからの日々は生き地獄だった。弥助と喜三太の両親は俺のことをひどく責める。母をとうに亡くし、父は生活のために家を空けることが多く、誰も俺の味方は居なかった。誰もが俺を避ける。いっそ死んだ方が良かったのに、そう思う俺の目の前に現れたのが美冬だった。
子供の頃の美冬はまるで人形のような外見に似合わず、お転婆だった。切りそろえた前髪が乱れるのも気にせず、木にも登ったし、男の子に混じって雪合戦もした。なぜか俺が気に入ったようで、遊び相手がいなかった俺は美冬と日が暮れるまで遊んだ。美冬が仲を取り持つ形で何人かとも再び話ができるようになる。
そんな美冬との関係がぎくしゃくし始めたのは、いつ頃からだったろうか。俺はいつしか雪女に出合った大杉峠に再び挑むことを密かに決意していた。自分への村人の態度を根本的に改めさせるには、もう一度あの場所から生還してみせる必要があると思い込んだからだ。
元々、大杉峠は冬には立ち入ってはならないと固く戒められている場所だった。いつでも強風が吹き荒れ、愚かにも足を踏み入れた者を瞬く間に雪像に変える。大人たちは誰一人、俺が大杉峠から生還したとは信じていないかった。3人で出かけたものの一人怖気づいて逃げ出し難を逃れたと卑怯者。そう陰で呼ばれていることを知り唇が千切れるほど噛みしめる。
大杉峠に行ってみようという話を一番親しかった美冬に告げた時、想像以上に強い口調で諫められた。それを聞いて俺は落胆する。美冬も俺のことを信じていないのだと。俺のことを嘘つきだと思っているのだと知り、とても悲しくなった。
何度かその会話を繰り返した後、俺は美冬と顔を合わせるのを避けるようになる。一番信じて欲しい相手に信じてもらえないことに耐えられなくなったのだ。俺はそれから色んな本を読み漁った。どうすれば寒さから身を守ることができるのか、必死になって学んだ。はるばる東京から雪の中でも足が濡れないという驚くべき靴も取り寄せる。
出発の前日に、どうしても美冬の顔を見たくなって訪れた。
「死ぬわよ」
厳しい言葉だったが、その裏には俺を気遣う気持ちを感じた。以前の俺では気づけなかったことだ。
この試みに成功したら、一緒にならないかという言葉が喉まで出かかったがぐっと堪える。それを今言ってはならない。ちゃんとやり遂げて、その上でなければ馬鹿にされるだけだろう。自分の意地のために怒らせたことを詫び、心配をかけたことの償いもしなければならない。
翌朝、温めた油を手足に塗り、足袋には唐辛子を入れた。さらに油紙を巻いてゴム長靴をはく。見送りに来ていたわずかな人に別れを告げて大杉峠に向かった。汗をかかないようにゆっくりと進む。薄日が差していた天候は山に近づくにつれて、粉雪が舞うようになり、やがて大きな雪片が顔に吹き付けはじめた。
目だけを残して顔を毛皮で包み、顔を伏せて、杖を突きながら一歩一歩と登っていく。準備が功を奏したのか体のどこも濡れず、寒さも凍えるほどではない。そのことに勇気づけられて進んでいったが、ついに荒れ狂う暴風雪に立ち往生した。慌てずに雪で小屋を作り、その中でじっと嵐が過ぎ去るのを待つ。
ふとした気配に目を上げると即席の小屋の入り口に黒髪をなびかせた女が居た。その顔を見て俺は驚愕する。この困難を乗り越えるために胸の中で思い描いていた相手を見出したからだ。その瞳を見て俺はすべてを悟る。どうして今まで気づかなかったのかが不思議でならなかった。
ずっと忘れられなかった面影とよく見知った人の悲しい瞳が重なる。間違いない。ずっと俺の側に居たんだ。
「美冬……」
俺はその名を口にするのがやっとだった。急速に全身に氷の冷たさが忍び寄る。俺の意識はそこで途切れた。
間違いなく君だったよ 新巻へもん @shakesama
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