ネツヤマ

朝、顔が冷たくて目が覚めると、枕が濡れている。

気付くと、左目から涙が流れている。

起きてからもう一時間は経つが、まだ止まらない。



朝から、左目から涙が流れて、止まらない。

彼女が部屋を訪ねてくる。夕飯に作ってくれた焼きそばを食べている間も、涙が止まらない。

大丈夫? 大丈夫? と不安そうにするので、実はちょっと前から目が痛くてさ、と言う。

彼女は小さな象が刺繍されたハンカチを一枚、置いて帰っていく。

本当は、痛みもなく、腫れもない。



枕が冷たくて起き、まだ涙が流れていることに驚く。

昨日の朝から、左目から涙が流れて、止まらない。

大学の講義に出る為、京阪電鉄に乗って茶山駅へ。

電車の中でずっと、彼女がくれたハンカチで左目を押さえる。

駅のホームで、ハンカチを絞る。



三日前から、左目から涙が流れて、止まらない。

英語Ⅱの授業で彼女と会う。彼女は隣に座り、まだ涙が流れている事に驚く。

キャンパスから出てすぐの喫茶店で、しきりに俺の左目を覗き込む。

結局ゴミも傷も入っていない。

心配なのか、少し哀しそうな顔をする彼女に、大丈夫、明日にでも眼科に行って来るよ、と言い、駅前で別れる。



四日前から、左目から涙が流れて、止まらない。

毎朝枕が涙でぐしゃぐしゃになっているので、畳の上で、頭の下にバスタオルを三枚、折り曲げて敷き、寝袋で寝る。



五日前から、左目から涙が流れて、止まらない。

毎日、左目の涙を絞り続けて、彼女のくれた象のハンカチもボロボロだ。

眼帯をつけようと思い、近所のドラッグストアを探しまわるが、見つからない。

一体、眼帯はどこに売っているのか。

デザイン論の後、服飾科の宮下という、全身真っ黒い服を着た女が話しかけてきて、目からルビーのかけらがこぼれる少女の実話を俺に教える。

俺の目からもルビーが出れば面白いけど、岩塩すら出ない。と言って笑う。



一週間前から、左目から涙が流れて、止まらない。

バイトの面接に行かなかった。涙を流している店員から、ハンバーガーなど頼む気になるものか。

面接に行く予定だった所とは別のハンバーガーチェーンで、夕飯を食べて帰る。

彼女がドアの前で待っている。

面接に行かなかったことを話すと、手を握って泣く。

そのあと二人で、涙を流したまま働けるバイトはないか探すが、検索エンジンがまるであてにならない。



九日前から、左目から涙が流れて、止まらない。

涙を流し始めてから、ほんの少しだが、うまく歩けない。

遠近感がおかしい気がする。

枕を使わなくなったので、寝起きがとても悪いせいもあるか。

彼女から色とりどりのハンカチが五枚、ドアポストに差し入れられている。



十二日前から、左目から涙が流れて、止まらない。

デザイン論の授業の後、宮下が眼帯を作って持って来る。小さく切り取った黒いタオルに銀色の糸で縁取りがしてある。

それをつけて街を歩いたら、気分が良い。両手が使える幸福を実感する。

彼女から電話がかかってくる。

彼女に訊かれて、眼科に行くと言っておいたのを思い出す。

彼女は今すぐ行った方が良い、と、珍しく強い口調で言う。一緒に行くから、と。

もう午後七時だから、眼科なんてどこも開いていない。



二週間前から、左目から涙が流れて、止まらない。

眼科に行く。

眼科はとても混んでいて、みな目を押さえたり目薬を注したりしている。

義眼の人もいる。

医者は、ひとしきり俺の左目に光を当てたりルーペのようなもので拡大して診た後、痛みもないみたいだし眼球に損傷もないし、手術するほどは心配ないけど、もしかしてメンタル的な問題かも知れないね、と言う。

それで何が解決するのかわからない。じゃあ精神病院に行けばいいのか?

結局、本人はあまり苦労していないので、様子見ということらしい。

彼女に電話してその結果を伝えるが、自分でもよくわかっていないものだから要領を得た説明にならず、メンタルの問題って精神病院に行けってこと? なんで? と、いっそう困惑させてしまい、うまく答えられなくて困る。

しまいには、どうしてちゃんと訊かないの? なんのために病院に行ったの? と詰められ、なにがなんだかわからぬまま、謝る。



三週間前から、左目から涙が流れて、止まらない。

宮下が参加しているバンドのライブを見に行く。

音楽の良さはよくわからない。

ライブの後、楽屋に行き、宮下に眼帯のお礼に花束を渡す。すると、俺の涙を触りたい、と言う。

しばらく、指で俺の涙を触った後、宮下は顔を近付け、俺の涙を長い間舐める。



一ヶ月前から、左目から涙が流れて、止まらない。

彼女は最近、毎晩電話をしてくる。

それはいいのだが、俺としてはそんなに新鮮な話の種も無いので、なんだか上の空になってしまう。

金がない、とか、そんな面白くもない話になってしまう。

彼女は、接客じゃなければ目のこともきっと大丈夫だよ、と、事務や土方などのバイトを求人情報誌に付箋をつけて渡してくれる。

涙が止まらなくても、私は好きだよ、と言う。

実家には相談したの? と心配する。

なんでそんなに必死なのかわからない。

電話を切って、宮下の部屋に行く。



二ヶ月前から、左目から涙が流れて、止まらない。

眠る前だけ、眼帯を外す。時間が経つにつれ、だんだん世界が以前見えていたように見えてくる。

その時間が好きだ。

彼女に、目の痛みはどう? と訊かれる。

いや、ぜんぜん痛みはないよ。と答えると、急に焦ったような表情になり、え? なんで言ってくれないの? と言う。涙が出た初めての日、俺が彼女を心配させたくなくて、ちょっと目が痛いだけ、と、ついウソをついたことを思い出す。

いや、あのときは、原因がわからないとか言うとお前がよけい心配すると思ってさあ、と説明しても、なんで? 私そのことでずっと心配してたんだよ、なんでそんな自分の身体なのに適当なこと言うの? と言い募るので、適当っていうけど別にお前に言ったところで何もできないじゃん、と返したら、そこから二時間くらい泣き続ける。

夜、宮下に電話してその一部始終を話す。

宮下はうーんとうなった後、彼女さんカウンセリングとか行ったほうがいいよ。と言う。

いくらぐらいかかるのかなあ、と訊いてみると、

それにしても君は無神経だねえ。ていうか、この言葉の意味もわかんないんだろうねえ。と呆れた声が返ってくる。



三ヶ月前から、左目から涙が流れて、止まらない。

朝、前に診察を受けた眼科から連絡がある。

症状が変わらない事を言うと、病院に呼ばれ、別の医師を紹介される。

名刺をもらうのは初めてだ。ターミナル駅にある大学病院の名前が書いてある。

どうやら、大掛かりな治療になるらしい。珍しい症状だからか、費用はかからないと言う。

病院まで迎えにきた彼女にそのことを報告すると、街中だというのに、しゃがみこんで、よかった、よかったと泣く。

顔を近付け、彼女の涙を舐める。



四ヶ月前から、左目から涙が流れて、止まらない。

宮下がもう会わないと言う。

恋人ができたのだそうだ。



大学病院では、妙な検査ばかりしている。

俺の涙の分泌量は一日平均400mlだそうだ。

俺がこの半年に左目から流した涙と、彼女がいままで両目から流した涙は、どちらが多いだろうか。

彼女が作ってくれたオムライスを食べた後、そんなことを考える。

半年前から、左目から涙が流れて、止まらない。

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ネツヤマ @netsuyama

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