おまけ

冬の巣篭もりと、初めての春

 俺が異世界転移をして、薬草師の見習いとしてこの森で暮らし始めて、どのくらい経っただろう。

 最初は夏の始まりで、それから訪れた森の夏は涼しくて過ごしやすかった。そして風が冷たくなって秋になり、今はもう初めての冬の終わりだ。




 森の民は、春を迎える一週間から十日ほど前から、巣篭もりをする。

 春になる直前、森はすごく寒くなる。その寒さを避けるために、部屋の壁を布で覆い、寒さ除けの布を天井から垂らして、床には毛皮を敷き詰めて、靴は履かずに布を巻いて、暖かい服を着て、その上から毛皮や布団を被って、巣篭もりの前に作り貯めておいた保存食のパンや焼き菓子、秋にせっせと用意しておいたナッツやドライフルーツ、それからチーズなんかを食べて過ごす。

 大人はガジュ酒を飲んだり、子供はガジュの実を浸けたシロップを飲んだりもする。


 森の民は、家の中に竃を置かない。家の中で使う火は、せいぜいランプの灯くらいだ。集落にはいくつか共有の竃があって、調理はそこでする。

 薬草師の家も例外ではなく、家の裏手に竃があって、調理は必ずそこで行う。

 巣篭もりの間は家の外に出ないので、当然ながら調理ができない。その間はみんな、調理が不要なものだけを食べて過ごす。


「師匠が旅の薬草師になってからは、お母さんとお父さんと過ごしてたんだよね、巣篭もりの間は。今年はシンイチがいるから、良かった」


 マコトはそう言って、屈託なく笑顔を見せた。


 巣篭もりの日々は、娯楽もなく一人で過ごすには確かに長い。

 何重もの布に囲まれて、部屋は暗い。周囲の音も聞こえにくくなって、しんと静かだ。そしてだんだんと、昼も夜も曖昧になってくる。

 一つ木に暮らす者たちは毛皮や羽毛布団を被って集まり、この時ばかりは油を惜しみなく使ってランプを灯し、密やかにお喋りをする。そうして食べるおやつはまるで、夜中の摘み食いのようで楽しい。


 そして、巣篭もりを始める頃にちょうど、雪が降る。

 村には天気を見ることができる人がいて、その人がもうじきだと言えば、巣篭もりの時期が始まる。そして一日か二日、長くても三日のうちに雪が降るのだという。

 それが、天気予報のようなものなのか、異世界的なファンタジーな何かなのか、俺は知らない。その人自身も、森の民たちも、その仕組みを知っている訳ではないのだと思う。でも、そうやってずっと続いてきたものなのだろう。


 雪が降るのは一晩ほど。それほど多くは積もらない。

 それでも、雪は森を静かに覆い隠し、数日ほどかけて溶けてゆく。そして、雪が溶けると共に森は春になり、森の民は巣篭もりを終える。

 春になったら、みんな家から出てきて日差しを浴びて、そして火を使った料理をたくさん作る。それは、冬を過ごすために貯めていた食料を使い切るかのような勢いらしい。

 きっと、春を迎えるお祭りのようなものなんだろう。




 マコトから、森の民のそんな話を聞いて、俺は日本での正月を思い出す。

 俺の実家は東京都内だったので、帰省という気分もなく、せいぜい三十一日に帰って挨拶して、年が明けたらテレビを見ながら雑煮なんかを食べて、それで初詣に行くくらいだ。

 親と改まって話すようなこともなかったし、別に帰ろうと思えばいつでも帰れたし、なので元日の夜にはもう実家を出て一人暮らししている部屋に戻っていた。

 一人になったら、あとはだらだらとゲームしたり映画見たり本を読んだり、いつもの休日とあまり変わらず過ごしていた。

 こんなことになるなら、実家にもうちょっと頻繁に帰っておけば良かったな、なんて考えてしまう。俺が死んでいるとしたら、両親は泣いただろうな。




 日本でのことを思い出して、少しぼんやりしていたらしい。マコトが、その丸い瞳で俺をじっと見ていた。


「シンイチ、どうかした?」


 マコトは、指から唐揚げを出し過ぎて死にかけていた俺を助けてくれた恩人だし、今は俺の薬草師の師匠でもある。

 薬草師としての知識と技術と、それから森での生き方をマコトから教わって、俺はなんとかここで生きている。

 マコトはとても優しい良い師匠だ。


 俺はなんでもないと首を振って、それから心配をかけないように笑ってみせた。


「いや、日本でのお正月のことを思い出していただけ」

「オショウガツ?」

「そう、一年が終わって、新しい一年が始まる時のお祝い。森の民の春が始まるのに、少し似てるなって思って」


 マコトはナッツを摘んでちょっと首を傾ける。そのまま何か考えながら、ナッツを口に入れた。ナッツの歯ごたえを知っているので、マコトが口元を動かしているのを見ると、かりかりとした歯ごたえと音を思い出す。

 俺もナッツを摘んだ。


「オショウガツ……小さい頃、聞いたことがあるかも」


 ナッツを飲み込んでから、マコトがそう呟く。


「ミノリさんから?」


 俺がマコトの母親の名前を出すと、マコトは頷いた。俺はナッツを口に入れて噛みしめる。期待した通りのかりかりした歯ごたえが嬉しくなる。


「やっぱり、こんな巣篭もりの時期だったよ。オショウガツ、巣篭もりと似たような感じだよって、教えてもらったんだ」


 マコトの、母親に似た黒い髪がランプの灯りを映して柔らかく輝いている。黒い瞳にもランプの火が灯っていて、とても綺麗だった。

 外ではちょうど、雪が降っている頃だ。何重にも張り巡らされた布越しに、高いところから落ちる雪の音が、時折鈍く響いて来る。


「あ、それに、ニホンだと冬には雪がいっぱい降るんでしょ? 冬の間、ずっと雪が積もってるってお母さんが言ってたよ。人の背より高く積もるって」

「いや、それニホン全部じゃないから」


 マコトは大きな目をぱちくりと瞬かせる。


「そうなの?」

「日本も広いから。俺が暮らしてたところは、滅多に雪が降らないところだったよ。でも、北の方には、雪がいっぱい降って積もる地域もあって、だからミノリさんは北の方の出身なのかな」

「知らなかった。ニホンてみんな同じじゃないんだね」


 マコトはそう言って、今度はチーズのかけらを摘んで、口に放り込んだ。


 ミノリさんは、マコトの母親で、そして俺と同じように日本の出身だ。俺が死んで異世界転移したように、多分ミノリさんも死んでこの世界に来たんだと思う。はっきりとは聞いたことがないけれど。

 そういえば、以前に高校卒業したら東京で一人暮らししたかった、というようなことを言っていた気がする。


「アケマシテオメデトウ」


 突然のマコトの言葉に、俺はぽかんと口を開けてしまった。思いがけない言葉が出て来たことに頭が追い付かないでいると、マコトはくすくすと笑った。


「お母さんが言ってたの、思い出した。オショウガツの挨拶でしょ?」


 マコトの声に、俺は息を吐き出す。そして、頷いた。


「そう。もっと丁寧に言うと『新年明けましておめでとう御座います。今年もどうぞよろしくお願い致します』とかってなる」

「シンネン、アケマシテオメデトウゴザ……?」


 不意に、マコトの声に違和感を覚える。どうして言葉が通じているのか、そして、今の新年の挨拶はどうして通じないのか。

 今までも、感じたことがなかった訳ではないけれど、考えてもわからないのでそのままになっていた。

 言葉が通じてなかったら、今頃こんな風に暮らしていられなかったかもしれないので、通じてくれて助かってはいるのだけれど、一体、俺とマコトはどうやって意思疎通をしているのか。


「すごく長いんだね」


 マコトの声に考え事が途切れる。俺は少しぼんやりしたまま会話に戻る。


「ああ、うん、新しい年になって良かったね、新しい年も仲良くして欲しい、っていう意味」

「ふうん」

「でも長いから、略されてた。『あけおめ。ことよろ』って」


 俺の言葉を聞いて、マコトは声を出して笑った。


「それなら言える。アケオメコトヨロ。覚えやすいね」


 マコトの笑い声に、俺のここまでの考え事は全部どっかに行ってしまった。

 そもそもが、異世界転移だ。俺の指から唐揚げが出るくらいだ。それに比べたら、言葉が通じるくらい、どうってことないのかもしれない。

 本当に、指から唐揚げが出ることと比べると、他の何もかもが些事に思えてくる。

 それに……それがわかったところで、戻れるワケでもないのだから。ミノリさんなら「考えたって仕方なくない?」って言うだろう。




「森の民の挨拶はあるの? 春を迎えた時の」


 俺の言葉に、マコトは頷いた。


「あるよ」


 マコトはそう言うと、手のひらを上にして右手をそっと持ち上げた。まるで、その上に大事な何かが乗っかっているかのように、手のひらは柔らかく弧を描いている。それを自分の胸の前から、俺の方にすっと差し出した。


「次の春まで、豊かな森でありますように、あなたにもたくさんの恵みがありますように」


 誤解を恐れずに正直に言うと、マコトは可愛い。きらきらと輝く大きな瞳と、くるくると変わる表情。仕事をする時の真剣な顔も、他愛もないことを喋って笑う顔も、内側から輝きを放っている。

 マコトはいつだって生命力に溢れていて、真っ直ぐで、前向きで、たくましい。

 そのマコトが今、俺にその手を差し出して、俺に真摯な祈りの言葉を向けてくれた。ランプの灯りに照らされて、優しげに微笑むその姿があまりに綺麗で、俺は胸の奥を掴まれたように苦しくなる。


 マコトはこの森で、薬草を育てて薬を作って、狩りをして、一人で暮らしていける。

 俺はまだ、この森で一人で生きていけない。俺なんかじゃ、まだ全然追いつけない。




 俺は、被っていた毛皮のズレをなおすフリをして、少し俯いた。


「そっか。ありがとう、覚えておく。春になったら、きちんと言えるように」

「アケオメコトヨロの方が簡単だけどね」


 よほどその言葉が気に入ったのか、マコトはまたくすくすと笑う。


「これって、ニホンの言葉でしょ? お母さんには通じるんだよね?」

「え……あ、いや、もしかしたら、通じないかも」


 あけおめことよろなんて、言い出したのはいつからだろうか。俺が子供の時にはすでに言っていた気がするけど、ミノリさんが高校生の時にどうだったかまではわからない。

 インターネットがあれば調べられそうだけど、なんてことを俺はいまだに考えてしまう。まだ当分は、森の民にはなれなさそうだ。


「まあ、いっか。試しにお母さんには、これで挨拶してみるから」


 そして、お喋りは、眠くなるまで続く。


 二人でガジュ酒を飲んだりもして、ガジュ酒の強い酸味と、フルーティな甘さ、その後にくるアルコールの酩酊感に、二人で意味もなく笑ったりする。




 寒い夜なので、ベッドにもたくさんの毛皮や布団を持ち込んで、ふかふかの中にくるまって眠る。


「おやすみ、シンイチ」

「うん、おやすみ」


 天井からぶら下がる目隠しの布越しに声を掛け合って、目を閉じる。

 酔った頭で、自分は早くマコトに追い付きたいのだな、と自覚する。マコトに追い付いて、そうしたら。


 深い穴のような眠りがあって、そこに落ちてゆく。その浮遊感に邪魔されて、俺はその先を考えることができなかった。




 そしてもうすぐ、この森で過ごす初めての春が来る。

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異世界転移で指から唐揚げが出るようになった俺が唐揚げを作って食べるまで くれは @kurehaa

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