最終話 後日談

 席に着いてネクタイを緩める。視線を上に向けると、間接照明の明るさに目が眩んだ。周囲からはお客さんの話し声がチラホラと聞こえてきた。月曜日ということも手伝ってか、騒々しいと言うほどではない。店内の橙色の明かりが、俺の人生とは比べ物にならないほど長い年月を重ねたであろう木の机や壁に反射して、温かい雰囲気を醸し出していた。机の上の箸、箸置き、お皿、それぞれがきちんと店内に合わせて選び抜かれたものだということが分かる。重厚さを持ちながら、温かみを感じさせるお店だ。店員さんに渡されたおしぼりで手を拭く。顔を拭いても良いだろうかと考えていると、後ろから声が聞こえた


「お待たせー、早いね。」


 声のした方向を向くと黒いカバンを渡された。俺はそれを反射的に受け取った。


「本当にごめんな、忙しいのに。」


 受け取ったのは、俺が昨日無くしたカバンであった。特に目立った傷も無い。手元に戻ってきたのは一日ぶりだが、いつ見たか思い出せないほどに久しぶりの再会な気がした。


「お兄ちゃんは懲りないよね。」


 妹はベージュのトレンチコートを脱ぎながら、ため息とともにそう言った。内心言葉に詰まったが、その通りとしか言いようがない。カバンの中身を急いで確認する。中の荷物は、まるでトリプルアクセルを試みたものの、派手に着地を失敗したかのように、グチャグチャになっていた。ただ、自分の荷物は一通り入っていた。そして驚くことに、サイフもある程度無事だった。


「現金が一円も入ってないけど……。」


 免許証やクレジットカードの類は全て入っていた。何という奇跡だろうか。現金は確実に入っていたはずなので、抜き取られたことは間違いないだろう。少なくとも、一円も入っていないはずは無かった。


「でもカード類が無事でよかったじゃん。あ、何頼む?」


 妹がメニューを開きながら聞いてきた。俺は反省の意味も込めて、


「ウーロン茶で。」


 と答えた。妹は一瞬こちらを見て目を丸くした。その視線を避けるように俺は振り返って店員さんを呼んだ。


「えーと、飲み物は……。」


 妹に目くばせすると、にやりと意地悪い笑みを浮かべた。


「生二つで。」


 俺が呆気に取られていると、店員さんはかしこまりますたと言い、去って行った。


「今の人、噛まなかった?」


 妹は悪びれる風もなく、おしぼりで手を拭きながらそう言った。


「いや俺はウーロン茶って……。」


「良いの良いの、形だけの反省何て意味無いでしょ。私ももう諦めてるし。」


 ズバリと切り捨てられ、俺は返す言葉も無かった。妹にもこう言われているということは、本当にダメなのかもしれない。


「仰る通りで……。」


 妹はジーっとこちらを見ている。俺は視線を逸らせずにいる。


「今日は奢りだからね。」


 念押しとばかりに聞いてくる。俺の返事は一つに決まっていた。


「もちろんです。」


 よっしゃ、と妹は小さくガッツポーズをした。そして、再びメニューを開き、食べ物を選び始めた。俺は久々に会った妹を眺める。久しぶりと言ってもお盆に帰省しているから、三ヶ月くらいか。歳は四つ離れていて、今は大学三年生のはずだ。こうして妹を正面でまじまじと見ることすら、いつぶりだろうか。実家にいた頃は、俺が高校生くらいまではよく話していた。大学に入ってからはその機会も減った。妹が大学に入ってからは、さらにその機会は減った。俺が二回酔いつぶれた話も、妹は親から聞いたはずだ。一回目は驚き、慰めてくれた。二回目は呆れた目で反省を促された。三回目は先ほどのように、諦められた。それでもこうして助けてくれるのは、妹だからだろうか。妹は「すいませーん」と俺の後ろの方に声を投げかけ、店員さんを呼んだ。手際よく食べ物を頼む様子を見ながら、俺はクレジットカードがきちんと入っていて良かったと思った。


「今日は本当に大変だったよー。警察署なんて行ったことなかったし。悪いことしてないのに妙に緊張したー。」


 店員さんが去った後、妹はそう言った。俺は痛いほどその気持ちが分かった。何故なら何度か訪れているから。あの警察署独特の雰囲気は、俺のような小心者にはちょっと辛い。


「本当に助かったよ……。春香がカバンを取ってきてくれなかったら、明日からどうなっていたことやら。」


 両手を合わせ、拝むようなポーズで頭を下げる。カバンが戻ってきたのは妹のおかげである。


 昨晩、業者さんに鍵を開けてもらい、やっとの思いで自室に入ることができた。ひとまず風呂に入り、限界を迎えた俺はそのまま眠りについた。そして翌朝、会社に出社するための準備に励んだ。まずは日常生活を送らなければならない。カバンを無くしたと言っても、幸いICカードを持っていたため、会社に向かう分には問題が無かった。他の無くした物も、サイフ以外は無くても仕事はできそうだった。それでも現金を一円も持たないのは不安だったため、家の小銭をかき集め、千円ほど持って会社に向かった。不思議なことに、カバンと貴重品を無くしても普通の生活ができてしまうことが、何となく滑稽だった。ただ、携帯電話も無かったら、これほどうまく事は進まなかったかもしれない。


 昼休みを迎え、ほっと胸をなでおろしていると、携帯電話に着信があったことに気付いた。知らない番号だったので、とりあえずネットで検索をかけてみると、S駅の警察署からだった。慌ててかけ直したところ、警察署の落し物を取り扱う部署の人に取り次いでもらえた。驚くことに、俺のカバンは警察署に届いていたとのことだった。昨日、交番で書いた届けのおかげで、俺の携帯電話に連絡をすることができたらしい。カバンが無事に見つかったという事実に感極まっていると、電話先の人の言葉で現実に引き戻された。何でも、カバンを受け取れるのは平日の午前九時頃から午後五時頃までらしい。土日は窓口が開いていないため、受け取れない。交番の人が言っていた通りである。電話先の人の言う時間帯は、俺が毎日漏れなく仕事をしている時間だ。平日休みでない限り受け取れない。カバンの受け取りに必要な番号を聞き、礼を言って、電話を切った。途方に暮れるが、そんな時間は無い。昼休みが終わる時間まで残りわずかである。そこで、頼み込んだのが妹だった。


「はい、じゃー乾杯!」


 小気味よいグラスの音と共に、長い日曜日がやっと終わりを告げた気がした。


 妹に、酔い潰れてカバンを無くした事、もしも可能であれば折り返し俺に電話をしてほしいことを連絡し、昼休みは終わりを迎えた。そわそわしながら午後の仕事に取り組んでいると、一時間くらい後に電話が来た。トイレに行くフリをして妹と話すと、二つ返事でカバンを取りに行くことを了承してくれた。そして、S駅の警察署に行ってカバンを受け取ってくれた。ただ、すんなりと受け取れたわけでない。本当に俺の代わりに受け取りに来たかどうかを確認する必要があった。当然、委任状も何も渡す時間は無かった。そのため、もう一度かかってきた電話を、再びトイレに行くフリをして出る必要があったのだった。やっとの思いで電話をかけ、警察の人にいくつか確認をしてもらい、ついにカバンを受け取れたのだ。妹には相当迷惑をかけてしまったため、お礼に夕飯を奢る話をしたところ、午後七時にこのお店に集合することになったのだ。妹のチョイスとは思えないほど趣のあるお店だ。


「何でこのお店にしたんだ。」


 気になって、聞いてみる。大学卒業まで一年半を切った妹は、既に就職活動に取り組んでいた。今日の服装もリクルートスーツである。髪の黒い妹を見るのも久しぶりである。理系の俺に対し、妹は文系でバリバリのコミュ力高い大学生である。髪も元々茶色かったし、服装も大学生らしく、酒も飲み、サークル活動にも積極的だ。こうしてみると、性格は全くと言っていいほど違うが、だからといって兄妹仲は悪いわけではない。普通に会話もするし、何か困ったことがあれば相談もする。いわば、傍から見たら仲の良い兄妹である。だが、そんなに俺は妹に慕われているとは思ったことは無い。今回の件に関しても、迷惑がかかると思い、本当に連絡するのを躊躇った。結局、こんなことを頼めるのは妹しかいないと思った訳だが。


「前から来てみたいと思ってたんだよね。偶然前を通りかかった時に、良い雰囲気だなと思って。友達とじゃ入りにくいけど、奢ってもらえるならこういうお店行ってみたかったし。」


 何の恥ずかしげも無く本音を話してくれることに、俺は驚いた。そんな俺の顔を見てか、妹は少しムッとした顔をした。


「私だってこういうお店には興味あるよ。お兄ちゃん、私をただのアホな大学生だと思ってるでしょ。」


 言われて、飲んでいたビールを吹き出した。そういう意味で驚いた顔をしたわけでは無い。ビールを外に出すことは無かったが、グラスの中で飛び散った。汚い。


「アホな大学生って何だそれ。」


 俺はおしぼりで口を拭き、気を取り直して聞いてみる。


「アホというか、何て言うんだろ……。新しい物や、おしゃれな物に飛びついてばっかりで、こういう感じのお店には興味が無いというか。そんな感じ。」


 妹は自分の言葉に合わせ、店内を指さす。確かにこういったお店に興味があること自体、予想外だった。それこそ、妹のイメージは、さっき彼女が説明してくれたものに近い。


「いやごめん。正直こういうお店には興味ないと思ってたからつい。」


 素直に思ったことを口にすると、妹は眉を逆八文字にしてこっちを睨む。


「お兄ちゃんはいつもそうだよね。私を子ども扱いし過ぎ。」


 そう言うと妹はビールを飲み干し、次の飲み物を頼んだ。慌てて何故か俺もビールを飲み干してしまう。何となく妹に早いペースで飲まれるのは、困る。……何が困るのだろう。兄としての威厳か。そんなものを持ち合わせているとは思わないけど。


「そんなに子供扱いした覚えはないけどな。」


 俺の発言を聞いてか、妹はさらに詰め寄る。


「いーや、してますー。いっつも相談するのは私ばっかり。私に相談してくれたことなんてほとんどないよ。それに二人で飲むのも初めてじゃん。」


 そういえば、こうやって妹と二人で飲むこと自体、初めてだ。家族でお酒を飲んだ事はあるが、片手で数える程度しかない。奇しくもその機会が、俺の失敗によって生まれたものだと思うといたたまれないが。


「いや……それは、悪かった。」


「謝る必要は無いよ。でも、今回は頼ってくれたから良かった。」


 ポツリ、と妹はそう言った。


「どういう意味だ、それ。」


 俺は迷惑をかけた側のはずなのに、良かったとはどういうことだろう。分からない。そんな俺の表情を察してか、妹が口を開いた。


「お兄ちゃんって頑固で自分で色んなことを決めて行っちゃうじゃん。私は悩んでます、って顔してる時あったし。話しかけても内容は教えてくれないし。何かを決めてから家族に報告してたよね。お母さんやお父さんが何か言っても、聞いてた気がしない。」


 そう思われていたことが意外だった。俺は自分で悩んで決めたことすら、ちょっとしたきっかけで変えてしまっている。少なくとも自分で自分を頑固だと思ったことは無い。


「俺って頑固なのか。」


「頑固だよ。」


 妹がふくれっつらである。俺は店員さんが運んできた揚げ出し豆腐を口に運ぶ。


「でも、去年くらいから変わったかも。少しずつ思ってること話してくれるようになったし。それに、今日なんて無くしたカバンを取ってきてくれ、なんて頼んでくれたし。前に酔いつぶれた時なんて全部事後報告だったじゃん。心配にもなるよ。」


 動揺した。そんな風に思われていたとは。「でも良く考えたら今回も事後報告……?」と妹が首をかしげた。


「いや、ごめん。」


「違うでしょー、こういう時はなんて言うの。」


 今日一番の不機嫌な顔をしてこっちを見ている。どんな顔かと言えば、逆八文字にした眉に、ふくれっつらに、睨みを利かせている。ついでに腕も組んでいる。


「ありがとう。助かったよ。」


 大事なことは、感謝の言葉を口にすることだ。妹は俺の言葉を聞いて、すぐに笑顔になった。そして美味しそうに刺身を食べ始めた。そこに、店員さんが日本酒を運んできた。しかもたぶん良いやつ。全体的にチョイスが渋い。そんな妹の一面を見るのも初めてだった。ふと、懐が気になり始めた。一円も入っていないけど。


「よくできましたー。この調子で頑固な性格も治ってくれるといいんだけどな。」


「俺ってそんなに頑固か?」


 納得できず、再度問いかける。妹は返事もしない。何をいまさら、という風に肩をすくめ、おちょこを渡してきた。それを受け取ると、日本酒をついでくれた。妹が日本酒を飲むというのも、今日初めて知った。お返しとばかりに妹のおちょこに日本酒をつぎ、乾杯した。


「頑固だよー、思い込み激しいし。いっつも自信無さそうにしてるし、謝ってばっかだし。指摘しても全然聞いてくれないよね。いくら励ましても、どうせ俺は、みたいな感じだし。どうしてそんな卑屈なんだか。もっと自信持ってよ。」


 一言一言が重く突き刺さる。そんな風に思われていたのか。というか、妹以外にもそんなことを言われていたような、思い当たる節がある。こわい。


「でも、お兄ちゃんの周りには良い友達がたくさんいるから大丈夫だと思う。お兄ちゃんもそういう人たちに相談とかしてそうだし、少しずつ良くなってる気がするし。」


 何というか、恥ずかしい。妹の言うことを否定できない。同時に、妹は良く俺のことを見ているな、と関心した。「でもお兄ちゃんが記憶無くすほど飲ませる友達って……。」と妹はさらに首をかしげている。それでも、お酒の失敗は自己責任である。嫌なら飲まない、酒を飲むなら水も飲む。昨日の自分がどうしていたのかは、俺にも分からないのだから。妹は考えるのを諦めたのか、こちらに向き直った。


「お兄ちゃんはきちんと大学を卒業して、お金を稼いで、一人暮らしして、生きてます。たまに飲みすぎてやらかすけど、ちゃんと解決してます。ほら、立派な社会人じゃん。」


 一瞬、鼻の奥がツンとした。慌てて、おちょこの日本酒を飲み干す。口いっぱいに果物に近い爽やかな甘みが広がる。それでいて、お酒としての喉越しも効いてくる。これは良い日本酒だ。


「えっと、ありがとう。」


 口をついて出た言葉に、妹はさらに笑みを深める。俺は頭をかくしかない。妹は溜めをつくって、こう言った。


「お兄ちゃんには元気ていてもらわないと困るんだからね。お母さんやお父さん、私のためにも頑張ってください。」


 妹はそう言って、俺に日本酒をついでくれた。元気でいるとはどういうことだろう。やる気に満ち溢れているということか、幸せでいるということか。こんな俺でも一つ分かることは、幸せにいることよりも、不幸でいることの方が簡単なのだろうということだ。どうでもいい、と全部投げ出してしまえば、きっと楽になれる。昨日もそうだった。全部投げ出して誰かに頼り切ってしまえば、あっという間に全てが解決しただろう。でも、投げ出したくなかった。自分がやってしまったことに対して、きちんと自分で責任を取りたかった。だから、辛くても、苦しくても、お金がかかっても、なるべく自力で解決しようとした。当然、独力で解決できるわけでもなく、多くの人に迷惑をかけてしまったが。少なくとも俺は、昨日投げ出さなかった自分の方が、投げ出したかもしれない自分よりも、幸せである自信がある。


 月並みな事を言えば、人生は選択の連続だ。そして、選択した先に待っているものが何かは、はっきりと分からない。大人になるとは、自分の選択に対して責任を取ることではないだろうか。子供の頃に何か悪いことをしても、その責任を取るのは親や周囲の大人だと思う。お酒が飲めるから、煙草が吸えるから、大人になれるわけでは無い。例え、自分の選択の先に失敗が待っていようとも、責任を持ってその選択を投げ出さずに進めば、失敗は別の物に変わるかもしれない。お酒の失敗も、就活の失敗も、俺にとってはただの失敗では無く、大切な別の何かに変わっている。と、信じたい。信じなきゃ、やってらんない。


「分かった、皆のためにも俺は頑張るよ。」


 妹が嬉しそうにするのを見ながら、近いうちに迷惑をかけた人たち、今回思い出した人たちに会いに行こうと思った。日本酒をついでもらいながら、家族や友達の事を考えるのは、幸せだった。






おわり

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記憶もスマホも家の鍵も無くした二日酔いの中田君が頑張って家に帰るようです あけがえる @akegaeru

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