第12話 センタク

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【二年前】



 「で、何の話があるんだい、中田君。」


 相川さんは腕を組みながらそう言った。席に着いた途端の発言がこれである。学生の頃と少しも変わっていないスピード感だ。


 「話というか、相談ですね。とりあえず乾杯しますか。」


 先ほどバーテンダーのお兄さんに作ってもらったウォッカトニックを掲げる。このお店に来ると一杯目はウォッカトニックを頼むのが相川さん流らしい。相川さんは腕を解き、グラスを持った。


 「「乾杯。」」


 グラスがぶつかる涼しげな音が響く。舌の上に甘みが、喉の奥に苦みが、そして口いっぱいに木の香りが広がる。爽快な口当たりは一杯目にピッタリだった。ふと前を見ると相川さんが再び腕を組み、こちらを見つめていた。先輩、そんな目で見られたら照れます。


 ここは大学から少し離れたところにあるバーである。床とテーブルは黒、壁は白を基調としている。長方形の店内には、六つのテーブル席と四つの立ち飲み席、そしてカウンター席がある。席の部分は明るく、他の部分は必要最低限の明かりを、というように光量が程よく絞られている。奥のカウンターには白のワイシャツに黒のベスト、オールバックの髪にキラリと光るメガネをかけたバーテンダーさんがいる。その後ろには無数のお酒が所狭しとならんでいる。バーテンダーさんはこれらのお酒を全て把握しているのだろうか。きっと把握しているのだろう。


 このお店に来るのは繁華街から離れていることもあってか、近くの学生やサラリーマンが多い。この街に遊びに来た人がわざわざここまで来ることは稀だろう。そういった立地も手伝ってか、店内が混みあうことはあまり無く、いつも落ち着いた雰囲気を保っている。仕切りはなく開けた形になっているが、聞こえるのは店内に流れるジャズらしきBGMくらいだ。お酒を飲みながら話すにはもってこいである。元々は相川さんの行きつけのお店だったので、久々に足を運びたいというリクエストに応じて訪れた形である。


 「さて、何をそんなに悩んでるんだい。」


 相川さんは前髪をかき分ける。切れ長の目に長いまつ毛、通った鼻筋に長いストレートの黒髪、異性から見てもカッコいいという言葉が似合う女性である。今日も黒のストライプのパンツスーツに白のブラウスと、きっちり決めている。学生時代の相川さんは大学内でも王道を行く研究者として名を馳せていた。凄まじい勢いで進む研究内容、教授陣に物怖じしない発言、自身の意思を貫く姿勢は、見ているだけで惚れ惚れするくらいだった。相川さんが今年の四月に卒業してからは、研究室は締まりがない空気になってしまったと言っても過言ではない。


 「単刀直入ですね。」


 学生の頃と変わらないストレートな物言いに懐かしさを覚える。相川さんは何も変わっていない。一緒に研究室にいた頃から、無駄の無い指摘が冴えわたっていた。何度発表資料や研究内容の指摘を受けたかは思い出せないくらいだ。その相川さんのペースについていけていない自分がいた。自分が変わってしまったのだろうか。俺が言い淀んでいると、相川さんは苦笑した。


 「『相談したいことがありまして』、なんて連絡をもらったら気にならない方がおかしいだろう。」


 相川さんはそう言ってウォッカトニックを口に運んだ。相川さんに心配をかけてしまっていたのか、と俺は動揺してしまった。一瞬、謝罪の言葉を口にしかけて、留める。相川さんが聞きたいのはそれではなく、俺の相談内容だ。ウォッカトニックに手を伸ばし、喉を潤す。意を決して、話す。


 「就活が上手くいかないんです。」


 実のところ、今はまだ就活の時期では無い。インターンに申し込んでいるだけだ。ただ、インターンとは言え、十社連続で選考に落ちている。まだ一社も受かっていないのだ。それが不安でたまらない。初めはどこかしら受かるだろう、と思って大手企業に次々と応募した。だが、現実はそんなに甘くなかった。一つ、また一つと落ち、焦って別の企業に申し込むも、それらすら全て落ちたのだ。今は夏のインターンの時期も終わり、申し込む企業すら無くなった。


 「それを就職していない私に聞くかね。」


 相川さんは両手を掲げ、お手上げのポーズを取った。相川さんは現在大学院を卒業し、別の大学で博士課程の道に進んでいる。だから、厳密に言うと就職をしていない。おそらく助手のような形で給料を貰っているとは思うが。


 「相川さんは就活をして、内定をもらってましたよね。でもどこの企業にも行かなかった。」


 相川さんは同期の学生と共に就活を行っていた。聞いたところによれば、ほとんど落ちることもなく名だたる大手企業の内定を総なめしたらしい。だが、ある日突然、博士課程に進学することを宣言し、全ての内定を断ったのだ。聞いている側からすれば正気の沙汰とは思えない。


 自分は今、何をするにも自信が持てていない。前に進めず、何も選べず、自分の将来について想像することもできず、うまく周りの友人に相談することもできていない。ただ、日々やらなきゃいけないことをやるだけで、右往左往している。だからこそ、俺は相川さんに就活の相談をしたかった。当時の相川さんは、何故そのような選択をしたのか、学生の頃には聞けなかった答えを知りたかった。


 「私は社会不適合者だからね。社会に出るのは無理だと思ったんだ。」


 以前聞いた時と同じように、相川さんがはぐらかした。今日という今日は、逃がす訳にはいかない。お酒の勢いを借りて畳み掛ける。


 「いやいや、あれだけ就活無双してたのに何を言ってるんですか。」


 内定の山を積み上げた相川さんに対して、一つか二つくらい内定を分けてほしい、という先輩がいたくらいである。社会不適合者の訳が無い。


 「あれは猫を被っていただけだ。就活をしてみて、そういったことは性に合わないと気づいただけさ。」


 それについては嘘では無いのだろう。相川さんは就活で疲れを見せたことは無かったと思うが、よくイライラしていることがあった。その様子を見て『生理か』とからかった館山さんの鳩尾に、渾身の右ストレートを放った事件は、未だに伝説となっている。館山さんはその場に崩れ落ちて動けなくなっていた。そういえば、あの頃には相川さんと館山さんは付き合っていたのだろうか。


 「何で博士の道に進もうと思ったんですか。」


 頭の中で話題を切り替え、再び質問をする。いつの間にか、質問をする側だった相川さんが、質問をされる側に回っている。俺の問いかけに対して相川さんは少し遠い目をした。


 「研究をしたかったからだよ。」


 相川さんがそう答えると同時に、バーテンダーさんが生ハムの盛り合わせを持ってきた。木の円形のお皿に四種類のハムがのせられ、真ん中にパテとクラッカーがのっている。生唾を飲み込みながら、相槌を打つ。


 「研究ですか。でも、研究は企業に入ってもできるじゃないですか。」


 相川さんは様々な企業を受けていたが、職種に関しては研究職か技術職で統一されていたと思う。


 「その通りだね。」


 答えつつ、相川さんはクラッカーにパテをのせ、その上に生ハムを被せ、一口で食べた。美味しそうに笑みを浮かべるその顔にドキリとする。慌てて目をそらし、俺も生ハムに手を伸ばした。


 「まあ、私が自分のやりたいことをやりたかっただけだよ。」


 相川さんはポツリとそう言った。相川さんらしくない曖昧な言い方な気がした。歯切れの悪い相川さんを見て、自分がした質問はまずいものだったのではないか、と内心焦る。


 「ここから先は私の持論になるから、聞き流す程度にしてくれ。」


 俺の焦りをよそに、大きく伸びをして、相川さんはそんなことを言った。いえいえ、しっかり聞きます。言葉には出さず、頷く。


 「人一人が一日八時間働くとする。実際は土日休み等があるが、社会人になれば人生の約三分の一を仕事に費やすことになる。」  


 そう考えると、社会に出たくないと思ってしまうのが俺の本音であった。だがそれでも社会には出なくてはならない。いつまでも学生ではいられないのだ。


 「当時の私は社会に出て、給料を貰いながら研究ができればそれで良いと思っていた。だが、企業の研究職の方々と話しているうち、本当にこのまま就職してしまっていいのかという疑問がわいた。」


 意外な話だった。相川さんには何の迷いも無く、自分のやりたいことの為に前に向かって突き進んでいたのだと、勝手に思い込んでいた。


 「それはどんな疑問だったんですか。」


 俺は生ハムを食べながら尋ねた。塩気のきいた生ハムはウォッカトニックと良く合う。相川さんのナイスチョイスである。相川さんは少し間を置いてから話し始めた。


 「確かに就職をすれば安定した収入が手に入るし、研究もできる。ただ、自由に研究をできるかと言えば、必ずしもそうではない。私が話す研究職の方々は、口々にそう言っていた。それもそのはずだ。企業に雇われるということは、支払われる給料以上の利益を生み出す義務が発生する。」


 あの頃の相川さんがそこまで考えていたとは、当然知らなかった。そして悩んでいたことも。その頃の俺と言えばまだまだ研究に対しても未熟で余裕が無く、相川さんや先輩方にビシバシ指導してもらっていた頃だ。今も大差ないが。 


 「利益を生み出さない研究はやらせてもらえない。やらせてくれる企業もあるかもしれないが、それが私のやりたいことであるとは限らない。そこで思ってしまった訳だ。私は金の為に研究をしたかったのか、と。昔の私はそんなことを考えていた訳ではない。金では無く、ただ単純に新しい事への興味からこの道を選び、大学に進学し、研究をしていた。だが、大学生活を過ごすにつれて、そういった思いは薄れていた。そして、学生でいると分かると思うが、以前よりも金のことを考えていることに気付いた。」


 カラン、とグラスの氷が音を立てた。大学生の多くはアルバイトによって生計を立てる。そしてそのお金で服を買い、お昼を食べ、夜は飲み、休日にはどこかに出かけ、時には旅行に行くのだろう。学生の多くはその経験を通じて、お金の重要性を学ぶのだろう。


 「だからこそ私は悩んだ。金は重要だ。金は人生の全てではないが、大半を占めると私は思う。企業に就職すれば、金を貰えて研究もできる。だが、果たして本当にやりたい研究ができるのか。研究とは、シンプルに言えば、分からないことを分かるようにするためのものでは無いだろうか。その対象は研究者の興味によって決定されるべきではないのか。大事なのは金なのか、やりたいことなのか。」


 俺はただただ相槌を打つ。緊張からか、言葉が出ない。


 「何より私は、誰かにやれと言われた研究を素直にやるのだろうか。」


 ふと、いつだったか昔、研究室で教授と相川さんが延々と話し続けていたことがあった。相川さんはとある実験にやる意味が無いと言い、教授はその実験をやるように促す、という内容だった。気づけばその話し合いは二時間ほど続いた結果、実験内容を相川さんの言い分に応じて変更して行う、という妥協案に落ち着いていた。ある日の飲み会で教授はその事を話し、『流石、相川だよ。こっちが折れてしまった。』と苦笑していた。


 「後の結果は君も知っての通り、私は企業に就職することを辞めて、やりたい研究をやるために別の研究室で博士課程に進んだわけだ。周りには多大な迷惑をかけた。」


 大学院を卒業して博士課程を修めるならば、同じ研究室でやるのが通例だろう。だが相川さんは別の研究室に入った。その理由が、やりたい研究をやるためだったということか。


 「自分の身勝手さで周囲を振り回してしまったことに関して、私は本当に申し訳なかったと思っている。ただ、後悔はしていない。」


 恐らくこの話をしたがらなかった理由は、これなのだろう。自分は詳しく知らないが、確かに相川さんの博士進学宣言の後、研究室内は慌ただしかった。きっと、色々なやりとりや準備があったに違いない。


 「大変じゃないんですか。」


 ふと口をついた言葉だった。相川さんはにやりと笑った。


 「大変じゃないわけないだろう。だが、楽しいよ。」


 相川さんはそういう人だ。やりたいことをやるためなら、犠牲を惜しまない。そして楽しくなければ絶対にやらない。


 「私は、私が納得できることに大変でありたい。そして、この選択を正しい選択だったと胸を張って言いたい。」


 そう言うと、残っていたウォッカトニックを飲み干した。相川さんは酒豪である。なぜこの研究室にはこうも酒飲みが多いのだろう。空グラスをテーブルに置き、こちらを見た。射抜くようなその視線に、目を逸らすことができない。


 俺はきっと、何も選んでいないのだ。インターンを受け始めたのは、同期がみんな受け始めたからだ。受けた企業もイメージと給与と仕事の楽さで選んだ。エントリーシートも他の人と変わり映えはしない。面接を受けた時も、なるべく自分を良く見せようとしただけだ。きっと面接官の印象にも残っていない。何故こんなにも何となくなのかと言えば、自分で自分のイメージを選べていないからだ。将来自分が働く姿を決めず、見せたい自分を決めず、選択を先送りにして流されているだけだ。


 「だから、やりたいことをやるべきだよ。今の時代、一つの職を一生やり続けるということは少なくなってきているのだから。どうしても条件で選びがちになるのは仕方ないと思うがね。給料、勤務地、知名度。自分が譲れない部分は持つべきだが、目的と条件を履き違えてはいけない。」


 相川さんは悩みながら、苦しみながらも選んだのだ。俺は自分から目を背け、何も選んでいないのだ。


 「その通りですね。」


 やっとの思いで、同意を口にする。同意すると言うことは、俺は、俺が何も選んでいないことを認めなければならない。


 「君の譲れないものは何だい?」


 刹那、思考し、答える。


 「きちんと、一人で生きていけるようになりたいです。」


 質問の答えになっていない気がするが、言ってしまった。俺は、相川さんみたいに自分がやりたいことを明確にイメージできているわけでは無い。今思ったことは、学生でいたいなんて甘えたことを言わずに、自分が社会人になった姿を想像しなければならないということだ。そして、自分の想像できた社会人とは、自分で稼ぎ、生きていくということだけだった。自分の想像力の乏しさに唖然としていると、相川さんが微笑んでいる事に気付いた。


 「前から思っていたけど、君は本当に真面目だね。」


 その言葉の意味を図りきれずにいると、相川さんが立ち上がった。酒を頼んでくる、と歩き始めた相川さんを、俺は慌てて追いかけた。


 「私はあんまり自分のことを話すのが得意じゃないんだ。主観を入れるというのが苦手でね。」


 相川さんはダイキリを、俺はもう一度ウォッカトニックを頼んだ。先ほどの相川さんの言葉を反芻していると、相川さんに背中を想いっきり叩かれた。


 「まだ君には時間がある。きちんと悩みたまえ。」


 不意打ちに驚くが、痛みは無い。ただ、叩かれた箇所に熱を感じる。


 「ありがとうございます。」


 目の前に出された透き通るウォッカトニックを手にし、俺と相川さんは席に戻った。






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 あの日の自分と比べて、俺は変われたのだろうか。


 家の玄関の前に佇み、そんなことを考える。目の前では鍵業者の人が、俺の家の鍵を開けようと悪戦苦闘している。S駅の改札で、俺は家を借りた店舗でもらった番号に電話をした。管理会社の人に事情を話したところ、鍵業者の人を呼ぶしかないということだったので、こうして来ていただいた次第である。ちなみに鍵業者の人の横には警察官の方がいる。初めて知ったのだが、鍵を業者の人に開けてもらう時は警察官の方に立ち会ってもらわないといけないらしい。確かにこうして確認する人がいないと、他の人の家を開けてしまう可能性があるのだろう。兎にも角にも、申し訳なさが二倍である。


 こうやって酔っぱらってカバンを無くしたという事実は、自分が学生の頃と何も変わっていないということの証明である。周りの人からも、どうしようもないやつだと思われるだろう。変われない部分はどうしても変われないのかもしれない。だが、変わろうとしないと変わらない部分があることも事実だと思う。あの日、相川さんと話し、就活に挑み続け、内定を勝ち取ったからこそ俺は今ここにいる。結局のところ、変わったかどうかを決めるのは俺では無く、周りの人なのではないだろうか。自分が思う自分の姿は大事だ。それと同じくらい、相手が思う自分の姿も大事なのだ。自分が伝えたいことを相手に分かるように伝えなければならない。それが、就活で俺が学んだことだった。


 ガチャリ、と長い一日の終わりを告げる鍵の音が聞こえた。開いたドアに安堵を覚える。世の中、何とかなるものだなと思った。そして、渡された請求書の額に、俺は頭を抱えるのであった。




時刻:午後八時

所持品:交通系ICカード(残額:約零円)、目薬、傘、電話番号の書かれた紙、携帯

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