5000ミリメートルの足取り

稀山 美波

その距離、その猶予、5000ミリメートル

 玄関を開けると、居間の扉から漏れる光が暗い廊下に差していた。


 すでに夜は更け、家の外と中の光量に大した差はない。今俺が立っているそこは確かに自宅なのだと、その乏しい光だけが証明してくれている。玄関から居間までは、およそ5000ミリメートル――つまりは5メートルほど。


――なにかしらの設計に携わってる人は、長さを『ミリ』で言う癖がついてるんだよ


 家内によく言っている台詞だ。

 図面を書く際、あらゆる寸法を『ミリメートル』で表記していることもあって、そんな癖がついた。職業病、と称しても差し支えないかもしれない。


 先日、冷蔵庫を新調するため家電量販店に行った際も、『幅700くらいで探してます』と店員に伝えたものだから、『業務用は置いてません』だなんて言われてしまった。


 私のその職業病を聞く度に、家内は大きな溜息をつく。

 店員に白い目を向けられた際もそうだが、子供の身長がようやく100センチとなった時に『1000ミリか、子供の成長は早いな』と言った際なんかは、それはもう重く淀んだ溜息が家内の口から漏れたものだ。


 しかし今では、その職業病が恨めしい。『5メートル』と口にすれば大した距離でないように感じるが、『5000ミリメートル』と表現すればそれはひどく長い道のりのように感じてしまう。


 永遠に続くかのように思える廊下を、居間へ向かって一歩一歩進んでいく。その足取りは重く、5000ミリメートルという数字は中々減っていかないように感じた。


 これが『5メートル』であったなら、これが『500センチ』であったなら、どれほどよかっただろう。と思うと同時、家内と顔を合わせるまでに『5000ミリメートル』も猶予があってよかったとも感じた。


「ただいま」


 いくら無限のように感じても、距離というものは所詮、有限だ。目先の光はどんどんと近づいていき、やがて光と俺との差は、0ミリメートルとなる。


 居間のドアノブに手をかけ、それをゆっくりと降ろす。俺の心の声を代弁するかのように、ぎぃと鈍く軋んだ音をたてながら扉が開いた。


「あら。遅かったじゃない」


 その先には、ソファにだらしなく腰掛けながら録画したドラマを眺める家内がいた。俺に視線をくれることもなく、寝間着姿の家内の意識は液晶の向こうにいる男前の俳優へと注がれている。


「何かあったの?」

「あ、ああ、まあね。ちょっとばかし気分が落ち込むことがあって。500センチしかない廊下が、やけに長く感じたよ」


 そう言うと同時、家内の視線と意識とが俺へと移った。

 何も言わず、ただひたすらにじいっとこちらを見つめてくる。何かを見定めるかのような、何かを見極めるかのような、何を見抜くかのような、そんな意志を彼女の瞳の奥に感じた。


「あんたが『センチ』だなんて、珍しい」


 十年も連れ添った仲だ。

 俺の言葉に隠された違和感なぞ、家内にはお見通しなのだろう。


 それでも、今日ばかりは。

 家内にどう言われようとも、今日ばかりは。

 いつもの癖を止めてでも、あえてこの言い方にさせてほしい。



「あんた、またパチンコ負けたわね」



 だって今日は、すごくセンチな気分だから。

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5000ミリメートルの足取り 稀山 美波 @mareyama0730

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