第2話 女学生

 初恋は十四回目の夏。私は落ちこぼれだった。

 学力なんて、学校評価に関わらないのに親は私に知性を求めた。

 品位のある人間になるべきなのだから、堅実な頭であるべきだ。

 親は評価と他人からの印象に気にして私に家庭教師を与えた。

「女史初めまして。俺は本日から君の脳味噌をそれなりのものにする為にやって来た太宰(たざい)だ。よろしく頼む」

 ハッキリ言ってその人は変な人だった。でもそんなのどうだって良い程の端整な顔面と背高い姿勢に色気のある大人のシルエット。

 他にも声や瞳、喋る以外に動かない唇、細長い指と和服の袖から見える数珠のブレスレットの綺麗な石。

 全部に心を奪われた。

 不思議な言葉遣いの印象を凌駕する衝撃が私に襲う。

 一目惚れだった。

「………部屋へ案内してくれ女史」

「うん……」

 この人をお部屋に入れるのは少し嫌だった。

 だって、部屋が汚いんだもん。

 でもこの人を私だけの特別な人にしたくて、早く私の部屋に入れたいって思いも強くなる。

「ねえ、ちょっと待ってくれない?」

「何故だ?」

 見下ろされる瞳に悪い気はしない。

 ドラマや殺伐とした内容の映画でよく見る葉巻のあの茶色。それに深緑が散ったとても美しい瞳の色。こんな自然な色を私は見た事ない。

「……何故だ?」

 綺麗で、見惚れるばかり。

 それしか出来ない。

「女史……?」

 好き。

「部屋が…汚いので……」

 恥しくて顔を下げる。

 太宰先生の呼吸を聞いた。

「私も同じく、否それ以上に汚い部屋で勉学に励み生活を共にしている。恥じる事はない」

「扉を開けてくれ」

 前髪に隠れた片目と穏やかな笑みに私は扉を開けた。

 真っピンク色と白ばかりの部屋が嫌いだった。だけど今好きになる。

 これからこの部屋は太宰先生を閉じ込める私の部屋になるから。

「親御様からは全教科の成績向上を任されている。苦手な教科は何だ?」

「……現国」

 真剣な目で見られるから、正直に話せた。なんか話せる。

 先生は笑った。

「では好きな教科は?」

「…英語がちょっと好き」

「素直でよろしい。では好きな教科から片付けよう。よろしいか?」

「うん」

 大人の匂いが常にある太宰先生。

 先生は私の分らない所を知っていて、私が分かるように説明してくれる。数学も化学も現代国語だって私には分る。

 この人は凄い人なの。

 おかげで私は無敵だった。テストは満点を取れた。

 高校生になった今でも本気を出せば満点なんて取れる。

 でも取らない。私には太宰先生が必要だから。

 でも太宰先生は家庭教師じゃない。

 私が受験に受かった時点で止めてた。

 家庭教師を廃業させた。

 本人が言ったのだから、仕方がない。

 それでも私には太宰先生が必要なの。

 先生が好きなの。

 馬鹿だって罵られても良い。

 プライドなんてズタボロにされたって良い。

 先生の隣で勉強したいの。お話したいの。

 恋人になりたいの。

 先生。太宰先生。

 愛してるの。






「先生、こんにちは」

「…女史、君が来るべき所は此処ではない」

「いいえ、私は望むままに此処へ来ました」

 初めて外で出会った太宰先生は初恋したままの姿を保っておらず、無精髭を蓄えてボサボサの黒髪を輝かせている。

 それでも私は太宰先生だと分った。

 覚えていたの。和服に隠れたシルエット、声色、煙草の香り。

 全部覚えていたから声を掛ける事が出来た。

 会いたかった。

「家庭教師を廃業したのだ。これ以上君と関わる事など皆無に等しい」

「釣れないことを言わないで先生……久し振りに会えたのに。ねえお茶しない?折角の縁よ?」

「生憎そんな時間に構う余裕も金もない。お帰りなさい」

「嫌です……先生」

 明らかに苛立ちを見せる。かつての教え子である私に。

 初めて見せる本当の太宰先生に私は嬉しい気持ちになる。

 踵を鳴らす音が私の鼓動と同じになる。

「一杯だけだ。良いな?女史」

「はい。良いですよ」






「近くに喫茶店があるなんて、知りませんでした」

「俺も知らなかった」

 初めて入った古めの建物は木の匂いとコーヒーの匂いが混じってる。

 太宰先生の行きつけかと思ったけど、先生も此処に来るのは初めてだったみたい。私から早く離れたくて此処を選んだのかな?

 きっとそうね。

「冷えた珈琲を一杯。至急だ」

「私も同じものを」

 そう言うと太宰先生は貧乏ゆすりをし始める。そんなに私とお茶するのが嫌みたい。

「今日は機嫌悪いね」

「嗚呼」

 一つ返事で済まされる会話。

 家庭教師をやっている時はあんなに沢山お話出来たのに。どうしてなの…?

「最近どう?」

「如何もしない。普通だ」

「私には何もないの?」

「興味の無い話題だ」

 冷たくなった先生も私は好き。

 それ程までに太宰先生を好きになったから。

 簡単な言葉じゃあ私は絶対にヘコタレない。

「お待たせしました。アイスコーヒーでございます」

 店員さんが持って来たアイスコーヒーのグラスはとてもヒンヤリしている。それなのに太宰先生は厭わないという感じでそのグラスを持ち上げて飲む。ゴクゴクと。

 ストローが顔に当たってもお構いなしでゴクゴク飲む。

 店員さんも唖然としてごゆっくりどうぞと言う。

「ご馳走になった。さらば」

 飲干して早々にそう言った彼はグラスを置いて席を立つ。

「え、ちょっと……待って!」

 私も呆気に取られた。

 まだ一口も口に付けられなかったストロー。

 折っただけのストローと空のグラスを見比べてからやっと席を立つ。

 店の外へと出て行った太宰先生を呼ぶ。

「どうして、そんなに私とお茶するのが嫌ですか?!」

 太宰先生は振り向いて言った。

「小説家に休息と女と愉しむ時間はない。金は支払わない。奢ってくれるのだろ?」

 立ち去る彼の話を友達にしたら、きっと怒るだろう。

 何だその男は。

 最低最悪の男。

 クズいヒモ男。

 それでも私は好きなの。

 あの背中に惚れているの。

 風に靡くあの黒髪に惚れたの。

 全部愛してるの。

 だから、私はどんな太宰先生であろうと受け止めて愛す。

 それが私に出来る愛の形。

 コーヒーは苦くて途中まで飲んでお金を払った。

 あんな苦いのまだ飲めないよ。

 でも克服しないと。

 先生だって飲んでいるんだから。私にだってきっと飲める筈。

 待っていてね先生。

 私も変わらなくちゃ。






 賢才女学院の生徒にめちゃくちゃ美人の女がいる。

 黒くて髪の長い女。綺麗なストレートの女。

 目が緑色なんだと。

 帰国子女?

 どうやら違うらしい

 イメチェンだとか、男に趣味を合わせただとか。

 とにかくだ。

 賢才女学院に居る生徒に綺麗な女が居るって話。




「おはよー」

「おはよールナねぇね、センセの反応とかどうだった?」

 賢才女学院なんて厳かな女子校の門に足を踏み入れて席に着けば学友がすぐに話し掛けてくる。

「んー?顔に出さないで驚いてた」

「ウソー?だって、皆ルナのイメチェンにビックリしてんのに、そのセンセ驚いてないの?目ン玉付いてるセンセ?」

 先生を小馬鹿にしてくる感じが気に食わないけど、学友だから笑って過ごす。

「付いてる付いてる。ただ顔に出ない人なの。先生は」

 私は先生に相応しい女になる。

 その為にパーマを矯正した。

 綺麗なサラサラストレートにした後は黒く染める。濁った黒ではない漆黒の髪。瞳の色はただの私の好み。

 カラコンだけど先生には怒られなかった。

 それくらい私は別人になったってこと。

 それに一応私はクラスでも頭の良い部類だったから、何も言われず怒られずに学校生活を満喫して良いの。

 だから、私は放課後部活へ行く。

 調理部で腕を磨いて、休みの火曜日にあの人へ会いに行くの。

 家はもう把握済み。

 木造建築された家。丸い窓から吹かす煙が目印。

 そこが先生のお家。

 今日もそこに先生が居る。

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煙窓 AILI @96hononjIari

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