あじさいの記憶
西川笑里
私の記憶
「ただいまー」
うちはお店に入ると、まずお婆ちゃんに挨拶していました。
「あら、帰ってきたんね。おかえり」
私の顔を見ると、お婆ちゃんは決まってそう返してくれました。
このお店は、小さい頃から何度も通い続けた小さなラーメン屋でした。調理場の中のおばちゃんは、私が大きくなるにつれお婆ちゃんになって行きましたが、進学で地元を離れても、帰省するたびにこのお店のラーメンを食べに行ってました。
壊れかけたエアコンの大きな音、冷えない店内。でも、びっしょりと汗をかきながら食べるラーメンがたとえようもなく美味しいんですよ。
「おばちゃん、そろそろ後継ぎはおらんのよね。なんならワシが継ごうか」
常連のおじちゃんがお婆ちゃんにそういう。
「何言うとんね。うちの企業秘密をそう簡単に教えられんわいね。まだまだ人に教えるわけにはいかんよ」
お婆ちゃんは笑いながらそう言ったんです。
それが去年の夏のことでした。
年が明けて冬休みで帰省したうちはいつものようにラーメンを食べにお婆ちゃんのお店の暖簾を潜りました。
「ただいま。ラーメンひとつください」
だけど、調理場の中にいたのはお婆ちゃんではありませんでした。
「あれ、お婆ちゃんは……」
調理場の中のおばちゃんは、たまに見かけていたお婆ちゃんの娘さんです。
「ああ、えみりちゃん、いつもありがとね。実はお婆ちゃん、秋に亡くなったんよ」
ラーメンを作りながら言うおばちゃんの言葉にしばらく絶句する私。
おばちゃんが出してくれたラーメンは、お婆ちゃんのラーメンとは似ても似つかないラーメンでした。
「ごめんね。お婆ちゃん、スープの作り方を残しとらんかったんよ。うろ覚えで作っとるんじゃけど、お婆ちゃんの味が出せんでね……」
おばちゃんはラーメンを見つめるうちの顔を見て、申し訳なさそうに言ったのです。
春休みにそのお店の前を通り過ぎると、店はなくなっていました。
私の記憶の「あじさい食堂」はお婆ちゃんの味を継ぐことなく、静かに幕を引いたのです。
あじさいの記憶 西川笑里 @en-twin
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