15 ただいま、はじめまして(最終話)

 全てが凍結されていたはずの仮想世界だったが、駅前のあの謎の「氷屋」は、ちゃんと「ゼネラル石油」の看板がかかったガソリンスタンドに修正デバッグされていた。

 家の灯油もすでに水ではなくなっているはずだったが、ついでだからと思って、三輪式トラックに積んで来たポリタンクに、灯油を満タンにしてもらった。液体からはちゃんと、油の匂いがしていた。


 果てしないような夏空と、青々とした田んぼを見ながら地方主要道を突っ走る。地球への往還の間にあった様々なことが、現実に起きたことだとはとても信じられなかった。

 古びた木造家屋の並びが濃い影を落とす、炎天下の通りを走り抜けて、トラックは懐かしの我が家の前に停まった。

 引っ掛かり気味の鍵も、建付けの良くない引き戸も、そのままだ。この仮想空間においては、家を出てから大した時間は過ぎていないのだから、当たり前ではあったが。

「ただいま」

 誰もいない家の奥に向かって、僕はそう言ってみた。壮絶な旅を終えて、ようやくの「ただいま」だった。


 灯油窯での素焼きを無事に終えて、裏口から水路へと降りて行くと、また頭上から声がした。

「お疲れさま。焼き物はうまくできた?」

 夕焼け空の下、シルエットのように見える蔵造りの古びた木造家屋の窓、そこから浮絵さんがにこやかにこちらを見下ろしていた。

「ああ、ちゃんと焼けたよ」

「良かったね。今度、小さいのでいいからおどんぶりが欲しいな。それでご飯食べるの」

「丼飯とは、なかなか豪快だね」

「お腹が空くのよ、部活の日は特にね」

 彼女はくすくすと笑った。

 この他愛ない、平和な会話を取り戻すために、どれだけの労力がかかったことか。そう思うと、僕も苦笑いをせざるを得なかった。

「あ、変な笑い方。馬鹿にしてるでしょ」

「違う、違う。分かったよ、丼だね」

「お願いね。じゃあ」

 彼女は嬉しそうに手を振って、窓の奥に消えた。水路の底からサイダーを一本取って、僕も家へと戻る。

 この世界を守り切った、長い長い一日の終わり。そう思った。


 焼き魚と豆腐の味噌汁で、ささやな夕餉を済ませた。暗い電球の下、折り曲げた座布団を枕代わりに、茶の間の畳に横になって古い小説の文庫本を読む。

 真夏とはいえ、この時間になれば風はもう涼しかった。風鈴の響きも心地よい。後で、玉露でもれよう。

 久しぶりの、一人の時間。しかし、今の僕は、心の底から湧き上がってくる淋しさを、抑えることができなかった。

 ラントヮとの、一瞬の幸せ。あれは架空のものだったのだ、といくら思っても、簡単に忘れることなどできなかった。


 ただ、僕にはもっと会いたい人がいる。この仮想空間の基になった、古いアルバムの写真に残された彼女。あの人ならきっと僕を受け入れてくれる、僕にはそんな確信があった。

 そのためにも、あのアルバムの背景に広がる世界についてさらに学ぶ必要があった。そうすることで、彼女のことを正確に理解し、いつかこの空間に出現させることができるはずだ。そこに一つの希望があった。


 昭和後期の文学作品の一行一行を真剣に追っていた僕の耳に、玄関の戸を叩く音が聞こえてきた。

 陽もすっかり暮れた、こんな時間に来客とは。もしかしたら、浮絵さんだろうか。約束の丼は、まだ菊練きくねりも済んでいない土の塊の段階なのだが。

「はいはい、ただ今」

 起きあがった僕は廊下を玄関へと向かい、キイキイと音を立てながら引き戸を開けようとした。

「みゃおう」

 開きかけた戸の向こうで、鳴き声がした。地面の辺りで、なにやら毛玉のようなものが、二つの瞳を怪しく輝かせている。

 何だ、お隣さんの言っていた猫か。苦笑しながらしゃがみこんで、「みうみう」と鳴くというその姿を確認しようとした、その時。


「ごめんくださいましね、夜分遅くから」

 頭上から、女性の声がした。

 驚いて見上げて、玄関灯の薄明りに浮かんだその顔を目にして、僕は言葉を失った。

 あの女性ひと。古いアルバムの、色あせた写真の向こうで微笑んでいた彼女が、今まさにそこに立っていた。シンプルなワンピースの色は、淡いピンクだった。

「初めまして。網野、と申します。今度このたび、こちらの町内に越して参りまして。ご挨拶回りに、と伺いました」


 自動生成……いや、これは例の「願望の実体化」だ。傷ついた僕への、システムからの贈り物。

 受け取って良いものなのか。目の前の彼女も、結局はラントヮと同じ、この世界に僕を留めるための存在なのではないか。

 きっとカールなら、

「その人工人格A・Pと私は、同じシステムの別の面というだけですけどね。インターフェイスの見せ方は異なりますが。気に入っていただいて、幸いです」

 と僕をからかうだろう。

 しかし、こうして実体化した彼女を、拒むことなどできるはずもなかった。


「それはどうも、ご丁寧に。もしよろしければ、少しお上がりになりませんか? ちょうど、玉露を淹れようとしていたところで。知覧ちらんから取り寄せた、極上のものです」

「およろしくて? 厚かましいことですが」

「いえいえ、ちっとも。ちょうど、話し相手が欲しかったところなのですよ。良い夏の宵です、そうじゃありませんか?」

 三和土たたきでモス・グリーンの靴を脱ぐ彼女。何かの、花のような香りがした。夢のようだった。こみ上げてくる幸せが、僕の心を満たした。


 守り切った、この世界。もう、独りではない。もう、どこにも行く必要はない。地球が、月泉郷がっせんきょうがあれからどうなったのか、もはや知ることもなかった。

 幸いにも、システム障害はその後、二度と発生しなかった。約四十万時間の余生を、僕はこの理想の世界で平穏に過ごした。彼女と二人で、幸せに暮らしながら。


 間もなく、結晶栄養クリスタニュートの残量がついに尽きる。生命維持サブシステムの稼働限界。しかし、思い残すことはなかった。

 あの地球に戻って食糧を補給する? まさか。もう、充分生きた。これでいい。後のことは、やがて生成されるはずの「僕」が引き継いでくれるだろう。


 カールに、遺言を託した。僕が死んだ後も、動力の続く限り、この仮想空間システムの稼働を維持するようにと。

 僕の計算では、約五億七千六百万時間の間、この世界は生き続けるはずである。

 あるべき「現実」の姿を保ちながら、荒れ果てた、悲しき地球の周囲を巡り続けながら。

(完)


* 最後までお読みいただいたみなさま、本当にありがとうございました *

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【完結】この世界を守るために ~リアル・ワールド往還記~ 天野橋立 @hashidateamano

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