コラム「近代日本文学の概略」

(この原稿は、本来1-2「小説とは何か」の付録として書いたものだった。しかし、小説の技術紹介というレポートの趣旨からずれる内容のため、コラムとして別掲載することにした。)


 ここでは付録として、日本の小説史の概略を紹介する。小説を書く直接の役には立たないかもしれないが、ルーツを知っておくことで得られることもあるだろう。

 ただし、ここに書かれていることを本格的に知りたいのであれば、自分で資料を調べるなりするのを推奨する。間違っても文学部のレポートや論文等に引用しないように。



 西洋における近代小説の起源はセルバンテス『ドン・キホーテ』だと言われている。この作品は騎士道物語に毒されて狂った男のドタバタ珍道中を描いたもので、基本的に通俗小説である。しかし同時に、文芸批判や、騎士道物語の批評、メタ・フィクションなど、後の作家に受け継がれることになる技術の多くが使われている。


 特にこの作品が文学史の中で重要視されている理由は、従来の作品がストーリー中心に組み立てられていたのに対し、登場人物の個人的な言動が主体となって小説全体が組み立てられている点である。

 従来の物語の登場人物は、ストーリーに沿って、その都合に合わせて演技をする存在でしかなく、登場人物がストーリー展開を邪魔することは無かった。

 しかし『ドン・キホーテ』ではドン・キホーテやサンチョ・パンサとその周囲の登場人物、挙げ句に作者までが、それぞれの都合によりストーリーを無視して行動し、脱線していく。

 たとえば、自称お姫様を助けに行くという展開だったはずなのに、それを中断してまで全く関係ない男の身の上話が延々と続いたり、森に化け物退治に行くというストーリー展開を大幅に妨げてまで、サンチョが行くのを嫌がって延々と主人を説得しようとしたり、一騎打ちシーンのクライマックスで「ここで原文が失われている」という謎の理由でストーリーが中断され、作者がその失われた部分の文献を探し出すまでの顛末が描かれたりするわけである。

 従来の「物語」は「ストーリー」という大きな力が支配していたのに対し、「近代小説」は「個人」が描かれるものであり、その発端となったのが『ドン・キホーテ』である、というのが、文学史としての考えとなっている。


 いずれにせよ、『ドン・キホーテ』は様々な言語に翻訳され、ジョイス、フローベール、ボルヘス、スターン、メルヴィル、ドストエフスキーなど、様々な作家に影響を与えた。


 一方、明治時代の日本は西洋化を最優先目標としており、とにかく昔の風習を捨て、西洋のような国になろうとしていた。その一環として、江戸時代以前の文化を刷新すべく、国を挙げて文学者を各国に送り、小説という文化を輸入しようとしたわけである。

 今日、江戸時代以前の日本の文化がマイナー化している理由はここにある。当時の政府がそういう方針で国民を教育し、江戸以前の日本は古い、ダサいと思わせることに成功したから、現代の日本人は日本神話をろくに知らなかったり、古文の授業で苦しんだりするのである。


 文学者達は、各国それぞれで学んだことを活かして、それを日本語で実現しようとした。その中で最初期に特に力を持ったのが、ロシア文学を学んだ二葉亭四迷だった。彼がロシア文学を日本に輸入するために試行錯誤した言文一致体が、今日の日本の小説で使われる文章の原型となっている。


 この黎明期に日本文学の運命を決定づけたのは、坪内逍遙の『小説神髄』である。坪内逍遙は西欧の写実主義に影響を受け、西欧の「小説」は、日本で言うところの「戯作」と似たようなものだが、戯作から勧善懲悪などの作為を排除し、事実をありのままに書くことが肝要だ、と主張したのである。


 西欧文学における写実主義はフランスで起き、ロマン主義への反動や、自然科学の発展による影響によって生まれた。ロマン主義のように現実を美化して描写するのではなく、科学における「観察」を小説に持ち込むことで、事実を客観的に描写しようと試みたわけである。

 ここで重要なのは、「観察」とは、目的を持って対象を詳細に調べ、その結果から何かを導くことを指す点である。ただありのままに書けば「観察」ではないのだが、坪内逍遙はその点を見落としている。そのため彼は写実主義とロマン主義の区別が付けられず、混同している部分が散見する。


 一方、森鴎外は読売新聞に掲載した「小説論」にて、ゾラの自然主義を紹介している。ゾラは写実主義のフローベールに影響を受けた作家で、クロード・ベルナールという生理学者の最新理論に影響を受け、小説に観察と試験を取り入れようとし、自らを「自然主義」と名乗ったことが紹介されている(小説の中に実験環境を整えて実験を行うことで、環境や遺伝が人間に与える影響を実証しようと試みていた。詳しくは『実験小説論』を参照)。

 森鴎外は、ゾラが言うところの自然主義が「自然科学主義」であることを知っており、その要諦が観察と試験であることも知っていたわけである。ただし、鴎外はゾラに対し批判的で、自分で自然主義を実践しようとはしていない。ゾラの理論は当時のフランスでも批判されたし、今でも微妙な扱いとなっている。ともかく重要なのは、鴎外はゾラが何をやろうとしていたかを正しく理解していた点である。鴎外は、日本の自然主義はゾラの自然(科学)主義とは別物の、ありのまま主義だということにも言及している。日本における小説の現状も理解していたわけである。


 坪内逍遙は「写実主義」を提唱しながら、西欧の写実主義がやろうとしている「観察」を見落とした。さらに、坪内逍遙の影響を受け、ゾラやモーパッサンといった自然主義の作家の影響を受けながら、自然主義が自然科学主義だという事実を知らず、「自然に書く」主義だと勘違いした作家達が、日本の自然主義を形成するようになる。

 島村抱月の「文藝上の自然主義」や田山花袋の「露骨なる描写」などを読めば、日本の自然主義の実態は明らかで、抱月は「自然科学」という言葉を知っていながら、自然主義は自然に書くことだと書いているし、花袋は人為や技巧を捨て、自然に書くことが肝要だと述べている。フローベールやゾラ、モーパッサンが技巧派の作家だったにも関わらず、である。

 一方で、自然主義文学について正確な情報を持っていた鴎外や、『文学論』にて文学と科学の関係について論じた夏目漱石は、西欧の自然(科学)主義に対しては批判的だったし、日本の自然主義のように「ありのまま」書けば小説になるとも当然考えていなかった。そうして彼らは反自然主義文学に分類されるのである。


 自然主義文学と反自然主義文学の対立は、教科書では反自然主義が勝ったかのように書かれることが多いが、それは事実ではない。確かに「自然主義文学」という言葉そのものは、田山花袋の『蒲団』の影響で、スキャンダラスな身辺雑記や告白小説を書けばいいものだと曲解され、下品な作品というレッテルが貼られて絶滅した。しかし「自然に、ありのまま書く」主義そのものは、写生文や私小説、純文学などと名前を変えて、この先もずっと日本文学の主流を担うわけである。


 第二次世界大戦での敗戦後、日本では、戦前の反省と否定、それから再評価を行う動きがあった。つまり、明治維新の際に江戸時代以前の文化を否定したのと同じように、戦中、戦前の日本は全くダメだったことにし、と同時に、戦前、戦中には評価されていなかった何かを発掘して「日本は実はこんなすごいものがあったんだ。こんなすごいものを評価できなかったから日本は負けたんだ」という形で自信を取り戻そうとしたわけである。ちなみに、零戦神話もこの一環である。零戦は戦中は一般にはあまり知られていなかったが、戦後になってその「伝説」が宣伝されるされるようになり、今なら誰でもその「伝説」を知っている。


 文学では、自然主義文学の否定と、反自然主義文学の再評価が行われた。反自然主義文学の夏目漱石や森鴎外などが高く評価されるようになったのは、戦後からなのである(註1)。

 今日、漱石や鴎外などが無駄に神格化され、教科書に載り、必読とされているのも、こうした動きの影響である。


 しかし、「反自然主義文学の再評価」はうまくいったものの、「自然主義文学の否定」の運動は、うまく行かなかった。純文学論争というものが勃発したからである。


「純文学」という言葉が生まれたのは明治末期~大正時代で、当時小説が普及しだし、数が増えてくる中で、文学的(要するに自然主義文学、私小説)な作品を「純文学」、それ以外を「大衆文学」と分類するために作られた。このとき、漱石ら反自然主義文学の作家は大衆文学に位置付けられている。


 戦後、漱石を評価すると同時に純文学を否定する運動を行ったわけだから、当然、文壇での純文学の評価は落ち、大衆小説(中間小説)の評価が上がった。しかし、それを怪しからんと感じた文学者との対立が起きる。要するに、明治における自然主義文学と反自然主義文学の対立が、より激化して再現されたわけである。

「純文学」という言葉の「純」の字が強調され、「大衆性、娯楽性を排除し、芸術性のみを求める小説」という意味が加えられたのはこの時である。

 しかし、漱石や鴎外の神格化はそのまま放置され、本来、言ってしまえば「反純文学」であるはずの彼らも「純文学」に組み込まれてしまったため、今日の「純文学」という言葉の意味はわけがわからないことになっている(現在の文学者は、歴史的な文脈以外では「純文学」という言葉を使わない。単に文学小説とか、文芸とか、文学と言う。なぜなら、文学に「純」の字を付ける必然性がないからである。そもそも小説という形態自体がなんでもありの混沌としたもので、形式が定められている詩などと比べると純粋とはほど遠い)。

 この矛盾を解消するため、漱石や鴎外を私小説として読む動きが現れた。作者の人生と小説の内容との共通点を見つけ、「実はこの作品は、作者の人生経験を基に書かれた小説だったのだ。だから実は私小説であり、純文学なのである」という論理である。


 国語の授業で作者の人生を調べたり、作者の気持ちを考えたりしなければならないのは、こういう理由である。日本における「純文学」とは「私小説」でなければならず、「私小説」として読むことが文学的であるという観念に、日本の国語教育は未だ縛られているのである。付き合わされる生徒達にはご愁傷様と言うほかない。


 余談だが、人は未知のものは書けないので、当然、どんな作品を書くにしても、経験したことや調べたことなどを基にフィクションを構成している。

「作者の体験を基に小説を書く」という私小説の定義は、それを適用しようと思えば、どの小説にも当てはまってしまうのである。


 私小説は、作者の人生と小説のとの結びつきが重要だとされたため、作者自身がよりアウトローで不幸な人生を歩めば歩むほど、私小説としての評価も上がるという性質を孕んでいた。結核を患ったり、自殺したりすると作家としての格が上がるという、今から考えると信じられないような評価が本当にまかり通っていたのである。結核病棟の周りをうろうろしたり、体を痛めつけるなどして結核になろうとする人が現れたり、芥川や川端、太宰の自殺がことさら強調されたりするのもそのためである。

 太宰などは生前はそれほど評価されていなかったのに(売れっ子作家だったこともあり、文壇からの評価は冷ややかだった)、彼が自殺し、『人間失格』が私小説として評価されると、途端に神格化されている。

 つまり、この当時は純文学の「純」の字にはそれなりの意味があったのである。人生すらも文学に捧げる純粋さが、当時の文壇では評価されていたのである。


 純文学(=私小説)に止めを刺したのは、三島由紀夫の自殺だった。田山花袋の時は、単に自分の醜態や、他者との関係の暴露をするだけで良かったので、その気になれば誰でも真似できたのだが、自衛隊の前で演説をぶって切腹するとなると、そうそう真似できなかったからである。

 日本文学は、筆を折るか、三島の自殺を乗り越えるための何かを模索するか、三島の自殺が無かったことにするかの三択を迫られることになる。


 現在の日本文学でも、実のところ自然主義文学(私小説)と反自然主義文学という対立は続いている。三島の自殺を無かったことにした人達は、未だに私小説を書くことによって文学の主流であろうとし、三島の自殺を乗り越えようとした人達は、セルバンテスを始祖とする近代小説の本流にある作家から学び直して小説を書こうとしている。



[2013.10.18 追記]

 現代において文学を高尚なものだと勘違いし、「純文学」を名乗っている人々に共通して言えるのは、文学は人間の生きる苦悩を描いたものだ、という概念を抱いていることである。これは、彼らが自然主義文学や私小説を信奉しているから、というのでは説明が付かない。

 では、どういうことなのかと考えていたのだが、どうやら現代における「純文学」の概念は、実存主義の文脈にあるものを指すようである。


 実存主義についてごく簡単に説明しておくと、人間に生きる意味なんか存在しないのではないか、という仮説を提唱した哲学の派閥である。人は神によって生きる意味を与えられている、というのが従来の考え方だったのだが、それが実は虚構ではないかと言い出したのが実存主義である。……この説明の仕方はわかりやすい代わりにいろいろ端折りすぎてもいるので、鵜呑みにはしないで欲しいところだが。

 そして、生きる意味を喪失した人はどう生きるべきなのか、というのを考えたのも彼らで、おおざっぱに言うとキルケゴールは宗教にすがることを提唱し、サルトルは歴史への参加を提唱し(彼はマルクス主義者で、資本主義から共産主義への移行は運命だと信じていた)、カミュは哲学者ではなくエッセイでこの点について触れただけだったが、生きる意味が無いことを自覚し、耐えることを提唱している(自覚した上で個々に生きる意味を捏造して生きればいいじゃんという、いかにも作家らしいことを言っている)。

 実存主義の扱っている案件は解の無い問題で、生きる意味の有無については証明のしようがないし、仮にないとして、どう生きるべきかの答えはひとつではなく、個々に考えて納得するしかない。


 実存主義はサルトルの自爆(註2)によって現代では低調なものの、生きる意味探しをする人は少なからず存在し、そういう人達が信奉しているのが現代でいうところの「純文学」だと考えれば、説明としてはなかなかうまいように思える。今は選考員が入れ替わったおかげで多少毛色が変わっているが、石原慎太郎が審査員をやっていた頃までの芥川賞は、確かに実存主義的な視点から評価が与えられていたように見える。つまり、現代人の生きる苦悩を描いているから素晴らしいなどと評価されていた。


 実存主義的な観念は、小説の捉え方のひとつであり、正しいわけでも間違っているわけでもない。だから、実存主義的に作品を評価して愛読するのは一向に構わない。

 ただし、それを絶対化して、実存主義的に優れている作品でなければ文学ではないと考えるのは、小説から多様な読み方を失わせる考え方であり、純血主義者であり、差別主義者であり、無知である。


 これに関連して言っておくと、現代の文学において「純文学」という言葉が嫌われるのは、ナチスドイツの影響が少なからずあるだろう。第二次世界大戦前の日本人は「純文学」の「純」の字に、大して意味を付与していない。「クソヤベエ文学」みたいなもので、「文学」を強調するためにくっついている言葉に過ぎない。

「純」の字が問題になったのは戦後の純文学論争からであり、ただし、当時はむしろ、文学を純血にしようとする無邪気な選民思想から起きている(本文にも書いたように、探偵小説などが文壇で評価されるようになったことへの反動から起きている)。しかし、ナチスドイツの純血主義が引き起こした事実や、レヴィ=ストロースやサイードの影響を受けた現代の文学者は、「純」の字にむしろ危険な臭いをかいでしまうわけである。


註1

 より具体的には、1956年に発表された江藤淳の『夏目漱石』の影響が大きい。彼は、日本の作家の多くは文学なんか書いてこなかった、書いていたのは漱石や鴎外といった一握りの作家だけだと主張し、これが戦後の日本文学の主流な考え方となったわけである。皮肉なのは、この論文は漱石を「則天去私」の体現者として神格化した小宮豊隆を批判したものであることで、結果的に江藤淳は、漱石神話を批判しながら、自ら新たに漱石を神格化したことになる。

 また、今から考えると、江藤淳の『夏目漱石』は、漱石を実存主義の視点から読解した内容とも言えて、戦後、実存主義的な小説や解釈が好まれるようになるのも、彼の影響が大きかったのかもしれない。


註2

 もともと、サルトルとレヴィ=ストロースは共闘関係にあり、お互いの論を補強し合うような形をとっていた。「人間の実存に意味なんか無い」という実存主義のおおもとの主張に関しては、「人間社会に優劣なんかない」と主張するレヴィ=ストロースと、特にケンカする要素もないわけである。扱っているテーマからしても特にカチ合うこともない。

 しかし後にサルトルは、意味の無い実存を充足させるためにマルクス主義を利用することを考えつき、「歴史参加」を呼びかけるようになる。つまり、資本主義から共産主義への移行は歴史の必然であり、その動きに参加することで、意味の無い実存を充足させようじゃないか、と言い出したわけである。このとき、資本主義から共産主義への「進歩」を利用しようとするサルトルにとって「人間の社会システムに優劣はない(歴史や文化とは偶然の結果そうなっただけのもので、人間が意図的に作り出していくものでもなければ、AからBへと進歩していくものでもない)」と考えるレヴィ=ストロースが邪魔になってきたわけである。

 ただし、サルトルとレヴィ=ストロースは、いきなり直接論争を繰り広げたわけではなかった。もともと争っていた相手はマルクス主義者のポンティで、この論争についてはポンティの『弁証法の冒険』とサルトルの『弁証法的理性批判』にて確認できる。

 おおざっぱに状況を説明しておくと、ポンティは、サルトルのような扇動者が運動を起こすことは、平等な社会を目指す共産主義とは相反すると考えており、サルトルは主観的過ぎてボルシェヴィズム(レーニンの率いたボルシェヴィキに因む。要するに、自由や平等を謳いながら、実際は革命家による独裁を目指している、という意味)に陥っていると批判したわけである。

 この論争の途中でポンティが亡くなったことや、サルトルの『弁証法的理性批判』の内容に、レヴィ=ストロースの考えを誤解(実際はおそらくわざと曲解して)用いている箇所があることなどから、レヴィ=ストロースは『野生の思考』の最後の章で、ポンティの遺志を継いでサルトル批判を行ったのである。

 レヴィ=ストロースの批判はポンティのものを引き継いでおり、「サルトルの思想は植民地主義(白人文化を優越したものと思い込み、優越した白人が劣等な他民族を「進歩させてやる」という名目で侵略を行う)と同じだ」というようなものだった。これに対するサルトルの反論がめちゃくちゃで「構造主義はブルジョワ最後の砦だ」などという、わけのわからないことを言い出した。この失態により、サルトルは支持を失うことになる。


 この件は一般には、構造主義が実存主義を打破した、といった構図で語られることが多いが、もともと広義の(ニーチェやハイデガー、ヤスパース。もう少し狭い意味だとキルケゴールを始祖とする)実存主義と構造主義は論争なんかしていないし、論理展開でカチ合うこともない(実存主義は個人の生について考えるが、構造主義は事物を構造から捉えようとし、個人について言及しない)。

 むしろこれは、マルクス主義者同士の争いだったと考える方が現実に即していると言える。レヴィ=ストロースは、マルクスの歴史認識については批判的だったものの、資本主義のシステムを暴いた点については評価しており、そういう意味ではマルクスの信奉者であった。

 この論争は、マルクスを「生の充足」などという私的なことに利用しようとするサルトルと、マルクスの理想や理論を崇拝する者達との争いであり、実存主義や構造主義とはあまり関係ないのである。

 ただし、人間や人間社会を構造から捉えようとする構造主義が隆盛するにつれ、人間の存在を問う哲学が流行遅れになってしまった感はあり、そういう意味で言えば、構造主義は実存主義を打破したと言えるかもしれない。


 なお、本稿の最後の方にある「実存主義的な読みを絶対化し~」のくだりは、要するにレヴィ=ストロースのサルトル批判と同じ、植民地主義批判を絡めた論法である。これについては本家であるレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読めばいいわけだが、よりわかりやすいのはサイードの『オリエンタリズム』となる。

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