第10話 春
ソフィアは鏡台の前に立ち、小鳥の髪を梳いていた。小さな部屋に、うららかな春の日差しがいっぱいに差し込んでいる。鏡の中の大好きな人の顔に、ソフィアは明るく笑いかけた。
「ほら、もっとリラックスして。大丈夫よ、学校は噛みつきやしないわよ。そのセーラー服も、とても似合っているわ」
「そうかな」
「そうよ」
小鳥は深呼吸する。ソフィアとおそろいの、真新しいセーラー服の襟の上で、少し伸びた黒髪がさらさらと揺れた。
薄紫のシフォンのワンピースを着た、パンジーのような翠さんが入ってきて、ちょっと目を見張ってからにっこりした。
「そうしているとあなた達、姉妹みたいに似て見えるわね」
「そりゃそうよ、だって姉妹だもん」
ソフィアが胸を張り、小鳥が真っ赤になった。翠さんは腕時計にちらりと目をやった。
「支度はできた?そろそろ行くわよ。入学式は10時だったわよね。歩いて行くから、早めに出た方がいいわ」
はあい、と二人の少女の声がぴったり重なった。
小鳥が家を脱け出した、あの冬の夜から数か月が過ぎた。あの後すぐ、小鳥も蒼も高熱を出して寝込んでしまった。蒼は数日でけろりと回復し、期末テストを休めなかったと悔しがっていたが、小鳥の方は重い肺炎を起こして1か月近くベッドから離れられなかった。ようやく熱が下がり、起き上がって食事を口にすることができるようになった時、小鳥は変わっていた。いつもどこか夢を見ているようだった眼差しはしっかりと焦点を結び、その声には深みと落ち着きが加わっていた。ソフィアの話に声を立てて笑い、翠さんに素直に甘えるようになった。
小鳥の変化はそれだけではなかった。他愛ない会話が途切れた時や、黄昏時に彼女がふと見せる表情には、もう決して消えることのない影がある。それに気づくと、ソフィアは何も言わず、ただ小鳥の手を強く握って傍に座っていた。すると小鳥も、ソフィアの手を握り返すのだった。
入学式の後、小鳥は一人であの東屋へ向かった。墓地を囲むように植えられた桜の木から降り注ぐ、無数の淡いピンクの花びらが、小鳥を優しく包む。美しいその情景を見上げ、小鳥はあの凍てつく冬の夜を想い出した。直後に高熱を出して長く寝込んだせいもあり、ひどく遠い昔の出来事のようだった。
(それでも、忘れてないよ、蒼くん。あんなに必死に、生きろと叫んでくれたことを。…好きだと、言ってくれたことを…)
小鳥の頬が熱くなる。それは、春のぽかぽかとした日差しのせいだけではない。
あずまやの周囲は、きらめくエメラルド色の芝生で覆われていた。死者達の安らかな眠りの上に、新しい無垢な生命が芽吹く。白やピンクや青の小さな花々が、星のように東屋を彩っていた。
蒼は、東屋のベンチに腰かけていた。小鳥が隣に座ると、静かな微笑みを向けてくる。
「高校入学おめでとう、小鳥」
「ありがとう」
「新しいクラス、どうだった?」
「まだよく分からないけど、でも、きっと大丈夫。うまくやれると思うわ」
「そっか、よかったな」
蒼は優しく答えた。肩が触れあいそうになり、小鳥はわずかに身じろぐ。痛いほどきつく小鳥を抱きしめた、その身体の輪郭と骨の形を、小鳥はもう知っている。
あのさ、と蒼は思いきったように口を開いた。
「冬に俺が言ったこと、憶えてるか?お前のことが好きだって…なぎを好きなままでも構わないって」
「うん、憶えてる…蒼くんが言ってくれたことは、全部憶えてるよ」
小鳥は言葉を切り、深く息を吸った。スカートのポケットに手を入れると、羽根に触れる。彼の残した、唯一の証。
「私ね、やっぱりまだ、薙を忘れることができない。でも、やっと分かったことがあるの。彼にはもう、二度と会えないんだって…とても優しい人だったから、別れてからもずっとどこかで期待していたの。でも、それはもうやめるわ」
羽根から手を離し、小鳥は蒼を見上げた。蒼は、驚いた顔で小鳥を見つめていた。
「落ちるかもしれない、死ぬかもしれないと思った時、あなたの顔が見えて、声が聞こえたの。薙を追って飛ぶよりも、私は、蒼くんの手をとる方を選んだの。この意味、分かる?」
「分かる…気がする」
「よかった。私は、まだよく分からないから」
笑った小鳥の頬に、涙が一筋流れる。蒼の指が、ためらいながらそれをすくいとる。
「小鳥…お前のこと、好きでいてもいいか。あんなに傷つけたのに。お前の、一番傍にいる男になってもいいか」
「蒼くんこそ、こんな面倒くさい女の子で本当にいいの?当分は薙のこと、話すよ?北海道にも、行かなきゃだし」
「でも、帰ってくるんだろ?」
こともなげに蒼は言った。小鳥は息をとめ、それから頷く。こうやって、蒼は何度でも、自分をしっかりと繋ぎとめてくれるのだろう。
「もちろん。帰ってくる。今はこの街が…ソフィアと翠さんと、蒼くんがいるここが、私の居場所だから」
「うん。…小鳥がまだ色々抱えてることなんて、最初から分かってる。全部ひっくるめて、俺はお前のことが好きで、支えたいんだ」
蒼の大きくてしなやかな手が、小鳥の手をつつみこんだ。小鳥はぽろぽろと涙を零しながら、頷いた。
蒼が、愛おしくてたまらないというように目を細める。そうして、ゆっくりと首を傾げ、小鳥の唇に唇を重ねた。
自分とは違う速度の、心臓の音が聴こえる。
支えてくれる腕に、熱い血が流れているのを感じる。
重なった唇から、生命の息が少しずつ送り込まれる。
今この瞬間、傍にいて、生きて自分に触れてくれている人を、小鳥は目を閉じたまま全身で感じていた。やっと、分かりあえたのだと思った。
(もしかしたら、私達はまたすれ違うのかもしれない。結局は上手くいかないのかもしれない。私の病気も、再発するかもしれない)
それでも小鳥は、今を受け入れようと思う。温もりや束の間の喜びを、余すことなくすくい上げて、生きていきたいと思う。
(だって、私はもう一人じゃない。愛した人を何度も失ったけれど、ソフィアや翠さんに会えた。蒼くんに、会えたから)
生きてさえいれば変化は何度でも訪れるのだと、自分は少しずつ前に進めているのだと、信じてみたい。小鳥は初めて、そう思った。
春風が、小鳥の髪を揺らす。彼女の顔には、静かで幸福そうな微笑みが浮かんでいた。
<終>
作中引用:
シェイクスピア『お気に召すまま』(福田恆存訳、新潮文庫、昭和56年発行、平成16年35刷改版、平成24年40刷)
泉鏡花『夜叉ヶ池・天守物語』(岩波文庫、1984年初刷)
飛翔 野原 杏 @annenohara
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