どうしても、届かないもの

譜楽士

小さなレディの、大切な思い出のひとつ

 その日、貝島優かいじまゆうはいつものように一番乗りで音楽室にやってきていた。


 吹奏楽部で打楽器を担当する優の仕事は、まず練習に使うための楽器たちを出すことだ。

 それは一年生の自分が、率先してやらなければならない。そう考えて、優は今月頭に入部してから、授業が終わってからすぐ部活に向かうようにしていた。


 だが、その考えとは裏腹に――音楽室奥にある、打楽器群がしまわれている倉庫に向かう優の足取りは重い。


 いや、足は真っ直ぐにその倉庫に向かっているのだが、その扉の先に待っているであろう光景に、さすがに彼女といえどもその気持ちが鈍るのだ。

 それを表すように、その部屋に近づくにつれて、優の顔が段々渋いものになっていく。


 そしてその部屋の扉を開けた途端、彼女の渋面は最高潮を迎えた。


「汚い……」


 そう、部屋の中はただでさえ種類の多い打楽器たちが。

 ひたすらぐちゃぐちゃと、乱雑に置かれていたのである。



###



 太鼓類は適当に床に置かれ、小物類は部屋のあちこちに散らばり。

 そしてその雑然とした状況を、鉄琴などの鍵盤類でバリケードのように封鎖している。

 しかしそれでいて、楽器が傷つくような配置されていないところが不思議ではあったが――


「……腐海です。腐海の森です……」


 まずそれよりも散らかりっぷりにめまいすら覚えて、優はその場に膝をつきそうになった。

 それでも、すんでのところで踏みとどまる。


 こんなことでめげている場合ではないのだ。

 これしきのことでぐらついていては、この先とてもやっていけない。


 そう思い直して頭を振り、優はそのカオスの中に足を踏み入れた。


 下準備は大切なものだと、中学のときに先生に教わった。

 だからみなが来る頃には、大体の準備を終わらせておきたいのだ。打楽器は数が多くセッティングに手間取るため、人より早く動かなければならない。


 とりあえず、今やっている曲で使うであろう物を脳内でピックアップし、それを部屋の外に出していく。


 しかし高校生になっても未だに小学生と間違われるほどのその小さな身体では、それはなかなかに大変な作業であった。


「ああ、もうっ……!」


 楽器の山と海をかき分け、優は果敢に楽器倉庫に挑んでいく。


 これはもう、あれだ。

 根本的にレイアウトを考えないとダメだ。


 せっかく棚があるのだから、小物類は置き場所を決めてしまった方が良い。そんなことを考えながら、優は楽器を出すと同時に少しずつ片付けをして、この部屋を理想的なものに段々と近づけていこうとした。


 こういうところからもう、演奏は始まっているのだ。

 整理整頓ができない学校は演奏も整理整頓できていない。それは中学のときからなんとなく分かっていた。

 強い学校は荷物の置き方も楽器ケースの置き方も完璧だった。綺麗だった。


 しかし、それに比べてこの学校はどうだ。

 誰も彼もが好き勝手なことをやって、全体で見るとまるでまとまりがなっていない。

 それはこの楽器倉庫を見れば分かる。これはいけない。このままじゃいけない。これはこれから自分が、何とかして変えていかなければならないことだと思う。


 そして、変えていかねばならないのは、他の部員の意識もそうだ。

 この部屋の惨状は、打楽器パート以外の部員も片付けに参加しているからこそ起きているものでもある。

 いや、それはそれでありがたいのだが、こう毎回毎回配置がぐちゃぐちゃでは出すときにとても困る。

 これではもっと大きな楽器を買ったら入らないではないか。そう、例えばオーケストラチャイムとか。


 だったらもう先輩と相談して、楽器の置き場所を決めてしまおう――そう考えながら、優は打楽器パートの先輩たちの顔を思い浮かべていた。ひとつ上のあの先輩は全く頼りにならないが、二つ上の三年生の先輩たちならなんとか考えてくれるだろう。


 そうだ、その二つ上の先輩たちがいなくなる前に、なんとかしなければならないのだ。

 それを考えたら頭の中であのひとつ上の、二年生の男の先輩の印象がなぜだか大きくなって、優は再びその表情を渋くした。

 だってあのひょろ長い先輩は、全くもって頼りにはできないのだから。


 高校から始めた初心者だというが、にしても何でここにいるのか分からないくらい、あの先輩は全然なっていなかった。

 適当でいい加減でそんなに練習もしなくてボーッとしていて、正直先輩でなければ怒鳴り散らしていたくらいのやる気のなさなのだ。

 なんなのだろうか、見ていてイライラするというか、妙に頭の片隅に引っかかってくる。


 しかもなんでか知らないが、他の三年生の先輩たちはあのアホ先輩を厳しく指導しないときている。

 いや確かに吹奏楽部で、しかも重い楽器の多い打楽器パートに、男手は貴重かもしれないが――それにしてももっとビシバシやってもいいのではないかと、入部してから優は常々思っていた。


 よし決めた。

 これからは自分が、あのだらしない先輩を指導するようにしよう。


 片づけをしているおかげかそんな風にすぐ決心することができて、優は会心の笑みを浮かべる。

 この部屋をよくしていくように、あの先輩も更正させるのだ。そう考えるとちょっと楽しくなってきて、この片付けもより進みそうだった。


 まず何からやらせるかといえば、まずは徹底的に基礎打ちからだ。問題は身長に差がありすぎてずっと見上げながらしゃべらないといけないことだが、それはもうしょうがない。

 というかできるものなら十センチくらい分けてほしいのだが、それはもっとしょうがない話でもあった。


 そしてそのしょうがない問題は、今まさに現実的な話として、優の前に展開されていて――


「……むぅ」


 棚の上に置かれた楽器を叩くためのバチ。

 つまりマレットが手の届かなさそうな高い位置にあるのを見て、優はひとつ、うめき声をあげた。


 そのマレットは何本かが白いリボンで、適当にまとめられている。

 先についた色とりどりの丸い球のおかげか、なんだか野に咲く花を、適当に花束にしたようにも見えた。


 あれはしばらく使っていないマレットだろうか。忘れられたように置かれているそれを見上げ、優は首を傾げた。

 そういえばこの部活に入ってから、あの種類のものは見ていなかった気がする。


 しかし、使っていないとはいえ、先生の指示でいろんな種類のマレットを使うことはあり得るのだ。

 となると、あそこに置いたままにしておくわけにもいかないことになる。

 そして先ほどこの部屋は、自分の理想の部屋にすると決めたばかりだ。

 その誓いを自分自身の手で破るわけにもいかない。


 打楽器はまず、準備が大事なのだ。

 だったらあれは、意地でも取り戻さなければならないものなのだろう。

 手に届かなさそうな位置にあろうがなかろうが、何としてでもやらなければならない。


 というわけで――


「……くぬっ。くぬっ……! この……っ! もうちょっと、もうちょっと……っ!」


 優はその短い腕を精一杯伸ばして、そのマレットの束を棚から取ろうとした。


 ぎりぎり指が引っかかるかどうかぐらいの、微妙な高さだ。

 しかしそれならば、もう少しなんとかすれば、なんとかなるということでもある。


 なので思い切り爪先立ちになって、ただひたすらに手を伸ばした。

 何かいい踏み台でもないかと思ったが、周囲には特に何もない。いや、音楽室の椅子を使えばいいのかもしれないが、それはたぶんちょっと危険だ。

 前に同じことをやろうとして、椅子から転げ落ちて両親に怒られたことがあるから分かる。


 なら何か、棒のようなもので引っ掛ければ取れるだろうか。

 それともジャンプすれば届くだろうか。


 そんなことを、めいっぱい背伸びをしながら考えていたそのとき――


「……何やってんだ、おまえは」


 後ろから聞いたことのある声がして、ひょいっ、と手の先にあったマレットの束が、その人物の手に収められた。

 振り向けば、そこには例の二年生の男の先輩が。


 滝田聡司たきたさとしが。


 呆れた顔をして、自分のことを見下ろしていた。

 その顔は、やっぱりしゃきっとしてない感じで――


 でも、今この瞬間だけは、別のものが見えた気がして。


 優がぽかんとしていると、彼はそんな後輩と手の中のものを見比べた後、結局そのマレットをこちらに差し出してくる。


「ホレ。これが取りたかったんだろ」

「……あ、はい。ありがとうござい……ます」

「……あのなあ。おまえは小っちぇえんだから、ひとりで無理すんなよ。そういうのあったらオレに言え。取ってやるから」

「え、あ……はい。ええと……わかりました」

「ん……よし」


 その答えに満足したのか。

 先輩はひとつうなずき、きびすを返して音楽室に戻っていった。


 おそらく、優が先に出しておいた楽器類を運ぶためだろう。

 音楽室にはもう何人かの部員が来ているようで、いつの間にか段々とざわめきが大きくなってきている。


 ならば自分ももうそろそろ片付けは切り上げて、先輩と同じく楽器のセッティングに回らなければならないはずだった。


 そう、頭では考えつつも――


「……あれ?」


 気がつけば自分の視線は、あの先輩が渡してくれたマレットの束に注がれていて。


 優は自分で自分の行動に、首を傾げていた。


 それはなぜだか分からないけれど。

 まるで花束のようなそれから目が離せなくて、ずっとずっと持っていたくなるような。


「……なんでしょう」


 音楽室から聞こえているはずのざわめきが、本当に自分の耳から聞こえているのか。

 それとも自分の心の中から聞こえてきているのか、区別がつかなくなるくらいの、そんな気持ちで――。


「……これは、なんなんでしょう……?」


 そして、自分の心に芽生えたその小さな気持ちにすら、手が届かないまま。


 貝島優はその花束を、ずっとずっと、抱え続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうしても、届かないもの 譜楽士 @fugakushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ