エピローグ

 五月の福島県浜通りは涼しい。今日だって、初夏の陽気とはいえ、懸森(カケノモリ)山まで届くこの浜風さえあれば、エアコンなんか無くても心地良く過ごせる。ああ今も柔らかな風が、私の頬を、髪を、全身を、優しく撫でて駅のホームを通り過ぎていった。


 やっぱり地元に近い所はいいな。


 この風を浴びただけで、小高(オダカ)に来て良かったと思える。自然を素肌で感じられることは、この土地の最大の魅力だ。首都圏での生活はとても便利だけど、どんなに快適なオフィスや公園も、人工の空間である限りは、この風、この空、この緑には勝てない。


 駅舎を出ると、小さな人の波の向こう、送迎の車の列に、見慣れたミニバンを見つけた。父だ。私は真っ直ぐ車に向かい、助手席に乗り込んだ。


「ただいま」


「おかえり」


 父は随分と日に焼けていた。小麦色というか、ゴボウ色。おかげで五十三歳という年齢を感じさせないくらい若々しく見える。


「母さんな、お前と話したくて朝からソワソワしてたよ」


   車を発進させながら、父が呟いた。


「えー、週イチでビデオ通話してるのに、まだ足りないの?」


「お茶飲みながらゆっくり話したいんだと」


「はいはい、そうですか……ていうか父さん、また焼けた?」


「ああ……あいつら、俺みてぇなオッサンでも、いないと人数不足で練習にならないんだよ。不思議なもんだな。学校の名前は変わっても、母校のグランドで球蹴りしてんだから」


 そう語る父の横顔は、少年のように輝いて見えた。




 駅前から五分ほど山側に向かって走れば、伯父に譲ってもらった家に着く。駅近し、学校近し、病院近し――家族持ちにとっては最高の立地。これを手放した伯父夫婦は相当悔しかったろう。今は駅一つ向こうの原町(ハラマチ)に暮らしているけれど、家族みんな仲良く過ごしているというから、それだけが救いだ。



 

「ただいまー」


 父と一緒に、開けっ放しの玄関をくぐる。


「ねぇねぇミーちゃんあなた、あんな面白い話が書けるのねぇ! お母さん感動しちゃったー!」


 それが、私を迎えた母の第一声だった。

 四ヶ月ぶりに帰る“実家”は安心感を与えてくれる。でも、唯一の不満はこの呼び方。


「あのさ。いい加減〈ミーちゃん〉はやめてよ。来年で三十になるっていうのに」


 私はパンプスを脱いで玄関に揃えた。

 隣には、母のサンダルと父のスニーカーが仲良く並んでいる。“以前はもっと賑やかだった”けれど、この並びになって随分経つし、いつの間にか違和感も感じなくなって久しい。


「ごめんごめん。それはそうと、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと毎日ご飯食べてる? 真司君とはうまくやってる? 向こうのご両親とは……」


「大丈夫! こないだも写真送ったでしょ。菓子屋横丁で食べ歩きするくらい仲良しだよ」


 いつまでも子供扱い。“末っ子だからって心配しすぎ”だ。何回言っても直らなくて本当に困る。


「あとこれ、お仏壇用に。季節柄、柏餅と迷ったんだけど……」


 私が手土産の麩菓子を母に差し出すと、父が満面の笑みで横から手を出してそれを奪った。


「ありがとな。ばあちゃん甘いもん好きだったから、喜ぶべ」


「……父さんに買ってきたんじゃないんだけど」


「ちゃーんとお供えしてからいただきます」


 悪びれた様子も無く、父は仏間の方へ歩いていった。


「じゃあ、お茶入れてますよ」


 母は呆れたように呟いて廊下の奥へと戻り、私は父の後を追った。


「上がりまーす」


 この家の廊下は広い。

 というか、この家そのものが、全体的に“大熊の実家”より広く、ゆったりとした作りをしている。多分、店舗部分が無くて、百パーセント住居として設計されているからだろう。

 ほとんどの部屋が南向きで明るいし、窓が多いから風が吹き抜けて気持ち良い。来る度に伯父夫婦がこの家に込めた理想を感じる。


 でも、子供のいる家族を想定した平屋一戸建ては、両親二人だけで住むには少し大きすぎるかもしれない。かと言って私には嫁ぎ先での生活があるし、こうして“仕事”にかこつけて顔を見に来るのが精一杯だ。


「みんなー、美味しそうなお菓子もらったぞー」


 誰もいない部屋に向かって、父が呟いた。

 返事は無いけれど、写真の中の笑顔達が、それを受け入れてくれた気がする。


「ただいまー」


 今は静かに眠る家族達に、私もそっと告げた。


 本来は客間として作られただろう洋室にゴザを引いただけの仏間。それでも、奥には黒塗りの仏壇がどっしり構えて存在感を放っている。

 父方と母方、両家の宗派は違うけれど、大雑把な母が「この方が寂しくなくていいから」と全員まとめてしまった。信仰とは何ぞやと思わなくもないけれど、彼女なりに故人に敬意を払っていることには違いないので、父も私も早々に折れた。


 座布団に正座し、リンをゆっくりと二回鳴らす。

 手を合わせて、日々の平穏を感謝し、これが続くことを祈った。


 父方の祖母が仏壇に加わってから、もうすぐ一年になる。癌と判ってから三ヶ月程で逝ってしまった。あっという間の出来事で、今もその辺で野菜の世話をしている気さえする。

 それでも身辺の物はほとんど自分で片付けたし、入院の直前まで伯父一家を招いて毎週のように夕食を共にしたそうだ。突然の大津波に攫われた祖父“達”の時とは違って、自らの寿命と向き合い、亡き後の準備をできた事は、はるかに幸運だったと思う。


「お父さーん、ミーちゃーん、お茶入れたわよー」


 母が遠くから叫んだ。


「だから……ミーちゃんはよしてって言ってるのに……」


 頭を抱えた私を、父はハハと鼻で笑った。


「母さんには勝てないな」


 父の脇腹を小突いて、私はダイニングキッチンへ向かった。


 母が入れてくれた紅茶は美味しかった。味には詳しくないけど、多分、アールグレイ。買ってきた麩菓子と意外に相性が良い。これは真司のお母さんにも教えてあげたい。


 両親が手土産に満足してくれたところで、私は今日の本題を切り出した。


「それで、どうだった? “小説の感想”は」


「そうだな……」


 父が口を開きかけたけれど、母がそれを遮った。


「面白かったわよー。事件が起きた時はハラハラしたけど、ハッピーエンドで安心したわ。ちょっと丸く収め過ぎた気もするけどね。あとみんな標準語喋り過ぎじゃない? おばあちゃんとレイちゃんが喧嘩した時、もっと方言丸出しで、殴り合いとは言わないけど皿の投げ合いもしたじゃない。それにスクリーニング場で会ったご近所さんなんか、もっともーっと嫌みったらしかったわよ。ああ思い出すだけで腹立つわ。それからね……」


 相変わらずよく喋る。メモが追いつかなくて、自分が詳しく聞きたい部分をなかなか掘り下げられない。


「……大体よ、あたし達家族をモデルにしたいって言うからドキドキしてたのに、実際の半分も使われてないじゃない。ねぇ、お父さん?」


 母の勢いに圧倒されていると、話を振られた父がうむと頷いた。


「うーん、そうだな。モデルになった事っつうと、俺が記憶喪失になったことと、大野の家を壊したことと、実習助手になったことくらいだったなぁ」


 そこまでは作中で触れていない。先走りすぎだ。


「あのね。まだ壊す前だし、採用試験も受かる前だから」


「すまんすまん。あ、あと真司君のSF好きはぜひこのまま残しといてほしいな。彼の魅力が存分に活きてると思うぞ……そうだ、欲を言うなら、俺達も真司君みたいな苗字にしてほしいな」


 そう言って父は麩菓子を頬張り、茶化すように笑った。


「百槻(ドウヅキ)っていうと剣豪っぽくて格好良いけど、中村(ナカムラ)なんて平凡じゃないか」


 確かに、登場人物の名前は実在する家族や親戚から借りたけれど、苗字は架空のもの――地名なんかを使わせてもらった。

 それでも〈中村〉にだってれっきとした由来がある。 


「一応、お城の名前からとったんだよ。相馬中村城址。不満?」 


「不満ってほどじゃないが……」


 父が苦笑いしていると、母が私に加勢してくれた。


「あなた、それくらい良いじゃない。“充希と希美の名前を出してくれただけで満足”よ」


 父からふっと笑顔が消えた。


「そうだな」


 彼は神妙な顔つきでティーカップの中を見つめ、紅茶を揺らした。


「それにしても、親父と“あの子達”が亡くなってもう九年か」


 そう。東日本大震災と、福島第一原子力発電所原発事故から、もう九年が経ってしまった。

 平成三十二年。この国は今、私達を置き去りにするかのようにオリンピックの話題で賑わっている。そんな浮かれるばかりの雰囲気に一石投じたくて、私はこの作品を書き上げたのだ。

 半分は創作、半分は事実――その事実にあたる部分も、半分は実体験、半分は人から聞いた話。リアルとフィクションの間を描くのは本当に難しくて、四苦八苦しながら何回も書き直した。生々しさと理想のバランスについては、今でも葛藤している。


 でも、私が両親に聞きたいのは、そんなことじゃない。


「ミッちゃんとノノちゃん、生き生き書けてた?」


 ミッちゃん、ノノちゃん――私の大切な、大好きな二人。あの二人の真面目さや明るさを、私は描ききれただろうか。


「もちろんよ! すごくあの子達らしくて……今でも生きてるみたいに……」


 そこで言葉を詰まらせた母は、戸棚からティッシュを持ってきて盛大に鼻をかんだ。


「ごめんなさいね……“お姉ちゃん達”のこと思い出しちゃって……」


「いいよいいよ。落ち着いてからで」


 申し訳ない。泣かせるつもりじゃなかったのに。

 話のタイミングを失って紅茶に口を付ける。さっきと同じお茶なのに、焦りとか不安の味がした。


 この設定、やっぱりやめとこうかな……


 家族を元気づけたくて亡くなった姉の名を借りたけれど、これがただの私のエゴだとしたら、登場人物の名を変えることに躊躇は無い。


 でも、父は穏やかな表情で、母の思いを代弁するようにゆっくりと口を開いた。


「それはもう、今でも同じ空の下、どこか遠くの国で元気に暮らしてるような気がするよ。辛い表現も多かったけどな、俺はこれで良いと思う。暗くて重いテーマだけど、最後は希望が見えた。さすがは売れっ子小説家・ニシヤマミサトだ」


 すごく有り難くて嬉しい感想なのに、痛恨の読み間違いには拍子抜け。思わず苦笑いしてしまった。


「父さん……“実る里”と書いて“ミノリ”って読むって前も言ったじゃん」


「え? あ、すまん……なにせ本名が美郷(ミサト)だからな」


 父は恥ずかしさを紛らわすように紅茶を一気飲みした。

 いつものことだから気にしていないけど、多分、次に来る時も間違うんだろうな。


「でもね、この小説は本名で出そうかと思うんだ。出版社の人は〈西山実里〉で出せって言ってるけど……今までとは思い入れが違うから」


「あらそうなの……? あたしは〈実里〉っていうペンネーム好きよ」


 目を腫らしているのにニコニコして……切り替えが早いというか、前向きというか、やっぱり母には敵わない。


「それ以上に、美郷っていう名前、好きだよ。この名前を付けてくれてありがとう」


 美しく、故郷を愛する人になりますように――故郷を失った時は大嫌いになったこの名前だけど、今は、これ以上私に似合う名前は無いと思う。


 父はカラのカップに口を付けて真上を向き、母は再びファンファーレのように大きな音で鼻をかんだ。


 


 三日後、震災と事故の当事者である両親の助言に基いた改稿版を携えて、私は取材旅行という名の帰省を終えた。


「じゃあ、次のお盆は真司も一緒に来るから」


「ええ、待ってるわ」


「風邪ひくなよ」


「うん」


 両親とは小高駅の改札口で別れ、いわき行の普通列車を待った。


 首都圏に戻るだけなら、一度仙台まで北上して新幹線に乗る方が早い。それでもわざわざ在来線を使う理由は一つ。


 故郷を間近に見たいから。


 今年の三月に常磐線は全線開通したし、大熊町も双葉町も一部居住制限が解除された。


 それでも、ごく一部だ。


 私の生家は既に取り壊したけれど、その場所は未だに帰還困難区域のまま――自由に出入りできる大野駅から一キロに満たない場所にあるのに、もどかしい限りだ。

 手の届く場所なのに、分厚くて見えない壁がある。この悔しさに拳を握っているのは私だけではないだろう。何せ未だ三万人余りの人々が、全国各地で避難生活を続けたままなのだ。


 在来線の開通や居住制限の解除にも賛否両論ある。復興の第一歩と称賛する声もあれば、オリンピックのための演出だという声もあり、様々。つまり、日本中を巻き込んだ、私達の故郷を巡る問題は山積みのままということ。

 居住制限という“物理的な分断”もさることながら、“福島県 対 他県”だとか“原発立地町 対 他市町村”だとか、SNSやブログ等の端々に見られる“精神的な分断”もずっと燻っている。

 元通りの関係にはならないと理解はしているけれど、それでも歩み寄る方法はないか、小説家としてできることはないか、今でも悩みは尽きない。


 それにしても、あの事故の当時「反原発」を掲げた正義の使者達は、今どれだけこの現状を知っているだろう。大企業とか責任者とか権威ある人達を罵るだけでなく、当時そこに住んでいただけの無実の人達の傷をえぐっておきながら、今は何を批判しているのか。

 別にその人達がどう生きていようが勝手だ。興味も無い。それでも一つだけ……たった一つだけ切に願う。


 私達の故郷のことを、忘れないでほしい。


 同情なんかしなくていいから、この現状を知っていて、そして見届けてほしい。


 失われた故郷が美しさを取り戻す日を、私達――亡郷者が望むことを、希望を懐き続けることを許してほしい。




《間もなく、二番線に、上り列車が参ります……》


 無人営業になってしまった小高駅に響く、無機質なアナウンスが私を現実に引き戻す。

 利用客はまばらで、きっと震災前の半分も人は戻っていない。

 でも、戻ってこない人達にだって、故郷に抱く思いや願いはあり、複雑に絡み合う事情があるだろう。それらを踏まえて、故郷を離れる決断をしたのなら、胸を張ってその場所で生きてほしいし、そこで幸せになってほしい。


 列車に乗り込み、長座席を一人で悠々と使う。


 窓の外には、いつか見た荒れ果てた田畑ではなく、小さな苗がどこまでも並ぶ水田が広がっていた。あの時と違い、水が引かれて太陽の光を反射してキラキラ輝いて見える。


 大丈夫。見方を変えればきっと、世界は希望に充ちている。


 根拠もなくそう思った。


(了)


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※本稿はフィクションです。実在する人名・地名・団体名とは一切関係ございません。

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ボウキョウ 南葦ミト @minamiashimito

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