第11話

世界は恐ろしく残酷で、凄惨、かつ無慈悲だ。

それでも、見つめる角度さえ変えればきっと、

数多の希望に充ちていると、私は信じている。

西山実里〈VOICE〉より



 その後すぐ、真司は東京にとんぼ返り。

 父は事情聴取のために母と警察署へ向かった。(私も、明日退院したら警察に行かなければいけないらしい)

 慌ただしいけど、仕方無い。もしかしたら命を落としていたかもしれないほどの出来事だったのだから。


 カーテンを閉めた窓の向こうでは、時折、車のクラクションが聞こえる。部屋に時計は無かったけれど、まだ帰宅ラッシュの時間帯らしい。

 それにしてもお腹が空いた。そういえば、昼ご飯を食べていない。せっかく〈古時計〉に行ったのに何も食べないなんて、本当にとんだ目に合ったものだ。


 傷の痛みよりお腹の凹みの方が気になり出した頃、私の心を読み取ったかのように、看護師が夕食を運んできた。外で見張られていたんじゃないかと思う程の良いタイミング。質素な食事なのに、どんな高級フルコースよりも待ちわびた気がする。


 そういえば、ノノとフレンチ食べたの、ついこないだなんだよな……


 病院食は不味いとはよく聞いていたから、あまり期待せずに箸をつけた。でも、不味いどころか、逆にものすごく美味しかった。

 献立は、白米、味噌汁に鯖の野菜あんかけと、切干大根とひじきの和え物。私の好みよりずっと薄味なのに、素材の旨味が全身に染み渡るというか……不謹慎かもしれないけど、毎日食べても良いくらいだ。


 食べるって、生きるってことだよなぁ。


 そんな他愛ない感想を、何度も何度も噛み締めた。




 今日は手術の直後だから、入浴は控えろと言われていた。夏場に勘弁してくれと思ったけれど、我慢。ここ最近で一番偉いと思う。


 消灯時間に部屋の灯りは落としたけれど、真っ暗ではない。廊下の非常灯の緑色が、仄かに差し込んでいる。


 ベッドに横たわりながら何気なく、目の前で右手を握って、開く。


 手相占いなんて信じてこなかったけど、掌の皺の一筋ひと筋に、今まで歩んできた人生が刻み込まれている気がした――何も考えずに田舎町でのんびり暮らしていたこと、クラス全員に無視されたけどノノに救われたこと、父と大喧嘩して彼を傷つけたこと、母方の祖父母が交通事故で亡くなったこと、大きな地震と津波があって原発事故が起きたこと、家に帰れなくなったこと、父方の祖父が遺体で見つかったこと、真司と出会って支えられたこと――自分のことで精一杯だった。

 父が記憶を失くして取り戻すまでの一週間、否が応でも自分の生き方を見つめ直させられた。それで良かったと、今は思う。

 

――死んでいい命なんかひとつもねえよ!

――せっかく産まれてきたんだから、寿命が尽きるまで、最後まで生きろよ!


 そんな父の強い想いが、私の魂をこの世に繋ぎ止めたのかもしれない。そう思うと、もうこの命は自分だけのものじゃない気がした。


 “生かされている”

 

 それが一番腑に落ちる表現だ。

 

 今まで、テレビで取材を受ける被災者が「亡くなった人達の分まで一所懸命生きたい」と言うのを見て、そんなの綺麗事だと斜に構えていたけれど、その人達の気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。



 翌朝、一番嬉しかったのは退院したら頭を洗っても良いと言われたこと。この時ばかりは愛想笑いの塊みたいな看護師が救世主に思えた――それはもう、後光が差して見えるくらいに。

 両親のアパートに戻ったら真っ先にシャワーを浴びると決めた。絶対に気持ちいい。


 ちなみに抜糸は一週間後。ここで予約をとるか、東京のかかりつけ医に紹介状を書くか選べというので、前者を選んだ。

 抜糸のためだけに、来週の金曜は仕事を休んで福島まで来る――今までの私なら絶対にそんなことはしなかった。

 そんな口実を作ってでも家族の顔を見ようと思えるようになったのは、すごく大きな変化だ。 


 看護師が去った後、ベッドを降りて、カーテンを開けた。

 窓は転落防止のためか半分も開かなかったけど、空気を入れ替えるには十分だ。朝のうちなら、まだ涼しい。気持ちの良いそよ風が部屋に流れ込んだ。


 外を見れば、阿武隈高地が濃い緑色を輝かせていて、その向こうにはどこまでも深い青空が広がっている。今までいわきには何回も来ているのに、こんなに山々を美しいと思ったのは初めてだ。


 ふと、中学校で聞かされた「福島には本当の空がある」という国語教師の言葉を思い出した。かつて、詩人・高村光太郎の妻である智恵子は、中通りにある安達太良(あだたら)を指して「ほんとの空」と呼んだという。

 その時の空も、こんな色だったんじゃないだろうか。百年前の安達太良と現代のいわきじゃ比べようもないけれど、私にとっての本当の空の色は、いま見つめているこのサファイアのような青だ。

 

 この空も“あの町”に繋がってるのか……


 数日前に訪れた大熊町を思い出す。

 あの日は何を見ても灰色の無声映画のようで、永い眠りにつかされた故郷の姿を、受け入れることはできなかった。


 でもきっと今だって、大熊町から望む空も、同じように深淵の青色で瑞々しい緑を抱いている。そこに私達はいないけれど……私達の営みは何一つ残っていないけれど、そこで暮らしてきた思い出は絶対に忘れない。


 昨日、両親と語れなかった家の話を、今日はしたい。

 

 私は両手を大きく天に伸ばし、深く息を吸い込んだ。

 夏の朝の匂いがした。



 九時を過ぎた頃、母が病室の戸を開けた。


「おはよう、調子はどう?」


 後ろから父も続く。


「傷の痛み、落ち着いたか?」


 父だって額に傷が残っているのに、その彼に言われるのも変な気がする。


「大丈夫、すっかり元気」


 私が力こぶを作る真似をして見せると、二人の顔が綻んだ。


「落ち着いて何よりね……じゃあ、お父さんは外で待ってて」

 

 母はそう言って大きな紙袋を袖机に置いた。退院用の着替えだ。


「そうだな。じゃあ、一階で会計してるから、終わったらLINEくれ」

 

 父と母がLINEでやりとり……? あんなにインストールを勧めても固辞してきた母が、一体どういう心変わりだろう。

 気にはなったけれど、母が急かすので、聞けないままに着替え始めてしまった。


「ほら充希、急いで急いで! チェックアウトの時間が過ぎちゃう!」


「チェックアウトって……ホテルじゃないんだから……」


 とりあえず病室を出て、化粧室で最後の身支度を整える。母の基準では、病室さえ出ればセーフらしい。

 洗面所の鏡に向かい、化粧ポーチの中身を広げた。


「ねぇ母さん、LINEインストールしたの?」 


 ファンデーションを乗せながら、母に尋ねた。


「ああ。ほら、メールだと相手が読んだか読まないかよくわかんないし、スタンプって便利でしょう」


 それ、全部今まで私が言ってきたことじゃん……とは言わず、ゆっくりと問い直す。


「あんなに抵抗してたのに、急にどうしたの?」


 アイシャドウを瞼に乗せ、慎重にラインを引く。


「たまには子供の言うことも聞いとかなきゃね。これからだって“いつどこで何があるか分かんない”し……」


 “昨日のこと”で変化があったのは私だけではないらしい。

 執着はさっさと捨てた方がお互いのため、というところだろうか。


 チークを乗せながら「ふーん」と相槌を打っていると、母がどこか照れるように言葉を続けた。


「それに、LINEって、グループっていうの作れるんでしょう? あたし、充希とお父さんと、家族グループ作りたいの。それで、離れてても、気軽に写真とかスタンプとか送りたいなって……お父さん、メールだと堅苦しい文章しか書けないけど、さっき見たら、かわいいスタンプ持ってたのよ」


 父さんが、かわいいスタンプ……?


 どんなスタンプを持っているかは想像がつかないけれど、母の提案には賛成だ。


「いいじゃん。作ろうよ、グループ」


「良かった、充希がそう言ってくれて……あ、後ろも見とく?」


 母の手鏡で合わせ鏡を作って念入りに後頭部を確認する。例のハゲは思ったより小さく、見た感じ、強い風が下から吹き上げない限りは見えなそうだ。

 櫛を通す時に“そこ”だけ髪が無いのは違和感があるけれど、問題無い。すぐ慣れるだろう。


「じゃ、行きましょ。お父さんにも連絡を……『いま行くよ』と」


「なかなか使いこなしてるじゃん」


 私がそう言うと、母は照れたように小さく笑った。


 化粧室を出て、エレベーターに乗り込む。

 行き先ボタンを押した時、母の手元のスマホが短く震えた。


「あ、ほら見て」


 母が見せてくれた画面の中では、ポケモンのキャラクターが「OK!」と笑顔で親指を上げていた。


 今なら三人で、少しずつ歩み寄れる気がする。



 アパートでシャワーを浴び、軽く昼食を済ませた後、私達は父の運転で警察署に向かった。(車の運転も思い出したようで何よりだ)


 事情聴取と聞いて、想像していたのはドラマで見るような狭い取調室だったけれど、案内されたのは広い会議室の一角。対応したのは制服姿の中年女性と若い男性だ。


 私は二人と向かい合い、覚えている限りの一部始終を話した――包丁を持った男が、親戚らしき中年の男女に包丁を突きつけ、その腕を切りつけたこと――男は店長の説得に耳を貸そうとしなかったこと――私に向かって一緒に死んでと言ってきたこと――間に入った父を蹴り倒し、私を店外に引き摺った後、見守ってと言いながら自殺しようとしたこと――自殺を止めようとした拍子に、階段から落ちたこと……我ながら壮絶な数分間を過ごしたものだ。思い出すのは苦ではないけれど、気持ちの良いものではない。


 事情を語る間、質問をするのは主に女性で、男性はメモを取っているようだった。女性の語り口は柔らかで、私の話を聞いている間もよく頷いていて、安心感があった。

 とはいえ、最後の方は念押しのように同じことを何回も確認された時はくたびれた。警察なりに押さえておきたいポイントがあるらしい。


「……もう一度確認させてください。被疑者の男性は、脅しのつもりで包丁を持っていましたか? それとも悪意を持ってお二人を傷つけていましたか?」


 そう問われて、男の怒鳴り声を頭の中で再生する。


――お店にいる皆さーん! 動かないでくださーい!

――ババアが死んだら、姉ちゃんのせいな。


 思い出すだけで鳥肌が立つけれど、あの状況を言葉で再現しようと努力する。


「最初は脅しだと思いました。でも、私が隠れて一一〇番しようとしたのがバレて、女の人が切りつけられて……申し訳なかったです」


 話しているうちに論点がずれてしまった。詳しく説明しようとするほど、余計な事まで語ってしまう。

 適切な答えを考え直す前に、彼女は別な表現で質問を繰り返した。


「彼は自分の意思で人を傷つけた?」


「はい」


 私の答えに、女性は二度頷き、男性は黙ってペンを走らせた。


「最後にもう一つ。中村さんが階段から落ちたのは、突き落とされた訳ではなく、被疑者と接触した際の偶然である。間違いありませんか?」


「はい。私、あの人の手首を掴んだんですけど、振りほどこうとする肘が顔に当たったみたいです。正直、よく覚えてないんですけど」


「こちらは故意ではなく、偶然?」


「はい」


 やたら強調して聞かれるのには何か訳があるんだろう。罪の重さとかに関係するのかもしれない。私はあのとき感じたことを率直に答えた。

 そこまで聞くと、女性は男性と何かを筆談した後、私の方を向き直った。


「ご協力ありがとうございました。現場に残された中村さんの私物をいくつかお預かりしています。お返ししますので、彼についてきてください」


「はい、お願いします」


 男性警官のあとに続いて部屋を出ると、大きな廊下から、狭い通路へ入っていった。窓も無いし照明も少ないし、ジメジメしている。

 秘密の抜け穴のような道を抜けて大きな通路へ出ると、向かい側から見覚えのある二人が歩いてきた。昨日〈古時計〉で怪我を負った男女だ。

 知り合いという訳でもないし、軽く会釈するだけにしようと思ったけれど、それより早く男性が深々と頭を下げた。


「すみません、私、長谷堂(ハセドウ)と申します……この度は、甥の豊(ユタカ)がご迷惑をおかけして……本当に申し訳ございません」


 隣の女性も「すみませんでした」とお辞儀して、そのままじっと固まっていた。



 あの人、ユタカさんっていうんだ……



 なんて呑気なことを考えている場合じゃない。私みたいな小娘が、良い大人にこんなことさせるなんて、恐縮極まりない。慌てて首を横に振った。


「いえ、こうして生きてますんで、大丈夫です、あの、頭を上げてください」


 私がそう言っても、二人は微動だにしなかった。


「いえいえ! 世間様に迷惑をおかけして、お恥ずかしい限りです! 後ほどきちんとお見舞いに伺いますので、どうぞお怒りを収めてくださいませ」



 私、最初から怒ってないのに……



 怒りよりも、悲しみの方が大きな出来事だった。原発事故さえ無ければ……そう思わざるを得ない辛さを、私はあの人――ユタカさんに感じていた。

 両親は違うかもしれない。もしかしたら、見えないだけで我が子の命を奪われかけた怒りを抱いているかもしれない。でも、今の私には、こんなこと必要だと思えないし、両親もそれを求めないと思う。


 ならば、彼らは何に対して謝っているんだろう。私に向かって頭をさげているけれど、謝罪の向き先はもっと遠くにあるように感じた。

 さっき言ってた“世間様”にでも怯えているのかもしれない。


「あの……私、怒ってないです。だから、大丈夫です」


「はいっ……申し訳ありませんでした!」


 やっと顔を上げてくれた。安堵したように見えるけれど、どこか腑に落ちない。

 この人達には、世間体とか、被害者である私とかよりもずっと“大事にしなきゃいけない人”がいるはずだ。

 そう思ったらつい、余計なことを口にしてしまった。


「怖かったけど、あの人の気持ち、少しわかるんです。私、大熊に住んでたので……」


「えっ……」


 二人の顔色が変わった。昨日の感じだと、この人達も原発関係の仕事をしているはずだ。無理もない。

 彼らの動揺に気づかないふりをして、私は言葉を続けた。


「もし、申し訳ないという思われるなら、あの人に……ユタカさんに寄り添ってあげてください。世間の誰があの人を蔑んでも、せめてお二人だけは味方でいてあげてください」


 昨日、両親に吐露せずにいられなかった思いを、言わずにはいられなかった。


 あの人にも……ユタカさんにも生きる希望を見出してほしい。でも、それを手助けできるのは、私じゃない。


「中村さん、行きますよ」


 警官に急かされて、二人の答えを聞かないまま、私はその場を後にした。



 警察署を出た後、祖母が私の怪我を心配しているというので、顔を見せに行った。彼女の住む仮設住宅に着いたのは午後五時を過ぎる頃だ。


「こんにち……ぶぁ」


 玄関を開けるなり、祖母が私を抱き締めて迎えた。


「ミッちゃーん! 怖がったべぇ! 痛がったべぇ! 可哀想だごどぉ!」


「だいひょぶだよ、ぶぁちゃん……くるひい……」


「おいお袋、怪我人なんだ、お手柔らかに頼むよ」


 父の言葉を聞いて、祖母は私を離したかと思うと、父の頭を思いっきり叩いた。忘れているかもしれないけど、父だって先週、額を三針縫う怪我をしている。孫に甘いんだか、我が子に厳しいんだか、祖母の感情の匙加減は本当に難しい。


「おめぇがついでいながら、なしてミッちゃんに怪我させでんだごのアンポンタンッ!」


「ほんなごどわがっでんだ鬼ババ! 俺が一等悔しっでなしてわがんねんだ!」


 父がこんなに方言丸出しになるなんて珍しい。やっぱり以前の父と比べると、少し変わったなと思う。精神年齢二十九歳の一週間を過ごした後、二十年分の記憶を取り戻した父――怖いもの知らずの行動力と、経験に基づいた落ち着きを兼ね備えた、新しい人格と言って良い。


 玄関先で繰り広げられる親子喧嘩は終わる気配がない。見かねた母が真っ二つに割って入った。


「ここに水羊羹あるんですけど! 食べませんか?」


 水羊羹という単語で、二人の頬が緩んだ。


「んだな。サッちゃんに免じて勘弁しでやっか」


「じゃあ……上がらせてもらうぞ……」


 食べ物に弱いのはきっと遺伝だ。そう思いながら居間に移り、仏壇の祖父に手を合わせた。

 以前は正面から向き合えなかったけれど、今は、祖父の分も懸命に生きたい――祖父から愛情を注いでもらった分だけ、自分の人生を愛していきたい。そう思う。



 

 その後、台所で私が麦茶を入れようと冷蔵庫を開けた時だ。玄関の呼び鈴が鳴り方で戸が開く音がした。


「お袋、上がるぞー」


 伯父の声だ。

 玄関を覗くと、伯父だけでなく、麗愛さんと、従姉妹の春香と雪菜も揃っている。


「ばーちゃん、久しぶりー!」


 春香が屈託の無い笑顔を浮かべ、靴を脱ぎ捨てて走ってきた。


「ミー姉ちゃんも久しぶり! 元気? ハルはね、めっちゃ元気!」


 覚えていてくれた……もう随分会っていないから、忘れられたかと思っていた。


「ちょっとハル! 靴、揃えて!」


 麗愛さんに言われて、春香は渋々靴を揃えに戻った。


「急に悪いな。ミッちゃんのお見舞いに行くついでに寄ったら、丈んちの車があったもんで……これ、みんなで食べないか」


 伯父がそう言うと、麗愛さんはスイカを一玉差し出した。かなり大きい。果物は好きだけど、これは一回じゃ食べ切れなさそう。


「ありがどなぁ。どれちょっと冷やすべ」


 祖母がスイカを受け取ろうとすると、母がそれを制した。


「お義母さん、腰にきますよ。あたしがやっとくんでハルちゃん、ユキちゃんと遊んであげてください」


「おぉあんがどなぁ。ほれ、ハル、ユキ、こっちさ来ぉ!」


 春香に抱きつかれて、祖母はすっかり上機嫌だ。

 でも、雪菜は靴を脱いでもまだ伯父の後ろに隠れてモジモジしている。


「ユキちゃん、久しぶり」


 しゃがみこんで、目線を合わせる。


「は……はじめまして。なかむらゆきなです。いちねんせいです」


 一所懸命に話す雪菜に、春香がバタバタと足音を立てて駆け寄った。


「はじめてじゃないってば! ユキもミー姉ちゃんに会ったことあるよってさっきゆったじゃん!」


 茶々を入れられて恥ずかしそうにする雪菜。

 その彼女を、伯父が抱き上げた。


「小さかったから覚えてないんだよな、しょうがない……また一緒に遊んでもらってもいいかな、ミッちゃん?」


「もちろんです!」




 結局、この日は祖母の家で夕飯をとることになった。

 狭い仮設住宅に、三世帯八人。少し……というか結構窮屈だったけど、いつ以来か分からないくらい、賑やかで楽しい食卓だった。



 アパートに着いたのは、夜八時過ぎ。

 久々に従姉妹と会ったせいか、病み上がりなのに、少しはしゃぎすぎた。いつか甥っ子と遊び疲れていた真司もこんな状態だったのかもしれない。


 なるべく清潔なお湯が良いだろうと言われ、私が一番風呂をもらい、母が続いた。


 洗面所から居間に戻ると、布団はもう敷いてあるのに、父は卓袱台を部屋の端に置いたまま、何やら問題集のようなものを広げていた。

 私のよく知る、父の研究熱心な一面。失っていた記憶が戻ったのだと、ようやく実感できた。


「父さん、また何かの資格とるの?」


 後ろから父の手元を覗き見る。


「ああ。今、公立学校の実習助手を目差してるんだ」 


「学校?」


 一瞬、耳を疑った。教員免許も持っていないのに、学校の先生?


「どういうこと?」 


 父は立ち上がると、食器棚の上から、ホチキスで留められたコピー用紙の束を取り出して見せた。表紙には「公立学校実習助手採用候補者選考」と書いてある。


「咲子にもさっき言ったばかりなんだが……三年前から受けてる。ところが、いつも点数があと少し足りなくてな……今年はこうやって公務員試験対策の通信指導を受けてるんだ。本当は先週のうちに本屋で受け取るはずだったんだ、このテキスト」


 父は広げていた冊子を指でトントンと叩いた。


「その歳で、今から公務員?」


 私の言葉に、父が苦笑した。


「そう、この歳で、だ。年齢制限ギリギリだよ。今年がラストチャンスだ」


 募集要項をめくってみる。受験資格は高校卒業以上、昭和四十ニ年四月以降に生まれた者――つまり五十歳未満、その他諸々。

 条件を満たしてはいるけれど、正直に言って、年齢はかなりのハンデになるんじゃないだろうか。


「はぁ……学校の先生ねえ」


「正確には実習助手だ。俺はどうしても、小高にできる新しい学校の役に立ちたいんだよ」


 父は棚の上からまた別の冊子を取り出した。

 その冊子によると、南相馬市小高区にある父の通った工業高校と母の通った商業高校は、統合されて新しい学校になるらしい。


「採用されたって、そんな都合よく配属されないよ」


「いや、それだけは譲れん。ダメならスパッと諦めて非正規でも小高に勤めるさ。とにかく俺は、俺ができることで故郷に貢献したい」


 生まれ育った場所――故郷は、父にとって小高なのだ。こんなにも故郷を愛し、熱い目標を抱いている人に「故郷を捨てた」と吐き捨てた自分はなんて浅はかだったんだろう。今はむしろ尊敬の念しかない。 


「これが、父さんの言ってた、やりたいこと?」


 私が問うと、父は深く頷いた。


「ああ。ちょうど兄貴が小高の家を譲ってくれるって言うし、天啓に違いない」


「大袈裟だなぁ」


 と言いつつ、あながち間違いでもない気がする。

 今回のことが無かったらきっと、私は家族と故郷から目を逸らし続けていた。


 神の啓示じゃないにしても、津波で亡くなった祖父や、交通事故で亡くなった母方の祖父母が、過去にこだわって前に進めない私達を見かねて試練を与えたのかも……と思わなくもない。


 今なら、両親の“あの提案”も受け入れられる。

 困難を共に乗り越えた今だから。


「あのさ……」


「あなた、上がったわよー」


 母の声に話の腰を折られた。タオルを首に下げながら歩いてきて、呑気なものだ。


「ああ、いま入るよ」


 父が腰を上げた。

 いや待って待って、今なんだ。勇気を出すなら今しかないんだ。


「あ、あのさ!」


 声が裏返った。両親が目を丸くしてこっちを見ている。変な声が出て格好悪いけど、そんなこと構うものか。


「何だ?」


 たった一言をいうだけなのに、心臓が飛び出しそうだ――父が、大野の家に行こうと言った時みたいに。でも今、私の気持ちは未来に向いている。大丈夫だ。


――大事なのは……お互いに向き合って話をすること。


 胸に手を当て、真司の言葉をお守り代わりにして、私は言葉を振り絞った。


「……大野の家、壊してもいいよ。二人がばあちゃんと一緒に小高に住んでもいい」


 言い切る前に、つい下を向いてしまった。肝心なところで、意気地なしな私。情けない。

 でも、母の声は思ったより明るかった。


「あら充希ったら、まだ時間が欲しいって言ってたじゃない」


 拍子抜けだ。夕飯の献立に文句をつけた時と同じくらいの、軽い返事なのだから。


「本当に良いのか? 納得したか? 無理してないか?」


 実家に行くと答えた時は無理をしていたけれど、今は違う。納得しているし、覚悟もできている。

 私はもう一度背筋を伸ばし、二人に向き直って正座した。


「あの家で過ごした十八年間はとっても幸せだった。だから、感謝をこめてサヨナラする。そしてこれからは、自分で選んだ場所で生きる。父さんと母さんみたいに、自分の生き方は、自分で決める」


 原発事故は無かったことにならない。故郷を亡くした悔しさも消えない。消える訳がない。それでも、過去に囚われて塞ぎこむより、自分で自分を幸せにすることが、今は必要だと思う。

 こういうのを“逃げ”だって言う人もいるかもしれない。記憶を取り戻した父がどう思うか分からない。それでも、この決断に後悔は無い。


 時計の秒針の音が、やたらに大きく響く。


 私は膝の上で両拳を握って、二人の返事を待った。


「分かった」


 父はそう言うと、大きく背伸びをして、風呂場に向かっていった。


「大人になったんだなぁ」


 洗面所の戸を閉める時、一瞬だけ振り向いた顔は、今まで見たことのないくらい、穏やかな笑顔だった。


「ホント、ちょっと前まで五歳だったのにね」


 余韻に浸っていたかったのに、母の冗談でぶち壊しだ。まぁ、そんな雰囲気も悪くない。


 父が風呂から上がるのを待とうと思ったけれど、疲れて横になっているうち、いつの間に眠ったのか、気づくと朝になっていた。



 見上げた時計は朝七時。最近この時間で安定してきた。


 東京に戻る前の、最後の朝だ。明日戻ってもいいけど、やっぱり慣れた布団で一日くらいゆっくりしたい。土曜の今日のうちに戻って、月曜からの出勤に備えることにした。

 

 朝食を終えて帰り支度をしていると、充電中の私のスマホがメールの着信を告げた。

 ここ最近、この時間帯にメールを送ってくる人物は一人しかいない。


「ノノだ」


 予想に違わず、彼女の近況報告が届いていた。下手なメールマガジンより余程魅力的で、いまではすっかり読むのが楽しみになってしまった。


『Hello! イギリスにもだいぶ慣れてきたよ。ところで大事な発表があるので、母親の次にナカムーにメールします(笑)冗談はさておき、本題ね。実はジョーと話し合って、里親制度を利用することにしました。二人とも子供好きだしね。私達は生物学上の子供を持つことはできないけど、迎えた子供を精一杯愛そうと思います。資格や条件を満たさないといけないからまだ先の話だけど、日本で私を愛してくれた家族と同じくらい、もしくはそれ以上に素晴らしい家族になりたいと思います』


 添付された写真には、ノノとジョーの二人が肩を抱き合って満面の笑みを浮かべていた。

 新しく写真をもらう度、表情がどんどん明るく魅力的になっていく。やっぱり二人は出会うべくして出会った最良のパートナーなのだと思う。


「あら、ノノちゃんじゃない」


 母が画面を覗いてきた。父と違って無遠慮だ。


「うん。いま結婚してイギリスにいるの」


「あらあら〜、お相手はどんな方なの?」


 恋愛話となるといつもこの調子。本当に困ったものだ。


「この人」


 私は画面の中のジョーを指差した。


「え?」


 先日の父と同じ反応。まぁ、こういう組み合わせは日本じゃ圧倒的に少数派だから、仕方無いかもしれない。


「ねぇ充希、この子……女の子じゃない」


「だから、わざわざイギリスに行ったんだよ」


 そう、ノノの結婚相手は女性。ジョーというのは愛称で、本名はジョアンナ・キーブラーという。私だって写真を見せられて最初は驚いたけれど、今の時代、愛し合う相手の性別だって自由だ。

 逆境に負けずに愛を貫いた彼らのことを、私は本当に尊敬している。


――夫婦が子供を持つ持たないとか、男女どっちがいいとか、簡単に口出さないでほしいんです。


 いつかの麗愛さんの言葉を思い出す。


 私はあの時、ノノ達は子供を持たないだろうと思い込んでたけれど、それすら固定観念だったと反省するばかりだ。血の繋がりだけが親子じゃない。家族の在り方は、これからどんどん多様になっていくだろう。


 里親が必要な子供達がどんな状況かは分からないけれど、多くの困難を乗り越えてきたノノと、大きな包容力を持つジョーの元に迎えられた子供は、きっと幸せになるに違いない。


 私は真司とどんな家族になりたいだろう。まだ想像がつかないけれど、父と母のようにお互いを支え合って、どんな困難だって一緒に乗り越えられる存在でありたい。



 その後の一週間はあっという間だった。

 多くの社員が盆休みと称して有給休暇を取得している中、私は主に電話番。メンテナンス作業をしているチームもあったけれど、彼らはいつ休んでいるんだろう。まぁ、正月の自分もああだった訳だけど、休まず働きまくるより、休暇を取る計画性がある方が社会人としての強みじゃないか、と今は思う。

 

 怪我のことは、金曜日に休暇をとる都合で、部長にだけ経緯を伝えた。あの事件のことはニュースで見ていたらしいけど、被害者がまさか私だとは思っていなかったらしい。(後頭部のハゲも上手く隠れていて、言わなければ気づかれなかったくらいだ)


 抜糸のためにいわきに行くと告げたら、部長から「親の顔は見れるうちに見ておけ」と念を押された。以前なら余計なお節介に感じただろうけど、一回死にかけた今では、本当にその通りだと思う。


 今どき珍しいホワイトな職場環境に恵まれて、私は再びいわきを訪れた。




 母はパートに出かけているので、父の運転で病院に向かった。

 快復状況は良好。糸を抜く時も思ったより痛くなかったし、あとは髪が生えてくるのを待つばかりだ。

 昼食を〈古時計〉で食べるのも良いかな、と思ったけれど、それは後の楽しみ。

 今日は夕方、真司が来てくれて、一緒に夕食をとることになっているからだ。


 彼が私達と合流したのは、午後六時過ぎ。

 フレックス勤務の彼は、いつも十時出勤のくせに、今日は朝七時に出て四時に退勤してきたそうだ。

 

 商店街の駐車場に車を停めて〈古時計〉へと足を進める。


 本屋の横の階段を登り、扉を開けると、ツリーチャイムが優しい音色を響かせた。


「いらっしゃいませ」


 店長が珍しくはっきりと喋っている。


「あら、素敵なお店〜」


 母が店内を見回して目を輝かせた。


「マスター、今日はお招きいただいてありがとうございます」


 父が店長に向かって丁寧に頭を下げた。


「お嬢さんの怪我、大したことなくて本当に良かった。怖い思いをさせて申し訳ありませんでした」


 こんなにはっきり滑舌良く話す店長は初めてだ。それだけ先日の事件は店長にとっても大きな出来事だったんだろう。


「マスターが謝ることないですよ。こうして充希に良い思い出作ってほしいって言ってくれるだけでありがたいです」


 父の言葉を、私も補足した。 


「私、あんなことがあっても、このお店嫌いにはならないです。元々大好きなので……」


「ありがとうございます。お嬢さん。さぁ、予約席へどうぞ」


 かしこまり過ぎた店長の口調にムズムズしつつ、私は奥の席へと進んだ。

 包丁騒ぎのあった席は、テーブルも椅子も無く、背の高い観葉植物がいくつか置いてあった。多分、店長の配慮なのだろう。少し申し訳なかった。でも――

 

「それでぁ、ごゆっくり、お楽しみくださいぁせ!」


 私達が着席する時には、いつもの店長の口調に戻っていた。




 料理を注文した後、またも会話の主導権を握ったのは母だった。真司に向かって初めてのデートはいつだの私が贈った誕生日プレゼントは何だったの、もっとプライバシーを尊重してほしい。迷惑極まりない。質問を一つ残らず律儀に答える真司も真司だけど……まぁ、仕方ない。母親というのは子供のことを何でも知りたがる生き物なんだろう。

 

 前菜のサラダが届いた頃、母はいよいよ大きな爆弾を落とした。


「向こうのご両親には、いつご挨拶するの?」


「母さん、気が早い!」


 私が呆れていると、隣の真司は半笑いのまま気まずそうに口を開いた。


「すみません。このタイミングで申し訳ないのですが、それに関連して、僕、お二人にまだ言ってないことがあるんです」


 神妙な顔をする真司に、両親がフォークを持つ手を止めた。


「今、両親は埼玉にいるんですが……実は僕、本当は双葉町の出身なんです。でも、両親も兄二人も、引越し先では周りに伝えてないそうなので、僕もなるべく言わないようにしてたんです。その……心無い方も、中にはいるようなので」


 真司の「心無い」という表現を察したように、両親は頷いた。


「気にしなくていいさ」


 父が言った。


「両親は、震災後二度転居しているんです。事故の後、避難先でアパートを借りたんですが、双葉町から来たと周囲に告げたばっかりに、明らかな嫌がらせを受けました。毎日のように郵便受けに紙が入れられたんです。『フクシマに帰れ』とか『放射能を持ち込むな』とか……」


「真司くん、ごめん、ちょっと待ってね……」


 母が真司の言葉を遮った。彼女は慌てた様子でハンカチを取り出して目元に当てた。


「お辛かったでしょう」


「はい……その辛さのあまり、母は自殺未遂を起こしました。僕が大学二年の時です。市販の風邪薬を大量に飲んで……今の住まいは、そのあと移り住んだアパートです。双葉町から来たことは言わず、ただ埼玉県内から引っ越してきたことにして……今では父が支えになって平穏な日々を送っています。心療内科に通ってはいますが、頻度は随分減ったようです」


「本当に大変だったのね……素性を隠さなくっても普通に過ごせる世の中ならいいのに……」


 母はハンカチをしまい、悲しそうに呟いた。


「でも、そんな時ずっと、充希さんが僕の支えだったんです」


 真司は明るく言ったかと思うと、喋りながらサラダを頬張り始めた。


「同じような境遇っていうのもありますけど、親御さんの負担を減らすためにバイトたくさん入れて、勉強もめちゃくちゃ頑張って、こんな頑張り屋さん他にいないと思ってましたよ。この子に負けられないって思ってたから、今の僕があります」


 めちゃくちゃ良い事言ってるのに、物を食べながら話すから聞きにくい。残念すぎる。母も苦笑しているし、この状況、大丈夫?


「お待たせしぁした! 特製ナポ、キノコドリア、海鮮ピッツァ……ブルスケッタはオマケです」


 店長が料理を運んできた。いつもは話の腰を折られて困るけど、今のはナイスタイミングだ。


「あら美味しそう〜!」


 母はすっかり料理に目を奪われている。


「これは……食レポの書きがいがあるな」


 父の着眼点は斜め上だ。


「いただきまーす」


 真司はマイペース。


 ああ、私、今すごく幸せ。 



 翌日、帰りの特急に乗るため、私達はいわき駅のホームに立った。


 私と真司と両親と、四人並んでベンチに腰掛け、他愛もない話をしていた――真司と父は相変わらずSFについて熱弁を振るい、私と母はSF好きな男性の扱い方について語り合った。


 間もなく特急が着くとアナウンスが告げた頃、私達は立ち上がって荷物をまとめた。


「もう一日くらいいればいいのに」


 母は残念そうにため息をついた。

 列車が到着したので、乗車口をくぐって、私は早口で答えた。


「私には私の都合があるの!」


「年末にはまたいらっしゃい! おばあちゃんや伯父さん達にも顔見せに行きましょう」


 私が「うん」と頷くと、ずっと黙っていた父が、発車ベルに負けないくらいの声で大きく叫んだ。


「真司くん、充希を頼んだぞ」


「お任せください! 責任を持って自宅まで送り届けます!」


 そんなに頭下げると、ドアに挟まれるんじゃないかな.……と思いつつ、発車ベルに掻き消されないように、父より大きな声で叫んだ。


「年末と言わず、9月の連休にまた“帰る”よ」


 両親の顔が綻んだ。


 次に来る時に両親がいわきと小高のどちらにいるかはまだわからない。でも、二人が私をまっててくれる場所が、私の帰る場所だと、今は思う。




 

「ねぇ真司」


「ん?」


 指定席に並んで座りながら、私は昨夜から気になっていた話題を切り出した。


「今度、真司が埼玉の実家に帰る時、一緒に行ってもいい? 真司の親御さんにも、私、ご挨拶したい」


 真司は私の両親に嫌というほど顔を合わせているけれど、私はまだ一度も、話もしたことすら無い。あんな形とはいえ、プロポーズを受けたからにはけじめをつけなくては。


「いいよ。母親の調子も、随分良いみたいだし」


「そっか、ありがとう」


 悩みが一つ減って、ほっと胸を撫で下ろす。


「真司が買ってくれた本でも読もうかな」


 西山実里の最新巻を鞄から取り出す。先週も昨日も、特急列車に乗っている間に読もうと思ったのに、疲れて寝てしまってそれどころじゃなかった。


 初めて目にした時は、読んで絶望することに怯えていたけれど、自分の目で故郷を見て、現実を受け止めた今は、一つでも多くのことを知って、覚えていたいと思える。


 パラパラとページをめくると、見覚えのあるしおりが挟まっていた――四つ葉のクローバーのしおり。


「これね、中三の時に図書委員の集まりで作ったんだ」


 真司にしおりを見せる。

 ノノと一緒に行った図書委員の研修会のテーマは、しおり作りだった。作文に書くほど救われた思いをしたのに、全く思い出せなかったなんて、人間の記憶って案外当てにならない。


「初めて会った時も持ってた」


「そうかも」


 五年前の三月十一日を思い出す。あの日、真司が同じボランティアで隣に座っていなければ、今の私はいない。

 本当に、唯一無二の出会いだった。


「でもあの時の本、売っちゃったな」


 数週間前の断捨離が悔やまれる。一瞬迷ったのに、〈降格組〉の段ボール箱に入れてしまった。


「売ってない」


「え」


「俺の方が個人的に思い入れあったから、俺のアパートに置いてある」


「真司にしては非論理的だねぇ……」


 相変わらず変な気遣いだけど、今は感謝。


 西山実里の最新刊――〈VOICE〉を改めて開く。そこで私達――大熊町や双葉町、その周辺の住民は「亡郷者」と呼ばれている。


 でも、亡くした故郷は胸の中に生きている。


 どこに暮らしていたって、ずっと忘れない。

 楽しかった思い出だけじゃなく、辛かった経験も、それら全てを失った辛さも、ずっと傍らに置いて生きていく。


 東京に戻ったら、また多忙な日々に戻る。

 でも、自分で選んだ道、自分で生きると決めた場所だ。


 胸を張って生きていこう。


 どこにいたって、見上げた空は故郷に繋がっているのだから。




 私達はこれから、未来を紡いでいく。

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