第10話

忘れることで救われる。

忘れないことで強くなる。

どっちを選んでもいいんだよ。

西山実里〈夏の花束〉より



 暗い。何も見えない。


――え、小高から来たんですか?


 私の声? 誰と話をしている?

 暗い。何も見えない。体が重い。動かない。


――君、大熊でしょ。僕は……


 真司?


――どんなに美しい思い出も、それに縋るだけじゃ無意味なの。


 母さん?


――死んでいい命なんかひとつもねえよ!


 父さん?


――私なんか死んじゃえばいいんだよね?


 私の声……父と喧嘩した十年前の――ああ、ごめんなさい。あんなこと、親に向かって言っていい言葉じゃなかった……


 命の大切さを、父は誰よりもよく知っていたのに……せっかく産まれ育まれてきた命を自ら無下にするような私の言動は、どれほど彼を傷つけただろうか。


 産まれてこなかった我が子の命も、目を背けたくなる最期を迎えた祖父の命も、父は背負って生きてきたのだ。


 命に貴賤など無いと叫ぶ彼に、私はまだ何も報いていない。


 ああ、暗い。私、もう死んじゃったんだろうか。


 でも、ぼんやりと何か見える気もしてきた。


 灰色の空から、白い点がいくつも落ちてくる。


 雪?


 雪だ。


 ガラス越しに、舞い散る雪が見える。


 その奥には、私の身長よりも、ずっと高く積もった雪の壁。


 結露で曇ったガラスの内側は学生食堂。人はまばら。食堂の奥半分は衝立で囲われて、入口の立看板には「新入生入学準備フェア」と書かれている。入口をくぐると、会場に入ってすぐの場所にはA3の手書きポスターが貼ってあって、大学生協のマスコットキャラクターが「先輩からのアドバイスコーナー♪」と丸っこい吹き出しで喋っている。


 その横に、私は黒いスーツを着て座っていた。


――ああ、これは“あの日”だ。


 ボランティアスタッフとして春休みも大学に留まっていた私は、二〇一一年三月十一日、会津若松にいた。



 ボランティアといったって、お目当ては無料で支給される昼食だ。薄情かもしれないけど、さほど本気で人の役に立ちたいわけじゃない。強いて言うなら、自分の組んだ時間割を説明して講義や行事の経験を話すだけで人の役に立つなら、断る理由は無い、というところ。

 同じような学生は他にも男女一人ずつ――この日は私も含めて三人がシフトに入っていた。三つ並んだ長机に一人ずつ座って、高校生やその親が来れば、その対応をする。


 この日、私の担当場所は数十分ほど空いたままだった。催時中は私物を出すなと言われていたけれど、あまりにも人が来ないので、私は西山実里の〈夏の花束〉を読み返していた。昨夏書き下ろされた最新作だ。記憶喪失になった元恋人と今の恋人との間で揺れ動く主人公の心理描写が実に興味深い。

 二十歳を目前にして異性と交際した経験が無いのはちょっとした劣等感の源だったけれど、恋愛小説を読んでいると、自分がその経験をしたかのように心が満たされる。特にノノの勧めで西山実里という作家の文章に出会って以来、渇いた喉を潤すように、繰り返し彼女の本を読んでいた。


 しばらく小説を読み進めていると、詰め襟の学生服を着た少年とその両親がやってきた。


――こんにちは、ここいいですか……


 緊張した面持ちの彼を安心させるべく、私は急いで本にしおりを挟め、営業スマイルを浮かべた。一オクターブ高い声で着席を促す。二週間もやっているから、こんな作業すっかり慣れたものだ。


――今日はどちらからいらしたんですか?


 いつものように定型文から会話を始める。でも、そんなものはすぐ不要になった。


――え、小高から来たんですか?


 聞けば、彼らは浜沿いの旧小高町を朝早くに出発し、山を二つ越えてこの会津地方までやってきたという。


 小高――父の地元。祖父母や伯父一家の顔が浮かぶ。

 実家を離れて一年近く、随分と寂しい思いをしていたから、彼には出身地が近いというだけですぐに親近感を覚えた。


――私の父も小高なんです! あ、私、大熊育ちなんですけど……


 つい、学生生活の話よりも地元の世間話に花を咲かせてしまった。でも高校生もその両親も、楽しそうに聞いてくれているし、まぁいいだろう。


 本分を忘れて気分良く話をしていると、どこかで小さな鈴のような音が囁き始めた――厨房の方で、ガラス戸や食器類がカタカタと震えていて、同時に、足元……いや地面が、小刻みに揺れていた。

 地震だ。そういえば、二日前にも船酔いしそうな気味の悪い揺れがあったばかりだった。


――長いですね。


 私はのんびり構えていたが、すぐに間違いだと気づいた。揺れは収まるどころかどんどん大きくなり、椅子に座っていることさえできなくなった。


 どこかで鈍い金属音――おそらく調理用鍋が落ちた音や、大量の水がこぼれる音が響いた。他にもたくさん何かが落ちたみたいだけど、何が何だかもうよく分からない。


 あちこちで悲鳴が挙がる中、私は高校生達を食堂のテーブルの下に誘導して共に身を隠した。揺れは一向に止まらない。

 食堂の電灯が、一瞬明滅したかと思うと、一斉に消えた。

 私は薄暗い影の中から、机上のパンフレットや事務用品が次々と落ちていくのを眺めた。近くにあった棚からは、分厚いカタログの束がどんどん投げ出された。厨房の方からは「火元!」とか「ガス!」とかいう叫び声が聞こえる。

 目線が低いせいで、遠くに展示してあった新生活応援の見本家電がよく見えた。相当な重量にも関わらず、いとも簡単にずれ動いていく。家電――父の店は大丈夫だろうか。一瞬だけ実家を心配したけれど、自分の身を守ることで精一杯だった。


 経験したことのない恐怖。でもまだ十代なのに死にたくはない。こんな時、どうすればいい? 事前に目を通した緊急時マニュアルの内容を必死に思い返した。申し訳程度に軽くしか読んでいなかったことが悔やまれる。

 うっすらした記憶では、緊急放送が流れるまでその場で待機せよ、自己判断で行動するな、とあったはず。でもそんな放送はいつまで待っても鳴らない。揺れが収まる気配も無い。


 もう駄目かも……人生で初めて死を意識した。


 放送が鳴らないことにしびれを切らしたのか、大学生協の職員が、床に転がっていたハンドマイクを手に取った。


――外に出てください! 新入学生と保護者の皆様、および本学の学生と職員は、外に避難してください!


 外に、外に、と何度も何度も叫んだ。


 私達は手元の貴重品だけを持って学生広場へと急いだが、その間にも大きな余震が何度も襲ってきた。こんな時に履いているのは踵の高いパンプス。転びそうになる度にヒールを折ってやろうかと思ったけれど、そんな暇すら無かった。とにかく広い場所へ、ただそれだけだった。


 必死の思いで広場に待避したと思えば、着の身着のままであったために、全身を突き刺す寒さに凍えた――三月の会津は氷点下になることさえある。更衣室に行けば厚手のコートが掛けてあるけれど、辿り着くまでにどんな危険があるかわからない。早々に諦めた。

 両腕を抱えて震えていると、近くで活動していた運動部員達が、部室からベンチコートを掻き集めて貸し出してくれた。いつも汗臭いからと敬遠していた人達が今は神々しく見える。むさ苦しいとかガサツだとか、自分の持っていた偏見を心底悔い改めた。


 コートを着てやっと、かじかむ手で鞄から携帯電話を取り出せた。でも、両親とは電話もメールも全く繋がらない。便りが無いのが良い便りだと思い込んで、無事を祈るしかなかった。




 ほどなく体育館の安全が確認され、広場に待避していた多くの人がそちらに移動した。体育館では全館暖房が効かなくなっていたから、職員が大型の石油ヒーターを何台も出してくれた。学生中心に体操マットやブルーシートを並べて、近隣からの避難者を迎えた。ヒーターは余震の度に耐震装置が作動して消えていたけれど、こんな状況の上に火災で死ぬよりはずっとマシだった。


 そのうち、避難者への情報提供のためだろうか、体育の講義用のテレビが運び込まれ、非常用発電機を繋いで電源が入れられた。


 見なければよかった。


 津波が襲う太平洋沿岸の様子を知ったのは、午後四時を過ぎた頃。

 映し出されたのは、ヘリコプターから状況を伝える記者が絶句するほどの、自然の驚異――痛感する人類の非力さ。


 私は事態を受け止めきれなかった。

 画面を見てはいたけれど、目に映っているだけ。

 両親の無事もわからず不安なはずなのに、感情のスイッチは切れて、周りで起きていること全てが他人事だった。




 相次ぐ余震で眠れない夜を過ごした翌朝も、私はずっと借りたベンチコートに包まってテレビの前に腰を下ろしていた。路線バスが動かなければ自宅に帰れない。


 それに、地元の町に関わる“不穏な情報”も耳にしていた。目を離した隙に何事かが起きたら嫌だ――働かない頭で、かろうじてそれだけ考えていた。


 外では生協職員が炊き出しをしていたようだけれど、そこに行く気力も無い。鞄に入っていたお茶とお菓子で飢えを凌いだ。


 両親とはまだ連絡がつかなかった。春休み中だから、同じ学部の友人も近くにはいない。別に、一人には慣れている。平気だった。


 あれ、なんで一人に慣れてるんだっけ。

 一瞬疑問に思ったけれど、すぐに忘れてしまった。



 そしてその時は訪れた。

 

 テレビ画面に、あの光景が映し出されたのだ。



 原子力発電所の、水蒸気爆発。



 わずか数秒の映像。でも、故郷の喪失を悟るには十分だった――生まれ育った街が放射性物質で汚染されただろうことも、今までの生活には二度と戻れないことも、瞬時に理解した。


 父さん、母さん……ノノ……!


 家族の次に、東京に進学した親友の顔が浮かぶ。彼女の父親が、あの発電所で働いているから……報道を見る限り、所員は限界ぎりぎりまで冷却作業を続けていたはず。避難は間に合っただろうか。


 ああ、それにしても……


 もう、帰れないんだ……


 原発の街で生まれ育ってきたからには、万が一の事態があればそうなると、知識としては知っていた。でも、それを知っていることと、事実として目にすることは、全く違う。

 その万が一に備えて何重にも安全策を備えてあると言い聞かされてきたのに、目の前の“これ”は何だろう。


 世界一安全じゃなかったの……?


 本震以降ずっと思考停止していた私の中に、沸々と負の感情が生まれた。悲しみ、怒り、憎しみ、悔しさ、孤独、不安、そして、画面越しにただ事故の行く末を見ていることしかできなかった自分に対する無力感。


 手元にあった役立たずの携帯電話を床に叩きつけた。そうでなければ、あのテレビ画面を殴り壊してしまいそうだ。


 なんで私達の町なの……⁉


 全身を掻き毟りたいほどのおぞましい感情を必死に殺した。押し込めた。

 それでも抑えきれない黒い絶望が、いつしか呪いに変わっていた。


 私達だけじゃなくて、ここにいる全員、みんな不幸になればいいのに!


 涙があふれてきた。ハンカチはどこだ。地面に膝をついて、鞄の中を引っ掻き回した。こういう時に限って、探し物は見つからない。


――つらいよね。


 そう言って突然私の横にしゃがみこんだのは、前日のボランティアで隣に座っていた男子学生だ。配布されたコートを借りなかったのか、スーツ姿のままで寒そうだ。


 ほぼ初対面なのに馴れ馴れしい。もしや新手の痴漢?

 警戒して身構えたけれど、次の一言で、全身の力が抜け落ちた。


――君、大熊でしょ? 僕、双葉。


 隣町の出身――あの発電所が立地する町――だと、私と同じで、帰る故郷を失ったと、そう言ったのだ。


――君、声大きいんだもん。大熊育ちなんです〜って丸聞こえ。


 この人は、今の私の気持ちを全部わかってくれていると直感した。


――えっとね、泣けるなら泣いたほうがいいよ。僕なんて、すごく悲しいはずなのに、これっぽっちも泣けないんだ。あ、そうそう僕の名前は……


 ハンカチは間に合わなかった。借りたコートの両袖で目をこすりながら、泣いた。声を上げて、人目も憚らず、泣いた。


 百槻真司と名乗る青年が、私の肩をそっと撫で続けた。私が泣きやむまで、ずっと隣にいてくれた。



 そうだ。真司がいたから、今までやってこれたんだ。


 あのとき彼がいなければ、私も包丁男のようにずっと絶望に囚われていたかもしれない。みんな不幸になればいいと、周囲の人間や環境を呪い続けていたかもしれない。




 周りの学生が、震災鬱を理由に休学している時も……


――あれ。中村さん今日は一人? ここ、座っていい?

――あ、うん。いつも一緒に授業受けてた子、休学だって。メンタル不調で引きこもってる。

――そうなんだ……早く元気になるといいね。

――うん……ねぇ、百槻君は憂鬱にならない? 地元あんな風になって、親も避難先転々としてるし……

――俺、ウツとかビョーキとか無縁なの。すごいでしょ。ぽえ〜ん。

――ちょっ……何それ、聞いた私がバカだったわ。

――中村さんね、我慢しないでもっと言いたいこと言っていいと思うよ。周りの顔色窺わないでラク〜に行こうよ。それが秘訣。


……あのマイペースさに救われた。




 ノノが傷ついているのを助けられずに、ただ見ているしかなかった時も……


――真司君どうしよう……こないだ言ってた友達、全然メール来なくなっちゃった……

――なんて送ったの?

――私にできることあったら教えてって……私はどんな時でも味方だよって……

――多分さ、その一言だけで十分だよ。

――え?

――どんな時も味方、って、すごく心強いと思う。充希ちゃんにしては珍しく頼もしい。

――なっ……“珍しく”って、ひどくない?

――きっと、落ち着いたら連絡くれるよ。大丈夫。


……その前向きな考え方に励まされた。




 就職活動している時も……


――充希、生協の就活対策講座、申し込んだ?

――え、まだだけど……

――志望動機添削から面接対策まで手厚いし、同じ目標を持つ仲間と切磋琢磨できる。参加しない手は無いね。

――真司、生協の回し者?

――まっさか〜。俺はただ充希と一緒に東京で就職したいだけ。

――仙台とか郡山じゃなくていいの?

――それもいいけど、まずは手の届く一番高い所に挑戦しときたいよね。

――うん、そうだね。


……彼の向上心に背中を押された。




 東京で就職して、孤独に負けそうになった時も……


――もう無理〜、職場で雑談できる人ホンットいない〜……

――充希は雑談しに会社に行ってるの?

――違うけどさ、同期は男ばっかだし、同じ部署の女子職員は一番歳近い人で三十だよ? 何この性別と年齢の偏り……本当に二十一世紀なの今? 

――いいじゃん、その分相対的に週末の価値が上がると思えば。

――まぁね……あー、もうお酒無くなっちゃった……

――来週はどこに飲みに行く?

――真司、気が早すぎ!


……愚痴を聞いてくれて、時に叱ってくれて……だから帰る家を失っても、寂しさに潰されずに生きてこられた。




 ああ、でも……


 真司は、双葉の実家を失っても、埼玉や神奈川に離ればなれになってしまった家族を大切にしていたなぁ。


――年末は埼玉行ってくる。充希は福島に帰らないの?

――“帰る”って感じしないんだよね、いわきじゃ……

――家族の顔は見れる時に見といた方がいい。

――わかっちゃいるんだけどさ……

――まぁ、電話くらいしときなよ。

――うん……



――明けましておめでとー、充希ー!

――お、おめでと……っていうかお酒飲んでる?

――兄貴が飲めって言うからさぁ……いやー! 甥っ子がすごいんだ。スマブラもウイイレも全然勝てないんだよ。

――子供と張り合ってしょうがないなぁ……って、わっ重っ……

――母さんが……孫の顔見て笑うからさ……ちょっと張り切り……すぎちゃっ……

――ちょっと! 玄関で寝ないでよ! ねぇ真司ってば……


……彼は、私なんかよりずっと、家族と向き合っていた。




 でも私は、家族からも故郷からも、ずっと目を逸らしていた。

 両親や祖母、伯父一家から距離を置いて、心の傷が開かないように、痛まないように、山積みの問題から逃げてきた。


 あーあ、やり残したことばっかり……


 何より、ちゃんと謝っておくんだった……あの日、父に向かって「私なんか死ねばいい」と言ってしまったことを……


「ごめんね」


 父に対する謝罪の言葉が、はっきりとした音として耳に届いた。



「充希!」


 暗闇に、母の声。


 ゆっくりと目を開けると、ひどく眩しくて周りがよく見えなかった。


「充希、分かるか?」


 今度は父の声だ。


 真っ白だった視界がようやく定まると、目の前で両親が私の顔を覗き込んでいた。手も足も重くて動かないけれど、どうも私はベッドの上に横になっているらしい。


「良かったぁ……」


 母が大判のハンカチを顔に当ててむせび泣いた。なんでだろう? 

とりあえず、すごく眠い。そもそもここはどこだ? 頭無数のクエスチョンマークが浮かぶ。


 体が重いから、とりあえず目線だけで辺りの様子を覗う。点滴の管が私に向かって伸びている。無味無臭、無機質な部屋だけれど、先週父が入院した時の部屋にそっくりだ。どうやらここは病院らしい。


 首が少し持ち上がりそうだ。かろうじて自分の体が目に入る。腕に、包帯を巻かれていた。


――俺みてえなクズ死ねばいいと思ってんだろ⁉


 包丁を持った男の、狂気に満ちた怒鳴り声が頭を過ぎり、背中がゾクリと冷える。


 そうだ、あの人達は……先に切りつけられた二人はどうなったのだろう。


「ぁのぃとたちぁ?」


 息が掠れてうまく喋れない。もう一度言い直そうとしたら、父が静かに私の手をとった。


「別の病院に運ばれて、すぐ手当してもらったそうだ。今は警察で事情を話してる」


 良かった。


 声にはならなかったけれど、真っ白な天井に向かって、小さく頷いた。


「充希、なんであんな真似した……?」


 “あんな真似”……? と言われても、何のことだかよく分からない。

 疑問に思っていると、ふいに父の手に力が入った。


「ただでさえ怖い目に遭ったのに……余計に危ないことしなくても良かったじゃないか」


――そこで見守ってて。

――ダメ!


 そうだ、私はあの時、自殺しようとする男の手を押さえたんだ。その拍子に階段から落ちて、すごく重い物が背中と頭に当たった――多分、地面に叩きつけられたんだろう。よく生きていたものだ。


「そっ……そうよぉ……自分から……犯人に向かってったって……なんで、危ない所に、わざわざ突っ込んでいったのよぉ……」


 泣いている母まで同じことを言う。相当心配をかけたのだろう、二人には頭が上がらない。(実際、上がらないけど)


 なんで彼を止めたのか? 反射的にやってしまったから、自分でも理由は上手く答えられない。でも、もしあのとき私を動かした言葉があるとすれば――


「死んでいい命なんて……一つもない……から……」


 大きく息継ぎをしたから、今度はちゃんと喋れた。


 あの時、包丁男を諭そうとした父の言葉――十年越しにやっと受け止めることができた、親子喧嘩の続きの言葉だ。


 父は私の手をさらに強く握って額に当てた。

 

「それでお前が死んだら意味ねえよ、馬鹿野郎……」


 私の腕に、温かい水がポツリと落ちた。見えないけど多分、泣いている。

 顔を上げれば見えるんだろうけど、やめておいた。きっと悲しい顔をしているだろうから。

 

 悲しい顔――十年前、喧嘩して居間を飛び出す直前に見た、父の顔が浮かんだ。

 謝らなきゃ。

 ずっと忘れていた、親に向かって吐き捨てるには最低なあの台詞のことを。


「父さん、あのね……覚えてないかもしれないけど……私、中三の時、父さんと喧嘩したの……しかもその時、私なんか死ねばいいって言っちゃって……謝らないまま……ずっと忘れててね……本当にごめんなさい」


 父は私の手を離し、顔を覗き込むように額を撫でた。


「なあ充希……あのときお前、クラスで一人ぼっちで辛かったんだよな。なのに高校で書いた作文を読むまで、俺は気づきもしなかった」


「あっ……あなた、思い出したの?」


 母の声が裏返った。


「忘れてたこと全部思い出したかは分からん。でも、あの日から、俺が充希を避けてたってことは分かる。ずっと後ろめたかった。自分の子供にあんなこと言わせた自分が恥ずかしかった。でもどうしていいか分からなかったんだ。傷つけるくらいなら触れない方がいいと思ってた。でも違う。傷つけ合ったっていいから、ちゃんと向き合って話すべきだった……もっと早くに」


 父は涙を堪えていたが、私は堪えきれなかった。

 こんな時まで、真司と同じことを言わないでほしい。


 真司、私、やっと、向き合って話せたよ。


「私こそ、ごめん。あんなこと、親の前で言って良い言葉じゃなかった。ずっと父さんを傷つけたまんまにしてごめん……ごめんね……」


 母も私の額に触れた。多分、彼女も泣いていた。



「では、退院は明日の予定ですので、今日はごゆっくりお休みください」


 先週父の病室にも来た、営業スマイル百パーセントの若い男性看護師がそう告げた。血圧やら脈拍の測定、その他諸々事務作業感満載でかえって清々しかった。

 よく見れば整った顔立ちをしているのにもったいない――逆に患者に好かれないようにわざとやってるのかしら。そんな邪推ができるほど、今の私には余裕があった。後頭部を縫ったなんてとても信じられない。(手術のおかげで何センチかのハゲができたらしい)


 看護師が退室したあと、母が窓のカーテンを開けた。外の空の色は、少し薄い青に桃色が混じりつつあった――もう夕方らしい。


 ベッドは背もたれの角度が調整できるタイプだったから、母に頼んで起こしてもらった。目線が上がって、窓の外がよく見える。病院の目の前の県道は帰宅ラッシュで渋滞している。先週、父の見舞いに来た時もひどい渋滞だった。もう大昔のことみたい。それだけこの一週間は本当に濃密だった。


 腕に巻かれた包帯に、目を戻す。今日は今日で濃厚だ。

 包丁男と同じ空間にいたのは、ほんの数分だったらしいけど何時間にも感じられたし、階段から落ちる瞬間なんて、十年分の情報量はあったと思う。


 ずっと忘れていた、中三の時の出来事、高一の時に書いた作文、父に吐き捨てた一言――まるで記憶の洪水だった。


 父の記憶喪失を嘆いていた私が、自分に不都合な記憶を忘れていたなんて、なんだか皮肉。それを思い出すきっかけがあんな事件だなんて、さらに不本意。


――ひとりで死ぬの寂しいからさ……そこで見守ってて……

――発電所があんな事故さえ起こさなきゃ……


 包丁男の言葉が、頭を過ぎる。

 震災の時も死ぬかもしれないという怖さは味わったけれど、今日のそれは、恐怖を通り越して、ひどく悲しいものだった。


「あの人、私と同じだったな……」


 両親は椅子に腰掛けたまま、きょとんとした顔で私を見つめた。

 それもそうか。私は過去の記憶を夢に見たから分かるけど、それ無しじゃ意味不明に違いない。


「えっと、なんていうか……私も、原発事故の直後は、あの人と同じこと思ったっていうか……なんで自分だけこんな目に遭うんだとか、周りの人ばっかり幸せに見えるとか……心に余裕が無かったっていうか……」


 自分の思いを適切に表す言葉が見つからない。

 彼と私の違いは、真司がいたかどうかだ。それを言いたい。


「……いつかもっと前の時点で、誰かがあの人を支えてあげられてたら、今日みたいなことにはならなかったんじゃないかな……」


 それが私の捻り出した答えだった。

 彼だけを悪者にしたくない……そんな複雑な気持ち。事が起きてしまった今では何の意味も持たないけれど、誰かに言わずにはいられなかった。


「分かるさ、言いたいことは」


 父は寂しそうに窓の外を見つめた。


「あの人な、先週も自殺しようとしてた」


 そういえば、包丁男は父が“何回も死ぬのを止め”ていると言っていた。


「あなた、“先週”って、どういうこと?」


 母が怪訝そうに首を傾げた。


「ああ。本屋に用事があってな、歩道橋を渡ろうとしたら、あいつが手摺りに跨って車道に落ちようとしてたんだ。真っ昼間の駅前で、車がビュンビュン走ってる時だ。落ちて助かっても、車に轢かれちまう。慌てて歩道側に引きずり降ろしたけど『余計なことするな』『生きる意味なんか無い』って言って暴れてな。周りに助けを求めようにも、運悪く人がいなくて、揉み合ってるうちに階段から落ちた……と思う。うろ覚えだが」


「まぁ……なんてこと……」


 母は絶句した。私も返す言葉が無い。

 まさか、父の怪我と記憶喪失の原因があの男だったなんて。


「あいつもある意味じゃ原発事故の被害者かもしれん。でも、それと今日の事件は全くの別物だ。他人とはいえ〈古時計〉のマスターはあいつに寄り添ってくれてた。その優しさに気づかなかったのか甘えたのかは分からんが、人を傷つけようとか、命を奪おうなんて、どんな理由があっても許しちゃいかん」


 厳しい言葉。でも、彼こそあの男の命を救おうとした張本人だ。その言葉のどこか、根底の方には深い優しさが感じられる――少なくとも私には。



 父によると、彼はこの後、警察署に行って今日の事情を話すらしい。本当は事件の後すぐ行かなきゃいけなかったらしいけど、私の付添があるからと後にしてもらったそうだ。


「そういえば、なんであの人、私のこと刺そうとしてやめたんだろう……」


「あっ、それね」


 母は車の鍵にぶら下げたキーホルダーを私に見せた。ゴンベエ――真司が私達家族に買ってくれた水族館のマスコットキャラクターだ。相変わらず、つぶらな瞳が無言で何かを訴えかけてくる。


「これのおかげみたいよ……知り合いの警官がね、キーホルダーに感謝しろって言ってたわ」


「あー……えっと、それとお揃いの、私が鞄に入れてたやつ?」


 母は頷いたけれど、私にはその意味が理解ができない。


「なんでキーホルダーを見て……その、思いとどまったわけ?」


 母は周囲に人がいないのを確かめると、人差し指を口に当ててそっと呟いた。


「震災当時、小学生だった妹さんが好きなキャラクターだったんですって。充希が妹さんに重なって見えて、彼女の命を二度は奪えないって思ったそうよ。これ、内緒で聞いた話だから、誰にも言わないでね」


 私は無言で頷いた。


 あんなに号泣していたのに、そんな情報は仕入れているなんて、母は本当にちゃっかりしている。泣き晴らした赤い目を見て、彼女の芯の強さには勝てないと思うばかり。


 それにしても……彼の中に、まだ妹さんを愛する心が残っていたのなら、なおさら立ち直る余地があったんじゃないだろうか。


 今さら彼の肩を持っても仕方無い。でも……


――これ以上頑張れねえよ! みんな俺のこと可哀想って言いながら笑ってる……


 彼だって、きっと努力していたはずだ。親や妹を亡くし、住む場所を奪われ、それでも慣れない土地で生きようとしていたはず……それなのに、彼が立ち直るのを支えるどころか、孤立させ追い詰めてしまった社会は、どこか冷たい気がする。


 もし、私の近くに真司がいたように、彼にも支えてくれる人がいたら、あんな風にならずに済んだんじゃないだろうか。


 綺麗事かもしれないけど、彼があんな行動をとった背景を思うと、ため息を隠せなかった。


「走らないでください!」


 突然、廊下から、女性の声。

 何の騒ぎかと耳をそばだてると、病室の扉が乱暴に開けられた。


「充希!」


 真司だ。


 本当に彼はいつでも突然やってくる。


 両親は立ち上がり、目をまんまるくして、彼を見つめた。

 真司は息を切らして膝に手をついている。


「真司、仕事は?」


 今日は平日、木曜日だ。土曜の朝の「来ちゃった」とは訳が違う。


「婚約者が危篤だって言って抜けてきた。勤務評定なんて充希の命と代えられるか」


「え、婚約……者って?」


 真司は質問には答えず、ツカツカと歩み寄って私の両肩に手を置いた。


「お父さんから連絡もらってから、四時間もかかってしまった……ちょうどいい電車が無くて……ごめん」


 彼はそう言ってグシャグシャに顔を歪めた……かと思うと、うつむいてしまった。


 肩を震わせて、ずっと黙り込んでいる。


「真司?」


 彼の頬を、大きな雫が伝い落ちた。


 涙だ。


 あの日「泣けない」と言う彼に出会ってから、一度も見たことのない、涙。


「ねぇ、真司?」


 労いの言葉をかけようとした私を、彼はいきなり抱き締めた。


「充希、結婚しよう。ずっとそばにいたい。週末だけじゃ足りない。毎日一緒にいたい。毎日こうしたい」


 ええ、今⁉ 今言う⁉


 心の中で、悲鳴。心臓が飛び出しそう。急展開すぎるでしょ、両親の目の前で。

 今、父と母はいったい何を思ってこの光景を見ているんだろう。この角度では彼らの表情は見えない。ひとまず離してほしい。


「ちょっと……」


「俺、充希がいたから今までやってこれたんだ。家を失くしても、家族バラバラになっても、この子がこんなに頑張ってるんだから俺も頑張ろうって、いつもそう思って生きてきたんだ」


「ねぇ、きついよう……」


 きついと言っているのに、彼はさらに強く私を抱いた。


「あの日……俺、これ以上何を失くしてももう何も感じないだろうなって思った。でも違ったんだ、分かったんだ。君を失うのだけは絶対に嫌だ。自分が死ぬより嫌だ。だから充希、死なないで……」


 耳元で、彼の嗚咽が聞こえた。私は、怪我していない方の手で、彼の頭をそっと撫でた。


「死なないよ、大丈夫……だからね、痛いから、離して……」


「あ、ごめん……」


 彼は私を離して拳で涙を拭うと、勢いよく両親の方を向き直って、大きく最敬礼した。


「丈さん! 咲子さん! 僕を充希さんと結婚させてください!」


 なんという勢い任せ。顔が熱い。火を吹きそう。なんでこの人はいつも予想の斜め上の行動を取るんだろう。


 今さらながら、恐る恐る、両親の顔をうかがう。真司と意気投合していた父だけれど、記憶が戻った今は、感じ方が違うかもしれない……

 でも、心配とは裏腹に、彼らの表情は、とても穏やかだった。


「顔上げてよ、真司くん。あたし達、最初から二人の結婚に賛成なんだから」


 母の言葉に、真司が顔を上げた。


「それじゃあ……」


 真司は安堵した表情を浮かべたけれど、父が警告するように咳払いをした。


「ちょっと待ちなさい」


 まさか、結婚の条件でも出すんじゃあるまいか。仕事か、年収か、地元に戻れなんて言われたらどうしよう……


「真司くんのご両親に充希が認めてもらえるかどうかは、まだわからんからな。忘れるな」


 多分、父なりの冗談。

 一同の頬が緩んだ。


「きょ、恐縮です」


 また真司が頭を下げた。そんなに気を遣わなくていいのに、本当にロボットみたいに融通がきかない。

 その頭を、父はわし掴みにして、乱暴に撫で回した。なんて無礼な……犬じゃないんだから、全くやめてほしい。


「ま、今度義理の親子同士、ジムバトルしにいこうか」


 ああ、こんな場面でもスマホゲームの話題とは、記憶が戻っても呆れるばかり……

 いや、でも――


「あのさ、今度は私も仲間にしてよね」


 ちょっと歩み寄ってあげてもいいかな、と今は思える。

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