第9話

あの夜ほど星が美しく輝いたことは無い。

人が灯りを失った故に。なんという皮肉。

西山実里〈夜明け前のシリウス〉より



 目を開けたら、私は実家の居間に腰を下ろしていた。少し日に焼けた畳。卓袱台の上には、不揃いなトマトとキュウリ。壁一面の本棚。その横で存在感を放つ、大きなブラウン管テレビ。


 そうだ、これこそ私の知っている、大熊の、大野の家。


 南向きの大きなガラス戸。レースカーテンが風に吹かれてふわふわと揺れた。カーテンの影、縁側に、あぐらをかいている父の背中。その向こうには、母が手入れする小さな家庭菜園。野菜の青臭さと蚊取り線香の香りが混じった田舎のにおい。全てがあの頃のままだった。


――ねー、とーたん。


 父を呼びたいのに、やけに舌が回らない。

 でも、彼は振り向いてくれた。なんだか背中がやたらに広いけど……いや、ひょっとして私が小さい?

 ああ、これは夢だ。私は腰を下ろしているのではなく、大人が腰を下ろしたくらいの背丈になっていた。


――あじぉ、ちゅくーの?


 小さな私は、父にラジオを作っているのかと尋ね、その背中に抱きついてピョンピョンと飛び跳ねた。父は眼鏡をかけておらず、随分若い。今の私と年齢は大差ない気がした。


――ラジカセ直してんだ。ミッちゃんにも、大きくなったら直し方教えてやっからな。


 父は私を膝に乗せ、ラジカセの内側の基盤や配線を見せた。まるで宝箱みたい。胸が踊る。


――みったんね、かーたんにね、まほーのあじぉ、ちゅくーの!


――魔法のラジオ?


――おうた、きくの。かーたんね、ごはんちゅくってても、あじぉにおうたーっていうの。


 料理中に両手がふさがってスイッチにさわれなくても、声に反応して歌を流してくれるラジオを母に作ってあげたい……と言いたいのに、幼い私にはそこまでの語彙は無かった。


――おぉそりゃ便利だ。きっと母さん喜ぶぞ。


 あれで意味が分かったなんて、驚き――感心する間も無く、小さな私は無邪気に笑って手を叩いた。

 その私を、父は両手でぎゅうっと抱きしめた。頬ずりもされている。髭が頬に当たって少し痛いけど、嫌じゃないから不思議。


――人間に越えられない壁は無いんだ。毎日毎日進歩してる。ラジカセなんて、百年前の人が見たらびっくりすんぞ。こんな小っちぇえ箱から、人の声も音楽も流れてくんだから。


――なかに、まほーちゅかい、いうんでしょ!


 魔法使いがいるなんて、いかにも子供らしい発想。自分が発した言葉なのに照れくさい――父も苦笑しているし。

 その父が、床からラジカセの表面カバーを拾い上げ、私の両手に持たせた。


――ミッちゃんなら、将来きっと、魔法使いみたいに何でも作れるぞ。


 大きな手が、私の頭を撫でる。温かくて、心地良くて、いつまでもこうしてほしい……そう思って目を閉じた瞬間、バン、と後ろで何かを叩く音が響いた。


――嫌なんだけど! そこで吸われるの!


 私の声。目を開けたら、驚いた表情の父が、卓袱台の向こう側で煙草を吸っていた。

 一瞬、自分の袖元が目に入った。中学校の制服――あぁ、あの時だ。受験勉強をしている横で煙草を吸われて喧嘩になったあの時。

 さっきの音は、私が食卓を叩いた音だった。


――勉強してる事ぐらいわかんでしょ⁉ 昼間っから何も考えないで煙草ばっか吸って、楽な商売してるよね‼


 商売という言葉がいけなかったのだろうか。みるみるうちに、父の顔色が変わった。


――今なんつった? お前に仕事の何がわかんだ。言ってみろ。


 彼はそう言って、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。


――人に対する気遣いができなくてもやっていけるってことかな?


 父が不快になるような言い方。わざとだ。こんなの、受験勉強のストレスをぶつけているだけ。


――ここは俺の建てた家だ、俺が何しようと勝手だろ⁉


――あ、そう……じゃあ私が建てた家じゃないから私はここにいちゃいけないよね? どうせ――


 続きが聞こえない。思い出せない。私は何を叫んでいる? 所詮は子供の屁理屈で、大したことは言っていないはずなのに、何故、父はこんなに悲しい顔を――泣きそうな顔をしている?


 何か言いかけた彼の言葉を聞かず、私は居間を飛び出した。



 鰹出汁の匂い。

 洗濯機の回る音。

 目を開ければ、いわきのアパートの天井。


 愛しの我が家は、一瞬で手の届かない遥か彼方へ消えてしまった。


 縁側で父に抱き上げられた記憶――なんてささやかで、懐かしくて、悲しい日常風景。あの場所は、今や見る影もない廃墟。もう記憶の中にしか残っていない。


 それにしても、中学生の私と昨日の私の、なんてそっくりなこと。

 あのとき父から逃げ出した私は昨日、両親の言葉を受け入れられなくて、洗面所に引きこもった。十年経ってもやることが変わらなくて本当に困る。

 最後にあの喧嘩を思い出すなんて、神様の嫌がらせだろうか。後味が悪すぎる。


 あの後、真司にLINEを送ったけれど、彼から返事が来るよりも、母に「寝るなら布団で寝なさい」と言われる方が早かった。

 居間に戻ったら父はもう床に就いていて、布団に入ろうとする母に「ごめん」とだけ告げて、私も横になった。


 ちっとも眠れなくて、夜明けなんて永遠に来ないんじゃないかと思っていたのに、いつの間に寝ていたんだろう。


 天井に向かって、ため息。


 約一週間の滞在で、見慣れてきた天井。あと少しでこのアパートのことも好きになれそうだったのに、穏やかな空気を自分でぶち壊した。二十五歳にもなって情けない限り。


 体を起こすと、見上げた時計は七時ちょうどを指していた。


「おはよう」


 台所から、母の声。


「おはよ……」


 部屋を見渡すと、父がいない。


「父さんは?」


「散歩ですって。頭冷やしたいって言ってたわ」


 頭を冷やさなければいけないほどの、何を考えたのだろう。


 やっぱりあの家を壊すのをやめよう、とか?


 都合の良い解釈に、自己嫌悪。


 そういえば真司からの返事はきたのだろうか。鞄からスマホを取り出すと、待ち望んでいた通知はしっかり届いていた。

 時間は、深夜……というより早朝の四時過ぎ。本当に忙しかったらしい。

 内容は細かく分かれているけれど、いつもニ語文や三語文しか送ってこない彼にしては長文だ。


『返事遅くなってごめん。緊急対応で残業してました』 

『大熊に行ってきたんだね。お疲れ様。大変だったね』

『俺も実家を取り壊す時はすごく悔しかったし、辛かった。でも、無きゃ無いで慣れるもんだよ』

『ご両親には正直な気持ちを伝えていいと思う。それが怒りでも悲しみでも。喧嘩になったとしても』

『大事なのは、最後までお互いに向き合って話をすること』

『始発乗り シャワー浴びたら また出勤』


 多分、最後の一つは励ましているつもりだろう。いつもなら笑って許せるのに、今は何も感じられない。

 お互いに向き合って話を? したいけど、できる気がしない。

 それでも、疲れた体に鞭打って送ってくれただろう言葉に、とりあえずの礼を述べる。


「ねぇ充希、昨日のことだけど……」


 台所の母から声をかけられた。

 返事はしない。

 スマホを足元の鞄にしまって、着替えを取り出した。


「一時帰宅できるようになってからずっと、お父さんと家を壊す話はしてたの」


 借りたパジャマを脱いで、ブラウスの袖に腕を通す。


「でもこれは、あたしが言い出したことでね……お父さんはずっと反対してたわ」


 スカートに脚を通し、腰の留め具を上げる。立ったまま短靴下を履こうとしたら、レース部分に右親指の爪が引っ掛かった。思わず、舌打ち。


「充希が納得するまでは残しておこうって言ってた。昨日は記憶が無いせいか、今までと意見が違ったけど……本当はお父さんも、充希と同じ意見だったのよ」


 救急箱から爪切りを取り出し、ゴミ箱の横に座って、伸びすぎた爪を切る。ついでに他の指の爪も揃えた。パチンパチンと大きく音を立てて。


「でもね、意見が違っても、あたし達、充希に幸せになってほしいっていうのは一緒よ」


 爪を切る手を止める。


「あぁ、ごめん、押し付けみたいになっちゃって。あたしばっかり喋ってるわ。昨日は充希の気持ち、ちゃんと聞いてあげられなくてごめん。本当はこれを真っ先に言うべきよね」


――大事なのは……お互いに向き合って話をすること。


 話、できるかな? 私にも……


 母が歩み寄ってくれている今なら。

 切り終えた爪を捨て、ゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を手で伸ばす。

 真司の言葉を胸中で念仏のように唱えながら、私は言葉を振り絞った。


「昨日は私も言い過ぎてごめん、でも」


 気づいたら、拳を握っていた。掌を開いて、閉じて、落ち着け、私。


「あの家を壊すのは嫌。あんな風になっても、私の家はあそこだけ。昨日二人が言ったことは正しいんだろうけど、まだ受け入れられない。時間がほしい」


 正直な気持ちは、一晩経っても変わらない。「時間がほしい」は精一杯の譲歩だった。


「そう……お父さんが帰ったら、また話しましょう」


 母は否定も肯定もしなかった。


 曖昧な空気をそのままに、私は母の作った朝食に手をつけた。



 父の帰宅を待つこと数時間。十時になっても十一時になっても、彼は帰ってこなかった。

 一体どこまで散歩に行ったのか、いい加減心配になる。


「ねぇ、また怪我して倒れたりしてないよね?」


 嫌でも先週の転落事故のことを思い出す。報せをくれた母は気が動転していたし、電車に乗っている間はもどかしくて仕方なかったし、病院に着いたら父に自分の存在を忘れられているし……散々だった。


「うーん『午前中には戻る』ってメールは来たんだけど……」


 母がそう答えると、卓袱台の上のスマホが震え出した。


「あら、会社からだわ」


 ずっと父の店を手伝ってきた母の口から“会社”という言葉が出るなんて……そう驚いている間に、母はそそくさとスマホを持って部屋の隅に移動した。

 窓に向かって「はい」とか「ええ」とか相槌を打つ母――月曜に私が部長と電話していた時も、こんな風に見えたんだろう。両親が見た光景を追体験しているかと思うと、なんだか変な気分だ。


「わかりました、すぐに……」


 電話を切った母は、申し訳なさそうに振り向いた。


「ごめん、こないだの子が風邪ぶり返して早退するんですって。だから今から行かなきゃいけないの」


 “こないだの子”というのは、母の勤め先にいる事務職員だろう。

 確かに一昨日も寝込んだと聞いていたけれど、早退するくらいなら無理して出勤しなくてもいいのに……いや、母が休むとその人が出勤しないと仕事が回らないのかもしれない。ここはいわき。自分が務める大手企業とは勝手が違う、中小企業や零細企業ばかりなのだから。家族の都合とはいえ、母を長く休ませてしまって、見知らぬ彼女に申し訳なかった。


「充希ごめん、午後は留守番してて」


 唐突に言われてドキッとする。

 留守番……父と二人きり。

 前はノノのおかげで距離が縮まったし、雑談もできたけれど……昨日あんな酷いことを言った手前、耐えられる気がしない。


――二人みたいに故郷を捨てた人達には、私の気持ちなんか分かんないよ……


 疲弊していたとはいえ、もっとマシな表現なんかいくらでもあったろうに。自分の身勝手さ、未熟さが心底悔やまれる。本当に、時間を戻せるなら戻したい。


「じゃあ、行くわね。お昼ご飯は充希に任せるわ」


 まだ返事もしないうちに、母は大きな鞄を抱えて玄関へ駆けていった。


「あ、母さんちょっと待って。私も出かけたいから、会社行くついでに駅前で降ろしてよ」


 本当は出かけたいんじゃない。この部屋にいたくないだけ。我ながらずるい表現に辟易しつつ、急いで身の回りの物をまとめた。


「はいはい、そしたらお父さんに出かけるってメールしといて」


 母は靴を履きながら、私の方を見向きもせずに答えた。

 その後ろに、私も慌てて続き、玄関の扉をバタンと閉めた。




 車中、父にメールを打つという大義名分に守られて、会話を避けた。

 送信が済んでからも、なんとなくLINEを眺めて時間を稼ぐ。我ながら情けないけれど、正面から向き合うにはもう少し時間がほしい。


「メールした? もうすぐ駅前に着くけど」


 母が尋ねた。信号待ちで、ハンドルを指でコンコンと叩いている。


「母さんが出勤になったことと、私が出かけることは伝えた」


 車中で交わした会話は、それだけだった。

 もう少し歩み寄りたい気もしたけれど、私が勇気を出すより、車が駅前に着くほうが早かった。 


「帰りは迎えに行くわ。後で連絡ちょうだい」


 そう言って母は、私を降ろすなり急発進で去っていった。置き去りにされたみたいで寂しかったけれど、責める気は起きなかった。


 さて、出かけたいなんて言ったものの、行く宛は無い。


 見上げた夏空は青く澄み渡っている。この空があの哀しい故郷と繋がっているなんて、とても信じられなかった。

 もっと言うと、真司がいる東京や、ノノがいるイギリスさえも同じ世界に存在していること自体、不思議でならない。

 昨日見た光景が、夢や映画なら良かったのに。


 ふと、ノノと〈古時計〉に入り浸った高校時代が頭を過ぎった。


 平日の電車待ちの時間。土日の模試の帰り道。無愛想な店長が作る、安くてお腹いっぱいになれる料理。


 その〈古時計〉で父と昼食をとったのはたった二日前なのに、高校生の時より昔のことみたい。


 せめて、あの穏やかな時間を取り戻したい。


 夕方アパートに戻ったら、昨日のことを謝って、前向きな話をしよう……そう考えているうち、私の足は〈古時計〉に向かっていた。



 本屋の横の階段を登り、扉を開け、ツリーチャイムの音を聞く。


「いらっしゃぁせー」


「え、充希?」


 店長の声に続いて、聞き慣れた声。


 目線を上げると、カウンターに座っているのは、散歩に行ったきり戻ってこない父だった。


「父さん、なんでここに?」


「考え事したくて……充希、出かけてるんじゃなかったのか?」


 父の動揺は明らかで、私もなんて言えばいいか戸惑った。


「出かけた先が、ここというか……」


「そうか……」


 一人で来たからカウンターに座るつもりでいたけれど、並んで座るのも気まずい。結局、一昨日父と座った窓際の席に、一人で座った。


 昼前にしては珍しく、奥の席にもう一組客が座っていた。両親くらいの年齢の男女と……手前の人はよく分からない。ずいぶん髪が長い、ボサボサ頭の、多分男性だ。


「お客さん、注文は?」


 気づいたら、横に海坊主みたいな店長が仁王立ちしていた。


「えっと、アイスモカで……」


「あいよ」


 店長が置いていった水を一口飲んで、父の方を見ないように、外の景色を眺めた。夕方会うつもりだったのに、今じゃ早すぎる。ここで心の準備をするつもりだったのに。


「充希、ここ座るぞ」


 来ないで。私、いま父さんと話す資格ないよ。


 声かけに気づかないふりをしていたら、父が自分のグラスを持って正面の席に腰掛けた。


「昨日はごめんな」


「……うん」


 正面を見ず、外の街路樹にセキレイが止まるのを目で追った。


「俺、充希のこと考えたつもりで……ちゃんと考えきれてなかった」


 それはちゃんと分かっている。私が我儘なだけ。


「昨日初めて見たんだもんな、大熊があんな風になってるとこ……」


 そうだよ。私の望み続けた故郷は、もうどこにも無かったよ。


「俺は俺なりに前向きに考えて、一番良いと思った方法を言ったんだけど、充希はどう思う?」


 朝、母に伝えた言葉をもう一度声に出したい。でも、喉の奥につっかえて出てこない。

 鼻の奥がツンとして、目の前の景色が歪む。肩が震えて、言う事を聞かない。


「あ、すまん……そんなつもりじゃ……」


 慌てふためく父。


 私こそ、困らせるつもりは無かったのに、いつまでも子供じみた行動ばかりで、格好悪い。


 頬が濡れる感触。涙なんて出尽くしたと思っていたのに、一体どこに残っていたんだろう。唇を噛んで、鞄からハンカチを探す。こういう時に限って、探し物は見つからない。


 すると突然、目の前に紙ナプキンの束が現れた。


「これ! これでとりあえず鼻かめ!」


 まさかと思ってナプキンホルダーを見ると、すっかりカラっぽ。


……なんで、真司と同じことするかなぁ。


 もう、笑うしかない。どこまで似てるんだ、この二人は……


「え、充希……え?」


「あのね、こんなに使えないよ」


 諦めきれなかった生家へのこだわりが、スルスルと解けていた。

 母には「時間がほしい」と言ったけれど、その時間はどうやら充ちたみたいだ。



 テーブルに届いたアイスモカを飲みながら、私は呼吸を落ち着けた。


「大丈夫か?」


 今度は父を真っ直ぐに見て頷いた。


 絆創膏はもう貼っていないけど、額の傷はまだ残ったまま。こんな状態で先週からあちこち動き回って、お家騒動に巻き込まれたり、荒れ果てた我が家と向き合ったり……なんて強い心の持ち主なんだろう。

 私に関する記憶が無いとか、精神年齢二十九歳だとか、もうどうだっていい。


――大事なのは……お互いに向き合って話をすること。


 また思い出すのは真司の言葉。

 今なら……今こそ、父と本音を語り合えるはずだ。


「あのね。父さんが私のこと考えてくれているの、ちゃんとわかってるよ」


 父はぎこちなく頷いた。

 大丈夫、言える。大丈夫、大丈夫。


「だから……」


 もう一度家に帰って、三人で話をしたい――と言おうとした時だ。


「るせぇんだよ! 仕事、仕事って!」


「キャァッ」


 背後から、男性の怒鳴り声と、女性の悲鳴。


「よせ、しまいなさい……」


 振り向けば、テーブル二つ向こうの席に座っていたボサボサ長髪の男性が立ち上がっていて、手元に何か光る物を持っていた……包丁⁉


 逃げなきゃ! そう思った時には全身の毛が逆立っていた。


「充希、逃げよう」


 父が囁いた。震える足で立ち上がろうとした、けど。


「お店にいる皆さーん! 動かないでくださーい! 動いたらこのババアがどうなっても知りませーん!」


「やめ……」


 女性の訴えは短い悲鳴に変わった。一番奥の壁際に追い込まれ、喉元に包丁の刃を突きつけられている。


「分かりましたー? 分かったら俺の言うとおりにしてくださーい」


 男があたりを見回しながら声高に叫んだ。


 一瞬、男と目が合った。

 見覚えがある。一昨日の昼、この店に来た時に私達を睨んだ男だ。

 よく見たら、あの時と同じよれたジャージを着ている。

 それはいい。とにかく、警察。警察に電話。テーブルの下にスマホを隠して操作する。


「あ、そこの姉ちゃん!」


 バレた、まずい。思わず、硬直。


「ババアが死んだら、姉ちゃんのせいな」


 次の瞬間、響いた甲高い悲鳴に目を瞑った。


 恐る恐る目を開けると、女性は椅子から落ちていて、カウンターとテーブルの間の床でうめき声をあげていた。

 隣にいた男性が、何かの布で彼女の二の腕を押さえた。

 ここから五メートルは離れているのに、赤い血がどんどん滲み出しているのがはっきり見える。


 ごめんなさい、私のせいで……


 身動きが取れない。どうしよう、どうしよう。


 父は、男の動きに目を凝らしながら、背中に手を回している。スマホを取りだすタイミングを伺っているのか。


 店長は、カウンターの向こうで男の様子を伺っている。動くに動けないのはみんな同じだった。


「お客さん、落ち着こう。ゆっくり話そう」


 店長がカウンター越しに男をなだめる。


「マスターだけだよぉ……何も聞かずに優しくしてくれんのはぁ……」


 男は包丁を手にしたまま、カウンターに近づいた。


「お客さん、ずっと辛かったよね。でも、それ、しまおう」


「世の中腐ってる。おかしいだろ、なぁマスター」


「まだ捨てたもんじゃない。もうちょっと頑張ろう。またコーヒー飲みながら愚痴れば良い」


「これ以上頑張れねえよ! みんな俺のこと可哀想って言いながら笑ってる……中卒で頭悪くて、あんなに仕事できないなら働かなくていいのにって、どうせ補償金もらってるのにって、馬鹿にするんだ! こんな人生、続ける価値ねぇよ!」


 男はカウンターの椅子を蹴り飛ばした。

 その瞬間、奥の男性が女性の盾になるように立ち上がった。


「や……やめるんだ! ご両親が悲しむぞ……」


 説得する男性の胸に、包丁が突きつけられる。


「ざけんなよ、その親が残した家も畑もぜーんぶ帰還困難区域だ! なんも残ってねぇ! 生きる意味なんか何ひとっつねぇ! 親戚ヅラしていっつも偉そうに……てめえも家族全員亡くしてみろよ!」


 叫び声が、響く。説得していた男性も、腕を切られたらしい。


「オジサンの会社のせいなんだよ……発電所があんな事故さえ起こさなきゃ、妹はちゃんと治療ができて助かってたんだ! あーあ、オジサンのせいだぁ!」


 あの時と同じだ。


――事故を起こした電力会社のせいだ。

――お前の父親の会社のせいだ。

――お前のせいだ!


 包丁男の言葉は滅茶苦茶だ。でもそれは、いつかノノをSNS上で傷つけた見知らぬ人々の言葉と同じだった。


 オジサンと呼ばれた男性は、カウンターに寄りかかるように座り込み、傷を押さえながら、包丁男を説得し続けた。


「それは悪かったと思う……でもあの時は、誰もあんなことになるなんて、予想できなかったんだよ」


「言い訳すんな! 」


 包丁男は男性の横腹を勢いよく蹴った。痛々しく喘ぐ声が響く。

 

「治らない病気じゃなかったのに、転院した先で急変した。全町避難さえなければ……オジサンのせいであいつは死んだんだ!」


 男は大粒の涙を流して訴えた。

 怖い。とにかく怖い、もう嫌だ。外にいる誰か、気づいて。


「あーもう、お前らみんな笑って生活してること自体、気に食わねえ。みんなもっと不幸になれよ。俺みてぇにさぁ」


 包丁男がまた椅子を蹴り飛ばし、出口――私達のいる方に向かって近づいてきた。


「お客さん、落ち着いて!」


 店長が再び説得を試みる。


「失敗したら、またやり直せばいい。何回だって、生きてる限りできることなんだってあるよ」


「るせぇよ! マスターだってどうせ本当は、俺みてえなクズ死ねばいいと思ってんだろ⁉」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 包丁男の言葉に聞き覚えがあったからだ。


――ドウセ私ナンカ死ンジャエバイインダヨネ⁉


 気づいたら、心の最深部に押し込め続けてきた記憶が、洪水のように溢れ出していた。



 きっかけは些細なことだった。

 県内屈指の進学校を受験するため、休み時間や放課後も先生のところへ質問しに行っていた中三の秋頃。


――中村さん、最近付き合い悪いよね。


 義理で一緒に出かける暇は無いと思って、何かの誘いを断った。


――充希ちゃんと喋るのやめよー?


 ある一人が発したその一言は、瞬く間にクラス中に伝播した。


――ガリ勉はこっち来んなよ。

――教室におめぇの居場所なんかねぇぞ。


 教員の見ている所では、さも協力的なふりをして、それ以外の時間は一切の行動や言動を無視された。


 小学校から九年の付き合いだった友人さえ。


――ごめん、一緒にいると、あたしらもハブかれるから。


 別にそれでも良かった。どうせ高校に行けば他人だ。


 ああ、でも。


――ナカムー、私も同じ高校受けるよ。だから一緒にがんばろう。


 隣のクラスにいたノノだけが、私の支えだった。

 同じ委員会だったことをきっかけに、放課後の図書室で一緒に勉強するのが日課になった。それだけが私の唯一の安らぎの時だった。


――みんな不安なんだよ。ナカムーのこと見て焦ってるだけ。気にしなくて大丈夫。


 ノノ、なんでそんなに落ち着いていられるの?


――転校ばっかしてると、たくさんの人と出会うからさ。本当に強い人と、強がってても本当は弱い人の違いが、なんとなく見えるようになるんだよね。


 だからそんなに強くて眩しいのかな。

 ノノ。ノノがいてくれて本当に良かった。


 彼女に支えられてなんとか学校生活を乗り切っていたけれど……


 あの日、トイレの個室のドア越しに、致命的な言葉が、胸に刺さった。


――最近の充希ちゃんって、前より余計ムカつくよね。

――ホント。マジ死ねばいいのに。


 限界。


 その日の放課後は、図書室に行かず真っ直ぐ家に帰って、苛立ちを紛らわすように居間で問題集を開いた。


 夢を叶えるために、良い学校に行くために、一所懸命勉強してるだけなのに、なんでこんなこと言われるの? 自分に嘘ついて愛想笑いしてれば良かったの? 私が悪いの? 私、死ねば許してもらえるの?

 

 自己嫌悪が最高潮に達した時、父がやってきた。

 彼は彼で苛々したように煙草を吸った。一本、二本、三本……四本目に火をつけたところで、私がテーブルをバンと叩いた。

 子供の理屈で父を散々罵って、最後の最後に、最低な一言を放った。


――どうせ私なんか死んじゃえばいいんだよね⁉




 走馬灯というやつだろうか。

 ずっと忘れていたのに、なんで今更…


 あの時は知らなかった、母に流産した経験があるなんて。実らなかった命の重さを知って、父が寡黙になっていったなんて。


 父に謝りたい。

 でも、目の前の状況はそれを許してはくれなかった。


「姉ちゃん、俺と一緒に死んでよ。かわいいからさ」


 包丁男が、私の方に向かって歩いてくる。

 逃げたいのに、体が動かない。かろうじて座った椅子ごと後ずさったけれど、椅子が背後のガラス窓に当たって、それ以上進めなかった。

 もう駄目かもしれない、と思った時。


「やめろっ」


 父が私の前に立った。


「死んでいい命なんかひとつもねえよ!」


「あ? オッサン何様だよ」


「あんたがどんな人かよく分からんが、死んでもいい人間なんか一人もいねえ! 悲しむ人間がいるとかいねえとかじゃねえよ! せっかく産まれてきたんだから、寿命が尽きるまで、最後まで生きろよ!」


 それが、父さんの答え?

 

 あの日言いかけた……私が受け入れることを拒んだ、父の訴え。

 

 涙があふれて、止まらなかった。

 

 でも、感傷に浸る余裕は皆無。今も包丁男は父に向かって怒鳴り散らしている。


「てめえ、勝手な価値観押しつけてんじゃねえよ……あ?」


 男が、眉をひそめた。初めて会った時と同じように。


「誰かと思えばまたあんたかよ! 先週といい今日といい、なんで俺の前に出てくんだよ」


 男は子供のように地団駄を踏んだ。


「何回も何回も俺が死ぬのを止めやがって。善人ぶってんじゃねぇ! うぜぇんだよ!」


 父は目を見開いた。


「あの時の……!」


 知り合い? いつ包丁を持って迫ってくるかわからないのに、父は男の顔をじっと見つめた。


「ほら、あんたも俺のことなんて忘れてたろ。俺はその程度の人間だし、オッサンもただの偽善者なんだよ」


 振り上げられる、包丁。


 私は咄嗟に手元にあった鞄を投げつけた。

 中身が、床に落ちる音。

 本だのキーホルダーだの財布だの、色んな物が散乱した。

 こんなの所詮、悪足掻き。

 これまでか……死を覚悟して固く目を瞑った。


 でも、思ったような衝撃は無く、目を開けると、彼は散らばった鞄の中身を凝視して、驚いたような、怯えたような表情をしていた。


 思いとどまった? と期待したのも虚しく、すぐに男は舌打ちをして、父の目の前で包丁をチラつかせたかと思うと、彼の腹を足で蹴り倒した。


 父のうめき声。彼の体が私の上にのしかかり、椅子ごと倒れむ。


 誰かに腕を引っ張られた。包丁男だ。

 全身に鳥肌が立つ。


「やめて……」


 かろうじて振り絞った声も、彼には届いていないようで、無理やり体を引きずられた。


 ドアが開け放たれ、ツリーチャイムが虚しく鳴り響く。

 私は腕を力任せに引っ張られ、踊り場に体を叩きつけられた。


「た……助けてー!」


 誰がいるかも分からない通りに向かって叫んだ。せめて本屋の店員にくらい届いてほしい。


 閉じかかったドアの隙間から店内に目をやると、店長が、受話器を片手に何か喋っている。早く警察を、救急車を!

 父が立ち上がって、追いかけてくる。助けて……助けて! 


「一人で死ぬの、寂しいからさ……」


 包丁男は手すりに寄りかかって、虚ろな目をしながら呟いた。

 一緒に死んで、という、さっきの言葉が蘇る。


 嫌だ、まだ家族と仲直りしていないのに……


 でも、男の口から出てきたのは、意外な言葉だった。


「……そこで見守ってて……」


 迷子の子供のような弱々しい声でそう言ったかと思うと、男は自らの首に包丁を突き立てて天を仰いだ。


「ダメ!」


 反射的に立ち上がり、彼の手首を、両手で思いっきり捻った。


 唸り声。


 包丁は彼の手から離れ、足元に落ちた。


 遠くから「なんだ」「どうした」という声。

 誰でもいいから、早く来て。 


「充希⁉」


 父の声とツリーチャイムの音に安堵。


 直後、額に、衝撃。


 目の前が一瞬暗くなって、次に明るくなったら、男の肘が目の前にあって、それが段々、小さくなって。


 正面に、真っ青な空が現れて、建物が真横に傾いて。


「充希!」


 父の声が、遠のいた。


 足元にも手元にも何もない――私は、どうも彼が腕を振り払った弾みで、階段の下に落ちようとしているらしい。手摺の錆とか壁のヒビとか、スローモーションみたいに鮮明に見える。

 これで死ぬのかと思ったら、さっきまでの恐怖や焦りは吹き飛んで、意外と冷静になっていた。


――発電所があんな事故さえ起こさなきゃ……


 あの人も、原発事故で大事なものを奪われたんだなぁ。


 朦朧とする意識の中で、彼の身の上を案じた。憐れみというよりも、共感。


 彼は私だ。一歩間違えば私が彼になっていた。


 彼と私の違いは、何だったのか。何が違って、何が、同じで――なんで、今、こうなったんだ、っけ。


 背中と頭に、強い衝撃。


 まぶたが重くなって、私は、真っ暗な、夢に、落ちて、いった。



 友の言葉に救われて


 一年六組 中村 充希 


 中学三年生の十月頃から約三ヶ月、わたしはクラス全員から無視された経験があります。


 授業や給食、清掃の間は先生の目があるから、みんな話しかけるふりをしてきました。しかし、一度先生が目を離せば、登校中、休み時間、放課後と、わたしと会話をしてくれる人は誰もいませんでした。気づいたらクラスで一人ぼっちでした。


 その原因が、人付き合いが悪く自己表現の下手な自分にあることはよくわかっていました。友達付き合いをおろそかにしてしまったことは今でも反省しています。しかし、遊びの誘いを断った報復がクラス全員を巻き込んだ無視とは、今考えれば許されることではありません。もしかしたら、声をあげて「みんなのやっていることは良くない」と諭すべきだったかもしれません。


 ですが、当時のわたしにその勇気は無かったし、両親にも先生にも相談はしませんでした。その頃の両親は、自ら営む店の売上が厳しく、毎日家に帰ってからも必死に知恵を絞っていたし、担任の先生は初めての受験指導で手一杯に見えたので、彼らに迷惑をかけたくありませんでした。


 迷惑をかけないように。その一心で過ごす中学生は、案外多くいます。私もその一人です。別に誰かを責めるつもりはありません。みんな余裕が無かった、それだけです。


 毎日一人で過ごすことが辛くなかったと言えば嘘になるかもしれません。でも、あと半年たてばクラス全員が他人になると思えば十分に耐えられました。休み時間は受験勉強をしていれば、人と話さなくても平気でした。そのうち、人を信じることを忘れていきました。他人と関わらなくても生きていけると思いこんで、わたしにとっての心の支えは、もはや第一志望の高校に受かることだけでした。


 隣のクラスのNさんと仲良くなるまでは。


 Nさんは中学二年生の時に転校してきた、とても明るく元気な女の子で、大人しくて地味なわたしとは正反対でした。同じ図書委員になっていなかったら、話す機会は無かったかもしれません。


 十一月のことでした。Nさんとわたしは、学校代表として双葉地区合同の図書委員研修会の代表になりました。Nさんはわたしがクラスで無視されていることを知らないのか、電車の中でよく話しかけてきました。引率の先生が「静かにしなさい」と注意するほど大きな声でした。


 しかし、ヒソヒソ話を続けるうち、わたし達二人は同じ高校を目指していることに気づきました。


「一緒にがんばろうね」


 その一言を聞いて、わたしは思わず泣いてしまいました。引率の先生は「受験がプレッシャーだったんだね」と慰めてくれたけれど、本当は、学校で誰かと一緒に過ごしたかったんだと気づきました。自分で自分の気持ちを抑えこんで、強がっていただけでした。


 その日をきっかけに、わたしはNさんとよく話すようになりました。クラスで無視されていることを初めて相談したのもNさんです。Nさんは誰を責めることもなく「みんな受験前で不安なんだよ」と言いました。無視のきっかけを作った自分だけが悪いと思っていたので、目からうろこが落ちました。


 だからといって、すぐに問題が解決することはありませんでしたが、学校にたった一人でも話せる人がいれば、以前と比べ物にならないくらい息が楽になりました。


 そして冬休み前のある日、勇気を出して、最初にわたしを無視し始めた子に「受験が終わったら、またお話ししてね」と言いました。その時、その子は気まずそうにしていましたが、不思議なことに、冬休みが終わったらクラス全員からの無視はなくなっていました。


 その子とは根本的に仲直りすることはありませんでしたが、中学校生活の残り三ヶ月、人を信じることを思い出せて良かったと心から思います。


 Nさんと出会えて本当に良かったです。十一月のあの日、彼女の言葉に救われたから、わたしは今こうして第一志望の高校に合格し、新しい友人達と出会うことができました。


 人は一人では生きていけません。


 もし今後、わたしが誰か一人ぼっちの人に気づいたら、いつかのNさんのように、優しく寄り添ってあげたいと思います。

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