第8話

閲覧注意

本稿には原発事故の被災地を扱う描写が

多数ございますのでご了承ください。

西山実里〈VOICE〉より



「大野の家に、行かないか? 三人で」


 瞬間、心臓がドクンと大きく跳ね上がった。


 大野の家――原発事故の後、帰れなくなった、私の生家。


 頭の中にノイズが走り、思考がグチャグチャに搔き乱される――畳張りの居間、台所に立つ母の背中、家庭菜園で採れた野菜、廊下から父の店に続くドア、店先で客と雑談する父、伯父一家とバーベキューをした庭、大学で経験した大地震、テレビ画面越しに見つめた大津波、全町避難、水蒸気爆発、帰還困難区域……


 絶対に絶望するって分かる場所に、一体、誰が行きたい?


「急にどうしたのよ?」


 母が聞き返した。なんでそんなに落ち着いていられるんだろう。私なんて、どんどん脈拍が上がるばかり。心臓が破裂するんじゃないだろうか。


「兄貴が家、譲ってくれるって言ったろ」


 一昨日の伯父が発した“もう戻れない”という言葉が頭を過ぎった。正論はいつだって耳が痛く、受け入れ難い。


「だから、大野の家にサヨナラしたい。もう、あそこに戻るのは現実的じゃないから」


 “現実的じゃない”なんて、とっくに知っている。分かっている。十分、理解している。

 高線量の放射線に曝され続けた一般家屋に、帰れる訳がない……誰に言われなくたって、よく分かっている!

 だからあの家はそっとしておこう。思い出の中に残しておこう。もう、この話は終わりにしよう!

 そう言いたいのに、脳と口が断線していて、声が出ない。


「色々調べたんだ。町民なら、午前中に申請すればその日のうちに町内に入ることができる」


 私の思いと裏腹に、父はiPadの画面を操作して、私達に差し出した。行政のホームページが表示されていて、彼はその案内の一部を指差した。


「俺、ちゃんと自分の目で見て、受け入れないと前に進めないんだ」


 聞いたことのあるような台詞。いつかの真司の言葉とよく似ていた――無理して前向きになっても後から反動がくる……一回ちゃんと悲しんで、消化して……って。


 いい加減、私も現実を受け入れろってこと?


 真司がここにいたら何と言っただろう? あのロボットみたいな調子で「行きましょう」って、言うかもしれない。


 “前に進む”ために……父の言葉を、伯父の言葉を、受け入れるべきかもしれない。そう、心が揺らいだ時。


「あたしは反対です」


 強い口調で言い切ったのは母だった。ここ数日の父の無鉄砲には寛容だったのに、今回はどうしてだろう?


「あなたが全部覚えてて踏ん切りをつけたいっていうなら構いません。でもあなたまだ、記憶が戻ってないでしょう。行くのは今じゃなくていいと思います」


 終始、敬語。こういう時の彼女は強情だ。


「俺だって覚悟してる。何だって受け入れるさ。壁が崩れてようが、庭が荒れ放題だろうが……」


「お店の売り物が全部無くなってても平気?」


 さすがの父も眉をひそめた。私もそんな話は初耳だ。


「母さん、それって……売り物にならなくて処分したっていう意味?」


 母は首を横に振った。


 私だって薄々見当はついている。認めたくない現実を、あり得ない例え話で誤魔化しているだけ。


「詳しく教えてくれないか」


 戸惑う母の肩に、父はそっと手を置いた。彼の目は、母を真っ直ぐ見つめて離さない。さっきまでの少年のような無邪気さはどこにも無かった。“夫”あるいは“父親”としての、背負うものを持つ瞳だ。


「……ちょっとお茶飲ませて」


 母はゆっくりと父の手をほどき、台所へ立った。グラスに氷を入れる音が、部屋に響く――そこに麦茶を注ぐ音も、氷にヒビが入る音も、やたら鮮明だ。


 居間に戻ってきた母は、グラスをそれぞれの前に置いて、ことの経緯を語り始めた。


「あのね、前に一時帰宅した時に分かったんだけど……あたし達があちこち避難してる間に、展示用の家電製品、一切合切盗まれてたの」


 やっぱり盗難……避難地域で空き巣被害が多発したとは聞いていたのに、なんでそれが自分の家じゃないって信じていたんだろう。自分の能天気さに、唇を噛んだ。


「警察は、転売目的じゃないかって。他県で売っちゃえば放射線量なんて測りもしないからね。展示用のパソコンも、洗濯機も、冷蔵庫も、乾電池みたいな小物まで、ぜーんぶ無いの」


 母はグラスに口をつけた。


 返す言葉が見当たらなくて、私も麦茶に逃げた。


 父は正座したまま、何も言わずに母をじっと見つめている。


「あの時、お父さん、ひどくショック受けてたわ。悲しくて悔しくて、怒りをどこにぶつけていいかわからなくて……」


 母の声がかすれた。ごまかすように咳払いしているけれど、目が潤んでいる。


 もういい。無理に話さなくていい。そう言いたいのに、言葉が喉につかえて出てこない。なんて役に立たないんだ、私。


 父が母の背中をそっと撫でた。彼だって、落ち着いて見えるが、動揺していないはずはない。その姿に支えられ、私は涙を堪えた。


「で、泥棒が窓を割ったから、家の中、猪に荒らされちゃったの。そのせいか、中のもの、線量が結構高くて、ほとんど持ち出せなかった。顧客名簿とか家族のアルバムもダメ。簡易の測定カウンター振り切っちゃった。嘘みたいでしょ。持ち出せたのは、デジカメから抜き出したSDカードくらい。このバラ園の写真もそうよ。現像して飾ってた方は、廃棄処分しちゃった」


 母は大きく深呼吸した。深く、長く、淀んだ感情を吐き出すように。


「だから、もう一度あんな思いをするってわかってて、行かせるのは反対です。わかって」


 いつも穏やかで優しい母。その母が発する、強く厳しい言葉。威圧感さえ持つ彼女は今、私の“母親”というより、父の“妻”だった。


 気持ちは理解できなくはない。私だって、真司が“あの時”と同じように憔悴してしまう姿は見たくない。

 彼の母親が心を病んでしまった、四年前――今でこそ何も無かったように飄々としているけれど、あの時の彼は、心身ともに疲れ切っていた。あの状況で、よく一つも単位を落とさずに進級したと思う。

 彼には二度とあんな経験をしてほしくないし、話を聞くことしかできなかった自分の無力さも忘れてしまいたいくらいだ。


 でも、真司だって“あの時の現実を受け入れたから今がある”わけで……


 判断が揺れる。行くべきか、行かざるべきか。


 母の背中を撫でていた父は、彼女の頭に手を載せて「ありがとう」と呟いた。


「でも、それならなおさら見に行かなきゃ気がすまねぇよ」


「え?」


 母も私も目を丸くした。


「話聞いてた? 自然に思い出すまで待てば……」


「思い出せる保証は無いし、決着は早い方が良い。こんな大事なことを後回しにしてきたなんて、俺は意気地なしだ」


 父はそう言って深々と頭を下げた。


「咲子さん、お願いします。自分の目で、全部確かめさせてください」


 彼の背中が、真司に重なって見えた。


 生半可な気持ちでないことは私にも分かる。三十年付き合っている母には、もっとよく分かっているはずだ。


 大事な人に無理をしてほしくない時ほど、無理をさせてしまうのは何故だろう。ただ、共に穏やかな日常を過ごしたいだけなのに。


「百歩譲って行くとして……」


 母が折れた。かと思うと、彼女は私の肩に手を触れた。


「充希が一緒に行くかどうかは、この子自身に決めさせて。あなたが言ったのよ。この子が自分から行きたいって言うまで……あの家にもう帰れないっていう現実を受け入れるまでは、連れて行かないって」


 現実を受け入れるまで、って……


 見透かされていた。口数の少ない父が、そこまで私を気遣っていたなんて、気づきもしなかった。不甲斐ない。


 父はというと、母の言葉を聞いて腕を組んでいる。


「そうだな……充希、どうする?」


 今までの私なら「行かない」と即答だったろう。

 でも、答えはもう決めていた。


「行く」


「大丈夫?無理してない?」


 母の問いにはすぐ頷いた。無理ならしている。でも、それを悟られたくはない。


「私、一時帰宅できるようになってから、一回も家に帰ってないから……その、そろそろ向き合わなきゃいけないかなって思う」


 本心を言えば、荒れ果てた実家なんて……朽ちかけた故郷なんて、見たくない、認めたくない。それでも、いま行かなければ、本当の意味で前に進めない気がする。


「じゃあ、一緒に行こうな」


 父の言葉に、母も渋々頷いた。


「そんで、がっかりして落ち込んだら、励まし合おう。……家族なんだから」


 父は言った。自分に言い聞かせるみたいに。



  翌朝、六時前に目を覚ましたら、両親は既に朝食を終えていて、私の分のおにぎりだけが卓袱台に載っていた。


 食事の傍ら、出かける準備をする父の様子を窺うと、その手に簡易の放射線量測定器が握られているのが見えた。そんなもの、いつの間に……いつから持っていたんだろう。日常に紛れ込んだ異質な存在に、肌が粟立つ。


 鮭味のおにぎりは、昨日よりさらに塩味が足りなかった。




 食事を終えた後、母の長袖ジャージを借りて着替え、マスクと軍手を持ち、七時にアパートを出た。


 いわき市内から大熊町に行く道はいくつかある。でも、今はほとんどの道が通行止めで、国道六号線を約一時間かけて北上するしかない。

 広大ないわき市を抜けるだけで三十分。そこから広野町、楢葉町、富岡町へ――元々両脇に山か田んぼしか無いような、眠気を誘う単調な道を、母は一度も休憩せずに運転し続けた。


 富岡を通る頃、国道沿いの田んぼに違和感を覚えた。稲の背丈が不揃いすぎるし、色も悪い――よく見たら、青々と茂っているのは稲ではなく、雑草だった。避難指示が解除されているはずなのに、人の手が入っていない。


 生まれ育った場所に近づいているはずなのに、見知らぬ土地のよう……ここは私の知っている“故郷”じゃなくなっていた。




 しばらくすると、国道の端に、プレハブ小屋の群れが見えた。スクリーニング場だ。まずはあそこで、所定の手続きをしなければいけない。

 母はウインカーを点灯させ、車はゆっくりと敷地内に進んだ。



 駐車場を歩く私達は、全員マスク姿。花粉や風邪の季節でもない真夏なのに、奇妙で仕方ない。


「あ、中村さぁん?」


 正面から甲高い声。入口をくぐった先に立っていたは、全身真っ白なツナギの雨合羽を着た二人の男女。マスクのせいで顔がよく見えないけれど、両親と同年代くらいの夫婦だと思える。


「あら磯部(イソベ)さん、ご無沙汰しております」


 磯部さんという女性が頷いた。そういえば、目元の大きなホクロに見覚えがある。確か近所の米屋さんだ。それに着ているのは合羽じゃない。防護服だ。


「お久しぶりねぇ。中村さんちもお墓参りぃ?」


 まどろっこしい喋り方。これは苦手なタイプだ。挨拶程度の会話しかしたことがないけれど、こんな人だったろうか。

 母は磯部さんに向かって、恐縮したように頭を下げた。


「今日はちょっと、家の片付けに……」


「片付けって…中村さんも大熊を出るのぉ?」


「あ、いえ、まだそこまでは考えてませんけど……」


 磯部さんに悪気は無いのかもしれないが、どこか嫌味っぽく聞こえる。早く外に出てくれればいいのに、話をやめる気配は無い。


「おめぇ、人様の家に口出しするもんじゃねぇよ」


 旦那さんが奥さんをたしなめた。


「ごめんごめん。あーあ、あたしもこの町出れるなら出たいわぁ。いっそお墓ごと引っ越して永代供養してもらおうって言ってるのに、この人折れなくてさぁ」


「当たりめぇだべ! おめぇ、ご先祖様に申し訳ねえと思わねぇのか?」


「まぁまぁ、お二人とも……」


 母が仲裁に入った。人前で夫婦喧嘩なんて、本当にやめてほしい。


「あーもう、いつもこんな感じぃ。中村さんが羨ましいわぁ。“よそ”から来た人は遠慮なく引っ越せるもんねぇ」


 “よそ”という言葉に、母が固まった。

 多分、町外から引っ越してきたという意味だろうけれど、胸に引っ掛かる表現だ。


「あ……ごめんねぇ、変な意味じゃないのよぉ」


「いいえ、根っから地元の磯部さんと比べたら、背負ってるものの重さが違うのは確かですよ」


 母は笑って顔の前で手を振って見せた。でもその直前、彼女が一瞬だけ拳を握ったのを、私は見逃さなかった。


「余計なこと言うんでねぇはぁ! 行くぞ」


 旦那さんが、奥さんの腕を引いた。


「中村くんも、体に気ぃつけてな」


 すれ違いざま、彼は父の肩を叩いた。


「あ、ああ……磯部……さんも……」


 外へ出ていく磯部夫妻の背中は、さっきの厚かましさとは逆に、とても小さく見えた。



 手続きを終え、係員から手渡された使い捨て防護服を着込んだ。紙製の雨合羽みたいな、ツナギの服で、すごく暑苦しい。さらに足元は、防護服の上から青いビニール袋を被せて留めた。放射性物質が降り積もった地面を歩くからだろうか、厳重だ。

 最後に積算線量計という小さな機械を胸に下げ、私達は車に乗り込んだ。


 自宅に向かう車中、父が母に尋ねた。


「さっきの、三軒向こうの磯部米屋だよな?」


「そうよ」


「歳のせいかな。磯部の奥さん、あんなキツいこと言う人じゃなかったのに……」


「原発事故のせいよ」


 母がため息をついた。


「浜通りの人達はね、道一本挟んだだけで、補償金の額が違うだの、補償の対象にならないだの、いがみ合いばっかり。家も仕事も失くして苦しいあたし達に、『どうせ補償金もらったんでしょ』って言う人までいる」


 私も大学時代に、他県から来ている同級生に言われた。悪い子じゃなかったけれど、その時以来、一度も口はきかずに卒業した。

 「補償金もらったんでしょ」なんて、原発事故の被害者にとって禁句と言っていい。どんなに高額なお金をもらったって、私達の日常は返ってこない。電力会社に訴訟を起こしてる人達だって、お金が一番の目的じゃないのに、そういう目でしか見れない人がいるなんて、本当に不本意だ。

 ただ、私の周囲にいないだけで、補償金でパチンコ通いをしている人間も実在するとは聞く。学生時代、インターネット上ではスクープ記事のようにそんな人達のことばかり注目されたから、私はその印象を払拭するようにアルバイトに明け暮れたし、両親が非正規でも仕事に就いた時は心底安堵した。


「……同じ大熊町の人だって、さっきみたいに土着の人と移住組とじゃ考えが違う。みんな良いご近所さんだったんだけど、もう元の関係には戻れないわ」


 粛々と語る母の言葉を聞いて、父は肩を落とした。


「そうか……いい奴だったんだけどな、磯部……原発事故さえ無けりゃ、な……」


 それっきり父は黙り込んだ。


 原発事故さえ無ければ――何万回、いや何百万回と繰り返した仮定だ。

 その度に、ノノの顔が、浮かんでは消えた。肝心な時に、私は彼女のそばにいられなかった。彼女とその家族が傷ついている時に、何の助けにもなれなかった。


「でもあのとき、電力関係の人達だって、たくさん大熊に住んでたじゃない。加害者だけど被害者でもあるから、責めるに責められないわ」


 母が電力会社を責めないでくれたのが、せめてもの救いだった。




 町内に入ると、嫌でも目に入るのがバリケード。民家も含めてありとあらゆる私有地の入り口に、金属製の厳重な柵が設置されている。


「私達の家もこうなってるの?」


「ううん。大きい道路沿いだけ。ここは許可無しで誰でも通れちゃうから、防犯対策らしいわ」


 国道から市街地に向かう交差点には、警備員が立っていた。この暑いのに長袖長ズボンに帽子をかぶったマスク姿。頑丈な防護服を着なくて良くなっただけマシかもしれないけれど、熱中症で倒れるんじゃないかと、他人ながら心配になる。

 母が先ほどの書類と運転免許証を見せると、警備員は「お気をつけて」と頭を下げ、踏切の遮断器のような柵を手で押し開いた。


 自分の家に帰るだけなのに、この重々しさは一体何なんだろう。


 ほどなく駅前通りに入る。片側一車線の細い道だけど、大熊町の主要道路だ。

 私が住んでいたときは、昔ながらの商店街がまだ息づいていた。美容室、新聞屋、菓子店、精肉店、酒屋、薬局、呉服店、建材店と続く……少し寂れてはいたが、高校時代の帰り道は、歩けばいつでも見知った顔が私の家路を見守ってくれていた。

 さっきの磯部夫妻だって、朝夕の挨拶をするくらいだったけれど、私にとって、商店街に暮らす人々は平和の象徴みたいなものだった。


 それが今は、ただの抜け殻、ゴーストタウン。

 

 震災以来、初めて踏み込む故郷は、とっくに亡くなっていた。 



 県道沿いにある父の店にはシャッターが降ろされていた。外壁は地震で入ったヒビが残ったままだし、駐車場は雑草だらけ。

 停めっぱなしの白い軽トラックの荷台には、大量の枯葉や塵が溜まっていた。その隣に車を停め、外へと降り立つ。父の手元の線量計が示す値は五.二〇三マイクロシーベルト――町外ではありえない数値。


 店の横の砂利道を抜け、自宅へ。

 玄関の手前には、以前メダカを飼っていた大きな水鉢がある。五年以上も手入れをせずに放置していたのに、よく割れずに残っていたものだ。中を覗くと、当然メダカはおらず、藻だか苔だかで緑色に濁った水の中に枯れ葉や塵が沈んで澱んでいた。

 水面に映る防護服姿の自分が、風に吹かれて醜く歪む。


 なんか、嫌だな。


 十八年間暮らし、思い出にあふれた愛おしい我が家。今や汚れた大気の中……汚れた土の上にひっそりと佇む、憐れな場所。


 濁った水も、汚れた土も空気も、今から対峙しなければいけない暗い過去も、何一つ触れずにそっとしておきたいのに。


 ガチャリ。


 母が、玄関の鍵を回す音が響いた。


 彼女を先頭に、父、私と続く。


「二人とも、足元、気をつけてね」


――ちゃんと靴、揃えなさい!


 そう言われ続けた玄関を、防護服越しの土足で無作法に進み、天井板の抜けた客間を横目に、居間へ向かう。


 父はその居間に入る直前で足を止めた。何も言わずに、部屋の中を呆然と見つめている。


 どうなってるんだろう……?


 最後に帰ってきた正月を思い出す。あの時、こたつに入りながら眺めた箱根駅伝は、いわき出身の選手が〈二代目・山の神〉と呼ばれて大活躍していて……スポーツに疎い私でも手に汗を握っていた。


 こたつの上のミカン、当時最新式だった薄型プラズマテレビ、ストーブの上で温めた甘酒……


 そんな光景、残ってないに決まっている、でも。

 現実を受け入れて、前に進むと決めたんだ。心の中で、自分に喝を入れ、父の横をすり抜けて、居間に立った。

 

 目に飛び込んできたのは、倒れたままの家具。

 割れて飛び散った食器。

 散乱した書籍類。

 乾いた泥の塊。

 獣の足跡?

 足の踏み場がない。

 畳の隙間からはツタのような植物が這い出している。

 雨戸は閉めてあるけれど、内側のガラスは割れて散乱していた。

 

 ここは、本当に私の家?


 ふと大黒柱に目を留める。打ち付けてある日めくりカレンダーは、あの日のまま――二〇一一年三月十一日のままだ。


「これでも前来た時に片付けたのよ」


 先に奥に進んでいた母が言った。中身が飛び出てカラになった本棚の下で、何かを探している。


「あった。持って帰れないけど、後で見ましょう」


 彼女が手にしていたのは、私の卒業アルバムの類だった。幼稚園、小学校、中学校……どれも父の記憶から抜け落ちている年代だ。


 よく見ようと思って母の方へ足を進めると、足元でピシリと何かが割れた。額縁に入った賞状の保護ガラスだった。


「高校生……人権作文コンクール……?」


「ああ、それよ。みんなで表彰式に行った時の」


 あのバラ園の写真を撮った時の……足を除けると、賞状には「教育長賞」と記されていた。こんな大げさな賞を取っているというのに、作文の内容はさっぱり思い出せない。


 賞状の近くに、壁掛け時計が落ちていた。落下の衝撃で壊れたのだろう、二時四十六分を示したままだった。ドキュメンタリー番組でよく見る光景――でも、これは現実だ。

 この家の時間は止まっている。あの日、あの時間で。


 急に足がすくんだ。防護服越しに、母の腕を掴む。


「母さん、ごめん、ちょっと……」


 気づいたら手も震えていた。

 体が、制御できない本能的な拒否反応を示している。もう、今すぐここから逃げてしまいたかった。


「大丈夫。あたしもお父さんも一緒にいるから」


 母は私の手をとって、先へ進んだ。


 父は、しばらく黙って居間にいたようだけれど、後からゆっくりついてきた。



 次に目にした台所は悲惨なもので。一瞥しただけで、獣に食料品を食い荒らされたのが分かった。マスク越しでもわかる、カビのような、糞尿のような、不衛生な臭い。長居はしなかった。


「じゃあ、お店に行くわよ」

 

 母は廊下を進み、店舗に繋がるドアを押し開けた。


――おーい充希、お客さんにお茶入れてくれないか。

――お手伝いしてるのかい? 感心、感心。


――ねぇ充希、お隣さんが来てるの、お茶菓子持ってきて。

――あらミッちゃん、お手伝い偉いわねぇ。


 小さい頃から我が物顔で往来したドアの向こうには、ちょっとした応接テーブルがある。私が行くといつも、誰かが笑顔で座っていて、街の電気屋さんも悪くないな、ってずっと思っていた。




 でも、そんな光景、残ってるはずがない。


 あるのはガラスを割られたショーケース達。並んでいたはずのノートパソコンや携帯電話は姿を消していて。こじ開けられたレジスターは、引き出しが失くなっていて。大型家電があった場所には、値札だけが残っていて。シャッターの内側は、ショーウインドウのガラスが無くなっていて、よく見たら、部屋の隅に、割れた破片がまとめて置いてあった。


 ここはもう、父の店じゃない。ただの廃墟だ。


 先週末、タクシーから見えた知らない電器店が懐かしかった。あっちの方が、まだ私の思い出に近い。


「シャッターはね、一応閉め直したけど、無理矢理こじ開けられて歪んじゃったみたい」


 母が店舗入口“だった場所”でしゃがみこんだ。頭上には、自動ドアのセンサーだけが、虚しく残っている。


 父は伽藍堂をになった自分の店をゆっくりと歩いた。天井を見上げながら一歩、壁を見つめながら二歩、シャッターを睨みながら三歩……


「そうだ、前に来たとき、警察に電話したっけ…」


「思い出したの……?」


 私の声に、父は黙って頷いた。

 記憶が戻っても、今までと違って、全然嬉しくない。


「一一〇番通報したときのことだけな……あーあ、悔しかったなぁ」


 父の後ろ姿が震えて見えた。泣いているのかもしれない。


「よーし、店の状況はよく分かった。二階も確認させてくれ」


 なんでそんなに明るい声で言うの? 母さんに気を遣ってるの?


「そうね。行くわよ、充希」


「うん……」


 こんなことなら、震災のことも、原発事故のことも、ずっと忘れていてほしかった。



 二階は雨漏りが酷くて、寝室の畳や、父の書斎の本棚の一部は、黒く腐れていた。開きっぱなしのクローゼットからは、高校時代の制服がはみ出していて、遠目に見ても、白いカビが蔓延っているのが分かった。三年間毎日袖を通した日常の象徴。もう着ないと分かっていても、胸が張り裂けそうで、目を背けた。

 

 一階に戻ってからは、こたつ机の上に卒業アルバムや家族写真を広げた。昔を懐かしむためじゃない。父の失った記憶を呼び起こすためだ。

 ふと、母がビニール袋に入れたスマホを取り出した。


「母さん、それ……?」


「持ち出せないなら、写真に撮っとこうと思って。スマホに変えといて良かったわ。ガラケーよりずっと綺麗に写るもの」


 そんなことをするなら、事前に教えてほしかった。私のスマホは何の防護策も施さずに車の中に置きっぱなしだ。


「これ、いつの写真だ?」


 父の声にハッとする。


「あ、これは……」

 

 家族写真を見ながら、逐一説明する。七五三、保護者参観、町内花火大会、伯父の結婚式、伯父一家とのバーベキュー……失った日常を一気に見返すうち、目の前の景色が歪み始めた。 

 気持ちを落ち着かせたくて、静かに息を吸う。マスクが邪魔だ。空気がこもる。

 でも、祖父が従姉妹の雪菜を抱き上げて笑っている写真で、私の涙腺は限界を迎えた。


「ごめん、車、戻る。鍵、貸して」


 私は母が差し出した鍵を奪うように受け取り、玄関へ向かった。


 居間を出る直前、足元の新聞に紛れて、家電広告が見えた。父の店で出した、一色刷りの安いチラシ。大きく「ロンドンオリンピックをデジタル放送で見よう!」と書いてある。


 何が復興だ、オリンピックだ。


 私達の家をこんな状態のままにしておきながら、何もなかったように生活している日本人達が、急に許せなくなった。

 目の奥が熱い。一体これは何の涙だろう。悲しいとか悔しいじゃない、叫びたいほどのやるせなさ。


 足が重い。肩も重い。腕も、指も、髪の毛の一本だって煩わしい。防護服の蒸し暑さのせいだろうか。

 玄関を抜ける。汚れた水鉢、伸び放題の雑草、停めっぱなしのトラック、荷台に溜まった枯葉……目に映る何もかもが、作り物みたい。


 五年間目を背け、押し込め続けてきた真っ黒な泥水が、私の心身を蝕み始めていた。


 心の防波堤は、もう、決壊寸前だ。


 私は車に閉じこもった。





 結局その後、私は家に戻らなかった。両親に見納めしなくていいのかと聞かれたけれど、断った。二人とも、残念そうな顔をして車に乗り込んだ。


 ごめん、私、まだ現実受け止められるほど強くなかった。


 母の運転で、再びスクリーニング場へ向かう。

 聞けば、父は警察に電話したこと以外は思い出さなかったらしい。私や家族のアルバムを見ても、他人事にしか思えなかったそうだ。


 やっぱり、私のこと、思い出せないのかな。


 ぼんやり外を眺めながら、防護服越しに腕を掻いた。痒くて痒くて不快でたまらない。

 

――がっかりして落ち込んだら、励まし合おう。


 昨日の父の言葉を反芻する。

 実際、父も母も何か前向きな言葉をかけてくれたみたいだけれど、何一つ受け止めることはできなかった。



 スクリーニング場に着いてから、私達は再び決められた手続きをこなした。積算線量計を提出したり、靴裏の放射線量を測定したりした時には、係員にcpmがなんとかと言われたけれど……もう、どうでも良かった。今は自分の健康にすら関心が持てない。


 重たい防護服を脱ぎ捨てても、肩にのしかかった喪失感は消えなかった。




 長くて単調な国道を南下して、いわきのアパートを目指す。大熊を離れるにつれて車や人影が増え、人々の営みが垣間見えた。私達の町とは、大違い。


 涙はもう出なかった。出尽くした。あの建物は、もう私の家ではなくなっていた。私の家の亡骸だった。


 もう、帰れないんだ。


 五年間ずっと逃げ続けてきた現実を、受け入れる時が来た。それだけのことなのに。


 それだけのことが、まるで錆びた鎖のように、ザラザラと心に巻きついて離れない。


 両親の会話はもう頭に入らなかった。ラジオから流れる流行歌も笑い声も、全部他人事みたい。


 私の意識は過去の面影の中を彷徨い、現実から取り残されていた。



 アパートに着き、味のしない夕食を終え、いつものように洗い物をする。

 部長は今週いっぱい休めと言ったけれど、明日にはもう東京に戻ろうと思う――洗い物を終えたら両親にそう伝えよう。


 そう、思っていた。


「充希、ちょっといらっしゃい」


 母に呼ばれて、正座する。父も母も、真剣な表情。


「充希、いま父さんと話してたんだけど……あの家、壊そうと思うの」


「え?」


 私の中の何かが、音を立てて崩れた。


 さっき自分の家だと思えなかった場所なのに、なんでこんなに大きな抵抗感があるんだろう。自分でも分からないけれど、はっきり言えるのは一言だけ。


「嫌だ……」


 あの家がこの世から無くなるなんて嫌だ。それ以上のことは何も思いつかない。


 父が母の言葉を補うように、ゆっくり口を開いた。


「家っていうのは、人が住まないと駄目になっていくんだ。壊れる前に壊してやった方が、あの家のためだと俺は思う」


 正論というのは、いつだって耳が痛くて――


「帰れるまで、何十年かかるか分からないし、その間に家もボロボロになっていく。だから、そうなる前に……」


――そして、認め難い。


「待って、父さん……」


 父は、眉をハの字にして、ぎこちなく笑った。


「充希……充希が幸せになれる場所は、もうあの家じゃない。だから、東京でも埼玉でもいい、新しい場所で自分の人生を歩みなさい」


 そんな顔で言われたら、うんと言うしかないじゃないか。こんな時に優しくするなんて、ずるい。


「嫌だ……嫌だよ! 私はずっとあそこで育ってきたんだから!」


 子供の我儘だ。今日、見てきたじゃないか。あの家はもう亡くなっている。ただの廃墟で、もう、私の家じゃない。

 そう分かっているのに……小高の土地を売りたくないと言った祖母の気持ちが今なら分かる。これは理屈じゃない。生まれ育った場所を残したい、その一心だった。


「気持ちは分かるわ、でも……」


「分かってない!」


 二人が寄添おうとしてくれているのに、それがかえって腹立たしい。


「二人みたいに故郷を捨てた人達には、私の気持ちなんか分かんないよ……」


 母が身を乗り出して、私の頬を平手で打った。


 痛い。


 頬より、胸が。心が。


「故郷を捨てたなんて……片時も思ったことは無いわ……」


 言い過ぎた、と思っても後の祭りだった。


「自分が育った家を壊す辛さは……あたし、よく知ってる。充希に言ったことあるわね? オジイとオバア、店の借金が多くて、あたしが相続放棄したこと」


「それは…」


 鮮魚店なんてもう流行りじゃなかったのに、ご近所さんが楽しみにしてるからと、借金してまで店を続けた祖父母。突然の交通事故で急逝してしまったけれど、その借金は、彼らの生命保険料を宛てても返しきれなかったらしい。


 母の生家は、震災前に人手に渡って更地になった。


「あたしだって、あの家、手放したくなかったわよ。でも、その場所に囚われて未来に進めないのなら、どんなに辛くたってその場所とは決別したほうがいい……どんなに美しい過去も、それに縋るだけじゃ無意味なの」


 理解、できない訳じゃない。でも――


「そんなの……納得できない……」


 人生で一番家族らしい時間を過ごした昨日とは、百八十度逆の気分。

 時間を巻き戻したい。昨日まで、いや、父が怪我をする一週間前……違う。

 東日本大震災も原発事故も起きていない、五年前まで戻りたい。


「ごめん」


 私はスマホを鞄から取り出して、洗面所に駆け込んだ。父が私の名前を呼んだ気がしたけれど、聞こえないふりをした。


 扉を閉めて、電話を……いや、喋るのはきつい。LINEを打つ。


 真司、私、どうすればいい? 


 彼を交えて楽しさを共有した土日も、父と二人きりでも笑い合えた今日の昼も、既に大昔の出来事みたいだ。


 残業でもしているのだろうか。いくら待っても、返事は来なかった。

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