第7話

私は大丈夫ですから、

とにかく前向いて行きましょう。

西山実里〈Forward, Again〉より



 祖母を真っ直ぐに見つめて、麗愛さんは語った。


「あたし実は、稽留流産してるんです、五年前に」


 ケイリュウ流産……? 聞いたことの無い単語だけれど、軽々しくは口にできないものだと直感した。命に関わる話だと思うと、自然と背筋が伸びる。


 でも、いくら祖母が「ハッキリ言え」と言ったからって、そんな繊細な話を人前で語るなんて……どんな顔をすればいいかわからない。


「ほんで……あんた俺の何が気に食わねがったの?」


 祖母はさっきよりもずっと柔らかな口調で尋ねた。麗愛さんの本音が響いたらしい。


「土地の話をしてる時……『跡継ぎもまだ生まれてないのに』って言ったのが、嫌でした、我慢できませんでした。あたし達の苦労なんて知らないくせに……って」


 麗愛さんは震える拳を逆の手で抑えた。


「もちろんお義母さんが軽い考えで言ったなんて思ってないです。農家の長男に嫁ぐのには、それくらい覚悟してたし……でも、あたしに限らず、産みたくても産めない人は多いんです。考え方は人それぞれだと思いますけど、夫婦が子供を持つ持たないとか、男女どっちがいいとか、簡単に口出さないでほしいんです。これ、ミッちゃんにも聞いてほしくて、だから今言いました」


「え」


 急に話題を振られても、返せる言葉がない。なんで、私?


「多分、周りに結婚してる友達いると思うけど、子供が産まれないからって、変に励まさなくていいよってこと」


 結婚している友人と聞いて、真っ先にノノの顔が浮かんだ。でも、ノノ達の家族計画に口を出す気はさらさら無いし、彼らは“私が心配しなくても子供は持たない”と思う。


「あたし、友達に『次は男の子も産まれるといいね』って言われた時すんごく悔しかった。でも良かれと思って言ってる事だからって、ヘラヘラ笑って誤魔化して……ホントはあの時……震災の時、自分の体調管理が悪かったせいじゃないかって、ずっと後悔してて……」


「いいよもう、十分だ」


 麗愛さんの言葉を遮ったのは父だった。その目には、涙が浮かんでいる。


「兄貴も嫁さんも、ずっと辛かったろ……でも二人とも何も悪くねぇし、誰も二人のこと責めちゃいねぇから……もう、いいんだよ。時間が解決してくれるから……」


 ハンカチで目頭を覆う父の肩に、母がそっと手を置いた。


「出産って、本当に奇跡の積み重ねよね……思い通りになんてならないことばっかり。でもね、レイちゃんも“私達”も、今は、産まれてきた命を大切にすればいいわ。ハルちゃんもユキちゃんも、充希も、みんな素敵な存在。私達の宝物よ」


 親になるって、そんな風に何か悟るような大きな出来事なんだろうか。

 気づいたら、私の頬も濡れていた。


 空気は重いままだったけれど、息苦しさはもう無かった。それぞれの肩の荷を分け合ったような、不思議な身軽さがあった。


「なんであんたの気持ちわがんねかったんだべねぇ……」


 祖母がため息をついた。


「俺も嫁いでしばらぐ子ができねぐでなぁ……三年経っても産まれねぇって時、お姑さんに離縁考えろって言われて心底腹が立ったっけ……」


 彼女はそっと天井を見上げた。目元が潤んでいる気がする。


「ご先祖様のこどばっか気になっで、あんたら二人のこど見てねがった……悪がったねぇ……」


 麗愛さんが震える声で祖母に応えた。


「あたしこそ、短気ですみません……あたし本当はあの家に戻りたいんです……でも、家族四人で、幸せいっぱいで、さあ三人目、も、ってときに、震災に、遭って……原発事故が……」


 言葉を詰まらせた彼女の背中を、伯父がそっと撫でた。


「お義母さん……あの家には、あたし達の夢が詰まってます。ワガママなあたし達の代わりに、どうかあの家に住んでいただけませんか……」


 麗愛さんが、初めて伯父より先に頭を下げた。

 華奢な背中に、家族への想いを載せて、力強く。

 本当に、本当に、その姿が私には眩しい。手が届かないほどに。


 突然、祖母が「はっは」と笑い出した。何かが吹っ切れたように清々しい。


「あんた、本っ当に頑固だねぇ。爺様が見込んだだけある。今頃あの世で笑ってんじゃねぇの?」


 祖母は仏壇に目をやった。遺影の中の祖父は口を真一文字に結んでいるのに、何故だろう、どこか微笑んでいるように見える。


「俺ぁホーシャセンだなんだって気にしねぇがら。あとは死ぬだけだかんな。家の手入れはしどぐから、康も丈も盆と正月くらい顔出せ! 孫の顔見せろ!」


 選ぶ言葉は相変わらずだけれど、祖母の表情に影はもう見えなかった。


「はいはい……次はハルとユキも連れてこような、麗愛」


 伯父が麗愛さんの肩を撫でた。頷いた彼女の顔には、柔らかな笑顔が浮かんでいた。



 伯父の話がまとまったあと、父の快復状況について母から説明した。伯父夫妻は、違和感こそあれど症状には全く気づいていなかったらしく、目を丸くしていた。


「よくもそんな状態で啖呵きってくれたな」


 祖母宅を出て駐車場へ向かう途中、伯父が言った。


「兄貴よ、これで俺がいかに二十年前からよくできた人間だったかよくわかったろ」


「ふざけんな」


「久々に丈さんに会って、嬉しいみたいね」


 二人の後ろ姿を見ながら、麗愛さんが“母親”のように笑った。


「伯父さん、怒ってません?」


 彼の仏頂面は祖父譲りなのか、冗談かどうかわかりにくい。


「ううん。あれ、喜んでるよ」


 向かい風に、麗愛さんの銅色の髪がなびいた。いつかのノノみたいに、凛とした顔をしている。


 つい見入っていると、振り向いた彼女と目が合った。


「……ごめんねミッちゃん、せっかくの帰省中に暗くて重い話聞かせちゃって」


 申し訳なさそうな笑顔。謝ることなんて一つもないのに。

 私は慌てて首を横に振った。


「全然謝んなくていいです! あの……さっきの麗愛さん、子供のこと本気で考えてるんだなってすごく伝わってきました! しかも、自分のことだけじゃなくて、見えない相手のことまで思いやってて……春香も雪菜も良いお母さん持ったよね」


 何気なく放った一言に、麗愛さんが立ち止まった。


 うつむいて、肩を震わせていた。泣いている? 髪に隠れてよく見えないけれど、泣いているらしかった。


「レイちゃん、大丈夫?」


 母が麗愛さんの背中をさすった。

 どうしよう。泣かせるつもりじゃなかったのに。


「あの、ごめんなさい、えっと……」


 私の言葉を、彼女は手で制した。


「いいのミッちゃん、ありがとう……今までいろんな人にダメ親とか親失格とか言われてきたから……嬉しくて……」


「そんなこと誰が……」


 彼女はジャージのポケットからハンカチを出して涙を拭き、逆のポケットからスマホを取り出した。

 見せてくれたのは、SNSのトップページ。


「このアカウントはもう使ってないけど……返信のほとんどは、全然知らない人」


 中身はいわゆる、炎上状態だった。

 麗愛さん自身の書き込みは『早く家族みんなで小高に帰りたーい』という一言。その投稿に、何百件もの返信がついている――『わざわざ危険区域で子供を放射能に晒す気ですか』『子供の健康を無視するなんて親の風上にも置けない』……なんていうのはマシな方。『馬鹿親』『キチガイ』『頭おかしい』……もっと酷い言葉もあった。

 中には擁護するものもあるけれど、圧倒的に否定的意見が多く、一個人に対する反応とは思えないほど書き込み内容は荒んでいた。


 日付は五年前の五月。原発事故から二ヶ月経った頃のもの。


 なんでこんなこと言われなきゃいけないんだろう――故郷を奪われ、故郷に思いを馳せることも許されないなら、私達は一体どうすればいい? 

 正義という名の暴力を振りかざす、見知らぬ人間達―― "こういう人達に、ノノも、真司の母親も、傷つけられた"のだ。こいつら一人残らず張り倒してやりたい。


「あたしも軽率だったけどさ」


 麗愛さんの声で我に返る。


「何も知らない人達にこんなこと言われてマジムカついて、自分でもいろいろ調べたよ。でもそんなことしてる間に仲良かったママ友はどんどん県外に引っ越して……その人達にも言われた。『大人は住む場所選べるけど子供は選べない』とか『子供の将来に責任持つのが親だ』って……でも康さんも実家の親も、気にするなとしか言わないし、ずっと誰にも相談できなくて……きょう咲子さんに聞いてもらえて良かった……」


 麗愛さんは半泣きで笑いながら母に「ありがとうございます」と頭を下げた。その頭を撫でながら、母は申し訳なさそうに答えた。


「レイちゃんごめんね、私こそもっと早く聞いてあげれば良かった。国道も高速も開通したんだし、会いに行けない距離じゃないのにね」


 母が麗愛さんの肩を抱くと、前を歩いていた伯父が気づいて戻ってきた。


「咲子さん、ありがとう。本当は俺がもっとちゃんと聞いてやるべきだったんです。結論を急ぐあまりにこんな思いさせて……ごめんな、麗愛」


 彼女は大きく首を横に振った。母の腕からそっと体を離し、伯父の方を向き直ると、彼の両腕の袖をキュッと掴んだ。


「康さんと一緒にいたい。春香と雪菜と一緒にいたい。お義母さんともっと仲良くなりたい。離婚なんか本当はしたくない。あんなこと言ってごめんなさい。これからの人生も一緒に歩いていってください」


 そこまで言うと、麗愛さんは子供のように声を上げて泣き出した。今度は伯父が、彼女の肩を抱いた。



 帰りの車中、難しい話に疲れたのか、父は助手席で大きなイビキをかいて眠っていた。


「母さん、父さんって寝るときいつもこうだっけ?」


「まさか! 風邪ひいて鼻がつまったときくらいよ」


 確かに、今日の父は泣きながらよく鼻をかんでいた。どうでもいい知識が増えて、苦笑い。


「昔の父さんってさ、涙脆かったんだね。麗愛さんの話聞いて、自分のことみたいに号泣しちゃって……」


「自分のことだからね」


「え?」


「あたしもね、レイちゃんと同じだったの」


  つまり、流産していたということ? 

 それは初耳――いや、どこかで近いことを聞いた。確か……水族館に行く日の朝、父が“私は一人っ子なのか”と言っていた時の違和感。あれだ。


「充希は小さかったから覚えてないかな。お父さんが『弟と妹どっちがいい?』って聞いたの」


 全く記憶にない。言葉が出てこなかった。でも、その心の奥底に眠る記憶が父の“一人っ子”という言葉に引っ掛かった正体なのだろう。


「でもね、病院に行ったら、妊娠はしてるけど赤ちゃんはこれ以上育ちませんって言われたの」


「そんなことあるの?」


「よくあることらしいわよ。妊娠したことのある人って実は、周りに言わないだけで、五人に一人はそういう経験があるんですって」


 五人に一人? そんなに高い確率で流産が起きるなんて、ちっとも知らなかった。


「だから、赤ちゃんがこの世に産まれて生きるって、ものすごーく尊いことなのよ」


「そう……なんだね」


 コメントしにくい。母に女性的な悩み――月経とか胸の膨らみとか――を相談するのさえ勇気が必要だったのに、こんなに重大な説法を聞くことになるなんて。


「あの時からかな、お父さんの口数が減ったの」


「そうなの?」


「安定期にもなってなかったのに、充希に“妹”を期待させて悪かったと思ったみたいよ。さっきの感じだと、思い出したんじゃないかな、あの時のこと」


 それが、父の人生の転換期――いま目の前にいる、精神年齢二十九歳の父と、私の知る寡黙な父を結ぶ点は、実らなかった命の重さを知った二十年前にあるらしい。


「二人とも、大変だったんだ……」


「そりゃそうよぉ。五十年も生きたら大変なことなんていーっぱいあるわ。でもね……」


 母はニッコリと笑った。


「良いことのほうがもっといーっぱいあるの」


 辛い経験を乗り越えて、こんなに明るく生きる母。この人の娘に生まれて、本当に良かった。



 翌朝、卵の焼ける香りで目を覚ました。

 体を起こすと、時計は七時過ぎ。ここ数日の中では早起きの部類だ。


「あら、おはよう」


 台所では母がよそ行きのブラウスを着て弁当箱に卵焼きを詰めていた。その横で、父はおにぎりを作っている。


「どっか行くの?」


 私は布団をたたみながら尋ねた。


「ごめん、今日は仕事に行くの。お昼は冷蔵庫にあるものでなんとかしてちょうだい」


「え、今週いっぱい休みとったって言ってたじゃん」


「そうなんだけど、もう一人の事務の子が風邪で寝込んじゃったらしいのよ。頑張って早めに帰ってくるから」


「悪かったな、俺が怪我してなきゃ、無理に稼ぎに行かなくていいのに……」


 父はそう言いながら、手についた米粒をつまみ食いしていた。


「気にしなくていいわ。あなたが働いてても大して変わんないから」


「ひでぇな……もっと良い励まし方あんだろ」


「あと、あなたの職場に休みの電話したのあたしですからね。感謝しといて」


「はいはいありがとうございまーす」


 今の父は、本当によく喋る。以前だったら「ああ」とか「おう」とか、単語でしか会話しなかったのに。


 母は弁当箱を巾着に入れて、仕事用らしき大きなトートバッグに手早くしまった。


「充希んとこは良い会社よね、急な帰省だったのに、一週間もしっかりお休みもらえて」


「自分でもビックリだよ。まぁ、その代わりお盆は出勤。オジイ、オバア、ごめんね」


 私は仏壇に向かって手を合わせた。また神様でもない二人に対して、父の快復を感謝し、さらに記憶が戻ることを願った。


「じゃあ行ってくるわね」


 母の声に振り向くと、彼女は既に玄関にいた。


「何かあったらすぐ連絡して」


 そう言って、扉を開けて駆けていった。


「お、おう! 任せとけ!」


 扉の閉まる音。


 無言の私と父。


 今日は二人きり――ただでさえ父とはあまり話をしてこなかったのに、私に関する記憶がほとんど無い彼と、一体何を話せばいいんだろう。



 朝食は、母の作った卵焼きと味噌汁と、父の握ったおにぎり。


 二人とも「いただきます」と言ったきり、無言。


 テレビの内容は今日もリオ五輪。私はスポーツに疎いし、父は予備知識が無い。もっと共通の話題が流れてくれればいいのに、そう都合よくもいかない。


 梅おにぎりは美味しいけれど、なんだか少し物足りなかった。握る前に塩を振らなかったのかもしれない。もう一つの鮭おにぎりも同じだった。


「ごちそうさま……美味しかったよ」


 ちょっと薄味だったけど、労いを込めて言った。


「お皿、洗うね」


「あ、あ、いいよ! 皿、俺が洗うよ。休んでな」


「う、うん……」


 ぎこちない。二人とも明らかにぎこちない。


 母が出掛けて十分と経っていないのに、早く帰ってきてほしくて堪らない。

 これじゃ神経が磨り減るばかりだ。なんとか話をしなくて済む方法はないだろうか。


 あ、あれがあるじゃん。


 真司が水族館で買ってくれた本だ。まさかこんな形で助けになるとは……東京に戻ったらきちんと御礼をしなきゃ。


 鞄から本を取り出すと、薄いプラスチック板のような物が背表紙に貼り付いていた。


 あ、持ってきちゃったんだ。


 数週間前、しまいこんだ本の中から出てきたクローバーのしおりだった。


 あの時の本も西山実里だった。真司が古本屋に売った本の山の中の一冊――〈夏の花束〉


 そういえば、あれも記憶喪失の話だった。

 記憶を失って、主人公とまだ交際しているつもりの元恋人……彼は最後まで記憶を取り戻すことはなかったけれど、主人公とは別の人生を歩んでいくという、ハッピーエンド。


 父も、このまま記憶が戻らないのだろうか。私のことを思い出さないまま……いや、考えるのはやめよう。とりあえず、しおりを適当なページに挟んだ。


 買うのを迷った、問題作だけれど、真司が買ってくれたというのも何かの縁。

 さていざ読まん、と表紙をめくったら、スマホの着信音が鳴り響いた。

 画面に表示されていたのは――


「ノノ?」


 結婚を機にイギリスに渡った親友からのメールだった。


『ナカムーへ。おはよう(こっちは夜だけど)先週はご馳走とプレゼント、それに素敵な時間をありがと〜! やっと引っ越し先で落ち着きました。ジョーの家族と撮った写真送ります。みんな良い人だよ! 長距離移動に家具の買い出し、慣れない環境にはヘトヘトだけど、それ以上にワクワクしてる。良かったら遊びに来てね!』


 元気そうで良かった。遊びに来てね、って軽く言える距離じゃないのに、すぐ会えそうな気がするから不思議だ。


「友達かい?」


 父の言葉にハッとする。洗い物を終えたようだ。画面を覗いていた?


「あ、いや、充希がすごく嬉しそうだから、友達かなって……覗いたわけじゃないよ」


 声に出していないのに悟られた。いけない、不機嫌が顔に出たかもしれない。


「ノノっていうの。中学、高校の同級生で、何回かうちにも来たよ」


「ノノちゃん……」


 父はその名に聞き覚えがあるようだった。


「もしかして、ノゾミちゃんか? 玉野さんとこの二番目の……」


「そう、そうだよ! 思い出したの?」


 彼は少したじろぎながら頷いた。


「ぼんやりと、だけどな……充希にとって、すごく大切な存在だと思うんだ」


「そう言われると照れるけど……大親友だよ。中高の五年しか一緒にいなかったけど、小中の友達よりずっと仲いいんだ。顔見たらハッキリ思い出すかな? 最近結婚して引っ越したから、写真くれたんだ」


 私はノノから送られてきた写真を拡大して見せた。金髪のイギリス人達に混じって、長い黒髪の日本人。


「え⁉ 結婚って……この人と?」


 父は、中央でノノの肩に手を載せている人物を指差した。


「うん。周囲の大反対を押し切って。今はイギリスにいる」


「はぁ……二十一世紀は……すごいなぁ」


「久々に聞いた、二十一世紀。ウケる」


 気づいたら、母がいなくても二人で笑っていた。


 なんだ、意外と話せそうじゃん。


 今は遠くにいる大親友のおかげだった。


「ねぇ父さん、昼ご飯、駅前に食べに行かない?」


「いや、外食は咲子が……母さんが怒るんじゃねぇか? 聞けば俺は不定期アルバイトで日給だけど、あっちはパートの時給制でしっかり週四勤務してるっていうんだ。さっきも節約節約って唱えながら弁当を……」


「大丈夫! 安くてたくさん食べれる場所知ってるから。それに、こんな時くらい私が払うから安心してよね」


 今なら、大人になった私の記憶が無い父とも、向き合って話せる気がした。



 母は車を置いていったようだけれど、私は無免許だし、父は運転に自信がない。という訳でバスで駅前商店街へ向かった。

 目指すのは、よくノノと二人で入り浸った、高校生でも入れる安い店だ。


「ここだよ」


「え、本屋じゃないか」


「と、思うでしょ?」


 一見すると本屋。でも私達は横にある外階段を登る。

 一畳ほどの踊り場に、小さな看板が置いてあり〈喫茶・古時計〉と書かれている。

 扉を開けると、頭上でカラカラとツリーチャイムが鳴り響いた。高校時代に戻ったみたいだ。


「いらっしゃぁせー」


 丸坊主の大柄な店長が、客の顔も見ずに叫んだ。変わっていない。愛想は無いのに安心するから不思議だ。


 以前と同じように、席につく前に注文してみる。


「特製ナポ・モカパフェセット二つお願いします」


「あいあーい」


 良かった、通じた。


 窓際のテーブル席に、父と向かい合って座った。


「なぁ、なぽもかパフェって何のことだ?」


「ナポリタンスパゲティとモカパフェのランチセット。基本的に大盛りで、サラダとスープも付いてくるよ」


「……充希は、こういうお店が好きなのか?」


「うん。有名なチェーン店じゃなくて、こういう個人経営のアンティークな感じの方が好き」


 店内を興味津々で見回していた父は、ため息を一つついてテーブルに目を落とした。いつかのノノみたいだ。何か、落ち込むことでもあるのだろうか。


「本当に大人になったんだな。つい最近ピーマン食べれるようになったと思ったら……」


 嬉しそうな、寂しそうな……実家にいる時は見たことのない表情だった。


 この数日間、父と一緒に過ごして、本当に初めて見る顔ばかり。嬉しいような、寂しいような…… 


「なぁ充希。俺、この二十年間、ちゃんと充希のこと大事にしてたか?」


 一瞬、中学時代の大喧嘩を思い出したけれど、それ以外はだいぶ自由にさせてくれていたと思う。


「父さんは……あんまり二人で話すことは無かったけど、すごく真面目で、努力家で、いつも何でも研究熱心で、技術者っていうか、技術屋って感じだった」


 言いながら、真司と同じだな、と思ったけれど、先を続けた。


「土日はお店開けてたから、一緒に出かけた記憶は少ないけど、映画に連れてってくれたこともあるよ」


「おお! 夢だったんだよ。親子で映画館に行くの……」


 SF映画を見せられて、少女アニメが良かったと駄々をこねたのは黙っておいた。


「あと、今話してて思い出したけど、私が会津の大学に行ったのはね、小さい時……」


「あい、前菜のサラダとスープ!」


 店長が思いっきり話の腰を折ってきた。相変わらず愛想がない。

 彼が去った後、父が小声で「怖いな」と呟いた。


「良い人だよ。ちなみに私達、高校時代は店長のこと〈海坊主〉って呼んでた」


「そりゃ、ピッタリだ。とにかく、いただきます」


 目の前のサラダを食べ始めたら、二人ともひたすら無言になったけれど、沈黙はもう全く苦にならなかった。




 食事を済ませた後、帰りのバスの時間まではだいぶ時間があった。歩いて帰れなくもないけれど、この炎天下を三十分以上も歩きたくはない。無理。


 という訳で、私達はアイスコーヒーを追加注文し、他愛もない話を続けた――大熊の家で伯父一家とバーベキューをした話、小高の祖父の家に親戚みんなで集まった話、ノノが転校してきてからの話、大学で学んだ情報技術の話、今の仕事の話。今までの人生で彼と交わしてきた会話の倍以上は喋ったと思う。母方の両親が交通事故で亡くなったこと以外は、ほとんど笑いながら、気楽に話すことができた。


「ねぇ、父さんの話も聞かせてよ」


「え、俺の?」


「うん。さっきから私ばっかり喋ってる」


 父はグラスの氷をストローでつつきながら答えた。


「俺はほら、この二十年のこと知りたいから、充希の話は何でも面白いけど……俺、古い話しかできねぇぞ」


 困ったように笑う父。どこか可愛らしい。まさか彼にこんな感情を抱く日が来るなんて、夢にも思わなかった。


「それでいいよ。そうだ、私、小名浜(おなはま)の話が聞きたい。水族館ができる前の」


 父は安心したように顔を上げた。


「そうか? じゃあ、二つのショッピングセンターが互いに競い合った話とか……」


「うん、教えて」


 照れながら語る昔話――中学時代に友人と小名浜で遊んだ話から、母と過ごした高校時代(初デートはSF映画だったとか)、他の店での修行時代のこと、自分の店を構えた時の嬉しさ、私が産まれた時の感動……なんだか胸がくすぐったかった。


「……でな、大型家電より、家庭用ゲーム機の方がポンポン売れたんだ。だから平(たいら)のデパートで売れ行きを見て、自分でもやってみて、これだと思うものを仕入れてた。だからこないだもポケモンを買おうと思って平に……」


 どこかで聞いたような話……確か父は、救急車で運ばれた当日に、同じことを語っていたはずだ。


「ねぇ“こないだ”ってさ、こないだ駅前で階段から落ちたときのこと?」


「ん? 確かに、それより後のことが思い出せんな。気づいたら病院にいて……」


「いらっしゃぁせー」


 店長の大声で、また話の腰が折られた。


 扉を開けて中に入ってきたのは、大柄で髪も髭も伸びっ放しの、よれたジャージを着た男性だった。


「マスター、いつもの……」


「あいよ……」


 覇気のない男性の声に、店長もしおらしく返した。


 男性はカウンター席の隅に腰掛ける寸前、私達を一瞥して眉をひそめた。気のせいかもしれないけれど、小さく舌打ちされた気がする。

 初めて会うのに、何か悪いことでもしただろうか。


「俺の知り合いかな……なんか睨まれた気がする」


 父が囁いた。仮に知り合いだったとしても、好意的な相手ではなさそうだ。


「話しかけてこないなら、大丈夫だよ」


「そうか? 」


 私は小さく頷いた。


「今の人のことも、階段落ちた時のことも、この二十年のことも、無理に思い出さなくていいよ。マイペースに行こう」


 何が何でも今の私を思い出してほしいという、いつかの焦りはもう無かった。


 ほどなくバスの時間が近づき、私達は店を後にした。



 帰宅後、夕食を済ませて洗い物をしていると、父がニコニコしながらスマホを見せてきた。


「充希、俺の投稿した食レポに〈いいね〉がついたぞ!」


「どれどれ?」


 記事の下の方にある〈1いいね〉の表示を、父は自慢げに指差した。まるでカブトムシを捕まえて喜ぶ小学生だ。


「あら、あなた達、お昼に贅沢したってわけね?」


 後ろから母が覗いてきた。意外と目ざとい。


「いいじゃん、私が払ったんだし。たまの親孝行したんだから、見逃してよ」


「それはいいの。なんであたしをノケ者にしたのよ」


「仕事だったろ?」


 口では文句を言っても、お互いに笑っている。悪い雰囲気ではない。


 慣れない土地、知らない部屋、記憶を失った父というチグハグな関係の隙間に、いつの間にか、居心地の良い場所が生まれつつあった。

 何の思い入れも無かったはずのアパートの一室も、今は、実家で暮らしていた頃と同じような、あるいはそれ以上に穏やかな時間が流れている。


「しかし本当に感激だな。携帯電話で誰でも情報発信できるんだから。画面が小さいのは見づらいけど、持ち歩くことを考えたらこのサイズだろうな」


 それを聞いて、画面の大きなタブレット端末の存在を思い出した。


「あっちのほうが見やすいよ」


 私はタオルで手を拭いて、テレビの横からタブレット――最新型のiPadを取り出した。


「ほう」


 父は卓袱台の横に腰を下ろして、慣れた手付きで操作を続けた。二十年前から先端技術を駆使してきただけあって、適応力は高いらしい。


「確かに見やすいし、操作性も良い」


 父は満足したように、ブラウザアプリを閉じた。


「あれ、これって……双葉のバラ園か?」


 確かに、懐かしい。ホーム画面の壁紙は、かつて隣町にあったバラ園だった。バラのアーチの下に、私を中心にして両脇に両親が立っている。

 三人とも両手でピースサインというベタな構図。真司がいないだけで、日曜に水族館で撮った写真とそっくりだ。


「よくこんなの残ってたね。震災前の写真なんてもう無いかと……」


 よく見ると、私は制服を着ていて、両親もスーツ姿――一体どういう状況だったろうか。父と外出した記憶は少ないのだから覚えていても良さそうなのに、状況がよく思い出せなかった。


「これ、表彰式の帰りよ。保護者同伴って言われたから、わざわざお店お休みにしたわね」


「表彰式?」


 私の?


「そう、作文の表彰式。福島まで行ったでしょ」


「すげぇな充希。そんな立派なもん書いたのか!」


 そういえば、夏休みの宿題で書いた作文を、国語の先生が地元新聞社のコンクールに応募したことがあったような気がする。中身は全然覚えていないけれど。福島市内に向けて、車で山道を走った記憶があるのは、多分この時のことだろう。


「そういや双葉も、今は帰れねぇんだよな。このバラ園も…」


 父の言葉に、胸が痛む。


 彼の言う通りだ。大熊町だけでなく、隣接する双葉町も、今なお帰還困難区域のまま、許可なく足を踏み入れることはできない。

 バラ園について言えば、確か昨年、テレビ番組でも特集が組まれていた。手元の画面の中で咲き誇っている数千のバラは、今ではジャングルのような荒野で、人知れず朽ちている。

 美しかったバラ園――枯れ果ててしまう前に“真司と行ってみたかった”けれど、知り合ったのが大学生の時だったから、仕方ない。


「ところで、ずっと思ってたんだけど…」


 父はiPadをそっと食卓に置いた。


「はいはい、今度は何?」


 母が適当な相槌を打って横に座ると、父は真剣な面持ちで背筋を正した。


「大野の家に、行かないか?三人で」


 ずっと望んでいたはずの帰郷。でもそれは、こんな形じゃない。


 押し込めていた黒い記憶の波。

 それが今、防波堤を越えようとしていた。

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