第6話

固く、固く、耳を塞ぐ。

それでも、胸に、突き刺さる。

荒野に響く、風の哀歌が。

西山実里〈11日、金曜日〉より



――じゃあね、気をつけて。


――充希も、無理しないで。


 私は駅のホームに、真司は特急列車の乗車口に立ち、しばしの別れを告げた。


 無情に響く発車メロディ。


 来週だってまた会えるのに、今生の別れみたい。


 映画でよくあるような抱擁も口づけもなく、ただお互いに小さく片手を振る。


 ドアが閉まる音。


 列車はゆっくりと発車した。


 ねぇ、やっぱり行かないで。


 言葉にできない想いを握りしめたまま、列車が見えなくなるまで、私はホームに立ち尽くした。




「充希、電話ー! 電話鳴ってるわよ!」


 母の無愛想な声で目を覚ました。


 夢の中でくらい、ゆっくり真司を見送らせてほしい。昨日の真司は駅に着いてすぐ、一言「ありがとうございました」と叫んで走り去ってしまったのだから。

 というか、どうせ夢なら思い切って抱きついてしまえば良かった。もったいない。


 それもこれも、水族館の帰りに寄った物産センターで、父が安い海産グルメに目を奪われて長居したせいだ。まぁ、私も一緒に〈ホタテの貝焼き〉とか〈焼き蒲鉾〉とか食べたし、実際とっても美味しかったけれど。おっと、涎が……


「おーい、いいのか、電話?」


 いけない、父に急かされた。朝っぱらから誰だろう。


 亀のように床を這って鞄からスマホを取り出した。電話の主は……


 職場の、部長。


 まずい。今日は月曜日――私から連絡を入れる約束だった。


「はい! お待たせしました、中村です!」


『おはよう! 早くから悪いね』


 野太い声を聞いて、反射的に正座してしまった。


『お父さんの具合、どう?』


「はい……」


 私は父の症状をいくらか省略して伝えた。命に別状は無いが記憶障害があり、思い出せないことは多いが日常生活に支障はない、という程度に。部長は神妙そうに相槌を打って、最後には『大変だったね』と労ってくれた。


「申し訳ありません、お電話いただいてしまって。有給の期日は容態次第でこちらからご連絡するはずだったのに……」


『いーよいーよ、中村さんの有給余りまくってるから! これからは社員全員に年間十日は休み取らせろって方針になりそうだし、今週いっぱい親孝行してよ。早めの盆休み。で、その分お盆はみんなの代わりに出てきてね』


 私は壁に向かって、見えない部長に何度も頭を下げた。


「充希も社会人になったのねぇ……」


 後ろで両親が声を殺して笑っていた。今更ながら、顔から火が出そうだ。


 こうして、会社の方針と部長の計らいにより、週末のうちに東京に戻れなかったどころか、さらに一週間の滞在が決まってしまった。



 今日は、祖母を訪ねて父の症状について説明する約束だった。

 不安はまだ多いけれど、快復の兆しを祖母も喜んでくれるだろう。


 昼食を済ませた後、私達は車で彼女の住む仮設住宅へ向かった。 

 20分程で近くまで辿り着いたものの、備え付きの駐車場が無いらしく、有料駐車場を利用した。少し歩けば大型ショッピングモールがあるのだからタダでそこに停めればいいのに、母は「ズルしちゃダメ」と規則に従順だった。


「あら、あの車。康(ヤスシ)さんちも来てるんじゃない?」


 車から降りて母が指差したのは、白いワゴン車。父はキョトンとしている。


 康さんというのは父の兄、私の伯父だ。今いる場所から北に百キロ近く離れた南相馬市原町区に住んでいて、私は祖父の三回忌以来全く会っていない。規則通り有料駐車場を使うあたりが、父以上に真面目な伯父らしかった。


「なんだってこんな時期に……いい加減、嫁でも見つけてきたか?」


「あのね…お義兄さんとっくに結婚して娘さんも二人いるのよ」


「え!?」


 父は冗談のつもりだったようだが、母の言葉にまごついていた。

 そういえば、伯父の結婚は父よりずっと遅く、彼の結婚式に呼ばれたとき、私は既に中学生だった。ちょうど十年前のことだから、二十年分の記憶が無い父にとっては寝耳に水らしい。


「あのカタブツにねぇ」


「そうよ、若くてかわいいお嫁さん」


 父も相当な堅物だ(と思っていた)けれど、その父より気難しいのが伯父。一度、民間企業に勤めた後、地元に戻ってきてからは農協関係の職場に勤め、高祖父の代から続く稲作を祖父とともに続けてきた。


 従姉妹が生まれてからは家族同士で頻繁に交流があって、大熊の実家でバーベキューをしたことは今でもよく覚えている。野菜をとらずに肉ばかり食べて母に怒られた。我ながら、苦笑するしかない。


 でも、震災以降、私達の距離は物理的にも心理的にも大きく離れてしまった。特に、祖父が亡くなったと分かってからは、父も伯父も積極的に会ってはいないと思う。


 震災や原発事故が無ければ、まだ家族ぐるみで楽しい時を過ごしていただろうに――二人の従姉妹のうち、長女の春香は私のことをミー姉ちゃんと呼んで慕ってくれたが、次女の雪菜はいくつか単語を話すだけだったから、私のことはもう覚えていないだろう。寂しいけれど、仕方ない。


「時間変えて出直そう」


 父の言葉で我に返った。いけない、福島に来るとどうも思考が過去に向かってしまう。


「仮設って、そんな広くねぇんだろ? ふた家族押しかけるのは申し訳ねぇよ」


「でもしばらく康さんちにご挨拶してないし……」


 二人が問答していると、歩道の方からペタンペタンという足早なサンダルの音と、誰かの話し声が近づいてきた。


「もう嫌! 無理!」


 歩道の向こうに、顔は見えないけれど、長い茶髪の女性。流行りのロックバンドのロゴが大きく描かれたピンク色のTシャツに、下は黒い長ジャージ――田舎のヤンキーみたいな服装の彼女は、太陽の下で髪を銅色に輝かせていた。


「……おい待てって」


 女性を追いかけてきた男性の顔を見て、両親と私の三人は揃って口を開けた。伯父だ。伯父が女性の手を掴んで、何かを説得しているようだった。


「なぁ、落ち着いて……」


「いいから一人にして!」


 女性がそう叫んで勢いよく手を振り解いたとき、長い髪で隠れていた顔が露わになった。よく知った顔だった。


「おい、あれ誰だ、兄貴の娘さんか?」


 父が小声で母に尋ねた。


「あれはね、康さんのお嫁さんの……」


「麗愛(レイア)!」


 母が紹介するより早く、伯父がその名を呼んだ。


 彼女は伯父と二十歳ほど歳の離れた……というか私の五、六歳年上なだけの、伯母にあたる女性だ。


 一体、何がどうなっているのだろう。随分取り乱している。


「離婚よ、離婚! もう限界!」


 同じ単語を何度も繰り返していた麗愛さん(伯母と言うには歳が近いので私はいつもこう呼んでいる)と伯父は、私達に気づくと、気まずそうに頭を下げた。


「申し訳ない、お見苦しいところを……」


「咲子さん! あたし、もう無理!」


 伯父の言葉を遮って、麗愛さんはボロボロ泣き出した。


 名指しされた母は麗愛さんに歩み寄り、その背中を撫でた。


「レイちゃん、まずは話聞くから、ね……お父さん、あたし、ちょっと行ってくるわ」


 二人は祖母の家と逆方向の、ショッピングモールの方へ向かっていった。



 残された私達は、駐車場に備え付けられたベンチに腰掛けた。ちょうど、大きな桜が木陰を作っていたので助かる。


「兄貴、今のはどういう訳だ」


 自分の症状も詳しく告げぬまま、父が尋ねた。


「……お袋と、家の話をしてきて……」


「家?」


「ああ。七月に、小高の居住制限が解除されたろ。だけど、実家は全壊だし、田んぼも畑も、瓦礫だらけのままだ……」


 伯父の返答に、父の表情が曇った。容赦なく現実を叩きつけたられたからだろう。私も亡き祖父のことを思うと、胸が痛んだ。

 それでも父は堪えたらしく、伯父の言葉に黙って頷いた。


「……けど、俺んちは山寄りに建てたし、あん時まだ築三年だったから、ある程度修理して雑草を払えば今も十分住める。だからお袋には『規制が解除されたら一緒に暮らそう』ってずっと言ってたんだ。でも、麗愛が……」


「同居、嫌なのか?」


 伯父は首を横に振った。私の覚えている限りでも、麗愛さんは祖母とそれなりに上手く付き合っていたはずだ。時折電話で母に愚痴をこぼしてはいたけれど。


「放射線の影響が怖いって言い出したんだ。除染はしてあるらしいんだが、娘達の通学路端から端まで安全じゃなきゃ嫌だ、公園の隅っこまで安全じゃなきゃ嫌だ、道路の側溝が、水たまりが……って。で、何度も話し合って、小高の家には戻らないことにした。原町にある麗愛の実家で、今のまま世話になることにしたんだ」


 帰れるだけマシなのに、そんな悩み贅沢すぎる――と言っても、彼女の意見はごく当然だ。子育てする立場からしたら、健康リスクは低いに越したことはない。

 規制解除される位だから良いだなんて、故郷が高線量のまま放置されている私の方が特殊で、感覚が麻痺しているのだろう。自分の無神経さが腹立たしくなる。


「戻らねぇとして、結局その家どうすんだ?」


 そう首を傾げた父に向かって、伯父は「すまん」と頭を下げた。


「お袋に話してから言うつもりだったんだが、丈と咲子さんに、一緒に住んでもらえないかと思ってた」


「え、俺達?」


「お前んち、もう戻れないだろ。二人とも小高には馴染みがあるし……」


 “もう戻れない”という表現が気にかかったけれど、彼の言うとおりだ。黙って拳を握った。


「待ってくれ。咲子にもちゃんと話さないと……」


「もちろん、返事はすぐじゃなくていい」


 伯父は大きなため息をついた。


「で、お袋にも言ったんだ。俺達は避難先に留まるから、丈達とあの家に住んでほしいって」


「お袋はなんて?」


「初めは黙って聞いてたよ。でも、田んぼを売るって言った瞬間、泣いて怒りだしてな……」


「そりゃ……米は親父とお袋の人生みてぇなもんだから……」


「ああ。だから『おめぇらには長男とその嫁としての自覚が無え』って厳しい言葉を食らったよ。しかも、避難生活で溜め込んでいた不満まで延々と聞かされた。でも正直、そんな反応は想定の範囲内だし、今日は意見を伝えるだけで、後で改めて話すつもりだった。ただ……」


 伯父が言葉を詰まらせた。


「一つだけ、麗愛の気に障ったことがあって……危うくお袋に殴りかかるとこだった」


「え! ばあちゃんそんなひどいこと言ったんですか?」


 つい口を挟んでしまった。麗愛さんは、少しキツそうな見た目と逆に、きめ細かな気配りができる、優しい女性だ。その彼女が人を殴ろうとするなんて、想像できない。

 伯父は答えにくそうに頷き、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。


「……前時代的だけど、世間的には、そうでもないと思う。けど、麗愛にとっては、な……それでお袋の顔はもう見たくない、縁を切りたい、離婚だなんだって言って飛び出したのを、追いかけてきた。とにかく、見苦しい所を晒してしまって、すまなかった」


 再び頭を下げて、微動だにしない伯父。かえってこっちが恐縮してしまう。


 それにしても、麗愛さんが心配だ。


 祖母は悪い人間ではないけれど、歯に衣着せないどころか、噛みつかんばかりに口調が荒い。この地方の年寄によくある話で、方言に疎い若者や旅行者を悪気なく傷つけてしまう。

 麗愛さんは隣町の出身とはいえ、方言慣れしていないようだったから、祖母の口の悪さを真に受けたのかもしれない。


 私が頭を抱えていると、突然、父が無言で立ち上がった。

 何事か、と思った瞬間、彼は平手で伯父の頬を打った。


「なっ……父さん何考えてんの⁉」


 止める間もなかった。いくら兄弟でも、失礼過ぎる。


「謝んのは俺らにじゃねぇ。嫁さんにだろ!」


 声を荒げた父を、伯父は頬に手をあてて呆然と見つめた。


「てめえの女房に辛い思いさせてまで、家だの田んぼだのこだわんな! つうかお袋のことも土地のことも先に俺に相談しろ! そりゃ俺は次男だから大したことできねえかもしんねぇけど……お袋の面倒くらい見てやっから、自分の家族守ってやれよ!」 


「父さん、その辺に……」


 こんなに感情的な父を見るのは初めてだ。


 あれ? 本当に初めて?


 いやどっちでもいい。とにかく、父を止めようにも、あまりに激しく矢継ぎ早に言葉を放つので、強く出られない。


「嫁さんが子供のこと一番に考えてるなら、自分が嫁さんのこと一番に考えてやれよ! いつまでも古いもんにしがみついてたら、前に進めねぇぞ!」


 そこまで聞いて、伯父は何かに気づいたように唇を噛み、父を見つめ返した。その表情に、父が気圧されたようにも見える。

 

 膠着状態……大人の兄弟喧嘩って、どうやって仲直りするんだろう。私はその場で固まったまま、二人の顔を交互に確かめた。


 先に口を開いたのは父だった。


「……すまん。言い過ぎた」


 そうだ。言い過ぎでやりすぎだ。もっと謝った方がいい。


「いいや」


 伯父はゆっくり立ち上がり、ズボンの埃を手で払った。


「お前の言う通りだ。麗愛は娘たちの未来を考えてて、俺は背負ってきた過去にこだわってた。目が覚めたよ」


 再び頭を下げた彼が添えた言葉は「ありがとう」だった。

 とにかく、後腐れない結果に落ち着いて、何よりだ。


「麗愛を迎えに行ってくる。すぐ追いつくから、向こうでお袋の愚痴を聞いてやってくれないか? 俺のことは言いたいように言わせてくれ。面倒に巻き込んで悪いが……」


 そんな大役を父に任せていいのだろうか。今の父は精神年齢二十九歳。見た目に反して感情的で、楽観主義者だ。


「おう、任せとけ」


 父は伯父の背中をボンと大きく叩いた。


 一見、頼もしく見えるから、本当に困る。



 一昨日の記憶を頼りに、祖母の家を目指した。


 仮設住宅の敷地には、小綺麗なプレハブ小屋が十件以上並んでいる。


 家、というか、小屋。無機質な箱の群れ。


 築百年とも言われた大きな農家に住んでいた祖母は今、一人で何を思って生活しているだろう。

 ふと、マスメディアが「独り暮らしのお年寄りには心のケアが必要です」なんて報じていることを思い出して、心配が募る。

 でも、こんな時ばかり良い孫ぶるなんて、少し都合が良すぎるか。そう思った時だ。


「父さん、あれ……」


 整然と並ぶプレハブの中に、違和感。一軒だけ、中途半端に玄関が開いている。

 祖母の家だ。


「ねぇ、さっき伯父さん達が出てから、結構経ってるよね?」


 最悪の光景が浮かぶ。怒りで血圧が上がって倒れたのかも……父と顔を見合わせて、先を急いだ。


「お袋、上がるぞー」


 父が玄関から声をかけた。


「勝手にどうぞぉ……」


 小さな返事。祖母らしくない。

 玄関から居間を覗くと、祖母は雑誌の束を枕にして横になっていた。


「玄関、開いてたけど、大丈夫?」


 こちらを見向きもしない。きっと機嫌は最悪だ。


「なぁ。実はさっき兄貴に会って話聞いたんだ。急に色んなこと言われてビックリしたべ? 俺もだ。ちゃんと相談してほしいどな。ちっとゆっくり話すべ」


 父が言った。祖母に寄り添うように、方言を強めて。


「どうせ俺が悪者なんだべ?」


 そう言って祖母はゆっくり体を起こした。


「嫁コに意地悪な姑なんだべ? 俺なんが早ぐ死ねばいんだべ? あーあ、爺様、早ぐ迎えに来てくんちぇ……」


 祖母は仏壇に向かって両手を合わせた。仏壇には、遺影や位牌の他に、まだ墓に納めていない骨壷が布に包まれて置いてある。


「あ……」


 突然、父が呟いて靴を脱ぎ捨てた。


「便所、どこ……?」


 そんな呑気な……と思ったのも束の間。酔っ払いみたいに足取りが怪しい。


 祖母が「そこの角に」と言いかけた時、父は両手で口を抑えたかと思うと、駆け足で目の前の台所に走っていった。


 流し台に、液体の飛び散る音――父が嘔吐する音が、響いた。


「丈、なじょした⁉」


「父さん、大丈夫⁉」


 まさか怪我が悪化した? 病院が見逃しただけで脳に異常があったかも? 私も急いで靴を脱ぎ、父を追った。


「う……」


 ひどく不快な、酸味のきつい臭い――父は背中を大きく上下させて息を荒げ、咳き込んだり、再び嘔吐したりしていた。私は背中をさすろうとしたが、彼は肘でその手を払った。


「大丈夫、自分で片付ける……汚えから、ばあちゃんとこ行ってろ」


 鬼気迫る表情に、私は頷くしかなかった。




「さっきはすまん……親父の最期を思い出しちまって……」


 父は麦茶に口をつけながら、先ほどの奇行を弁明した。


 記憶が戻った? 祖父の遺影を見たからだろうか。真司の仮説とは少し違うけれど、きっかけはやはり家族に関することらしい。


「体の右半分、無かったんだよな」


 知っている。通常の葬儀は行えず、初盆の時に耳にした程度だけれど――火葬前に身元がわかったのが幸運だったとも聞いた。


「おめぇ、全部思い出したのが?」


 祖母が身を乗り出して父の顔を覗き込んだ。


「あ、いや断片的なんだ。花火大会のこととか、浪江に行ったこととか……今の……親父のこととか」


 父は忍び泣いた。


「地震の直後は、生きてたんだ。心配でメールしたら『俺より出先の婆様が心配だ』なんて返事よこして……何が『二階なら大丈夫』だ……もっと強く避難を勧めておけば……」


 地震の直後は生きていたのに――東日本大震災の死者のうち大多数は、二時四十六分の大地震ではなく、その約一時間後の大津波に飲まれて亡くなった。祖父も、その一人だ。


 最後に会った正月が思い出される。もう大学生だった私に、お年玉をくれた祖父。「ハタチになったらやんねぇぞ」と言って珍しくにっこり笑っていた。


 目の奥が、熱くなる。慌てて鞄からハンカチを取り出すと、父も皺だらけのハンカチで鼻をかんでいた。


「見つかったのは夏前だったけど……だいぶ腐敗が進んでて、顔なんか見たって、本当に親父かどうか分からなかった」


 ダメだ、耐えられない。

 私はハンカチで目を押さえながら二人の会話を聞いた。


「だども、おめぇら兄弟がくれたこいづのおかげで、爺様に会えだ……」


 引き出しを開けるような音と、ビニールの擦れる音。


「還暦祝いの防寒着、三十年近く使ってだ」


 目の上のハンカチをよけると、祖母は透明な袋に入れられた、ボロボロの黒い布切れを持っていた。ウインドブレーカーの切れ端と思われるその裏地には、太字で「祝還暦・中村長介」と刺繍されている。


 祖母はビニール越しに布切れを固く握り締めた。


「二人とも優しい子だと思ってだのに……康ときたら……いらねぇもん体良く押しつけで、大事なもん手放そうとしで、俺の言うことなんぞちっとも聞かね!」


 父が祖母の横に座り、そっと背中をさすった。


「家も無え……納屋も無え……道具も無ければ……土地だけあってもしゃあねぇ……わがってんだけんちょ……」


 祖母の震える声に、抑えた涙が蘇ってきた。ハンカチ、ハンカチ。

 私が慌てている間に、父は祖母の嘆きを受け止めていた。


「俺も腹立ったわ……急に言われても困っどな。でもよ、兄貴も嫁さんも真剣みてぇだし、もう一回話してみっぺよ」


「やンだ!」


 祖母は頑なに首を振った。


「孫らのこど俺がら遠ざけて……今日も嫁コの実家さ預けて連れてこねがった!」


 父は黙って祖母の言葉に頷き続けた。


「爺様いなぐなった俺がら、これ以上何を取り上げてぇの? 爺様が残した土地……あれも無ぐなったら、骨しか残らねぇべした……」


 そんな、取り上げるだなんて……


 祖母の思考は悲観的な方向にねじ曲がっていた。

 どうすればいい? なんと声をかければ…… 

 父の方に目をやると、彼は困ったように笑っていた。


「でもお袋……本当は分かってんだべ? 兄貴がお袋の腰に気ぃ遣ってっこと……俺らの小せえ時からずっと辛そうだった。今の歳なら、もっと辛いはずだ」


「それぁ……」


 祖母の表情が一瞬和らいだ。

 父なら、祖母の心を開けるかもしれない。そう思った瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。


 私が玄関を開けた先にいたのは――


「おじさん! 麗愛さんも……」


 後ろには母の姿も見える。


「さっきは一方的にこっちの希望ばかり話して悪かった。お袋の気持ちもしっかり聞きたい……だから、何度も申し訳ないけど、時間をください」


 伯父は深々と頭を下げ、麗愛さんもそれに続いて頭を下げた。祖母は「やめな」と顔をしかめながらも、彼らに向かって正座した。


「話はしてやるけんちょ、おめぇらの思い通りになっかわがんねぇぞ?」


「覚悟は決めた。上がらせてもらう」


 こうして、中村家の家族会議が始まりを告げた。



 私は台所を借りて六人分の麦茶を用意しながら、それぞれの顔をちらりとうかがった。

 全員が思いつめたような表情――とても穏やかな話し合いは想像できない。


 私が盆を片付けて末席に座ると、祖母が「で?」と伯父に問いかけた。


「まず、時間をとっていただきありがとうございます」


 伯父は頭を下げ、麗愛さんも続いた。


 礼儀正しいどころか、かしこまり過ぎてよそよそしい。他人行儀さで不安になる。


「で、土地の話だが……お袋は俺が何も言わなかったら、あの土地どうするつもりでいた?」

 

 祖母は眉をひそめた。


「津波で流れできだゴミ片付けで、また米やるべって……」


 しどろもどろ。祖母だって、きっと本当は分かっている。それが現実的でないことくらい。


「お袋。よく考えてくれ。海水をかぶった上に、未だに瓦礫だらけ……あれを個人でどうにかするのは難しいと思わないか」


「親戚らに手伝ってもらえば良いべ! ほれ分家の……」


「従兄弟らみんな小高を離れて会社員やってる。それぞれ生活があって、頼めないよ。それに今は本家分家って時代じゃない。わかるだろ?」


「わがんねぇ! 中村家っつったら江戸時代から続いてんだ。爺様もその爺様も、ずーっと守ってきた土地だど!」


 中村家が誇る、豪農としての栄華。でも、それは祖母自身の経験ではなく、彼女が家督の嫁として受け継いだ過去の歴史だ。

 歴史の長さだけで生き残れるほど、現代の農業は易しくない。祖母の訴えは哀しいばかりだ。


「……お袋の苦労は、俺らよく知ってる。隠居の婆様に厳しく言われてたのも覚えてる。でも、お袋はもう、自分のことだけ考えていいんだよ」


「ほんなの……ご先祖様に顔向けできねぇ……」


「これはもう、家柄や地主の力で片付く問題じゃない。だから土地を売ったって、お袋が責任感じることはないんだ」


 祖母は、末席の私にも見えるくらいに、肩を震わせている。

 それでも伯父は言葉を続けた。


「……俺だって悔しい。親父と一緒に世話した大事な土地だからな……でもご先祖様だって、俺らがしがみついて荒れていく土地より、別の誰かの手に渡ってでも綺麗に蘇る土地を見たいと思うんだ……丈はどう思う?」


 二人を見守っていた父は、祖母を見据えて冷静に答えた。


「俺はかまわん。元々家業を継がずに独立した身だ。家督の言うことに異論はねえ」


「……二人とも、ご先祖様の墓の前で、同じこど言えんのが?」


 祖母の問いかけに、父は深く頷いた。

 伯父は、祖父の遺影を一瞥した後、祖母の目を真っ直ぐ見つめた。


「親父が生きてても、同じことを言うよ」


 流れる、沈黙。


 私ごときが何か言える空気ではない……とりあえず、お茶を一口いただく。母も、一口。麗愛さんも、一口。


「隣に……」


 祖母が振り絞った言葉は震えていた。


「隣に住んでた山上さん、田んぼ売ったって聞いだ……斜向かいの赤木さんも、補償金もらってとっくに仙台さ住んでるって……聞こえんのはそんだけでねぇど……『本家のくせにご先祖様に合わせる顔が無いねぇ』『ご近所の恥晒しだねぇ』……人様の目の厳しいこと厳しいこと! おめぇにそんな目ぇ向けさせるなんて俺ぁ耐えらんねぇ」


 祖母の目から大きな涙がこぼれ落ちた。


「何より康おめぇ、農協と商工会どうすんだい。土地なぐしたら、あっこにおめぇの居場所ねぇぞ」


――おめぇの居場所ねぇぞ……


 一瞬、何かが頭をかすめた。それが何なのか思い出せないけれど、祖母の言葉には深く納得できた。

 この狭い田舎には村八分の文化が根強く残っている。味方にすると心強いが、他所者、裏切者に対する陰湿な仕打ちは恐ろしい。


「居場所なんか最初から無かったさ。一回、民間務めした人間だからな。商工会にいる同級生達から陰口叩かれてんのも知ってる。だが、商店街の復興イベントだって、今じゃ俺が音頭とってるんだ。小高から逃げたまま帰ってこねぇ口先だけの連中とは違う自信がある」


 強く言い切った彼には、駐車場で別れた時とは違う覚悟を感じた。

 逆境に負けない強さが、眩しいくらいだ。


 祖母は拳で涙を拭った。


「……ちっとも納得できねえけんちょ、土地の話はわがった。で、家は?」


「それはな……」


「康さん、あたしに話させて」


 伯父の言葉を遮ったのは麗愛さんだ。自信なさげな、でも力のこもった声。


「康さん、本当は納得してないでしょ。康さんが話すあたしの意見はどっか嘘っぽいの。お義母さんに伝わってない気がするから、あたしに話させて」


 彼女は伯父の目を真っ直ぐ見つめた。

 後押しをしたのは母だった。


「康さん、お義母さん、麗愛さんのお話、聞いてあげてください」


 二人は、無言で頷いた。


 麗愛さんは固い表情のまま、その思いを語り始めた。



「お義母さん。本当はあたしも第二の故郷と決めた小高に帰りたいです。お世辞じゃなくて本気で。でも、五年も離れてる間に、土地がどれだけ放射性物質で汚されたか分かります?」


 祖母は首を傾げた。

 私も正確には知らない。というか、本当は知りたくない。


「そりゃとんでもねぇと思うけんちょ……キレイにしてあんだべ?」


「大通りとか公共施設はそうです。でも、一歩細い道に入って、溜まった泥や落ち葉を測定すると、結構な数値になるんです」


 目を背けたい、現実。

 除染されている小高がそうなら、五年間全く手つかずの大熊なんて、人が住める訳がない。


「ずっと触ってなけりゃ、平気でねぇの?」


「毎日何年も登下校の度にその空気を吸ったら、結構積み重なるんです……もう何もかも心配なんですよ。自分一人だけなら、小高でも浪江でもどこに住んでも構わない。でも子供が一緒だと話は違うでしょ? 将来どんな病気になるかわかんない。だから少しでも放射線量の低いとこで過ごしたいの!」


 徐々に感情的になる、麗愛さんの口調。いつも従姉妹たちに向けていた笑顔とは、全く逆の、厳しい表情。


「……でも周りは線量の話なんか全然しないし、話題にするだけでハブかれる雰囲気まであって……どの情報が本当かわかんないし……そんな不安な状態で、小高に戻れません。子供育てられません。戻って後悔するくらいなら、戻らないほうがいいんです」


 彼女の決意は、固かった。

 現実から目を逸らさずに向き合ってきた、真剣さ。

 祖母と争ってまで、子供達を守ろうとする、“母親”としての強さ。


 どこかで見たことがある。

 ノノだ。

 形は違っても、逆境を乗り越えてきた彼女の真っ直ぐさに、よく似ていた。


 どうして、私の周りの人達は、こんなに眩しく生きてるんだろう。どうすれば、私もこんな風に強くなれる?


「あーあ!」


 突然、祖母が腕を天井に向かって伸ばし、麗愛さんの顔をじっと見つめた。


「あんた、しゃべれんじゃねぇの」


 彼女の意外な言葉に、一同が唖然とした。


「あんたのな、康の後ろにくっついでずーっと黙ってんのが気に食わねがった。何考えてんのか、さっぱりわかんねぇ。でもちゃんと脳ミソ入ってたんでねぇか、その変な色の頭にも」


 伯父が「馬鹿にすんな」と立ち上がろうとしたが、麗愛さんが袖を掴んで止めた。 


「小高に戻りたくねえ理由はわがった。でもあんた、まだ本当に言いてぇこと言ってねぇべ」


 麗愛さんが顔を強張らせた。


「黙ってねぇでハッキリ言え。そでねぇと俺も答えらんねぇ」


 そんな口調で言うから、何も言えなくなるのに。もっと優しい言葉で言ってくれれば……と思っても、怖じ気づいて口に出せない。


 空気が重い。息が苦しい。 


 ただならぬ表情の麗愛さんを見て、ずっと黙っていた母が仲裁に入った。


「レイちゃん、無理しなくていいわ。お義母さん、ちょっとデリケートな話なんです」 


「いえ……ちゃんとお話、します」


「でも……」


 麗愛さんは、祖母の鋭い目を見つめ返した。


「ちゃんと解っておいてほしいです。私だけの問題じゃなくて、これから先、他の誰かを傷つけないためにも……あたし、さっきお義母さんが土地のことで怒ったとき、一個だけ我慢できない言葉があったんです」

 

 一同が、麗愛さんの言葉に耳を傾けた。


「あたし、実は……」

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