第5話
しんしんと思い出は降り積もる。
春来れば溶け流れ、涙に還る。
西山実里〈左手のアクアマリン〉より
1
鰹出汁の香り。
そっと目を開けると、私は見知らぬ部屋で、慣れない布団に入っていた。
ああ、いわきの家にいるんだった。
今いるのは両親のアパートで……多分、いま母が味噌汁を作っているのだろう。
昨日の小名浜(おなはま)からの帰りは大渋滞で、家に着いたのは真夜中だった。一体何時のことだったか、軽くシャワーを浴びて、すぐ眠ったと思う。
真司はバスと電車を乗り継ぐと言っていたけれど、ちゃんとホテルに帰れただろうか。彼はいつも楽観的だ。でも――
――思い出せるかもしれません!
その真司の言葉に救われた。父はかき氷事件(と私は呼んでいる)のこと以外は何も思い出さなかったけれど、全く回復しないわけじゃない。希望はある。
魚の焼けるにおい。
背中越しにたくさんの生活音が聞こえる。母は包丁で何かを刻んでいるし、父は新聞を開閉していて、遠くでは洗濯機が回っている――音だけなら、大熊の実家と変わらない。
目を閉じて、実家で暮らしていた十八年間に思いを馳せた。あの家庭菜園で採れたトマトを丸かじりしたい。キュウリは味噌をつけて食べたいな。ナスは炒めるのもいいけど、味噌汁に入れてもいい。庭の水鉢の中で泳ぐ金魚を眺めて、涼しげな風鈴の音を聞いて……
ああ、大熊の、大野のあの家に、帰りたい。
涙が横に流れた。
不安、希望、不安……あれこれ考えると疲れる。やめよう。
私は頭までタオルケットをかぶり直した。
こもったテレビの音声に混じって、両親の声が聞こえる。
《……水泳競技では次の選手が予選を突破!……決勝は日本時間の……》
「本当にこれリオデジャネイロなんだなぁ」
「そうだってば、何回言わせるのよ。ついでに次は東京よ、東京」
「はぁ……」
今の父の中では、“オリンピックといえばアトランタ”――テレビに写るリオ五輪の中継に、時の流れを感じているらしい。
「そこに寝てんの、充希なんだよなぁ」
「そうよ。まだ実感無い?」
フライパンで何かを炒めながら尋ねる母に、父は「よくわかんねぇ」と答えた。
「高校生ん時の咲子に似てるとは思う」
母の笑い声が聞こえた。ずっと疲れているようだったから、元気になったようで安心した。
二人は私の狸寝入りに気づかず、自分達の思い出話に花を咲かせた。母は青春時代を赤裸々に語り――お互いの高校が近かったので昼休みに逢引したとか、電車通学の母を、帰る方向の違う父が駅まで送り迎えしたとか――それに父が「よせよ」と照れるのを聞いて、吹き出さないように堪えるのが大変だった。
最初は面白く聞いていたものの、そのうち罪悪感の方が大きくなってきた。盗み聞きはやめて、そろそろ起きよう。そう思った時だ。
「なぁ咲子」
真剣そうな声色で、父が言った。
「充希は、一人っ子なんだな?」
なんでそんな当たり前のことを聞くのだろう。私は生まれてから二十五年、ずっと一人っ子だ。疑ったこともない。
「うーん……もっと落ち着いた時に話すわ。だからほら、そのネボスケさんを起こしてちょうだい」
父に小さく肩をゆすられて、私は初めて目を覚ましたように「うん、おはよう」と言った。我ながら台詞が棒読みで怪しかったが、猿芝居が二人に気づかれることはなかった。
些細な引っ掛かりのことは、アジの開きを食べる頃にはすっかり忘れていた。一人暮らしではまず食べない、手間のかかる料理……味わい深い。
食卓での話題はほとんど昨夜の花火のこと。まぁ、父も私も母の言葉に相槌を打つだけだけれど、昨日の今頃は考えられなかった和やかさだ。
その朝食も終わりかけの頃、母から唐突な提案を告げられた。
「ねぇ充希、今日、水族館行かない?」
「水族館?」
箸を置こうとしたら、誤って床に落としてしまった。
「なんでまた?」
私は箸先を拭きながら母に尋ねた。
「お父さん、行ったことあるのに覚えてないって言うから。ね?」
母にそう言われた父は、米を頬張りながら無言で頷いている。
「それに家族で行ったこと無かったでしょ? せっかくだからおばあちゃんも誘って、ね」
一昨日の祖母の顔が浮かんだ。仰々しく老い先短いと嘆いていた彼女――口が悪いから気づきにくいけど、よく考えたら、言葉の一つひとつは弱気だった気もする。
本当は昼前の特急に乗る真司を見送りたい。でも彼には東京でまた会えるし、今日は祖母を労ってあげよう。
「わかった。準備するからちょっと待って」
食器を片付けてすぐ、私は真司に見送りに行けない詫びの連絡を入れ、化粧道具を持って洗面所へと急いだ。
「返事はやっ……」
化粧を終えて戻ってくる数分の間に、真司から新着メッセージが三通届いていた。彼いわく――
『夕方の特急に乗る』
『俺も行く』
『いま近く』
意味がわからない。なんだか嫌な予感がする。
詳細を尋ねようとスマホをタップし始めた時、玄関で呼び鈴が鳴った。母が小走りで扉を開けると――
「おはようございます!」
聞き慣れた声――真司だ。いやいや待ってほしい。なんで約束もしていないのにこの家に?
「あら、今日はメガネじゃないのねぇ」
「はい!コンタクトレンズを利用しています!」
玄関先で母がどうでもいい会話を繰り広げている。
焦る気持ちを抑え、私は落ち着いた表情を作って玄関に向かった。
扉の外に立っていたのは、やはり真司。
着ているのは上下濃紺のスーツ――昨日、彼のスポーツバッグに入っていたものだ。暑苦しい事この上ない。
「なんで、ここに?」
「一緒に水族館に行こうと思って」
「それにしても早すぎない?」
真司を怪しむ私を、後ろにいる父が「まあまあ」となだめてきた。妙に、明るい。
「父さん、変だよ?」
「そ、そうか?」
訝しげに父を見つめていると、真司が一歩進み出て私の肩を叩いた。
「充希、お父さんは俺達が映画の予定をキャンセルしたことに心を痛めて、水族館に行くことを勧めてくれたんだ。確かに水族館はスマホゲームのイベントスポットにはなってるけど、ただ遊びたいだけじゃない。責めないでくれ」
「ゲーム……イベント……」
「あ、なんなら充希“も”フレンドになって一緒にバトルしようよ」
合点がいった。
父と真司は、既にスマホゲーム上の友達になっている。そして真司は私より先に父から水族館の誘いを受けていた……ていうか娘に内緒で娘の彼氏を遊びに誘うか普通?
父はばつが悪そうに笑っている。いくら精神年齢二十九歳とはいえ、彼の破天荒にはため息を隠せない。
「いいじゃない充希。男の人ってのはね、いつまでたっても子供なのよ」
母の格言を、私はしっかりと心に刻みつけた。
2
駐車場では車の上に陽炎が揺らいでいた。いまボンネットに卵を落とせば目玉焼きができると思う。
ドアを開けると、火傷しそうなほどの熱気が飛び出した。何回かドアを開閉して空気を入れ替えてから、真司と並んで後部座席に座った。彼はさすがに上着を脱いだけれど、ワイシャツ姿は堅苦しい。昨日とギャップがあり過ぎだ。
「さ、行きましょ」
母が運転席に乗り込んだ。
「また母さんの運転? 父さん、傷まだ痛むの?」
以前は車で出かけるとなれば父が率先して運転をしていた。長距離でもなかなかハンドルを譲らないくらい運転好きだったのに、今は黙々と助手席でシートベルトを締めていた。
「お父さんね、オートマ運転するのが怖いんですって」
「え?」
マニュアル免許を持っていながらマニュアル車を敬遠する人は多いが、その逆はあまり聞いたことが無い。
「怖いとは言ってねぇ。人様を乗せるのに、乗りなれない車を運転する自信が無えって言ったんだ。俺が普段乗ってるのは仕事用の軽トラだから……」
途中まで言いかけて、父は口籠った。
「軽トラに『乗ってた』って言うのが正しいのかな」
一瞬、胸の風穴を、寂寥感が通り抜けた気がした。
これも、記憶喪失の弊害――今の父にとって、乗り慣れていると感じているのは、大熊に置き捨てた二十年物のマニュアル運転用トラックなのだ。
「だからな、怖いわけじゃあない」
「あなた、言い訳は良くないわ」
「言い訳じゃねぇ、事実だ」
「はいはい分かりました出発しまーす」
でもこの調子なら、本人もそこまで気にしていないようだし、まぁいいか。
母が車のエンジンをかけた。
ほんの数分後、父は激しく落ち込んでいた。
彼が祖母に電話をかけた時、スピーカー無しでもよく響く大声で「今おめぇ入院しているはずだべ」「ふざけんでねぇ」等と説教されたからだ。
とても水族館に行こうなんて言える雰囲気ではなかった。母が機転を効かせて明日詳しく説明すると約束したけれど、そうでなければ小一時間は怒鳴られていたと思う。
「あなた、元気出して」
「そうだよ。ばあちゃん、父さんのこと心配してただけなんだし……」
全く失笑しそうだ。頭の怪我や記憶障害のことじゃなくて、親に怒られた親を励ますなんて。
「おう……わかっちゃいるけどよ……」
父が大きく肩を落とした時だ。
「誰にでも過去はあります! 大事なのは今です!」
真司がいきなり叫んだ。心臓に悪い。励ましてくれるのは嬉しいけれど。
「……そういうわけで、目的地到着後のご当地イベント攻略について作戦を練りましょう。どうぞアプリを起動してください。あ、充希もフレンドになる?」
そうくるか……私が満面の笑みで首を横に振ると、二人はスマホゲームの攻略法について語り出した。
外を見れば、よく晴れて気持ちの良さそうな青空だ。私は開きかけの窓を全開にした。
頬を撫でる夏の風は、ほんの少しだが、今まで抱えていた苛立ちや不安を忘れるほどに心地良かった。
大丈夫、越えられない壁は無い。一歩ずつ未来に進んでいこう。
3
ゲーム談義を聞き流していると、目的地に着くのはあっという間だった。真司の気遣いのおかげか、父はすっかり元気を取り戻している。昨日といい今日といい、真司がいてくれて本当に良かった。
駐車場は、開館直後だというのに、既に半分近くが埋まっていた。前日は花火大会の屋台村だったとは思えないくらい、車、車、車であふれている――おまけに全国各地のナンバープレートが選り取り見取りだ。入場口から遠い場所に停めることにはなったが、昨日の臨時駐車場と比べれば断然近い。
「小名浜もホンット変わったなぁ」
父が呟いた。逆に私は水族館ができる前の小名浜を知らない。機会があれば、父に昔の話を聞いてもいいと思う――機会があれば、の話だけど。
券売所は混み合っていたので、母が「あたしに任せて」と代表で列に並んだ。途端に、寸暇を惜しんでか、父と真司の二人はスマホの画面をひたすら連打し始めた。例のスマホゲームらしい。私も誘われたが、丁重にお断りした。
ゲーマーと呼ばれる人種の熱意は驚異的だ。まさかこんな身近に二人もいたなんて、世の中分からないことだらけだ。
それにしても、久しぶり……
私がこの水族館に来たのは三回目。一回目は小学校の社会科見学会のとき、二回目は高校の友人達と夏休みに遊びに来たとき――もちろん二回目はノノも一緒だった。
どちらも観た内容はろくに覚えていない。唯一記憶しているのは「親潮と黒潮が出会う海」がキャッチフレーズの巨大水槽トンネルだけ。
家族で来たことはない。学校が休みの土日は両親が店を開けていたし、店が休みの日は私が学校に行っていたからだ。ならば父がいつここに来たのかというと、電機設備の点検のときと、商店街の慰安旅行のときだと母が語っていた。
「お待たせ〜。はい、チケット」
母から入場券を受け取ると、後ろで父と真司が「よし」と小さくガッツポーズをとっていた。微笑ましいような、気恥ずかしいような……可愛らしいような。
入場口を抜けると、少し遠い場所に、ガラス張りの大きな本館が見えた。
正式名称を福島海洋科学館というそうだが、通称を〈アクアマリンふくしま〉という。東北最大級を謳うこの施設は、その愛称に相応しく、宝石のように輝く巨大な曲面ガラスが建物を覆っている。太陽光を反射してきらめくその姿は、離れた場所からでも圧倒的な存在感を放っていた。
でも、その本館に辿り着くまでが長い。
「まだ着かねぇのか?」
「そうねぇ、敷地には入ってるみたいだけど」
両親の言う通り、屋外に川辺や滝を再現した展示は、涼しさを与えてはくれるけれど、水生生物にはなかなか出会えない。
「前に来たとき、こんな場所あったかしら?」
母が首を傾げた。この展示に見覚えが無いのは、私も同じだ。震災の後、作り直したのだろうか。
「去年、新設したそうです!」
真司が私達にパンフレットを配りながら解説を始めた。いつの間に手に入れたのだろう。こういうところは抜け目ない。
「ここは〈縄文の里〉といって『渓流、滝、湿地を配し、豊かな縄文時代の自然を再現してい』るそうです」
「いやぁ、丁寧な解説、助かるなぁ」
父が真司の背中を叩いた。馴れ馴れしい。いつの間にそんな間柄になった? そんなにスマホゲームで信頼が深まるのか……不思議でならない。
「百槻くんは、ここに来たことあるのかい?」
「いえ、初めてです」
「え、嘘……」
小さく言いかけて、やめた。真司がそう言うなら、そういうことにしておいた方がいい。
幸い、周囲のざわめきに紛れたのか、両親がそれを追求することはなかった。むしろ真司が最適な観覧ポイントを熱く語り始めたので、食い入るようにパンフレットを見つめている。
「真司くんのおかげで、水族館が十倍楽しめるわ。この調子で色々教えてね」
優秀なツアーガイドに、両親は頼りっきり――嬉しいような、疎ましいような、複雑な気分。でも、数年ぶりに訪れた水族館だ。せっかくだから、楽しむことにしよう。
ちなみに、記念すべき最初に出会った生き物はカワウソだった。
4
順路を進むにつれて、マリンブルーの大きなガラス天井が青空を覆い始めた。建物の壁面自体は白、あるいは明るいグレー。でも、それをすっぽりと覆う美しい丸屋根の下にあっては、引き立て役のようなものだ――その建物の中に展示があるのだから、ガラス天井こそが飾りなのだけれど、この巨大な芸術作品を抜きにして〈アクアマリン〉を語ることはできない。
「何か見覚えない?」
入館直前、母が父に問いかけた。昨日のような閃きを期待したけれど、残念ながら、彼は黙って首を横に振った。
「ま、仕方ないわ。そういえば前に来たときはねぇ……」
気落ちするでもなく、母は慰安旅行の思い出話を続けた。
悲観は気分で楽観は意志だ、なんて誰かが言っていたっけ――私も母のようにありたいと思いながら、瞼の裏に焼き付いた、いつかのノノの頼もしい背中を思い出した。
館内に入り、私達は様々な展示を鑑賞した。
最初は化石や標本を用いた生命十億年の歴史展示。それから地味な印象の川魚の展示を抜け、迫力満点のトドやアザラシを見て、珊瑚礁の海の美しさに魅了された、その先。
そこにあるのは、壁一面に広がる巨大水槽。中央にある、三角形のトンネルが特徴だ。人の流れに乗って、ゆっくりとトンネルに足を踏み入れると、父が感嘆の声を上げた。
「わぁ、すげぇ……」
天井一面に大海原が広がっていた。頭上では、魚の群れが力強く泳ぎ回る姿が、海面から差し込む自然光に照らされて銀色にきらめいていた。何回来ても、この迫力には圧倒されてしまう。
「ここは〈潮目のトンネル〉です。進行方向左手に沿岸の海を、右手に外洋をイメージしているそうです。水量千五百トン、館内で一番大きな水槽です」
真司の説明どおり、左右の海の片方はアクアマリン、もう片方はエメラルドグリーンの美しさで輝いている。色味が違って見えるのは、展示されている岩や海藻のせいだろう。
トンネルを抜けた先で、展示生物の説明を眺めた。イワシ、カツオ、マグロ……なんだかお腹がすいてくる。寿司、刺身……海鮮丼も美味しそうだ。
ふと気づくと、隣にいる父も、説明を読みながらお腹をさすっていた。その向こうには、都合よく寿司店の看板も見える。こんな場所に出店するとは、この水族館には策士がいるに違いない。
「なぁ、俺が出すから、昼メシはあそこにしないか?」
「ダメ」
あっさり、母に一蹴された。さすが節約家は手厳しい。
「こういう所は観光料金でお高いんだから、〈ララミュウ〉に行くまで我慢してちょうだい」
「はいはい大蔵大臣様」
大蔵大臣とはまた古い……変なところで彼の記憶喪失を実感する。
「ところで、ららみゅーって何だ?」
〈ララミュウ〉は、水族館の外にある観光物産センターのこと。海の幸が驚く安さでたくさん食べられるのだと、母が丁寧に解説した。
おかげでますます空腹が募るばかり。外に出るまで我慢できるか、すごく心配だ。
5
さらにいくつかの展示を観覧した後、一階に続くスロープへ差し掛かった時だ。
真司とゲームの話題で盛り上がっていた父が、急に足を止めた。
「これ……」
一瞬、鳥肌が立った。
彼の視線の先にあるのは、震災当時の被災状況や全館復旧までの歩みを記録した写真展示。最初の一枚に写っていたのは、瓦礫だらけで泥にまみれた場所――おそらく最初に通ってきた一階部分だ。人的な被害こそ写っていないけれど、抗いようのなかった自然の驚異の爪痕が、生々しく記録されている。
「大変だったのよ、どこもかしこも」
母がそっと父の手をとった。
彼が当時の被災地の様子を目にするのは、退院してから初めてのことだ。私自身も、ここまで鮮明な写真は見たことがなかった――というか見るのを避けてきた。横にいる真司も、さすがにこの時ばかりは黙り込んだ。
「見たことある……こういう光景……」
父は掲示された写真を人差し指で撫でた。解説文に目を通しているようだった。
示されていたのは、当時の職員が現場でどれだけ必死に生き物達の命を守ろうとし、そして叶わなかったか――その後、国内外の協力で展示生物を預かってもらったり、譲ってもらったりしたことがいかに感謝すべきことだったか、というような内容だ。
「思い出してほしいことは多いけど、あの時のことは無理に思い出さなくていいわ」
「うん」
父は母の手を引いて順路をゆっくりと歩き始めた。
「まぁ、自分のことは全然思い出さねぇんだけどさ、こういう歴史、知れて良かったよ。津波が来たなんて、インターネットで見ただけじゃ実感わかなかったし……それに、みんながどれだけ一所懸命に生きてきたか、よく分かった。たくさんの人が協力して、ここまで元通りにしてくれたんだな」
まるで教科書通りの綺麗な解答だった。
でも、そんなことが聞きたいんじゃない。
母は無理に思い出さなくていいと言った。でも、私は父に「思い出したい」とか「思い出せなくて悔しい」とか言ってほしかった。もっと利己的な、自分の記憶に対して貪欲な言葉を聞きたかった。
一階に降り、小中学生で賑わう体験コーナーを抜けると、大きな土産店があった。
両親が、明日祖母に渡すための菓子を買いたいというので、二人が品物を見繕っている間、私は深い意味もなく書籍関連のコーナーに立ち寄った。
「あ!」
思わず声を上げた。西山実里の新刊が置いてあったからだ。
水族館関係の図鑑や絵本に紛れて、〈VOICE〉と題された白黒の砂浜の表紙が並んでいた。いつか見つけた〈夏の花束〉とは真逆の、地味で目立たないデザイン。
手にとると、副題として〈〜亡郷者達〜〉と小さく書いてあった。故郷を、亡くした者……私達のことだと、直感した。
何の因果があって、この場所でこんな本と出会ったのだろう。
その疑問はすぐに解決した。帯に「福島県相馬市在住の西山実里が記す、被災地のリアル」と謳われていたからだ。
確かに、彼女が浜通り北端の相馬市に移住したという話はどこかで耳にしていた。ノンフィクション小説を書いたとも。でも私が好きだなのは恋愛小説だったし、社会人になって本を読む時間も減ったから、気にも留めていなかった。
あの溢れんばかりの熱量で愛を語っていた彼女の目に、私達の故郷はどんな風に映ったのだろう。でも、亡くした故郷への思いなんて、自分だけでも受け入れきれないのに、他の人の声なんて聞ける気がしない。
帯を見て、悩み。
目次を見て、悩み。
パラパラとめくったら、何回か“原発”の文字が見えて、買うのをやめた。今の私には、重すぎる。
本を元の場所に戻そうとすると、その手を後ろから誰かが止めた。
「迷ってるなら俺が買うよ」
真司だった。
「充希の好きな作家だろ。遠慮しなくていい」
「……覚えてたんだ」
「初めて会った時も読んでた」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「こないだ箱で処分したばっかりだし……」
「読み終わったらすぐ売ればいい。ほら」
真司はそう言ってレジに並び、何かの小物と一緒に本の会計も済ませてしまった。
「はい。帰りの特急の暇潰しに」
ビニール袋の中から取り出した本を、真司は無造作に手渡した。
「ありがと。あ、お礼にあっちのレストランでアイス奢るよ」
両親に内緒で、名物らしき〈海竜アイスモナカ〉を二つ買った。私はバニラ味、真司は抹茶味。土産店の見える場所に腰掛けて、急ぎながら食べた。
「……しかし何でもあるな、この水族館。初めて来たけど、感動だ」
真司がモナカを頬張りながら言った。感動していると言う割に抑揚なく喋るので可笑しい。
そういえば、本当に“初めて”来たんだ。
さっき彼の言葉に感じた引っ掛かりが解けた。
「本当に初めてなんだね……“この辺”の小学生はみんな行かされてると思ってた」
たいてい“浜通り地方”の小学生は、学校行事で一度はこの水族館を訪れる。“真司が通った小学校も例外ではないだろう”と思っていたけれど、そうではないらしい。
「俺の学年は一回も当たらなかったんだ。ここが出来た年も次の年も、俺らは仙台とか会津で。家族で来たこともないし……ああ、ハッキリご両親に説明できなくてもどかしいよね、ごめん。東京に戻ったら父親と兄貴に相談してみるから……」
昨夜の彼の言葉――彼の家族が泣く泣く転居を繰り返した理由を思い出した。
「ううん、無理しなくていい」
また、彼を責めるような言葉を口にしてしまった。私って、本当に成長してない。
真司が一口分けてくれた抹茶味のモナカは、ほんの少し、苦みが強かった。
6
両親と合流して出口に向かう途中、湾状の砂浜が見えた。釣りをする親子、バケツ片手に砂遊びをする子供に、水辺を走り回る子供――小さな海水浴場のようだった。
「いい風ねぇ……外の空気吸わない?」
母の提案で、私達は砂浜の外縁にある遊歩道を散歩することにした。
屋外は、日光がジリジリと肌を刺したが、吹きつける磯風が涼しさを運んできた。
「ここは〈蛇の目ビーチ〉という人工の入り江です」
真司がパンフレットを片手に解説した。
「磯・干潟・浜という海辺を再現している、世界最大級のタッチプールです」
真司の言葉を最後まで聞かないうちに、父は歩道から一メートルほど低い砂浜に勢いよく飛び降り、両腕を空に向かって高く伸ばした。
「あー! なんだか浪江の海みたいだなぁ」
「え?」
浪江というのは、母の地元の町だ。
「ほら、オジイとオバアに連れてってもらったろ。充希が貝殻拾ってる時に手ぇ切って大泣きして……」
「それ、私が四年生の時だよ!」
割れた貝の先端で人差し指の腹を切ったからよく覚えている。私も砂浜に降り、今も微かに残る傷痕を「ほらこれ」と父に見せた。
「父さん、思い出したんじゃん!」
大きな声を上げた私の後ろで、母が苦笑いした。
「浪江かぁ……水族館じゃなくて、そっちを思い出したのね」
彼女はどこか寂しそうに見えた。多分“今は更地になっている生家”を思い出したのだろう。少し、はしゃぎ過ぎた。
「あなた、どうして浪江のこと思い出せたの?」
「自然に浮かんできたからよく分かんねぇよ」
「充希さんに関わることだからではないでしょうか?」
探偵気取りの真司も砂浜に降りてきた。
「今のところ、昨日の花火の話と今日の海の話の共通点は充希さんが泣いていたという点です」
「ちょっと……人を泣き虫みたいに言わないでよ」
真司は私を無視して続けた。
「それか、お母さんもご一緒だったのなら、家族に関することとか……いずれにしても、具体的な出来事を思い出せたのは嬉しいですね。絶対に結果は出ますよ」
普段は理論的で“絶対”という言葉を使わない真司が、力強く言い切った。
「ええ。きっと、大丈夫」
母も、優しく頷いた。
本館を後にすると、子連れの客が記念撮影している場面に出くわしたので、足を止めた。
「よかったら撮りますよ」
真司がカメラを持っている男性に声をかけた。彼は「助かります」と頭を下げて家族のもとに走った。
はしゃぎながらヒーローの変身ポーズをとる男の子達と、照れながら同じポーズをとるその両親。見ているだけで心が和む。
彼らをぼんやり眺めていたら、父が何やら手渡してきた。
「これ、あげるよ」
「何この……生き物」
〈ゴンベエ〉という名札を付けた黒いナマズのようなキーホルダー。“不細工な生き物”と口にしなかっただけ偉いと思う。
「百槻くんが買ってくれてたんだ。三つあるから、母さんと三人でお揃いにしよう」
「あたしと何?……あらかわいい!」
本当に? このナマズが? 母は声を上げて喜んだ。
「シーラカンスのゴンベエでしょ? さっき着ぐるみが歩いてたわ」
ああ、この水族館のマスコットキャラクターか。
ナマズ……もといシーラカンスのゴンベエ。緑色のつぶらな瞳は、ずっと見ていると何かを訴えかけてきそうだ。扱いに困ったので、ひとまず彼を鞄に放り込んだ。
真司の方を見ると、さっきの男性が礼を述べて去っていくところだった。
「皆さんも、せっかくだから並んで!」
真司が叫んだ。手には既にスマホを構えている。
「え、でも……」
私が戸惑っていると、母が背中を押した。
「せっかくだから、行きましょ」
父も背中を押されて、さっきの家族が立っていた場所に向かって歩いた。
親子三人で、私を真ん中にして並ぶ。
「充希、背ぇ伸びたなぁ……」
「ホント、ちっちゃかったのにねぇ」
「何それ、いつの話?」
私は背筋を伸ばした。
こんな風に肩を並べるのは、いつ以来のことだろう。気恥ずかしいけれど、どこか懐かしい。
「行きますよー」
真司の声にハッとして彼が持つスマホに目線を向けた。
「はい、チーズ……OK! ポーズとってもう一枚いきましょう」
「お、どうすればいいんだ?」
「そうねぇ。充希、何がいい?」
「え、えーと……」
私達がモタモタしているうちに、通りがかった別の男性が撮影役を代わってくれたようだ。真司が父の隣に駆け寄ってきて「ピースでいきましょう」と両手でカニの動きをして見せた。
一同は両手でピースサインを作り、男性の号令に備えた。
「はい、チーズ!」
後で真司から送られた写真の中では、両手でピースサインを掲げている四人の大人が、ぎこちなく笑っていた。
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