第4話
最後に笑うのは自分。
そう思えばどんな悲劇も貴方の引き立て役よ。
西山実里〈パンドーラーと私〉
1
混み合っている店内で、威勢よく頭を下げた真司は人目を引いた。
「ちょっ……え?」
私が右往左往している間に、彼の肩を叩いたのは母だ。
「そんなにかしこまらなくていいわよ〜! ほら頭あげて、ね」
満面の笑み。どこか楽しそうだけど、私はそれどころじゃない。入院しているはずの父がここにいることも、真司が奇想天外な自己紹介をしたことも、受け入れきれない。情報量が多すぎて頭がショートしそうだ。
私の動揺などお構いなしに、母はさっき私達の使っていたテーブルの横に、もう一つテーブルを寄せた。
「立ち話もなんだし、みんな座りましょ。ね?」
とりあえず、その提案に頷く。
向かいに座っていた真司は私の横に座り直し、真司の食器が置いたままになっている席に母が腰かけた。彼女が机上の呼び出しボタンを押すと、それを珍しそうに見つめながら、父がその横に腰を下ろした。
もう、何から聞いて何から話せばいいか分からない。私はただ、両手を膝の上に乗せてかしこまり、テーブルに置きっぱなしの食器を凝視した。
世に見る芸能人や政治家達は、突撃取材に卒なく対応しているけど、一体どんな訓練を積んでいるんだろう。今この瞬間だけその極意を教えてほしかった。
「充希にこんな真面目そうな恋人がいたなんて、お母さん嬉しいわ〜」
会話の主導権を握った母は、まるで恋愛話をする女子高生のように目を輝かせている――これは面倒なことになりそうだ。
一方、記憶喪失中の父は、岩のように強張った顔で固まっている。私だって同じだ。前触れもなくこんな状況になったものだから、愛想笑いもできなければ、社交辞令も浮かばない。
「あらお父さんったら緊張しないで。充希はまだ結婚してないから寂しがらなくても大丈夫よ。でもこんなに素敵な彼氏さんなら大歓迎よね〜」
本当に? こんな格好でも? 真司が着ているキャラ物のTシャツを横目に見ると、彼は「恐縮です」と頭を下げた。
眉間にしわを寄せた父は、頷きそうで頷かない微妙な動きをしている。そうだろう、いくら真司が魅力的な人間だとしても、こんな休日の寝起きみたいな格好に、良い第一印象は期待できない。
「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」
「あら早くて助かるわ。コーヒー二つと、お水二つお願いします」
上機嫌な母。昨日病院で取り乱して泣いていたとは思えない。“あんな状態”だった父と呑気に店を歩いて、一体どうした心境の変化だろう。
が、そんな心配も束の間、店員が去るやいなや、彼女の鋭い眼光が私を捕えた。
「で、充希。シンジくんとはいつからお付き合いしてるの? 知り合ったのはどこ? どんなところが魅力なの?」
父に遠慮なく興味津々。こちらから聞きたいことも多いけれど、この場はとにかく彼の株を上げなければ……! 私は混乱しているなりに精一杯頭を回転させた。
「あ、改めて紹介するね。百槻真司君。大学の同級生で……実は付き合ってもう五年くらいになります」
横にいる真司が、膝に手をついて、テーブルに頭突きしそうな勢いで深く頭を下げた。
母はずっと口角上がりっぱなしの笑顔だけれど、父は品定めをするような目で私達を見つめている。
「えっと、ちょっと融通効かないとこもあるけど、真面目で、優しくて、何でも一所懸命で……あ、私とは学部学科が同じで、大学のボランティアやってて知り合ったんだ」
本当はそんな一言で片付けられない逸話があるのだが、それをここで話すのははばかられた。
「それで、ほとんど同じ授業とってたから、自然と会う機会も多くなって、よく話すようになって……で、目指すところが同じっていうの?それで気が合って……今もお互い同じ業種だし。ね、今は東京でSEやってるの」
普段の仕事上のプレゼンならもっと的確に話せるのに、今は伝えたいことの半分も言えていなかった。何せ準備ゼロのぶっつけ本番な上に、相手は身内で失敗がきかない。
もっと彼の良さを伝えたいのに――焦っていると、父がゆっくりと首を傾げた。
「あの……えすいー?っていうのは、会社の名前ですか?」
「え?」
就職するときに「SEになる」と言って話が通じていたのに、二十年前の知識で止まっている今の父には通じなかったようだ。そんなに新しい単語だったろうか。私が説明しようとすると、真司が突然立ち上がって、どこからか取り出した名刺を差し出した。
「SEは一般的にシステムエンジニアリングの略称です。僕も充希さんと同じく、コンピュータのシステム開発会社に勤めております。ホームページ作成からアプリケーションの開発まで、ご要望がありましたらぜひ弊社をご利用ください」
今はそういうタイミングじゃないと思うよ――声には出さなかったが、心の中で開いた口が塞がらなかった。休日仕様の彼氏が父親に自社の営業活動をする光景なんて誰が想像できるだろう。シュール過ぎる。父も父で起立して素直に両手で受け取っているし、もうこの会話の流れが掴めない。ゴールはどこだ。
「あいにく名刺は持ち合わせていませんが、中村丈です。電器小売店を経営して……ました」
父の言葉に迷いがあった。私と母にとっては五年前手放した店でも、彼にとってはつい昨日も営業していた我が城だ。
「……本当に閉めちゃったの?」
母に小さく尋ねた父は、事実を認めきれていないように見えた。
「ええ、そうよ。それはそうと……」
母はそう言って、雰囲気を紛らわすように父の持つ名刺を覗き込んだ。
「ドウヅキさんって珍しいお名前なのねぇ。一回じゃ読めないわ。とにかく二人とも座りましょ?」
父が「うん」と腰掛けたあと、真司が「失礼します」と続いた。
しばし、無言。
真司の長所を必死に考えたけれど……浮かぶのはさっき差し出された紙ナプキンの束とか、暑いのにホットコーヒーを差し入れてきたこととか……両親への紹介には不向きな内容ばかりだ。
私があれこれ悩んでいる間に、固い表情の父が、ぎこちなく身を乗り出した。
「ところで百槻君」
「はい」
真司は背筋を伸ばし、母からも笑顔が消えた。これはもしや、いわゆる父親としての交際認定面接?
一気に高まる、場の緊張。
飛び出しそうな心臓を押さえながら、私は彼の言葉に耳を傾けた。
「いま着ているTシャツは……スターウォーズ エピソード5のボバ・フェットだね?」
再び、沈黙。
ちらりと母の方を見ると、彼女と目が合った。言わんとしていることはきっと同じだ。
なんか違う。
普通は「娘のどこに惚れたんだ」とか聞くんじゃないだろうか。もちろん急に聞かれても困るけれど、それより先に出てきた単語がSFキャラクターとは、発想が斜め上過ぎる。
女性陣が唖然としている傍ら、真司は目をキラキラと輝かせて答えた。
「はい! 僕、5が一番好きなんです」
ずっと固い表情だった父に、初めて笑みがこぼれた。
「いやぁ、わかってるねぇ」
父は映画の見所について語り始め、真司も楽しそうに頷いている。置いてけぼりの私と母は、再び目を合わせ、大きくため息をついた。
2
結局、私の心配とは裏腹に、父はSFオタクの真司とすっかり意気投合してくれた。あまりに二人が話に夢中だったので、届いたコーヒーは私と母がしっかり美味しくいただいた。
そのコーヒーを飲み終えても彼らのSF談議は止まらなかったので、会話の隙を見計らって、今度は私が質問を投げかけた。
「ねぇところでさ、退院は月曜じゃなかったの?」
真司との会話が途切れたのを残念そうにしつつも、父は最初よりずっと柔らかい表情で「ああ」と頷いた。
「入院しててもしょうがないから、先生に無理言って退院してきちゃったんです。思い出せないもんは思い出せねぇし、別に日常生活は不便しねぇし。むしろ二十一世紀だから色々便利でしょ?携帯電話でインターネットができるなんて最高ですね」
「そんなのアリ?」
「あ、まぁ、こうして今ここにいるんで……」
言葉遣いがものすごく不自然ながら――まだ私を家族と認識しきれていないのだろう――ここまでよく喋る父を私は見たことがなかった。精神年齢二十九歳だから成せる勢いなのだろうか。昨夜の医師の仏頂面が目に浮かんだが、彼を説き伏せたとは恐れ入る。
「で、歩いてたら周りが見えにくくて。なんか俺、目が悪くなってたんですね。眼鏡は持ってるらしいけど、なくしちゃったみたいで、じゃあ駅前でオシャレなやつを作ろうってなってここに来た訳ですよ」
最初の緊張した表情は、もうどこにも無かった。私は「はぁ」とか「へぇ」とか気の入らない返事をしたけれど、ありえない事だらけで、話に着いていくのがやっとだった。
「もうね、俺タイムスリップしたと思うことにしたんですよ。二十年後の未来に来たんだと。いやぁ昨日は本当にびっくりした! 咲子の……妻の顔を見たら白髪が多くて」
母が父の肩を無言で叩いた。昨日も思った通り、やはり彼女は白髪を気にしているようだ。
「ごめんごめん。最初は一日で白髪が増えるほど心配かけたのかって反省したけど、二十年も経ってちゃ仕方ないですよね」
母は父の耳を掴んだ。
「相当心配しました。反省し、て、く、だ、さ、い!」
彼女が父に丁寧語を使うときはたいてい怒りが込められている。今のは相当だ。
「ごめんって……で、充希はもう二十五歳だって聞いて、なんだ結婚適齢期じゃないか、って思ってたところで二人と会って。てっきりもう結婚してるのかと思ったんですよ」
適齢期二十五歳という表現に、今度は私がカチンときた。
「あのね父さん、今の時代、初婚年齢は平均三十超えてるの。未婚女性に適齢期とか言ってるとセクハラになるよ」
「そ……そうなのか」
父は気まずそうに頭をかいた。
「申し訳ない……あの、あー、改めて、さっきは、勘違いしてすみませんでした」
彼の平謝りに、今度は私がたじろいでしまった。
「そんな丁寧に謝らなくても……」
「はい!」
唐突に母が挙手した。
「二時からタイムセールなの。そろそろ行かない?」
母は自分の腕時計をコンコンと指で叩いた。こんな時にまで安売りに気を回すとは、大した節約家だ。
彼女の提案で四時に駐車場で待ち合わせることにして、私と真司は服を買いに、両親は眼鏡を買いにそれぞれの店へと別れた。
顔を合わせる自信の無かった父。でも、会ってみれば和やかな雰囲気で、昨夜の悲壮感は嘘のようだった。
両親の背中を見送った後、私は横にいる真司のシャツの裾を掴んだ。
「ありがとね」
「ん? 何が?」
こういう所は鈍い彼。少し照れくさくて、私は掴んだ裾を小刻みに振りながら言った。
「もし真司がいない状態で父さんに会ってたら、今みたいに落ち着いていられたか分かんないから」
「ああ、そゆこと?」
私は柔らかな気持ちで、彼を正面から見つめた。
「だから、今日はわざわざいわきまで来てくれて、ありがと」
そして彼の手を取り、目的の店へと足を進めた。
3
服飾店の他にもいくつかの店舗を歩いて回り、時刻はあっと言う間に四時を迎えようとしていた。荷物が多くなってしまったが、真司が半分持ってくれたので助かった。
待ち合わせ場所へと歩きながら、いつも以上にたくさん他愛もない会話をした。映画の話、東京に戻ったら行きたいお店――先日ノノと食事をした店――や、今朝のニュースや昨日見られなかったテレビ番組の話――そのうち、真司の趣味の話になり、先ほどの父の話題へと変わっていった。
「それにしても、父さんがSF好きだなんて知らなかった」
キャラ物Tシャツの話といい、タイムスリップという発想といい、私の知る寡黙な父とはかけ離れた印象だった。私が知らないだけで、若い頃はそういう趣味を持っていたのかもしれないけてど、いずれにしても、父が真司に良い印象を持ってくれて助かった。
「うん。ただね……エピソード1から3はまだ見てないって言うから、ネタバレしないように必死だったんだよ」
恋人の親を気遣うポイントがそこか――ズレているけれど、いつも通りで逆に安心する。
「お気遣い感謝いたします」
慇懃無礼に言いながら、ふと、小さい頃、父がいわきの映画館に連れて行ってくれたことを思い出した。いつかの夏休み――あのときの映画も、確かSFだった気がする。興味がなかった私は、変身物の少女アニメの方が見たかったという感想を持っていたと思う。
「私は少女アニメの方が好きだったからなあ。格好良い王子様キャラも出てくるし」
そう言いながら、私は真司の服装を改めて見つめた。
「私の王子様もさっきの店で服買えば良かったのに」
私が服を買った店では男性物も扱われていたのに、彼が眺めていたのは値引きコーナーだけで、今年の新作には目もくれなかった。
「俺はこの服に誇りを持ってるの。聞いて驚けこのデザインで千円だよ」
真司はTシャツのキャラクターをトントンと指差したけれど、デザインと値段のどちらに彼の誇りがあるのか、私にはよくわからなかった。適当に相槌を打っていると、彼は自分の腕時計をちらりと確認した。
「充希は大丈夫そうだし、ご両親にも会えたし、お父さんも元気だし、俺、次の特急で帰るよ。充希も帰ったら家族とゆっくり過ごしな。せっかくの機会、大事にしなきゃ」
彼は服装には気を遣わないが、こういう気遣いはしてくれる。その基準について迷うことはたまにあるが、彼が誠実で正直であるということは間違いない。この人とならこれから先ずっと一緒にいてもいいと思える。
――結婚、するんでしょ?
不意に、ノノの疑いを知らないような眼差しが頭をよぎった。
そういえば、真司はさっき、結婚は“まだ”していなくて“真剣に検討”していると言っていた――私自身は、これまで一緒にいて楽だとは思ったことはあるけれど、結婚という具体的な行動には思いが至らなかった。いや、まだ仕事をしたい気持ちや、親戚付き合いの煩わしさが、その思考を邪魔していたのかもしれない。
結婚? いやいやまだまだ早いでしょ。何を考えているんだ私! 結婚なんてまだ……結婚なんて……ああもう!
別なことを考えて気を紛らわせなければ――とにかく周囲の店に目を凝らそう、看板を黙読しよう、そうしよう。
「どうかしたの?」
「けっ⁉」
よほど挙動不審だったらしい。まずい。もっともらしい言い訳を考えようとしたけれど、「結婚」のニ文字以外は何も思いつかない。
「えーと……」
ぎこちなく彼と反対の方向に顔を向けると、花火大会のポスターが目に入った。
「あ! 小名浜(おなはま)の花火大会、今日なんだ〜」
私は咄嗟にポスターに書いてある日時や場所を読み上げた。とにかく頭の中を埋め尽くしている文字を上書きしないと、まともに話もできない。
「わかった」
突然、真司が一人で頷いた。
「一緒に花火見に行こう!」
「あ、その、今たまたまポスターが目に入っただけで別に行きたいわけじゃ……」
「大丈夫、乗車券はまだ買ってない」
そうじゃなくて、と私が言う前に、彼は素早くスマホを操作して、清々しく言った。
「宿とった。終わりまで一緒にいられるよ」
猪突猛進というかなんというか、本当に真っ直ぐなのだ、この人は。彼の行動力に負けて、私達は今晩、小名浜港で打ち上げられる花火を見に行くことになった。
4
駐車場で落ち合った父は、買ったばかりだろう黒縁眼鏡をかけて、ベンチで吸いかけの煙草を持ちながら、隣に座る母に何やら不満を語っていた。
「消費税八パーセントってなんだよ。高すぎだろ! 千六百円も税金取られるなんて納得いかねぇ……」
どうも眼鏡の値段に不服らしい。
「タイムセール中だったからこれでもお得なのよ」
「っつっても……」
父は言葉の途中で咳き込んだ。母に反論しようとして焦ったのかもしれない。
彼が煙草を手にしている姿を見るのは十年ぶりだ。それに今どき、吸殻入れを備え付けている店舗も珍しい。
「昨日まで三パーセントだって面倒だったのに……あーあ、俺の想像してた二十一世紀と違うよ」
昨日までとは大袈裟な、と思ったけれど、“昨夜のこと”を思い出し、本当に今の彼は二十年分の常識が無い状態なのだと実感した。
それにしても、先ほどは技術の進歩に歓喜していたのに、税金の上昇に愕然としている。目の前にいる父は思ったより感情の起伏が激しい。
人に歴史有りとは言うけれど、一体どんなきっかけがあって、私の知る真面目一辺倒の寡黙な父になったのだろう。
四時を過ぎても一向に立ち上がらない父を、母は「はいはい」となだめていたが、時間を気にしてか、真司に声をかけてくれた。
「ありがとね、荷物持ってくれて。帰りの電車は大丈夫?」
「お気遣いありがとうございます。でも今日はこの近くに泊まることにしました」
彼の答えを聞いて、母はにっこりと笑った。
「真司君が良かったら、改めて夕食をご一緒しませんか? 私も真司君とお話したいことたくさんあるもの」
そう言って私の方を見た母は、微笑んでいるというより、にやついている、何か悪巧みをしていそうな顔をしていた。嫌な予感がする――でも、私にだって切り札がある。
「今日は、小名浜で花火大会があるの。だから……」
私と真司の二人で見に行ってくるね、と言えばさすがについてこないだろう。
そう、言おうとしたのに、それより早く真司が口を開いた。
「お二人も一緒にいかがですか?」
「え⁉」
だって、さっき二人で見に行くって……
言ってない。
そういえば「一緒に見る」と言っただけで「二人で」とは言っていない。むしろ「家族とゆっくり過ごせ」と言っていたのだから、彼の中では良い折衷案なのだろう。
「あらいいわねぇ、お父さんもどう?」
楽しそうで仕方がない母に問われ、父は「ああ」と頷き、まだ長く残った煙草を灰皿に押し付けた。
「じゃあ決まりね。お言葉に甘えて、ご一緒させてもらうわ」
母は満面の笑みを浮かべて、鞄から車の鍵を取り出した。
車中、母は好奇心のままに真司を質問攻めにした。真司から見た私の第一印象、私の長所短所や趣味趣向――真司自身のことを知りたいというより、彼がどれだけ私について知っているかを試しているようだった。まったく勘弁してほしい。
さっきの私の予感は正しかったわけだけれど、真司は全く意に介さない様子で淡々と答え続け、それが母には好印象を与えたらしい。
「本当に充希のことよくわかってくれてるのねぇ。充希、真司君のこと逃しちゃダメよ!こんなよくできた彼氏さん、他にいないわ!」
肩入れしてくれるのはありがたいけれど、はっきり言って、大きなお世話。でも、真司は「光栄です」と頭を下げている。まぁ、こんなバカ正直さも、長所といえば長所かもしれない。
私は返事もせず窓にもたれかかって、流れる景色をぼんやり見つめた。
会場が近づくにつれて歩行者が増えている気がする。浴衣姿の若者も多い。
「ねぇ、お父さんも気になることあるでしょ?滅多にないチャンスなんだから、聞いてみましょうよ。あ、SFの話以外ね」
母に促されたものの、父は腕を組んで唸り出した。趣味以外の質問が思いつかないらしい。
「うーんと……百槻くんは東京の出身ですか?あ、会津の大学に行くぐらいだから、県内かな?」
その質問には私が冷や汗をかいた。それはやや“扱いにくい問題”なのだ。彼が気を悪くするのではと心配したけれど、当の本人は平然としている。
「何回か引っ越してるんですが、いま実家があるのは埼玉の川越市の近くです」
「埼玉って東京に通える距離よね。ご家族とは同居されてるの?」
私の気苦労も知らず、母は思いつくまま尋ねた。質問権を父に譲ったはずなのに、本当によく喋る。
「僕は東京にアパートを借りていて、埼玉には年金暮らしの両親が二人だけで住んでいます。兄は二人いますが、両方とも結婚していて、それぞれ川崎と横浜にいるんです」
「引っ越しってことは、親御さんは転勤が多い仕事だったのかい?」
父が煙草を一本取り出そうとして、母に手を叩かれた。
「この車、一回も吸ってないんだからね」
渋い顔をした父は煙草の箱を鞄にしまい、代わりにのど飴を取り出した。
「百槻くんも、よかったら」
「ありがとうございます」
真司は受け取った飴玉を遠慮なく頬張った。
「それで、僕の両親ですが、元々は青果店、つまり果物屋を営んでいたのですが、廃業を機に今の家に移り住んだ形です。今いる町はやや不便だと僕は思うのですが、二人は落ち着いて住みやすいと言っています。両親は……」
彼は、聞かれてもいないのに両親の趣味や日課、兄二人の仕事や家族構成まで丁寧に詳しく説明してくれた。私も初めて聞くことが多く、全部は内容を覚えていないが、真司が自分の家族や親戚を大切にしているということだけは、とてもよく分かった。
ちょっとだけ、彼が羨ましかった。
5
臨時駐車場へと辿り着く頃、辺りはすっかり暗くなっていた。街灯の下は明るいけれど、それよりずっと向こうに見える交差点が、昼間のように真っ白に輝いていた。多分、あそこが花火会場だろう。
車を降りると、潮の匂いがした。海は見えないけれど、港は近いらしい。
歩道を行くのは、大人から子供まで様々だ――楽しそうに走る子供、それを見守る親、浴衣姿の学生、手を繋いで歩く恋人達――みんな笑顔であふれている。
私達は、どんな顔をしているだろう。前を歩く母は父と談笑しているけれど、その父の顔は見えない。
「なんだあれ! あの大きいの!」
突然父が叫んだ。彼が指差した先にあるのは、会場の向こうにぼんやり浮かび上がった、ガラス張りの大きな建物――水族館だった。県内では有名な施設だが、竣工は私が小学生の頃だから、今の父の記憶には無いのだろう。
「あれはね、水族館。前に行ったことあるんだけど、何か思い出せない?」
母の期待虚しく、父は申し訳なさそうに「何も」と肩を落とした。
「ま、ダメ元で聞いたから気にしないで。気長に待つわよ」
母は父の背中を軽く押し、再び歩き出した。
悔しくないわけがないのに、それを見せない彼女は強い。私もそうありたいけれど……いまいち覚悟ができない。
「あ、焼き鳥のにおいするね」
食欲を掻き立てる煙が、悩みを吹き飛ばした。本会場の手前にある屋台広場からだ。
「あら、充希はいくつになっても食いしん坊ねぇ」
「何それ、心外」
この広場は水族館の駐車場らしいけれど、今日はいくつもの飲食店と人々の長蛇の列で埋め尽くされている。
「じゃあ、私とお父さんは主食を買うから、充希達は飲み物とかをお願い」
私が返事をする前に、母は手際よく指示を飛ばした。
「私達は烏龍茶か緑茶、二人はお酒でも何でも好きなもの飲みなさい。予算は徴収しない代わりに各自千円程度のものを持ち寄りましょ。待ち合わせはこの看板の横。はい解散!」
段取りが良いというかマイペースというか、世界は母を中心に回っているんじゃないかと錯覚する一幕だった。
飲み物売り場の列に並びながら、私は車中ずっと気になっていたことを真司に尋ねた。
「ねぇ真司。うちの親には本当のこと言わない方が良い?」
彼の家庭事情は複雑なのだが、それ抜きで私達の本当の出会いを語ることも難しかった。
「俺、充希のご両親に嘘は一つもついてないよ」
彼は飄々と答えた。
「“実家の話”は……人に言っていいかどうか、俺一人じゃ決められない。うちの母親、今は落ち着いてるけど、何がきっかけでまた具合悪くなるか分からないんだ。だからごめん、いつか絶対話すから、もう少し時間くれないかな?」
「そっか……」
彼がそう言うなら、私も黙っていよう――ただ、答えは薄々分かっていたはずなのに、聞かずにいられなかった自分を悔いた。昨日の祖母との会話といい、悪い癖だ。
やや気まずい気分で周囲に目をやると、少し離れたかき氷屋が空いていた。二人しか並んでいない。チャンスだ。
「ねぇ真司、かき氷買いにいっていい?」
彼が頷いたので、私は駆け足でその場を離れた。
私達が待ち合わせ場所に着く頃には、花火の打ち上げが始まっていた。流行りの音楽をBGMに、色とりどりの光が夜空を彩っていた。待ち合わせの看板の横には、既に二人が到着し、食べ物を片手に空を見上げていた。
「遅くなってごめん!」
私の声に振り向いた父が「え⁉」と驚き、手にしていたビニール袋を地面に落とした。
驚かせたつもりは無かったのだが――それとも私がかき氷を買うことが意外だったのだろうか。
「お加減でも悪いのですか?」
真司の問いに、父は小刻みに首を横に振った。彼は慌ててビニール袋を拾い、中を覗き込んだまま、固まっていた。
「あら、中身なら大丈夫よ」
母が声をかけていると、ちょうど花火の演目が終わった。
「大丈夫? どっか座ろうよ」
「あのさ、充希……それ」
彼はゆっくりと私の持つかき氷を指差した。
「充希、花火大会で、かき氷を道に落として、泣いたことあるよな?」
私と母は息を飲んで目を合わせた。
確かに、町内の花火大会の帰り道、つまずいた拍子にかき氷の中身を丸ごと全部こぼしたことはある。もう一回買ってほしいと駄々をこねながら帰宅した覚えもある。でもそれは、私が小学二年生のときの出来事――父は、忘れていた記憶を思い出したのだ!
「あなた思い出したのね⁉ この子が充希だってこともわかるわね⁉」
母が嬉しそうに叫んだが、父は申し訳なさそうに首を振った。
「あ、いや、全部じゃないんだ。その、かき氷を見て、そのことだけ思い出した……もっと小さい時は音が鳴るだけで泣いてたろ? だから泣かなくなってえらいなって感心してたのに、かき氷落として結局大泣きしたんで、あの時褒めてやれなかったなぁって……」
「そっか」
母がそう言って苦笑いした時だ。
「思い出せるかもしれません! きっかけさえあれば!」
突然、真司が叫んだ。
「今も、花火とかき氷の組み合わせが、お父さんの記憶を引き出しました。ご家族の思い出に縁がある場所を訪れるとか、アルバムを見るとか、お父さんの記憶を刺激すれば、快復の方法は、きっとあります!」
彼の言葉を聞いて、父の「越えられない壁は無い」という言葉を思い出した。
本当に真っ直ぐなのだ、この人は。
父と母が、小さく頷いて微笑んだ。気づいたら、私も口元がほころんでいた。
今夜は彼の行動力に負けて良かった。ちゃっかり「お父さん」って呼んでるのは気になるけれど……まぁいいか。
二つ目の演目が始まった。BGMは、父と真司が好きなSF映画のテーマ曲。歩道では小さな男の子の兄弟が、ペンライトでチャンバラ遊びをして大はしゃぎしている。
見上げた夜空には大輪の花が見事に咲き誇っていた。
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