第3話
欲しいモノはいつも目の前にあるのに、
見えない壁が、硬くて、厚くて、冷たくて。
西山実里〈Find me in your eyes〉より
1
立ち尽くした私は、混乱の真っ只中にいた。
目の前の光景は、まるで白黒の無声映画。誰の言葉も耳に入ってこない。ぐるぐる頭を巡るのは、さっきの父の一言だけ。
私が五歳? 父さん何言ってるの?
不可解な言葉を反芻していると、ナースコールで呼び出した看護師が病室に到着した。先ほどとは違う若い女性。祖母と何か話している。彼女は一度部屋を出て、すぐに医師を連れて戻ってきた。
祖母が彼に駆け寄ってその両腕を大きく揺すった。ずいぶん慌てている彼女の言葉は知らない国の言語のようで、私には今の自分の頭がさっぱり働いていないということしか分からない。
取り乱した祖母とは対照的に、医師は淡々と彼女を椅子に座らせ、看護師は母の腕を抱えて退室していった。
ぼんやり一連の様子を眺めていると、医師が私の顔を覗き込んだ。
「自分で歩けます?」
ようやく聞こえた日本語は優しい声色だったが、顔は全く笑っていない。彼が腕を振る仕草をして見せたので、私はただ反射的に、無言で何度も頷いた。
「ではお母さんに付き添ってあげてください。部屋を出て右にまっすぐ進めばわかります」
言われるまま退室しようとしたが、扉を閉める直前、つい父の方を振り返ってしまった。
彼の目に浮かぶのは、怯え……他人を見るような眼差しだった。
見るんじゃなかった。
その感情に気づかないふりをして、私は病室を後にした。
待合室に着くと、長椅子に腰掛けた母が看護師に介抱されていた。
「ああ充希……大丈夫?」
顔を上げた鼻声の彼女は、目を真っ赤に腫らし、ハンカチで口元を押さえていた。私よりはるかに大丈夫ではない彼女に心配されて、落ち込んでいる訳にはいかないだろう。
「平気平気!あー……」
二の句が継げない。平然を装って辺りを見回すと、受付横のウォーターサーバーが目に止まった。
「看護師さん、お水、いただいてもいいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は備え付きの紙コップを置いて「冷水」のボタンを押し、コップ一杯の水を一気に飲み干した。
徐々に思い出される、父のおかしな言動――母と祖母の容姿に驚いたり、祖父が亡くなったことを忘れていたり――いわゆる記憶喪失。映画やテレビで目にしてきた展開とは全く違う。「私は誰」なんて台詞こそ無かったけれど、驚きを通り越して悲しくなってしまった。
何よりあの、他人を見る目。
ダメだ、水が足りない。
もう一度コップを置いて、ボタンを押した。
もっと冷静にならなくては……
「あ」
気づいたらあふれる寸前だった。ぼうっとしていけない。
私は弾ける寸前の水を少しすすって、ゆっくりと母の隣に座った。
それと同時に、看護師は「少しお願いします」と言ってナースステーションへ入っていった。壁の時計は、午後八時過ぎを指していた。
面会時間が終わった待合室は静まり返り、聞こえるのは自分が水を飲む音と、うつむいた母が鼻をすする音くらいだ。祖母達が戻る気配はまだ無い。私はゆっくり、一口ずつ水を飲みながら、頭の中で母を励ます言葉を探した。焦っている時に限って、ちょうど良い言葉が浮かばない。
大丈夫? なんとかなる? いや――
「人間、越えられない壁は無いって、昔、父さん言ってたよね」
父の座右の銘。彼の言葉なら母に届く気がした。
「頭の怪我も……あと、いろいろ忘れてることも、乗り越えていけるよ……多分」
言いながら自信が無くなる。いや、そもそも失うような自信すら無いんだけど、これだけは確かに言える。
「父さん生きてるし!生きてれば、できること何だってあるよ」
ごく当然の、ありきたりの表現。でも私には重みがある。五年前に、祖父の凄惨な死をもって心底思い知ったから――“あの時”は祖父以外にも数えきれないほどの死者と行方不明者がいたけれど――命を失ったら、どんなに強く願っても何一つできない。
不安を抑えて顔を上げると、母も重たそうな頭をゆっくり上げて、廊下の奥――父の病室の方を見つめた。
「そうね、生きてれば何でもできるわよね。今までだって、そうだったもの……」
白髪混じりの母の短髪には、いくつもの困難や苦労が滲んでいるように思える。
また「親孝行はできるうち」という誰かの言葉が頭をチラついた。今日何回目だろう、いい加減もう思い知った、十分だ。
言葉が途切れてどれくらい経った頃か、カツカツという足音が廊下に大きく反響した。近づいてきたのは、さっきの医師だ。
「お待たせしました、中村さん。お話したいことがあります。奥さんにはご一緒していただきますが、娘さんはどうされます?」
緊張したが、私は「行きます」とゆっくり頷いた。
「では、病室で」
2
私達が病室に戻った時、ベッドで体を起こしている父も、横に座っている祖母も、じっとうつむいて顔を上げなかった。
門馬と名乗る中年の男性医師は、予備の椅子を出して私達に腰掛けるよう促し、父の症状について説明を始めた。
「えー、中村さんの症状は、記憶障害の一種と思われます。ギャッコウセイケンボウの疑いとでもいいますか……」
「ギャッコウセイ……何ですか……?」
母が聞き返した。医師は手近な紙に「逆行性健忘」と走り書きして私達に見せた。
「逆行性健忘。つまり、過去に経験した出来事の一部、あるいは全部を忘れている状態です。ご主人は、お名前や生年月日は覚えていますが、年齢は二十九歳とお答えになりました」
二十九歳――二十年前の年齢。だから父は、私が五歳だと思っていたのか。
にわかには信じられない。母もそうだろう、目を丸くしている。
動揺する私達に構わず、医師は淡々と説明を続けた。
「住所をお伺いしたところ、大熊町大野と仰いました……以前のお住まいですね。それから、首都や県庁などの基本的地理情報は概ね覚えていますが、十年前に合併した近隣市町村のことは“知らない”そうです。一九九六年にアトランタ五輪が開幕したことは覚えているけれど、その後の五輪開催地は“分からない”と。それから……」
祖母が咳払いをした。何かを察したのか、医師は言いかけたものを飲み込んだように見えた。
「……他にもいくつか症状はありますが、あいにく私は整形外科が専門です。具体的なご助言はいたしかねます。いま言えるのは、命に別状は無いということだけですね。今日は金曜日ですから、とりあえず神経内科の方で詳しい検査を月曜日に予約しておきます。必要があれば、そちらの医師が、お近くの精神科や心療内科のクリニックをご紹介するかもしれません」
精神科、心療内科……という響きを重く感じる一方で、この仏頂面の医師は、偶然当直で居合わせただけの、何の責任も感じていない軽い人間のように思う。先行きに、不安しかなかった。
3
病院を出た後、母は車を国道方面に走らせ、祖母の住む仮設住宅を目指した。
外はすっかり暗くなっていたけれど、時折すれ違う街路灯の光はどれも真新しく、眩しすぎるくらいだ。とても五年前の大地震で痛手を負ったとは思えない。復興は着々と進んでいるらしかった。
“あの町”とは大違いで、羨ましい。
ラジオからは、リオ五輪に関係した番組が流れていた。明るい音楽、明るい話題……ラジオパーソナリティの甲高い笑い声が、虚しく響いた。
何回目の信号待ちだったろうか。無言だった祖母が、ふいに重たい口を開いた。
「丈なぁ、震災のこど全部忘れっちまっでで……」
震災――東日本大震災のことを、覚えていない? なんて答えればいいか、わからない。
「……だからあの人、大野の家に帰るって言ったんですね……」
口を開いた母は鼻声だ。後ろの席からは顔が見えないが、また泣いているのかもしれない。
「んだ……あの子は家族と故郷を二回失ぐした……あん時と今日と……こんな……あんまりだどなぁ……」
震災のことを覚えていない――つまり、なぜ彼がいわきに住んでいるかという理由を伝えるだけで、彼が失った多くのものを再び眼前に突きつけなければいけない。
三十年ローンで建てた一軒家も、下積みを経て独立開業した電機店も、二十年かけて掴んだ固定客の面々も、彼らからの信頼も……たった一日で手の届かない存在になった。
一度だって経験したくないあの苦しみを再び味わうなんて、想像するだけで鳥肌が立つ。
「あん時は誰も彼もみんな覚悟しでだがら、父親が“あんな姿”んなっでも丈は泣がねかった。だどもさっきは……『おめぇの親父は五年前に津波で亡くなった』つったら、子供みてぇにワンワン泣いで……」
祖母が言葉を詰まらせた。
当時祖父母が暮らしていた父の実家は、南相馬市小高区――今いるいわき市から七十キロほど北の地域にあった。でも、五年前の大津波で流されて、今はもう無い。内陸にある印象だったその家が飲み込まれるほどに、あの日の海は、多くの物を、家を、街を、そして命を容赦なく飲み込んだ。黒く大きな水の壁となって、電信柱より低い場所にあったものは、何もかも根こそぎ奪い取っていった。
外出先にいた祖母は運良く避難できたが、祖父は自宅の二階に留まったらしく、家ごと遠くに流されて、帰らぬ人となった。変わり果てた姿の祖父が見つかったのは、二ヶ月も経ってからのことだった。
胸が痛い。もうこの話はしたくない。
私は敢えて話を逸らした。
「じいちゃんが亡くなったときは私も辛かったけど……そういえば、よく正月はじいちゃんちに集まってたよね。春香と雪菜、元気かな」
一瞬、祖母が眉をひそめた。いとこ達――彼女にとっての孫の話題という、なるべく前向きな内容を選んだつもりだったが、かえって地雷を踏んだらしい。
「ミッちゃんと一緒でな、去年の盆がらずっと会ってねんだわ。嫁さんの実家さ行ったままで……元気だかなんだかサーッパリわがんねぇ」
遠回しに、なぜもっと会いに来てくれないのかと責められている気がした。いや、家族や親戚から目を背けてきた後ろめたさがあるからそう感じたのかもしれない。私がたじろいでいると、祖母は悲劇の主人公のように仰々しく嘆いた。
「俺ぁもう長ぐねぇがらよ……たまにぁ遊びに来てけろなぁ」
悪気は無いんだろうけど、老い先短いという殺し文句に我ら若輩者は為す術が無く、苦笑いするしかない。
「これからは私も仕事休んで来れるように頑張るからさ。元気出してよね」
本当は、この街に積極的に来たいとは思えない。理性が「来い」と言っても、本能が「嫌だ」と駄々をこねる。
口先だけで祖母を励ましている私は、ずるい。
ノノになら、本音で話せるのに。
遠く異国へ渡った親友の顔を思い浮かべたとき、母が目的地への到着を告げた。祖母が母に礼を告げる横で、私は祖母には言えない苛立ちを抱いていた。
この街に来る意味なんて無い。ここは私の故郷じゃないんだから。
私が生まれてから高校を出るまで十八年間暮らした大熊町は、大地震に伴う原子力発電所の事故の影響で、帰還困難区域に指定されている。
私の望郷の想いは絶対に叶わない。
4
祖母を送り届けたあと、車は両親の住むアパートへ向かった。一応は私の実家という扱いだが、そこを訪れるのは私にとって四、五回目で、何一つ思い入れは無い。
薄明かりの下、母は玄関の扉を開け、入ってすぐに電灯をつけた。
「キャッ」
母の短い悲鳴。
彼女の視線の先、窓の向こうに見えたのは白く揺れる洗濯物の類だった。
「やだわ、泥棒かと思っちゃって……干してたの忘れてた」
その言い訳も、今日に限っては仕方のないことだろう。病院での状況を思えば、こんな失敗すら日常的で微笑ましい。
私は鞄を置いて、洗濯物を取り込む彼女を手伝った。すっかり湿気っていて、ほとんど干し直しだろう。
夫婦二人だけの生活か、と思いながら、父の作業着を手に取り眺めていると、母が残りの衣類を持ってベランダの扉をカラカラと閉めた。
「オジイとオバアに挨拶した?」
「あ、まだ」
震災以前に亡くなった母の両親のことだ。
私は小さな仏壇の前で手を合わせ、神様でもない二人に、父の症状が回復することを願った。
ふと顔を上げると、隣の食器棚の上から、何か厚紙のようなものがはみ出ていた。背伸びして棚の上を覗くと、認許状だか認定証だかと書かれた紙が何枚も無雑作に置いてあった。几帳面な父らしくない。
「ねぇ。父さんまた何かの資格取った?」
「ドローン検定ですって。これからは小型の無人飛行機を使った仕事が増えるに違いないって。東京まで試験受けに行ったのよ」
「ふーん、ホント資格マニアだねぇ」
東京に来るなら、言ってくれればいいのに――私が家族とうまく向き合えていないのは、父からの遺伝かもしれない。
隣の本棚の上にはさらに、専門書やノート、通信教育の広告などが積み上げられていた。中には職業安定所の求人用紙や、電気工事会社の臨時社員証も紛れている。
父の個人情報を堂々と盗み見ていると、母が思い出したように言った。
「そういえばね、お父さん、ここ数年『やりたいことができた』なんて言ってたのよ」
「やりたいこと?」
「そう。恥ずかしいからって教えてくれなかったけど。明日聞いてみたら、それで記憶戻っちゃったりして!」
「楽天的だなぁ……」
間もなく湯沸かし完了のアラームが鳴ったので、私は借りたパジャマを抱えて洗面所に向かった。
翌朝、食器の擦れる音で目を覚ますと、母はとっくに起きて家事をこなしていた。起こしてくれてもいいのにと思ったが、母なりに気を遣ったのかもしれないので口にはしなかった。
「うわ」
鞄からスマホを取り出すと、えらい数の新着メッセージが届いていた。時刻は朝十時を過ぎている上に、充電は残り六パーセント。まずい、放置し過ぎた。
そういえば充電器を持ってきていない。慌てて辺りを見回すと、テレビの横で充電しっぱなしの母のスマホが目についた。
「母さん! 充電器借りるよ!」
彼女が「いいよ」と言う前に、フル充電されたスマホから線を引き抜いて、自分のスマホを繋いだ。型が同じで良かった。テレビと壁の隙間に、父のものらしきタブレットが立て掛けてあったので触れてみたけれど、暗証番号を求められたのですぐにやめた。
「充希、ご飯は?」
「もう遅いから、昼まで我慢する」
「あらそう?」
メッセージのほとんどは同僚からのもの――父の安否を気遣うものや引継ぎの報告などだった。確認が遅くなって悪かったけれど、緊急性の高いものは無さそうだ。
それより誰より大事な人がいる。真司だ。
新着欄をスクロールしてその名前を探すと、一番下、一番古いメッセージとして二言あった。
『日曜のことは気にしなくていいよ』
『お父さんのそばにいてあげて』
明日は彼と一緒に映画を見る予定だった。早々に返事をくれていたのに、読むのが遅くなって申し訳ない。
『ありがとう。まだ入院してるけど命に別状無いそうです。明日行けなくてごめんね』
彼への返事を送信して、ひと安心。
母の足音に振り返ると、彼女は出かける支度をしているようだった。
「充希、お母さんそろそろお見舞いに行くけど、一緒に行く?」
脳裏をよぎったのは、怯えるように私を見る父……直接顔を合わせる自信なんか無い。私は首を横に振った。心の準備には、もう少し時間が欲しい。
「でもさ、お見舞いのついでに駅ビル寄ってくれる?昨日慌てて来ちゃったから、替えの服買いたいんだよね」
パジャマやブラウスは借りられても、下着まで借りる訳にはいかない。急な要望ではあったが、母は快く了承してくれた。
ふと、ノノの家族が東京に避難してきたときに服を買いにいった話を思い出した。一刻を争う時に服まで気遣う余裕などないと、つくづく実感した。
5
アパートから市街地は近く、十分もせずに駅ビルの頭が見え始めた。道に慣れている母は、直接はビルに向かわず、少し手前にある交通量の少ない商店街で私を降ろした。
「ありがとね。父さんによろしく。二十五歳の充希が言ってたって伝えといて」
冗談のつもりだったのに、皮肉に聞こえたのか、母は困ったように笑った。
「ねぇ充希……もう大人なんだから、良い子にしてなくていいのよ。お父さんのことは任せて、ゆっくりしてらっしゃい」
“良い子”という表現に少し違和感。でも私は笑顔を作って頷きながら、助手席のドアをそっと閉めた。こういう愛想笑いがいけないのかもしれないけど、必要な処世術だ。そう簡単には直せない。
車を見送り、ため息と共に天を仰ぐと、空は私の憂鬱など関係なく、清々しいほど真っ青だった。
駅ビルに入り、目的の服飾店を目指そうとした時、鞄の中でスマホが震えた。取り出した画面に「ドウヅキシンジさんからの新着メッセージ」とあったので、私は画面を切り替えた。
『今いわき駅』
なんですと?
間髪入れずにもう一言。
『タクシー乗るから住所教えて』
翻訳するとつまり「私は現在いわき駅にいます。これからあなたに会いに行きます」ということだろうか。
って、この人何考えてんの⁉
私は彼に電話をかけながら、駅の改札口へと進路を変えた。呼び出し音が一回……二回……三回目の途中で彼が応答した。
『あ、充希?いま俺いわき駅にいるんだけどさ』
のんびりと彼は言ったが、そのペースに合わせる余裕は無い。
「ねぇどういうこと? 来るなら連絡くらいしてよ」
私は駅前に続く通路を急ごうとしたが、人が増えてきて、思うように進めない。
『昨日返事無かったじゃん。ただ事じゃないと思って、心配だから会いに来ちゃった』
一晩も返事をしなかった点は私の落ち度だが、わざわざ東京から足を運ぶ程のことじゃない。
「父さんなら頭縫ったけど無事だってば! 平気だよ!いろいろ大変だったけど! ていうか今どこ?」
『改札出たとこ。とにかくさ、お父さん大事無くて良かったね。せっかく来たからお見舞い行かせてよ。いつかは挨拶しようと思ってたんだし』
「あのね、気持ちはありがたいんだけど……」
今は会わせられる状態ではない――と言おうとしたのに、彼が『発見!』と言って電話を切る方が早かった。
「もう!」
人混みの中ひとりで焦っていると、背後から肩をポンと叩かれた。
「よっ」
間抜けな声の主は、いかにも休日スタイルで――セットしていない髪、瓶底眼鏡、黒地のTシャツ(しかもSFキャラクター柄)に、迷彩柄のハーフパンツ――、とても恋人の親に会う気があるとは思えなかった。髭を剃っているだけいつもよりマシだけど。
「よくその服でここまで来たね……完全に家にいるときの格好じゃん」
私が呆れていると、彼は肩から下げたスポーツバッグの取り出し口を少し開けた。
「大丈夫、着替え持ってきてるから」
チャックの隙間から、クリーニング店のビニール袋に入れたままのスーツとワイシャツが覗いた。しかもそれらの上に飲みかけのペットボトルが乗っている無神経さ。最初から着てくればいいのに、どうせ土曜だからって寝坊でもしたのだろう。
とはいえ、落ち着いて考えれば、突然恋人の家族が病院に運ばれて一晩連絡がつかなければ、確かに心配かもしれない。これは彼なりの配慮だ、うん。疲れていたとはいえ、返事をしなかった私が悪かった――そう思うことにして、私は大きく深呼吸した。
「ところで充希、腹減ってない? ちょうど昼だし、メシ食いに行こうよ」
カチンときた。悪気の無い言葉が、収まりかけた苛立ちの火に油を注いだ。
「ねぇなんで自分の都合ばっかりなの⁉ こっちはそんな余裕無いんだけど‼」
つい声を荒げてしまい、ハッとした。人混みの中にいるだけに、大いに恥ずかしい。私が反省している一方で、真司は落ち着いて続けた。
「充希が余裕作るためにメシ食うんだよ。人間ってのは、空腹とか睡眠不足とかをほっとくとパフォーマンス下がっちゃうの。解消できる問題はさっさと片付けるべき」
彼は私の手を掴み、駅ビルの方へ歩き出した。
「話聞くから。“いろいろ大変”だったんでしょ?」
私は反論しかけた口を閉じた。
「充希はもう少し自分の気持ちを言葉にした方がいい。今みたいに」
ああ、そういえば……
父に自分の存在を分かってもらえなくて、とっても悲しかったんだと、私はまだ母にも祖母にも誰にも言っていなかった。だから別れ際の母もあんなことを言ったのかもしれない。
私は手を引かれるまま、幼子のように彼の後ろを歩いていった。
6
駅ビルに入ってすぐのカフェで昼食をとりながら、私は真司に昨夜の出来事を説明した。
「それは大変だったなぁ」
口元にミートソースを付けた彼が呟いた。
人前で話すような内容ではなかったが、昼食時で混み合っている店内では、出入り口横のテラス席しか空いていなかった。とはいえ、店内放送で流れる音楽や多くの客の話し声に紛れてしまえば、重大な悩み事も些細な響きしか持たなかった。
「今でも信じられないけどね。どちら様って言われたときは結構ショックだった」
アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら、私は昨夜を振り返った。
充希はまだ五歳……ね……
父の異様な様子は忘れ難い。でも、彼からしたら、突然妻は泣き崩れ、幼いはずの娘は成人しており、父親は既に亡くなっていて、住み慣れた実家も新築の店舗兼自宅も一切無い……という状況なのだ。祖母の言ったように、喪失感は震災直後より大きいかもしれない。
「ちょうど二十年前の記憶ははっきりしてるみたい。私のこと五歳って言ったり、アトランタオリンピックの特集を見たばかりって言ったり」
「本当に不思議だな」
真司はグラスに直接口を付けてコーヒーを一気に飲み干した。直後に「頭いてぇ」とこめかみを押さえる姿には思わず笑ってしまった。
「お見舞いに行くかって聞かれたけど、会う自信無くてやめたんだ。特別仲良かった訳じゃないのに、他人みたいな目で見られるのって、結構悲しくってさ」
「そりゃそうだよ」
彼は頭が痛いくせにグラスに残った氷を頬張った。
「俺だって家族に知らない人扱いされたらキツいと思う」
口にものを入れて話すので聞き取りにくい。でもそんな厚かましさに今は救われている気がした。逆に言いたいことが何でも言える。
「でもさ、だからって私が悲しい顔してても何にもならないじゃん。落ち込んでても生産性無いし、無理してでも今は前向きに考えなきゃ……」
「充希」
彼が私の言葉を遮った。瓶底眼鏡の奥には、真剣な、だが優しい眼差しがあった。
「充希は昨日すごく頑張った。だから自分の本当の気持ちを大事にすべきだ。無理して前向きになっても後から反動がくるよ。だから一回ちゃんと悲しんで、消化してから立ち直った方が健康的」
別に無理してるつもりなんて無いけど……
反論しようにも声が出なかった。鼻の奥がツンとする。涙腺、脆すぎ。いつからこんなに弱くなった?
私はミルクもシロップもとっくに溶けきっているコーヒーをストローで混ぜ続けた。カラカラと涼しい氷の音がする。
うつむいていると、突然、目の前に紙ナプキンの束が現れた。
「鼻かみなよ」
顔を上げると、ナプキンホルダーがカラになっていた。入っていた紙を全部手渡してきたらしい。
イチかゼロしか無いロボットみたいな気遣い。良くも悪くも裏表なく真っ直ぐなところが彼らしい。もう笑うしかなかった。
「あのね、こんなに使えないよ」
彼の厚意を丁重にお断りして、紙を一枚だけもらい、小さく鼻をかんだ。
「ありがと」
心配事が消えた訳ではないが、彼のおかげで気持ちはだいぶ落ち着いた。明日のデートの埋め合わせとは言わないまでも、せっかく来てくれたのだから、意味のある時間を過ごしたい。
「ところで私、服買いに行きたいんだ。一緒に行ってくれる?」
真司はにっこりと頷いた。
食器を片付けようとして席を立った時、聞き慣れた声が後ろから聞こえた。
「あら充希じゃないの」
振り向いた先にいたのは、母と――
「父さん⁉」
入院しているはずの、父。昨夜頭に巻いていた包帯がない代わり、額には大判のガーゼがテープで留められていた。
「なんでここにいんの⁉ 頭大丈夫⁉」
怪我の具合を尋ねたつもりなのに、聞きようによっては失礼な言い方になってしまった。何しろ言葉を選ぶ余裕が無い。余裕が無いのは父も同じようで、母が「充希」と呼んだ私を娘として認識しようとしているらしかった。
「充希は……まさかもう結婚してるのか?」
違う!ちょっと待って!
母が訂正しているようだが、予想外の反応に私の頭も追いつかない。そもそもここにいるということは退院したのか?でも退院は月曜のはずでは?もしかして抜け出してきたのか?そしてこの勘違いをどうしたらいい?
私が悩んでいる横で、真司が両親に向かって最敬礼した。
「充希さんとお付き合いさせていただいています、百槻真司と申します!結婚はまだしていませんが、真剣に検討しております!以後、よろしくお願い申し上げます!」
真剣に検討……え、何を?
状況を飲み込めない私の頭上では、場内放送で流行りのポップミュージックが流れていた。
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