第2話

時と経験を重ねた君は、もはやよく似た別人だ。

西山実里〈夏の花束〉より



《間もなく、終点、いわき、いわきでございます……》


 目を覚ますと、既に特急列車は終点間近だった。いつの間に寝ていたんだろうか。冷房が効きすぎて肌寒い。おまけに随分と喉が渇いている。


 そういえば、乗車直前に買った缶コーヒーが、カップホルダーに置いたままになっている。寝ぼけ半分で何も考えずに缶を手に取ると、結露した水滴がスカートにボタボタと零れ落ちた。


「あっ」


 真新しい空色のプリーツスカートに、濃紺の水玉模様が拡がっていく。実に恨めしい。まだ二回しか履いていないのに、大いにがっかりだ。おかげでぱっちりと目は覚めたけれど、新しい服に限ってすぐ汚れるのは一体どういう訳だろう。いつも不思議に思う。


 ハンカチで水滴を拭き取って缶に口をつけると、中の液体は残念ながらアイスコーヒーを名乗るには無理のある温度になっていた。飲みかけの缶をホルダーに戻しながら、大きなため息がこぼれた。


 列車は速度を落とし始め、郊外から市街地に入ろうとしている。窓の外に見えるのは、福島県浜通り地方の最南端に位置する、いわき市。県内最大規模、東北でも仙台に次いで二番目に大きな街だ。(平成の大合併の前は国内最大の面積を記録していたらしい)


 通路側に目を向けると、隣に座っていたスーツ姿の中年男性が、立ち上がって荷物棚から大きな鞄を降ろしていた。

 身長は父の方が高いかもしれないが、少し細身で黒縁眼鏡をかけている姿が、去年最後に会ったときの父を連想させる――もしかしたら、あれが本当に最後になるかもしれない。東京からたった二時間の距離を惜しんでいた自分を悔やんだ。




 去年の盆以来、両親の元へは戻っていなかった。今年の正月は取引先のメンテナンスが忙しかったし、何回かあった連休も、何かと理由をつけて東京に留まっていた。

 家族の顔を見るべきだと、頭では解っていても、体が動かなかった――今となっては言い訳だ。親孝行はできるときにしておけ、と世間ではよく言われるけれど、それをこんな形で痛感するとは思いもしなかった。


 早く着かないかな……


 時間を確認しようとして、腕に時計を着けていないことに気がついた。ああ多分、会社の机の上だ。今思うと相当慌てていた。引き出しから財布と家の鍵を取り出しただけ偉かったと思う。


 フゥ、と再び大きなため息。それも跨線橋をくぐる音で掻き消されてしまったけれど。


 一瞬、かつての通学路が小さく目に入った。ノノと三年間毎日歩いた道だ。以前と変わらない向日葵の花壇と、綺麗に舗装された見慣れない歩道とが同居している。


 そういえば、ノノはもうイギリスに着いただろうか。彼女は今日の昼頃に成田を発ったはずだ。黄昏色の空に消えかけの飛行機雲を見つけたけれど、すぐにビルの群れに隠れてしまった。


 茜差す街並みには新しい建物が多く、私には馴染みのない印象だ。十駅も向こうの田舎からいわき市内の女子校に通っていたのは七、八年前のことだから、記憶の中の街と違って見えるのは、当然といえば当然かもしれない。


 少し先に目を向けると、駅舎が見え始めた。ホームの壁面いっぱいに大きな広告看板が掲示されていて、その中では、人気女優が新しい機種のスマホを手にしてにっこり微笑んでいる。


「あ、メール!」


 到着時刻は予め伝えておいたが、一つ前の駅を通る時に母に連絡する約束だった。


 隣の男性がちらりとこちらを見た。ずっと寝ていた小娘が突然独り言を叫んだら驚きもするだろう。「すみません」と侘びながら足元の鞄からスマホを取り出すと、母から一通のメールが届いていた。


『お父さん命に問題なし。共立病院502でねむてます。目が冷めなくて心配』


 急に肩が軽くなった。誤字の多さは気になるけれど、無事が分かれば何でも良い。


 返信しようと思ったら、ちょうど車内アナウンスが到着を告げたので、連絡は駅を出てからと決めて、スマホは鞄の中にしまった。


 重傷でないならば、顔を見て明日には帰れるだろう。両親の住むアパートに長居はしたくなかった。


 私は再びホルダーから缶を取り、残りのコーヒーと一緒に一抹の不安を飲み干した。



 タクシー乗り場の列には既に五、六人が並んでいたけれど、特急の到着直後だからか台数も多く、一分と待たずに乗ることができた。


「平(たいら)共立病院までお願いします」


 運転手に行き先を告げ、私は再びスマホを取り出した。手早く『あと十五分くらいで着きます』と母にメールを送り、やっと一息つくことができた。LINEをインストールしてくれればもっと楽なのに――彼女は「スマホにもっと慣れてからでいい」と消極的だ。


 母が十年以上使い続けた携帯電話をスマホに買い替えたのは、つい先月のこと。父に内蔵電池を交換してもらいながら、騙し騙しよく持ちこたえたと思う。まぁ、言い方を変えるとただのケチだ。


 五年前まで父と二人で小さな電器店を経営していた母は、店を畳む前から携帯電話やパソコンの扱いに弱かった。電子機器の扱いはだいたい勘。そもそもあの人は、何でも困ったら父に聞けばいいと思って、説明書の類いは読もうともしない。

 店の経理も最後まで手書きの帳簿と電卓で、使ってもせいぜいレジスター。人には商売でパソコンを売っていたくせに、表計算や経理のソフトウェアにはさっぱり手をつけなかった。「あたし商業高校出身だから」が彼女の言い分だったけれど、彼女が高校生だった三十年前と違って、今どき商業高校でパソコンを扱わない方が珍しい。

 大らかというか大雑把な性格なのに、経理は正確だったから不思議でならない。


 一方で、父は新しい技術や製品に対して研究熱心。座右の銘は「人間に越えられない壁は無い」で、技術者というか、技術屋という呼び方がよく似合う人だ。

 かつてはワープロもパソコンもインターネットも、町民の誰より早く導入し、一時は地域向けのプロバイダ開設にも携わったらしい。私が高校生の頃は、お年寄り相手にパソコン教室を開いていた記憶がある。物持ち良すぎる母とは対照的に、近年はさっさとスマホやタブレットを購入して、使いこなしていたようだ。

 土日は店を開けて平日に店休日を設けていたから、実家にいるころ父と遊びに出かけた記憶は少ない。でも、代わりによく覚えているのは、外廻りの仕事で家を空ける時間が多かったことや、帰ってきたら帰ってきたで専門書を開いたりノートに何かを書き留めたりしていたこと。

 とにかく真面目な父。彼のことは嫌いではないし、関係性は悪くもなかったけれど、二人だけで話をすることは少なかった。


 あぁ、そういえば……一回だけ大喧嘩したことがあった。私が中学三年生のときのことだ。


 当時の家には自分の部屋が無かったから、私はいつも、居間で受験勉強をしていた。でもあの日の父は、帰ってくるなり同じ居間で断りもなく煙草を吸い始めた。いつもは「吸うぞ」と言って一本だけなのに、その日は一本どころか、二本、三本……四本目に火をつけたところで、私がテーブルをバンと叩いた。


 なんて言ったんだっけ、あのとき……


 何か言い合った後、最後に彼が悲しそうな顔をしたことは覚えている。それ以来、父は家の外で煙草を吸っていたようだ。「ようだ」というのは、煙草の臭いはするが、吸っている姿は見ていないという意味で、煙草をやめたわけではないと思う。彼に直接確かめたことは無い。


 中三というと、国道沿いに大型店がバンバンできた頃――個人経営者は大変だったに違いない。煙草で苛立ちをおさめようとした彼の気持ちも、今ならわかる気がした。

 誰にでもある思春期の親子喧嘩。それが懐かしく思えるなんて、自分も大人になったものだ。


 店を閉め、いわき市内に住むようになってから、父はアルバイトと称して不定期に電気関係の仕事をしていた。

 そんな状況になった当時、私は会津若松市で一人暮らしをしながら大学に通っていて、まだ四十代半ばだというのに定職に就かない父を大いに心配した。でも、できることといえば、それこそ自分でアルバイトをして生活費を稼ぐことと、必死に勉強して授業料の全額免除を申請することだけだった。


 結果的に、その猛勉強のおかげで東京の大手のシステム開発会社に就職することができた訳だけれど、親の仕送りで生活している友人達を羨ましく思った三年間は、苦く、忘れがたい。正直、もっと遊びたかった。バイト漬けの日々なんかじゃなく、周りの同級生達みたいにキラキラ輝くキャンパスライフを謳歌したかった。

 でもまぁ……あの頃大変だった学生は私一人じゃないし、文句なんか言いようが無い。


 大学生の一人娘に仕送りもできないほどギリギリの生活をしていた両親。二人の暮らしは今、母が知人の経営する会社で事務職に就いた稼ぎと、彼女の慎ましい家計管理のおかげで、安定してきているらしい。以前、電話越しに母からそう聞きながら、この不況の時代によくそんなことがまかり通るものだと思っていたけれど、市内の知人に聞いてもどうやらそれは事実らしかった。

 まぁ、自営業の電器屋だって、安定の仕事とは呼べなかったし、アルバイトとはいえ、職に就いているだけ“世間の風当たり”も和らぐのだから、定職でないことを責めるわけにもいかない。


 最初に今回の知らせを聞いたとき、怪我もその仕事の関係かと思ったけれど、そうではないらしい。どこか高い所から落ちて頭を打ったそうだが、電話してきた母は気が動転していて、とにかく戻ってこいということしか分からなかった。

 幸い大きな仕事の納期が終わったばかりで、有給休暇は取りやすかった。上司には期間は気にしなくていいと言われているが、それは最悪の場合を考えてのことだ。


 無事だったのなら、アパートに戻って着替えをとってきても良かった――いや、さすがにそれは薄情すぎるか。反省しながら窓の外を見ると、タクシーがちょうど個人経営らしき電器店の前で停まった。進行方向の信号は青だが、どうやら渋滞にはまっているようだ。


 目の前の店は、昔の我が家――父の店にそっくりだ。大手メーカーの幟旗、ショーウインドウに置かれたテレビ、自動ドアのガラスに貼られた手書きのポスター……見知らぬ場所なのに、愛おしさが湧いてくる。

 外観をじっと見回していると、屋号が書かれた看板の横に、大きなアナログ時計が付けられていた。針が指しているのは六時四十分。病院まではあと少しだけれど、母に伝えた時間までには着けないだろう――待たせてしまって申し訳ない。遅くなる旨のメールを母に送った。


 スマホを鞄に戻して顔を上げると、タクシーはまだ同じ店の前にいた。ショーウインドウのテレビに目を凝らすと、音は聞こえないが字幕付きでニュースが流れていた。


《リオ五輪、いよいよ開幕!》


《日本時間の今朝、現地では開会式が行われ……》


《今回のメダル候補は……》


 字幕を追っているうちに、タクシーが再び動き出した。辺りは日没を迎え、黄昏色から闇色になりつつあった。



 予定より十分ほど遅れて病室の引き戸を開けると、母ではなく祖母が私を出迎えた。


「ミッちゃん!良がったぁ、来てくれでぇ」


 久々に聞く地元の訛りが懐かしい。鼻濁音というか、発する言葉全てに濁点がついてるような喋り方だ。


「ばあちゃん、久しぶ……」


 言い終わる前に、祖母は私を痛いくらいに抱きしめた。苦しい。息ができない。私が祖母の背中をポンポンと叩くと、彼女は体を離してニコニコと語った。


「いんや美人になって……お盆に会ったっきりだもなぁ」


 声が大きい。キンキンと耳に響く。個室なのが救いだった。八畳弱ほどの部屋の奥に目を向けると、椅子に座っている母と、ベッドに横になっている父が見えた。


「なかなかこっち来れなくてごめんね。父さんは?」


 本当は“来られない”訳ではない。仕事を言い訳にして、地元のことを忘れたかったという自覚はある。


「お父ちゃん、ぐーっすり寝でっど。心配ばっかかけて、この婆様の心臓、弱っちまう一方だどはぁ」


 発した言葉と逆に語気は強い。七十代半ばとはいえ、この調子で毒を吐けるならあと百年くらい生きるんじゃないだろうか。

 彼女が肩を落とす素振りをしていると、後ろの母が疲れきった表情で口を開いた。


「ごめんね充希、仕事場に電話しちゃって。お父さん大丈夫みたい」


 彼女は顔を落として父の額をそっと撫でた。父の頭には何重かに包帯が巻かれていて、一見すると重症に見える。


「おでこ三針縫っただけで、骨や脳には異常無さそうですって……慌てて電話して、もう本当にごめん」


 そんなに申し訳なさそうに言われると、こっちが恐縮してしまう。


「無事が何よりっしょ。おかげで会社に説明する手間が省けて、すんなり休み取れたよ」


「ならいいんだけど……」


 祖母に促され、私は部屋の中央へと足を進めた。初めは気づかなかったけれど、左奥には洗面台、入ってすぐ右手にはクローゼットと袖机、テレビまである。病院というのはこんなに設備が整っているのかと感心してしまった。部屋代が高そう――アルバイト中年の家計を圧迫するのではないだろうか、ちょっと心配だ。


 父の様子を見るために母の横に立つと、ふと彼女の背中に違和感を感じた。会うのは約一年ぶりだったが、髪を短くしたせいだろうか、以前より白髪が増えたように思う。


 私の視線に気づいたのか、母がちらりと振り向いて頭に手をあてた。


「ああ、これ?白髪染めが肌に合わなくなっちゃったの。痒くなるから染めるのやめたわ」


 考えを悟られ、ドキッとする。


「いや、髪切ったんだと思ってさ」


 ベッドに目を落とすと、父が寝息もたてずに眠っていた。あまりに静かなので、本当に生きているか不安になったが、胸のあたりが小さく上下に動いているので、呼吸は確かだった。


「麻酔、まだ切れてないの? 」


 母は首を横に振った。


「お医者さんは、もうとっくに起きてもいいって……あとは待つだけですって」


「そっか」


 人騒がせな、と思いながら、私は母の横から父の顔を覗き込んだ。


「父さーん、起きないなら帰っちゃうよー?」


 父の顔は少し痩せたような気がする。というより、実年齢よりもずっと老け込んでいる印象を持った。無理もない。店舗兼自宅を“実質”手放して、身を寄せる場所も選べず、最終的に慣れない土地で日雇労働者として暮らさざるを得なかったのだから。


「帰っちまうなんてあんまりだべぇ。いぐら馬鹿息子でも可哀相だぁ」


 呆れるほど声が大きい。耳が痛くなる。


「ばあちゃん、いくら個室でも静かにし……」


「……誰が馬鹿息子だ……この婆ッパ……」


 少ししゃがれた低い声。父だ。


 祖母が私を押しのけて父に駆け寄った。私は二、三歩後ろに下がり、彼女の背中越しに父の様子を見つめた。


「丈(タケシ)……やっと起きたが、心配かけでぇ!」


 祖母の呼びかけに、父がゆっくりと目を開けた。


「お袋?咲子(サキコ)?ぼんやりして見えない……」


「きっと眼鏡失くしちゃったせいよ。とにかく良かったわ」


 母がナースコールを押した。



「……病院?」


 父はそう言って瞬きを繰り返した。眼鏡が無いせいか、周囲がよく見えていないようだ。


「おめぇ、階段から落ちて頭ぶったんだと。ほんで救急車乗ったの、覚えてねぇのか?」


 父はゆっくりと祖母の声の方を向き、しばし考え込んだが、「階段?」と呟いて黙ってしまった。


 数秒の沈黙が長く感じる。あぁ、こういうときに限って腕時計が無い。部屋の中にも掛け時計や置き時計の類は見当たらなかった。


 私が何か言おうか迷っているうちに、母が堰を切ったように話し出した。


「あなた今朝、駅ビルに用事があるって言って出かけたのよ。でも昼前に、駅近くの歩道橋の下であなたが血を流して倒れてるって、たまたま近くの人が見つけて救急車呼んでくれて、私も病院から電話もらって、そしたら手術だって言われて、もうどうしていいかわからなくて、心配したわ!死んじゃうんじゃないかって、もう起きないんじゃないかって……」


 涙目で鼻声の母の方を見て、父は驚いた様子でひたすら「ごめん、ごめん」と繰り返した。


「サッちゃんにこんな心配かげて……反省しろごのっ」


「いてぇっ」


 祖母は怪我人に遠慮なく、父の腕を大きくつねった。遠目に見ても、あれは痛そうだ。祖母を敵に回したくはないと心底思う。


「これが頭ぶった息子に対する態度かよ……つうか今目の前にいんの、お袋だよな?」


「あん?間違いなくおめぇのおっ母だども」


 父は眉間に皺を寄せて、目を細めた。眼鏡がないせいだろうか、見えにくそうだ。


「うーん……」


 父は何か言いたげに祖母を見つめた。


「何だおめ、言いたいことあんのか」


「……いや、その」


「ハッキリ言えこの!」


「えーと……ずいぶん皺が増えたなぁって……」


「はぁ⁉ ほんなん今言うことでねぇべ馬鹿息子!」


「だから……!」


 なんだ、元気じゃないか――動揺とは無縁に思っていたあの父が、祖母にすっかり翻弄されていた。

 威厳形無しの父……ここは助け舟を出したほうが良いだろう。


「あのさ……」


「あ!」


 父が突然体を起こし、何かを思い出すように、天井を見上げた。


「確か……ポケモンを買おうと思って……」


「はぁ?」


 一瞬、自分の耳を疑った。


 五十近いおじさんが、ポケモン?


 父が挙げたタイトルは二十年来の大ヒットゲームだけれど、先日配信されたスマホ版のことを指しているのだろうか。いや、ダウンロードは無料なのだから、「買う」ということは何か関連グッズを買おうとした?小さい親戚へのお土産?いとこの春香と雪菜はまだそういう年かもしれない。それともゲームへの課金?アイテムを大人買いする気だったのかも?――私が脳内で憶測を巡らせている間に、母が涙目鼻声のまま父を責め立てた。


「呆れたわ……あなたいい歳して歩きスマホなんかで足を踏み外したのね!心配するあたし達の身になってよもう……」


 やはり最新のスマホゲームのことを指していたのだろう。確かに最近のニュースでは、歩行中や運転中のスマホ操作が原因で重大な事故が起きていると報道されている。それらを思えば、頭を縫うだけで済んだのは幸運かもしれない。


 父がまた平謝りしていると、何かに気づいたのか、彼は母の顔をじっと見つめた。


「急にどうしたの?そんなに見られると照れちゃうわ」


「……いや、言ったら怒ると思う」


「サッちゃんにも皺が増えたなんて言うんじゃあんめぇな?」


 父は首を横に振った。


「気になるわ。教えて」


「でも……」


「いいわよ、言って」


「え、その……白髪が増えたなって……」


 彼の答えを聞いて、母より先に祖母が声を荒げた。


「おめぇが苦労かけっからだべ、このアンポンタン!」


 まったく騒がしい。本当に個室で良かった。大部屋だったら迷惑この上ない。

 そもそも、祖母の皺といい母の白髪といい、“なんでわざわざ今そんなことを言うんだろう”か。怪我のせいで、そういう配慮をする余裕も無いのかもしれない。


 祖母が父を一方的に説教しているところで、若い男性看護師が病室の戸を開けた。


「中村さん、お加減はいかがですか?」


 看護師が、体を起こしている父を見て、コホンと咳払いをした。


「……まだ横になっていてくださいね」


 顔は笑っているが目が笑っていない――この人に逆らってはいけないと直感した。母が立ち上がって椅子を譲ろうとすると、彼は「結構です」と手で制した。座り直す母を見て、父は物言いたそうに体を横にした。


 看護師は満面の営業スマイルを浮かべながら、持参したバインダーの上で、紙に何かを書き込んでいた。彼は淡々と父の体温と血圧を測り、いくつか父に質問を始めた。



「……他に気になるところあります?」


 看護師の事務的な質問に、父が「ありません」と答えると、すかさず母が割って入った。


「すみません、この人、今朝のこと全然覚えてないらしいんですけど……大丈夫ですか?」


「では改めてご説明しますね」


 看護師はバインダーに挟んだ紙を見ながら話を続けた。


「中村さんは、救急車の中でご自分の名前も連絡先もはっきり言うことができたそうです。だからご家族にも電話できましたし。CT検査も異常ありません。一時的な記憶の混乱があるかもしれませんが、まずは様子を見ましょう。何かあったら、このコールボタンを押してください」


 一同は看護師の説明に深く頷いた。けれど、肝心の父だけが、頷きつつも、どこか他人事のような顔をしている。


「頭部の怪我自体は入院が不要な程度ですが、退院は大事をとって三日後の月曜日の予定です」


 安心した。一時は万が一のことも考えたけれど、本当に無事で良かった。

 それに、本来日帰りでも良い程度なら、自宅に帰ってからも介助は必要ないだろう。何回か見舞って、日曜にはこの街を出よう。


 その後、看護師は入退院の説明書を置いて退室した。




「今日できることは、もう無いわね」


 母は自分に言い聞かせるように呟いた。


「んだんだ。サッちゃん今日はよくやってくれだ。うちさ帰ってオリンピック見るべ、な」


 祖母が母の肩をさすった。


 母は帰り支度を始めたが、私は来て間もなかったので片付けるものは無い。しばし二人の背中を見ていると、父が思い出したように口を開いた。


「オリンピックか……ヤワラちゃんの活躍が楽しみだなぁ」


「ヤワラちゃん……?」


 父以外の三人が唖然とした。


「あ……柔道嫌いか?」


 そうじゃない、と言おうとして母に先を越された。


「ヤワラちゃんはとっくに引退したでしょ。本当に記憶が混乱してるのね……」


 ため息をついた母に父が反論した。


「いや、逆に頭ん中がハッキリしてきたんだ。朝のニュースでオリンピックの特集やってただろ?」


「特集はしてたけど、谷亮子は出てこなかったわよ」


 母の言葉を父は鼻で笑った。


「谷亮子? 誰と間違ってんだ。ヤワラちゃんの本名は田村亮子だろ」


 結婚して名字が変わったスポーツ選手の名前で話が食い違う。こういう部分的な“記憶喪失”があるものだろうか、興味深い。


「馬鹿ごの! サッちゃん疲れてんのにこれ以上疲れさすんでねぇ!」


「いってぇぇ……」


 祖母は再び父の腕をつねった。仮にも頭を縫った人間にあり得ない仕打ちだ。さすがにやめてほしい。


「ったく、いつまでも子供扱いすんじゃねぇよ……」


 父が祖母への反抗を諦めた頃、身支度を終えた母が、彼の腕を撫でた。


「よしよし。じゃあ、明日また来るわね」


「あ、あのさ……」


 今にも帰らんとする母を、父がしどろもどろに引き止めた。


「心配かけてごめんな……その……いや、共立病院に運ばれるなんてよっぽどのことで……今から家に帰ったら“一時間以上かかる”だろ?いわきなんて“遠いところ”まで、ありがとな……」


 父以外の三人の顔が曇った。“記憶の混乱”にも程がある。不可解な言動に疲れた様子の母は、訝しげに口を開いた。


「あなた……今は平に……いわきに住んでるってことも……?」


「冗談だろ」


 父が鼻で笑った。


「じゃあ“大野の家”はどうしたんだ?」


 母は言葉を失った。


 “それ”を語らなければいけないのか。五年もかけてやっと受け入れ始めたその事実を。最後まで一番悔しがっていたのは父だというのに。


「丈、今はゆっくり休め。明日になったら思い出すかもしんねぇべ、な」


 祖母は父の横にしゃがみ込み、皺だらけの両手で、父の右手をさすった。「大丈夫、大丈夫」と唱える祖母の姿は、子供をなだめる母親のそれだった。気恥ずかしくなったのか、父は「おいおい」と言って苦笑いした。


「わかったって。もう寝るから……」


 父の顔には全く信じられないと書いてあったが、先ほどまでとは違う雰囲気を察したようで、苦笑いしながら「大丈夫だよ」と祖母の手を払った。


 その父が、おそらく私達に心配をかけまいと思ったのだろう。笑って、言った。



「帰ったら、親父と充希によろしくな」



 祖父は五年前に亡くなった。



 私はここにいる。



 平静を保とうとしていた祖母の血の気が一気に引いたのがわかった。私も同じだ。母もそうだろう。


「看護婦さん呼ぶべ」


 祖母が足早にベッドの横に戻り、ナースコールを押した。父は私達の行動の理由を理解していない様子で「なんで?」とおろおろしていた。


 存在を無視された私は、落ち着いて深呼吸しながら父に近づき、眼鏡が無くても見えるように、顔を覗き込んで、冗談めいた雰囲気で、明るく語りかけた。


「ちょっとちょっと!あたしここにいるでしょ〜。見えなかったかもしれないけどさ〜」


 父は私の顔をじっと見た。そして、ひどく申し訳なさそうに、言った。


「……実は恥ずかしいことに……お顔は見覚えあるんですが……どちら様ですか?」


 忘れられている。


 いたって真剣で、ふざけている様子はない。父は明らかに私を娘だと認識していなかった。


「その、咲子の、妻のご親戚の方ですか?あ、もしかして、救急車を呼んでくれた方?」


 父は気まずそうに、他人行儀に言葉を続けた。今の彼にとって、私は一人娘の充希ではない。


 驚きで何も言えない私に代わって、父に怒りをぶつけたのは母だった。


「あなた自分の子供の顔も忘れたの!?いくらなんでもひどいわよ!!」


 母が両手で顔を覆って泣き始めた。父が「おい」と驚いて体を起こし、母の腕を掴んだ。


「待ってくれよ……子供って充希のこと言ってんのか?」


 私の存在は覚えているのに、目の前の私のことは、私だと分かっていない。



 私が充希だよ、覚えてないの?



 言葉の代わりに涙が出てきた。五年間も現実から目を背けてきた報いなのだろうか。もっと頻繁に両親を訪ねるべきだったのだろうか。大して仲良くもなかった父に忘れられることが、こんなにも辛く悲しいことだとは思いもしなかった。


 私はそれ以上何も考えられなくなり、ただ、その場に立ち尽くした。涙が頬をつたい、ブラウスとスカートにボタボタと零れ落ちた。


 ああ、まだ二回しか履いてないのに――そんなことしか考えられなかった。


 母はその場に泣き崩れて、父の袖を強く握りしめている。


「いくら頭打ったっていっても……あんまりだわ……なんで……」


「サッちゃん落ち着いて……」


 私は、床に座り込んでしまった母と、その背中をさする祖母と、それらを困惑して見つめる父を、茫然と見つめていた。


「みんなさっきから何言ってんだよ……」


 涙でぼんやりした光景の中で、父が、言葉を振り絞るように言った。


「だって……だって充希はまだ五歳じゃないか!!」



 父の記憶は、二十年分、抜け落ちていた。

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