ボウキョウ

南葦ミト

第1話

愛憎は、単なる記憶のミルフィーユ。

西山実里〈夏の花束〉より



 七月の東京は苦手。暮らし始めて二年になるのに、どうしてもこの暑さが耐えられない。溶ける。以前住んでいた会津若松も暑かったけど、性質が違う。焼け石でジワジワ炙られるようで、ともすると丸焼きになりそうだ。社会人になってから、エアコンのありがたさを痛感している。


 今日もまだ午前中だというのに、レースカーテン越しでもわかるほど、太陽が燦々と照りつけている。天気予報は「お出かけ日和」と告げていたけれど、私は冷房をつけて窓を閉めきり、寝室の壁一面を占拠する本棚と対峙していた。


 朝食の後からずっと、ベッドが不似合いな四畳半の和室に引き篭もり。棚から本を取り出しては、要・不要の選別を繰り返している。条件は「一年以上読んでいなければ不要」の一点だけ。でも、愛着のあった本達に別れを告げるのは、毎回心が痛んだ。


 足元には段ボール箱が二つあり、それぞれ〈残留組〉〈降格組〉と名付けてある――名付け親は隣の居間でゲームをしている真司(シンジ)だ。不要と判断された本は〈降格組〉に入れられ、古書店で売り飛ばされることが運命づけられていた。


 不要、不要、不要……戦力外通告の数は予想以上に多かった。でも、これらの本を整理して棚を処分すれば、ずっと欲しかった一回り大きなベッドを買えるんだ。辛抱しよう。

 不要、不要、不要……機械的な作業を続けて頭がぼうっとしてきた頃だ。


 視界に全面花柄の派手なハードカバーが飛び込んできてハッとした。


 作家・西山実里(ニシヤマ ミノリ)の〈夏の花束〉――十代最後の夏に買った恋愛小説だ。


 全面、花柄。懐かしさより、自分がこんな派手な本を持っていたという驚きの方が大きかった。


 表紙には、薔薇の花弁がビッシリ敷き詰められた壁が描かれ、中央には小さく、額に入れられた絵画が飾られている。ルノワールの〈春の花束〉を模しているらしいけれど、春と夏では咲く花も違うし、似ているのは構図だけで、高圧的な配色はルノワールの繊細な筆遣いとは程遠い。

 文庫になるのが待てなかったのか――こんな本を気に入っていたなんて、間違いなく若気の至りだ。


 でも興味が無くはない。パラパラとページをめくると、見覚えの無いしおりが挟まっていた――四つ葉のクローバーを押し葉にしてラミネート加工したようなものだ。


 そこに描かれた場面では、主人公の元恋人が部分的に記憶を失って「お前を愛しているし、その愛を失ったこともないし、俺達が別れたなんて信じられるか」と鬼気迫っていた。十代の頃は、この溢れんばかりの熱量が魅力的だったはずだけど、今では一歩後ずさりしてしまいそうだ。正直、重い。


 しかしなんでココにしおりを挟んだんだろうか――クローバーを鞄に放り込んで考えた。

 以前はよく、気に入った場面に押し花を挟んでいた。でも今回は、登場人物の台詞や前後の情景を読み返しても、ここに目印を残すような理由は思い当たらない。物語の結末は知っているから最後まで読み終えているはず――まぁ多分、単純に読み直しの途中でしまいこんでしまったんだろう。大したことじゃない。


 西山実里には思い入れがある。でも最近全然読んでないし、新刊も探さなくなって久しい。

 少し読み返して、まあまあ面白そうな気はしたけれど、価値観がすっかり変化した今、この物語がかつてのように恋愛の指南書として胸を熱くさせることはもう無いだろう。

 名残惜しさを感じつつ、薔薇色の派手なハードカバーを〈降格組〉の箱にそっとしまった。


 既に〈降格組〉には、かつての愛読本達が二十冊以上は入っている。ほとんどは恋愛小説か、就活中、何かに急かされるように買った自己啓発本だ。

 一方で〈残留組〉に入っているのは、たったの七冊――大学で学んだコンピュータ理工学の専門書が五冊と、仕事でよく参照するプログラミング関連書籍の最新刊、それからお気に入りのファッション雑誌。


 空になった棚はまだ一つだけ。これから先の作業の長さを思うと気が遠くなる。私は疲れた体をベッドの上に投げ出して、しばらく大の字になったまま、舞い落ちてくる埃が日光を受けキラキラ輝く様子を見つめていた。


 ん?美味しそうなニオイ……


 コーヒーだ。引き戸の隙間から漂っている。


「充希(ミツキ)、もうニ時間もやってるよ。休憩したら?」


 真司が戸を開けて顔を出した。ボサボサ頭、瓶底眼鏡で無精髭、朝起きたままの格好だ。


「また着替えないでゲームやってたでしょ」


 ベッドに転がったまま真司を睨むと、彼は「まあまあ」と誤魔化して居間に戻っていった。


 提案への返事を考えているうちに、寝室が芳醇な香りで満たされてきた。答えは考えるまでもなかった。



 居間の卓袱台の上には、大きさも色も違うマグカップが二つ。この暑い時期に、ホットコーヒー――彼の気遣いは、いつもどこかずれているけれど、時間が経てばみんな慣れていくし、今回だって労いの気持ちは十分ありがたい。


「いただきます」


 私はカーペットの上の薄い座布団に腰を下ろした。カップにフゥと息を吹きかけて、中身を冷ましながら、一口。


「美味しい!」


 思わず笑みがこぼれた。

 コーヒーの味は真司によって調整済み。(彼はミルクを二つ、私は砂糖もミルクも一つずつ入れる)最高の味だ。頭のモヤモヤが一気に吹き飛んだ。

 真夏のホットコーヒーも、冷房が効いているなら悪くない。

 

 私がほっと一息ついて胸をなでおろしていると、真司はテレビのチャンネルを情報番組に切り替えた。直前にはシューティングゲームらしき中断画面が映し出されていたのに、彼には何の躊躇も無かった。


「ゲーム、いいの?」


「うん。どうせ記録更新できないし」


 私にはゲームのことはよく分からないけれど、彼のこういう潔さは、一緒に時間を過ごす上ではとても助かる。


 彼と出会ってはや五年。多少の意見の違いはあっても、大喧嘩をしたことは無い。彼の意見はだいたい理にかなっているし、私の意見は、彼に採用されるか、論破されるかのどちらか。口先では彼に勝てないことを知っているから、今では程よい距離感で快適に過ごしている。


 なんとなく眺め始めた情報番組では、芸能人の生い立ちを掘り下げて、ゆかりある土地や人物を取材していた。映像を見ながらあれやこれやと雑談していると、真司が好きそうなアメコミヒーロー映画の宣伝が流れた。


「今度これ見に行こうよ」


 私は画面を指差した。8月最初の週末に公開予定――何気ない提案に、彼は目を輝かせて語り始めた。


「さすがは充希さん、お目が高い!オススメは字幕版だよ」


 彼は日常生活の淡白さとは逆に、興味のある分野を語りだすと熱が入って止まらない。まぁ、そこが魅力でもあるけれど。


「アメリカでは五月に公開されてるけど評価は上々。ちなみに高校生のとき原作読んだけど、二十ページしかないのに設定が重厚で、主人公の最後の台詞は涙無しでは読めなかったね」


「そんなに面白いんだ?ていうか真司が泣いてるとこ想像つかないけどね」


 宣伝が終わっても話し続ける彼。相槌を打っているうち、コーヒーは私の分だけがどんどん減っていった。カップが空になっても熱弁は止まらない。


 そろそろ強制的に話を切りあげようと思い始めたとき、寝室に置いたスマホから、メールの着信音が鳴り響いた。


「休みなのに誰だろ?」


 ベッドの上に置いたスマホを覗き込むと『お久しぶり!』という件名でメールが届いていた。送信者の懐かしい名前に、心が躍った。



 ノノこと玉野希美(タマノ ノゾミ)と連絡をとりあったのは大学ニ年の夏以来だから、およそ五年ぶりになる。


 メールの中で彼女は、イギリス人と結婚して日本を離れること、その前に私と会って話をしたいことを綴っていた。私はすぐ承諾の返事を送り、翌週末に夕食を共にすることにした。会うとなったら大学一年の夏以来、実に六年ぶりだ。


 ノノとは、彼女が中学二年で転校してきてから高校を卒業するまで五年間の付き合いだったから、共に過ごした時間より会わなくなってからの時間の方がもう長くなっていた。それでも、彼女と過ごした学生時代は昨日のことのように思い出せる。


 第一印象は強烈だった。転校初日の挨拶で、彼女は自分の名前を「タマ、ノノ……」と不自然に区切ったあと、下手なお笑い芸人のような「ヘックショイ」という大きなくしゃみをかましたのだ。(聞けば、教室に入った瞬間から我慢していたらしく、担任の長々した説明の間に限界を迎えたらしい)その日のうちに、彼女の愛称は〈タマ〉〈ノノ〉もしくは〈オッサン〉になった。


 思春期の女子中学生というと、この初日の出来事だけでも物怖じしそうなものだけれど、ノノは違った。転校慣れしていたせいだろうか、持ち前の明るい性格で、初日の重大事故さえ追い風にして、一ヶ月も経つ頃にはすっかり周囲に馴染んでいた。


 一方の私は、どちらかというと大人しく目立たない集団に属していた。でも、ノノは誰にでも好意的だったから、会話が多くなくても私は彼女が好きだっし、三年のクラス替えで(といっても二組しかなかったが)別の組になっても、それは変わらなかった。


 彼女との距離が縮まったのは、同じ高校に進学したのが、私とノノの二人だけだったからだ。地元から電車で一時間かかる、県内屈指の進学校に通うため、私達は毎日同じ電車の同じ車両、同じ席に座って、その日の授業の話や課題の話、時に恋愛話をしていた。試験前には彼女と問題を出し合って、そのおかげで合格点スレスレで補習を免れたこともある。


 大学はさすがに別々になり、私は会津若松市で、ノノは都内で一人暮らしをするようになった。物理的な距離の遠さは、私達を疎遠にさせたけれど、それゆえに聞きたいことも話したいことも山ほどできた。


 一時期は音信不通になったこともある。でも、そんなことは実に些細で、彼女と再会できる喜びのほうが九割九分を占めていた。



 予約したのは神楽坂のフレンチレストラン、支払いは全部、私。身の丈から少々背伸びしている自覚はあったが、渡英前の彼女に、少しでも日本で良い思い出を作ってほしかった。ノノは割り勘でいいと断ったけれど、結婚式を行わない彼女へのご祝儀代わりと思えば、これでも足りないと思えたので押し切った。


 待ち合わせは夕方七時、お店の前で。私が飯田橋駅の改札を抜けたときの時刻は、六時三十分。早すぎる気はしたが、時間を潰す方法を思いつかなかったので、人々の熱気あふれる神楽坂通りを、汗をかかないようにのんびりと歩いた。それなりに上等の服を着てきたので、汗は大敵だ。


 目的地を示す看板を見つけると、その看板の下で、白いボレロに濃紺のワンピースを着た女性が、私に向かって大きく手を振っていた。ノノだ。約束の時間より十五分早く着いたのに、彼女の到着はそれより早かったらしい。


「ナカムー、久しぶりー!」


 中村充希だから〈ナカムー〉……そんな風に私を呼んだのは、後にも先にもノノだけだ。


「すぐ分かったよ、歩き方で」


 彼女が私に向かって数歩近づいて来ると、腰まで届く真っ黒な長髪が左右に揺れた。


「ノノは……ずいぶん髪が伸びたね」


 そう言ってから、大事な第一声がとんでもなく間抜けだったことに気づいた。私は咳払いを一つして、精一杯背筋を伸ばし、プレゼントを入れた小さな紙袋を彼女に差し出した。


「改めまして、結婚、おめでとうございます」


「わあ、ありがとう!見てもいい?」


 満面の笑みを浮かべた彼女は、私が頷くと、袋の口を留めてあるテープを細やかな手つきで千切りとった。


「あ、花…preserved flowers?かわいい!向こうでも飾っとくわ。ナカムーだと思って」


 〈プリザーブドフラワー〉の発音が日本語より英語に近かったので背中がこそばゆかった。高校時代は外国の発音なんかできる訳がないと言っていたのに、いつの間にそんな流暢な英語が飛び出るようになったんだろう。時間の流れを痛感した。


「中、入ろっか」


 予約した時間よりも少し早かったが、冷房が恋しくもあったので、私達は店の扉を押し開けた。




 案内されたのは二階の窓際の席。外を見れば道行く人々の様子が一望できた。


 食前酒として、私はシャンパンを、ノノはスパークリングワインを注文し、届いたグラスで短く乾杯を告げた。


 彼女が髪を後ろでまとめてから、グラスに口を付けるまでの所作は、どことなく都会的で、こなれていて、綺麗だった。それに、着ている服も、持ち物も、化粧の仕方も、最後に会った時よりだいぶ落ち着いた印象だ。


「ノノ、実は慣れてる?それにすごく大人っぽくなった気がする」


 私がひっそりと尋ねると、彼女もひっそりと答えてきた。


「昨日ネットで調べただけのにわか知識でごぜぇます。粗相があったらご勘弁くだせぇ」


 わざとらしい東北訛り。不意打ちを食らった私は、危うくシャンパンを吹き出すところだった。

 堅苦しいのが嫌いなのだろうと私は思っているが、ノノにはそういう変なところがある。


「やっぱ前言撤回。ノノは中学んときと変わんないわ」


「気持ちだけはいつまでも十代だから」


 実際、十代の少女のように、私達はノノの結婚相手について語り合った――ジョーという背の高い金髪のイギリス人と、大学のゼミを通して知り合ったこと――初めは意見の衝突があったものの、発表会の準備を通して意気投合したこと――バスケの試合を観に行った帰りに愛を告白されて、戸惑いを隠せなかったこと――お互いの両親に結婚の意向を伝えて猛反対されたこと――一度は離別を考えたが、ジョーの涙の訴えで思いとどまったこと――波乱万丈な物語を、ノノはあっけらかんとした笑顔で語った。


 その内容は、いつか片付け中に見つけた〈夏の花束〉よりもずっと興味深く、彼女の体験談だけで恋愛小説が一つ書けそうなほどだった。


 ところが、私が「それでそれで」と催促しているうちに、前菜が届いてしまった。プロポーズの言葉を聞きたかったのに、恋愛話は小休止。残念だけれど、料理は美味しそうなので問題ない。


 大きな皿の上に、小さなスモークサーモンロール。葉物を添えて品良く盛り付けられている。中にはチーズリゾットがたっぷりと入っていて、少量でも濃厚、重厚、食べごたえ十分で頬が落ちる。


「幸せそうな顔してるねぇ」


 私が最後の一口を平らげようとしているとき、彼女はまだ周りの葉物を食べながら、サーモンロールを丁寧に切り分けていた。


「ナカムーは食い意地張ってたもんね、昔から」


 それは間違いじゃない。でも正確には違う。


「ノノと会えて嬉しいからだよ」


 どんなに美味しい料理も、味わうには一緒に食べる相手が重要だ。以前、同じ店を接待で使ったことがあるけれど(しかも経費で最上級のコースを頼んだし)あの時は会話運びに神経を尖らせていて、料理を味わう余裕も無く、何を食べたかもよく覚えていない。


 貴重な青春時代を共にした友人が目の前にいる。だから今日の食事は素晴らしい。


「ねえ、プロポーズの言葉さ、なんて言われたの?それともノノから言ったの?」


 私は照れ隠しのつもりで、先ほど飲み込んだ疑問を投げかけた。


 彼女は「んー」と言い淀んだあと「楽しみはデザートのあとにとっとこう」と意地悪な笑みを浮かべた。


 不服が無いでもないけれど、給仕が運んできた枝豆のポタージュから上品な香りが漂ってきたので、まずは目の前のご馳走を楽しむことにした。



 食事を進めながら、私達は他愛もない世間話を続けた。今の職場はどういう企業でどんな人がいるとか、同級生の誰それは今どこで何をしているとか――ノノの今後について言えば、イギリスに移住したらジョーの故郷であるバーミンガムに住むつもりで、仕事はこれから探すつもりなのだそうだ。なんなら大学が近くにあるから修士課程でも学ぼうかと言っていたけれど、それは「なんなら」で済むほど簡単ではない。それでも、未来について語る彼女は明るく輝いて見えた。渡英は彼女にとって人生の希望なのだろう。


「ねえねえ、ナカムーのsweetieの話もしてよお」


「スイーティー?」


 何故このタイミングでお菓子の話なのかと思ったら、恋人を意味する俗語のことだった。

 猫なで声で語尾を伸ばすノノは随分酔っているようだ。よく考えたら彼女と酒を飲むのは初めてで、彼女が酒に強いのか弱いのか全く分からない。私は何杯飲んでも潰れた経験は無いが、彼女にワインを飲ませるのはそろそろやめた方が良さそうだ。


「結婚、するんでしょ?」


 不意をつかれて驚いた。でも、私達はそういうことを真剣に検討したことは無い。正直に「まだ考えてない」と答えた。


「仕事は大変だけどやりがいがあるし、週末会うくらいが距離感ちょうどいいかな」


 ノノは「そっかぁ」と残念そうに呟いて頬杖をついた。彼女はガラス越しに人通りを眺め、もう一度「そっか」と、小さく呟いた。彼女が手を伸ばしたグラスは残り僅かになっていたが、私から追加を勧めることはしなかった。


「ずっと連絡しなくてごめん」


 唐突にノノが呟いた。


「ナカムーにだけは新しい連絡先教えようかって何回も思ったんだけど、ズルズルと何年も後回しにして、今更になっちゃった。余裕無くて」


 そう言ってグラスのワインを一気に飲み干した彼女は、口元こそ笑ってはいたけれど、目を伏せていた。落ち込んでいるときの癖は、何年経っても変わらないようだ。


「いいよ、それに大変だったでしょ、お父さんの会社……ね」


 途中まで言いかけて、選ぶ話題を誤ったことに気づいた。言葉を濁したのは、五年前の惨事を、辛さを、痛いほど理解しているからだ。少なくとも、祝いの席で口にする内容ではない。

 話題を変えようとしたが既に遅く、ノノは当時のことを語り出してしまった。


「そうそう。あの時はもう東京で一人暮らししてたんだけど、家族が夜逃げ同然で押しかけてきてびっくりしたよ」


「そうなんだ」


「まあ、押しかけたって言っても、母親と妹だけだけどね。兄貴はもう社会人で大阪にいたし、父親はギリギリまで現場で仕事してたし……もうホント大変でさぁ。あの人達、着換えも何も持ってこなかったから、三人でユニクロに服買いに行ったの」


 話題の転換点を必死に探しているのに、全然見つからない。私はただただ頷いて、彼女の話に耳を傾け続けた。


「そんなときに妹が『東京に来れてラッキー』なんて言ったから、母親にものすごく怒られて、グズグズ泣いて……今じゃ笑い話だわ」


 テーブルに目を落としていたノノが、顔を上げて優しく微笑んだ。


「ほらあ、ナカムーも暗い顔しないでよ。私はすっかり立ち直ってるんだからさあ」


 社交辞令でも、作り笑いでもないと思った。


 あの時のことを笑って話せるようになるまで、どれだけ時間がかかったろう。彼女の強さは、いつだって私には眩しい。


「大変だったね」


 それ以上は言いようが無かった。


「それはそうと」


 ノノが身を乗り出した。


「ナカムーの恋人の話、聞かせてよお」


 似たような台詞を数分前に聞いたような気がしたけれど、暗い気持ちを払拭したいし、渋々ながら彼女の要望を叶えることにした。



 店を出る頃、ノノは受け答えはできるものの、だいぶ酒が回っている様子だったので、一駅分歩いて風に当たることにした。彼女は意外と酒に弱くて、私の基準でワインをどんどん勧めてしまったのは悪かったと思う。


 神楽坂を下っていると、生ぬるい向かい風が髪を撫でた。ノノのサラサラと流れる黒髪は、映画のワンシーンでも見ているかのように、街灯の光を受けて闇の中に輝いていた。


 今日だけで何回、彼女を美しいと思っただろう。同じ女性として憧れずにはいられない何かを、彼女はこの六年間で身につけていた。


 といっても、それは外見の話であって、話す内容はいたって低俗。恋人との初めてのデートだとか、初めての夜だとか、十代の女子高生と大して変わらない。どれだけ時を経ても、私達はあの青春時代の延長線上を歩いていた。

 一つ不満があるとすれば、さっき店内でお預けにされたプロポーズの言葉を聞こうとするたびに話を逸らされることだけれど、まぁ、それもご愛嬌。


 飯田橋駅を過ぎて水道橋駅に向かう途中、酔った口調でノノが呟いた。


「神田川ってさあ、思ったより風情が無いよねぇ。全然、川、見えないもんねぇ」


「場所によるんじゃない?私は川があることすらよく分からないけど」


 私がそう言うと、彼女は足を止めてギターを弾く真似を始めた。


「あなたはあ、もーおう、わすれたかしらあ」


 プリザーブドフラワーが、まさか高架下でギター代わりに使われるとは思わなかった。


「よく知ってるね、そんな古い歌……五十年くらい前の曲じゃん」


 ノノは「博識でしょ」と笑ったあと、突然、両手で私の右手を握った。そして、うつむいて、手に、力を込めながら呟いた。


「私、忘れない……忘れないからね。あの町でナカムーと過ごした五年間のこと」


 彼女の“あの町で”という言葉に、一瞬、胸を刺された。


「あのね、私、親が転勤ばっかで、故郷って呼べる場所なんか無いと思ってた。小さい頃住んでた東京に、憧れて来てはみたけど、思い出の場所なんかとっくに無くなってたし……でも、日本を離れることになって、思い出すのって、あの町で過ごした五年間のことばっかなんだよね。いつの間にか、あそこが故郷って呼べる場所になってた。みんなとは時々喧嘩したけど、根っから悪い人なんて一人もいなかった。良い町だったのに……ごめんね、あんなことになって。本当にあの時……」


 酔っているせいだろう、話の道筋が滅茶苦茶な上に、最後はかすれて聞き取れなかった。


「ノノが謝る必要なんてこれっぽっちも無いよ。お父さんの会社のこと気にしてるんだろうけど、会社は会社だし、お父さんはお父さんで、ノノはノノだよ」


 ノノは顔を上げて、安堵と寂しさの中間のような表情で微笑んだ。


「私ね、ホントは日本から逃げるって自覚あるんだ。結婚なんて建前で、心の底では、嫌いになったこの国から逃げる口実ができたって安心してる」


 五年前“あんなこと”があったのだ。彼女が日本という国を嫌いになるのは分からなくはない。でも――


「建前なんてことないでしょ。さっきジョーさんのこと話してるの、すごく楽しそうだった。イギリスの大学で学び直したいっていう言葉だって、突拍子もないけど本気だってわかるよ。逃げるなんて全然思わない」


 本心だ。上っ面の励ましなんかじゃない、正真正銘、私の正直な気持ちだった。


 ノノは私の手を離し、「ごめん、お酒のせいかな」と頭を抱えた。


「だから風に当たるんでしょ。ほら、行こ」


 今度は私が彼女の手を引いた。


「ジョーさんの話、聞き足りないから、教えてよ」


 ゆっくりと歩き出した彼女は、再びポツリポツリと結婚相手について語り出した。


「あのね、ジョーもナカムーと同じこと言ってくれたの」


「うん」


「私は私。本気で生きてる人間は見れば分かるって」


「……良い人だね」


 ジョーというイギリス人が、彼女の精神的支柱になっているのは明らかだった。ジョーについて語るノノの声を聞けば、自然と私も笑顔になれた。


「本気で生きてる私を理解しようとしないで、表面的な見方で私やその家族を罵るこの国の人達を許さないって」


「お、頼もしいじゃん」


「一緒に自分の国に来てくれたら、絶対そんな思い一生させないって」


「もしかして、それがプロポーズ?」


 ノノはニヤニヤと頬を赤らめて頷き「ちょっと特殊で説明しにくいでしょ」と、ずっと答えをはぐらかしてきたことを言い訳した。


「本当に良い人だね。真司にはそんな素敵な台詞言えないわ」


 そう言いながら、直接的で、心にまっすぐ届く言葉は持っているかな、と思った。



 目的地に着くのはあっという間だった。ノノは地下鉄を、私はJRを使うから、ここでお別れだ。


「酔い、醒めた?」


 彼女は歯を見せて笑いながら首を振った。


「じゃあ地下鉄の入口までついてったげる」


 介抱するというのは建前で、本当はまだ一緒にいたいだけ。


「あのね、今日は、ナカムーと会えて、嬉しかったし、楽しかったし、ナカムーがいるなら日本も捨てたもんじゃないって思った」


「大袈裟だなぁ」


 笑いながら、名残惜しさがこみ上げてきた。周りは人であふれているのに、このまま別れたら天涯孤独になるような気さえする。


「次、日本に来るのはいつ?」


 ノノは少し考えたあと、一人でうんと頷いた。


「家族の葬式か、ナカムーの結婚式の時」


 例えが極端で、その二つを並べられると荷が重い。思わず苦笑いでごまかした。


「じゃあ……元気でね」


「うん、ナカムーも、元気で。落ち着いたらメールする」


 ノノは顔の横で小さく手を振ったあと、意気揚々と歩き出した。


 頼もしい背中を見送って、彼女は自分で居場所を見つけたのだと、嬉しくも寂しくも思った。


 辛い経験に泣き寝入りせず、自分の生き方を自分で決めた。最後まで、彼女は眩しかった。


 一方で私ときたら……押し込めていた過去の記憶の黒い波が、心の防波堤スレスレまで押し寄せていた。きっと“あの町”から目を逸らし続けた反動だ。とてつもない困難が襲いくるような不安が、ジワジワと滲み出していた。



 嫌な予感は当たるもの。



 私の父が救急搬送されたと連絡を受けたのは、その週の金曜日――ノノが日本を経つ日の午後のことだった。


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▶次話(5/22公開)


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