第12話
次に永原が意識を取り戻した時、彼の体は四方を真っ白いカーテンに囲まれた狭い空間に横たえられていた。体の上には薄っぺらいグレーのタオルケットが覆いかぶさっている。永原には一瞬、そこがどこなのかわからなかった。だが、ややあって薬品の匂いが鼻腔を満たすと、そこが保健室であることを理解することができた。
意識が回復した時からずっと、チクチクと頭痛がしていた。それでも永原は恐る恐る上半身を起こしてみると、したたかに打ったと思われる箇所が鈍い痛みを訴える。
そうか、あの時俺は———永原は意識が途切れる前に起こったことをぼやけた頭で思い出していく。
その気配を感じ取ったのか、カーテンとカーテンの切れ目からすっと誰かの手が射し込まれ、その手がカーテンをめくり上げた。
その手の主は、パイプ椅子に腰を掛ける姫沢であった。
「おお、慶介。大丈夫か?」
姫沢の真剣な顔が永原を覗く。ベッドの方へ少し前のめりになったらしく、荷重を幾ばくか失った椅子の足がぎしりと小さく鳴いた。
「・・・姫沢か?」
永原は所在無さげに姫沢の名を呼んだ。
「あぁそうだ。どうだ、具合の方は?」
「・・・うーん、少し頭が痛い。あと体もちょっと痛い。でもそれ以外は特に何も」
「そうか・・・そりゃあ良かった」
姫沢はもう一度椅子に腰かけた。勢いをつけて尻を座面へ着地させたらしく、先程よりも大きな声で椅子が悲鳴を上げた。
「お前、あの時熱中症で倒れたんだぞ。最近食欲もなさそうだったし、体育館もかなり暑かったから、って言ったら多分それが原因じゃないかって、医務の中岡先生が」
「あ・・・そうかも」
「無理しやがって。まあ、先生が言うには大したことはないらしいんだが」
そう言いながら、姫沢はサイドテーブルに置いてあった経口補水液を、病床の上の小さな男へ手渡した。
永原は汗をかいたペットボトルの蓋を力無く捻り、中身を一口含んだ。冷たくも温くもない水が、食道へ落ちていくのがわかった。
ここまで来てようやく、永原は本格的に保健室の風景を見回すことができた。
姫沢の肩越しに見える医務教諭用の机の上に、数本の経口補水液やスポーツ飲料のペットボトルが置かれていた。その横には、年季の入った金タライとコンビニのマークが入った氷の袋も置かれている。保健室の開け放たれた窓からは橙色の陽光が差し込んでおり、ヒグラシが盛んに鳴いていた。夕方でもまだまだ暑いはずなのに、永原は全く暑いと感じなかった。
「・・・そういえば、結局あの後どうなった?」
絞り出すような永原の質問に対し、姫沢は嘆息を挟んだ後にその回答を述べた。
「あの後大分すったもんだしたんだよ。お前を保健室に運んだり、コンビニに氷買いに走ったりでな。俺らは俺らで宮田や鷲尾さんに抵抗はしたし、米倉さんにも繰り返しお願いはしてみたんだが・・・バスケ部に場所奪われちまったよ」
姫沢の口調は重々しかった。一言一言、事実を永原へ話するたびに彼自身がひどく痛んでいるのが、ぼんやりとした意識でそれを見ていた永原にも伝わった。長いこと友人として付き合ってきたからこそ、永原には今姫沢の中で渦を巻く感情がどんなものか何となく感じ取れた。だから、永原もそう多くはそれに突っ込むことができなかった。
「茅場や花岡たちは?」
「お前の方が落ち着いた後、代わりの練習場所を探してくれてる。取り合えず市内の体育館に片っ端から電話してもらってるよ」
「そうか・・・」
永原は永原で、気まずいような、恥ずかしいような、それらが複合された感情が沸き上がった。意識を失う前、永原は随分と宮田や鷲尾にかみついた。それは宮田たちのやり口があまりにも強引でそれが許せなかったのと、森部高校男子卓球部としての矜持を彼らに示したかったからというものある。
だが、バスケ部に場所を取られたという結果を鑑みるに、それらすべてが何の意味のないことだったと判断せざるを得ない。
俺の足掻きは結局何も意味を成さず、ただただ他の部員たちに迷惑を掛けただけだったのではないだろうか———そういう考えが永原を満たした。
「・・・みんなに色々と迷惑を掛けて、本当に申し訳ない」
頭痛と各所の痛みに耐えながら永原が小さく頭を垂れると、姫沢は鼻から息を漏らすように小さく笑った。
「謝るなよ。別にお前は何も悪くない。むしろ、俺たちはあれだけ抵抗してくれたお前に感謝してるし、誇らしいとも思っている。ただ・・・」
一旦言葉を区切り、姫沢は永原を見つめた。
「ちょっと最近無理しすぎてたんじゃない?大安との練習試合とか、この前言ってた不調とか、坂城さんとの一件とか、宮田からさんざんっぱら馬鹿にされたりとか、焦るのは分かるけど、体をぶっ壊れるくらい気張るのは良くないな。部活だってなんだって、体あってのものだろ」
姫沢の考えはいつだって永原のそれより正しい。今回もそうだ。普段からそれほど感情を表にしない姫沢らしくまるで銀行ATMの自動音声のような平板な口調だった。だが、その言葉の端々からは、本当の友人を案じる、真正面な姿勢がはっきりと感じ取れた。
そういった真摯な態度は弱っている永原の心にクリティカルヒットしたらしく、永原は力なく真下の敷布団へと視線を落とすよりほかなかった。
「部活に真剣になるのはいいけど、ムキにはなるなよ。所詮、部活なんて学業のおまけみたいなもんなんだし、もっと肩の力抜きな。でないとこれから続かないぞ」
やはり、姫沢の言うことはもっともだ。それもあってか、背中に陽光を背負う姫沢はどこかの菩薩のようにすら見える。
しばらく黙っていた永原だったが、布団の端を強く握ると、ボソボソと言葉を発した。
「俺は・・・」
「ん?」
「俺は・・・悔しいんだ」
目を伏せた永原がポツリと言った。
「来る日も来る日もラケットを振り続けて、この不調から抜け出すにはどうするか、もっと上手くなるにはどうか、頭がおかしなるくらい考えてる。だが、いくら足掻いても、そうやって積み重ねてきたものが何も見えてこない。ただただ、俺の中に引っ込んだまま、外に出ていかないんだ」
永原は一度鼻をすすり、俯いていた顔を天井へ向けた。
「俺の・・・俺たちが努力してきたものを、それが見えない輩に簡単に否定されてしまうのが悔しい。そして、それに対して何一つ目に見える形で反論できないのが、口惜しいんだ!」
永原の顔は、姫沢の時とは逆で夕日に晒されていた。上を向いているので表情は読み取れないが、言葉と言葉の隙間を埋めるかのように、深くて激しい呼吸音がその存在感を強くしている。
姫沢は何も言わずにその様子をまじまじと見ていたが、やがて永原は両目を手の甲でごしごしと擦り、言葉を継いだ。
「宮田たちの言うことはその通りだ。俺たちの練習の価値が認められるのは、目に見えない努力の先にある誰の目からも見える結果だけだ。俺は俺の努力を不可視なまま闇に葬ることはしたくない。だから俺はもっと練習しなくてはいけ———」
「慶介!」
話の腰を折るようにして、姫沢は言った。
「・・・わかったから。もう、それ以上は何も言ってくれるな」
それ以降、医務教諭が教室に戻ってくるまで、二人は何も言わなかった。
永原は真下を向いたまま時折鼻をすすり、姫沢はどこか永原とは関係のないところに視線を飛ばしている。何も動きの無い保健室で、暮れていく夕陽が作り出す影たちだけが、この世界に時間があることを、ことさら緩やかな速さで証明し続けるだけであった。
しばらくして医務の中岡先生が戻ってくると、永原に二つ三つ質問をして、問題なしと判断したのか、永原と姫沢を帰した。
二人が医務室を出ると、空はオレンジから淡い群青色に変わりつつあった。既に大方の部活動は活動を終了し、荷物を背負った生徒たちが帰路についていた。
医務室の前の長い廊下は、太陽の残照によって作り出された窓枠状の影がリノリウムの床にうっすらと張り付いている。
もはや人影もまばらな廊下に、壁に寄りかかるようにして手持ち無沙汰にしている男子生徒の姿が一つ。
「安積」
永原が見慣れたその生徒の名を呼ぶと、彼は手に持ったスマホの画面を消しながら、端正な顔を二人へと向けた。
「・・・ああ」
安積は返事とも挨拶とも取れない風な声で二人に応えた。
「具合の方はもういいのか?」
「あぁ、まあな」
「ふーん、そうか」
短い会話で、安積と永原は言葉を交わした。安積の心境は図りかねたが、とにかく永原はあのバスでの小さな衝突や情けなく失神したことなどが相まって、何となく気まずさを感じていた。
姫沢も何だかおかしい雰囲気を感じとり、二人を交互に見やった。
安積がどう出るか図りかねていた二人だったが、彼の口から飛び出したのはいつものぶっきらぼうな誹りであった。
「しかしこの暑さの中、何の対策もせずに熱中症で倒れるなんてありえないよ。スポーツマン失格だな」
安積の嫌みが飛んできた。いつもの永原であれば頭の制御回路がプッツンと切れて何か言い返すところだが、なんといっても今は病み上がりだ。永原にいつもの威勢はなく、何かを言う前に安積の次の言葉が飛んでくる。
「さっきは宮田のことをスポーツやる資格がないとか言ってたが、まずは自分のことを考えれば?はっきり言ってかなりダサいよ」
「・・・何とでも言えよ」
ぽつりと口から漏れた言葉が、申し訳程度に言える最大の反論だった。
「行くぞ姫沢」
「・・・お、おう」
永原は頭痛がする方の頭を片手で押さえながら安積の前を通りすぎる。その後をわずかに遅れて、姫沢もその後をついていく。
「・・・永原。言いたいことがある」
彼らの背中に声が当たった。永原は視線を前にしたままで歩みを止める。
「なんだ?」
「俺は、やっぱり部活に対するお前の考えには賛同できないと思っている」
「へっ、病み上がりの人間捕まえてまだ説教する気かよ」
「話は最後まで聞けよ」
冗談交じりに安積をおちょくった永原だったが、どうもこの場の雰囲気はそういうおふざけのものではないらしい。何となく空気を読み取った永原は、ここでようやく後ろにいる安積の方へ振り返った。
薄暮の淡い光が安積の顔を照らしている。その口が固く結ばれているのを見て、えへらえへらと笑っていた永原も態度を改めた。
「お前の考えは支持できない・・・だが、だからといって宮田や鷲尾先生の結果至上主義も違うと思う」
滔々と言葉を繋げる安積を、永原は静かに見ていた。永原には、宮田や鷲尾の名前を口にするたび、わずかに安積の体が強張ったように感じた。
「それじゃあ安積。お前の考えはどんななんだ?」
「・・・わからない」
姫沢のシンプルかつ曖昧な問いに対し、安積もまたシンプルかつ曖昧な言葉を返答とした。
「ただ・・・思うところはあるよ。俺は、この高校のバスケ部に入ってからずっと、とにかく上手いことやって結果を出すことだけに躍起になってた。だからバスケの練習を積むのはもちろん、部活動で存在感のある宮田に迎合することで、少しでも功績を残すために歩く道程を短くできるように努力してきた。当然、俺以下の人間はクズだと決めつけて目もくれてこなかった。だが・・・」
安積は言葉を切り、一度息を深く吸ってさらに言葉を繋いだ。
「こんなレギュラーに残れるか残れないかぎりぎりの状態になって、俺はそれまで見もしなかったレギュラーになれない人間と近い距離になった。そうなって、ようやく気付いた。そうか、俺がクズだとかやる気が無いからレギュラーにもなれないんだと心の中で馬鹿にしていた連中にも、とても一言では言えないような練習の積み重ねや苦悩が存在する。ただ、そいつらはそれが見えるところで結実していないだけなんだ———ということをな」
いたって平板な口調で語る安積を、永原と姫沢は何も言わずに見ていた。
「今のところ、俺はどっちにも賛成できない。だが、今日のお前の話を聞いてたら・・・甘々だと思ってたお前の裏に積み重なっているものが、少し見えた気がした。少なくとも、お前らの部活への姿勢は、俺が思ってたのと違うみたいだなと、そういうことを思った。それだけ、言っておこうと思ってな」
言いたいことを言い切ったのか、安積は深く息を吐いた。
「いずれにしても、俺はまだバスケを辞めるわけにはいかない。今は他の連中にしばし遅れを取っている状態だが・・・またすぐに森部のエースに返り咲いてやるさ」
いつもはクールな安積の顔に、どことなく生気が宿っているように永原には見えた。こんなに生き生きとしている安積は随分久しぶりだ。そう、それこそ小学生の頃に三人で遊びまわっていた時の、無垢なままの表情そのものだ。
「なあ安積。折角だし、今日は俺らと一緒に———」
姫沢が安積に声を掛けようとしたが、それを振り切るように踵を返し、安積は急ぎ足で昇降口の方へ去っていった。
「なんだあいつ。言いたいことだけ言って帰っていきやがって。何しに来たんだ?」
姫沢は首を傾げた。
「・・・さあな」
一方の永原はほんの少し、口元に笑みを浮かべた。それと同時に、頭の前の方がズキリと痛んだ。永原は声にならない叫びを口の中で上げた。
安積が消えるのと入れ替わるように、廊下の先に見慣れた影が二つ見えた。
「おーい永原くん姫沢くん!代わりの場所、無事取れたぞ!」
卓球部部長の茅場が、スマホを持った手を頭上に掲げてゆっくりと揺らした。その後ろには明るい表情を浮かべた花岡が随同している。
「おおーっ!でかしたぞ茅場」
姫沢が茅場たちの方へ走り出すのに続き、永原もその後を追いかけた。
インビジブル No.2149 @kyohei0528h
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