こんな世界でも、君と二人ならきっと希望の光を見つけることができる。
- ★★★ Excellent!!!
「私は梟である。名前は、ない方が自由に羽ばたけるだろうと瞳の魔女が言っていた。」
この冒頭に、早くも心をつかまれた。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭のオマージュだが、アレンジの仕方がとてもおしゃれで格好いい。オマージュでありながら、作者自身の個性が強く表れている。
読み進めていくと、このフレーズが変化しながら何度か出てくる。
そこから物語の動きを読み取ることができて面白い。
また、梟(ふくろう)がストーリーテラーの役割をすることで童話のような世界観を見事に表現している。
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この世界では、人の罪悪が歌によって星になり、星が集まって太陽になる。
太陽は街を照らし、森の裏側で砕けて星になる。
その星が蓄えられ、歌唄いが産まれる。
童話的な世界観が、美しい表現でつづられる。文章のところどころに隠された独特な描写に個性が光る。
たとえば、「それは肉とキノコの匂いを纏っていた。」
これは煙についての描写である。
また、シャシエと魔女が話をしているときの「沈黙が、一滴、二滴、と二人の間に落ちた。」という表現なども好きだ。
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読み進めていくと、とても寓話的な物語だとわかる。
シャシエという少女、魔女、そしてオーグス民と呼ばれる人々が登場する。
少女シャシエは太陽のような存在。
しかし、人の醜さを見て光を失った。
そして「瞳の魔女」に助力を求める。
瞳の魔女は「銀色が帰る森」で暮らしている。
彼女はまるで夜の象徴だ。
一人きりで過ごす夜は、誰の悪意にも晒されず、心穏やかなものだろう。しかしそれは同時に孤独でもある。
オーグスの民は、太陽が大きくなることを恐れている。
しかし、彼らは太陽がないと生きていけないはずなのだ。
それは、キャッチコピーに書かれた「人はね。ずるさによって生きられるが、そのずるさによって苦しめられもする」というジレンマに通じる。
そのジレンマを向けられて逃げるシャシエ。
彼女を救うため、魔女は力を使う。
太陽のような少女との出会いが、魔女を変えたのだ。
そして物語は、希望の光が見える終わりを迎える。
心に光が差すような光景を一緒に観よう、と魔女がシャシエに告げるシーンが温かで美しい。
これは、太陽と夜が出会う物語なのだ。
私はそう思っている。
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ところで、作品のエピソードタイトルにもご注目あれ。
もともとこの作品は、作者さんと「瞳」さん、そして「聖願心理」さんとのやり取りから生まれたのだそうだが、エピソードタイトルの一文字目を下から縦読みすると……!
こういった遊び心が楽しい作品でもある。
(*´ω`*)