砂塵のエデン

伽藍井 水惠

砂塵のエデン

 見渡す限りの砂の大地であった。

 吹きすさぶ風が相方の瞳をしたたかに打ったらしく、小さな悲鳴が聞こえた。ゴーグルを付けた方がいいですよと私が言うと、相方はその存在をようやく思い出したようだった。慌ててゴーグルを付けた相方は、乾いた空気が渦巻く荒野を、一歩一歩、頼りなく進んでいく。

 D-213地域と機械的に名付けられたこの地区は、特に砂の量が多い。他の地域と比べればその差は歴然だ。通常、見えているべき茶色の地面は砂に覆い隠されてしまって、一ミリも見えない。見渡す限りの砂、砂、砂。地平線は黄金色に輝き、風に運ばれて堆積した砂だまりによってのったりと波打っている。砂の稜線を観測しながら、私はもう一度相方に問う。本当にこのまま進むつもりですか、と。


「もちろん、進むよ。目的地サーチ・ポイントまであと少しじゃない」

 元気よく、そして行儀良く。一歩一歩、教科書通りの方法で歩く相方は、重装備をものともせずに進んでいく。それならば問題はない。私は私の仕事を成すまでだ。

 巻き上げられる砂のせいで酷く視界が悪い。身体の至る所を細やかな砂が襲い、ぱらぱらという乾いた音を立てては地面に落ちていく。うう、と、相方の喉から細い苦悶の声が漏れた。ゴーグルを着用していようとも砂が襲ってくるのは変わらない。

「うわ、あ」

 相方が悲鳴を上げ、一秒後に砂の地面へと倒れ込んだ。年若い相棒の足は、歩みを阻害する砂にまんまと翻弄され、歩行という作業を中断してしまったらしかった。私からその様子を確認することはできなかったため、あくまで想定に過ぎないのだが。

「大丈夫ですか、ミス・カタギリ。お怪我は」

 私が相方――名をカタギリという若い女性である――を呼べば、彼女はどこか気まずそうに、転んじゃった、とつぶやいた。

「仕方ありません。この地域は、特に足場が悪いですから」

「でも情けないなあ。遺跡調査官が、砂に足を取られて転ぶなんて」

 またセンパイに笑われちゃう、まだ半人前なのかって言われちゃうと、首の後ろで一つに括った髪の毛をいじりながら、彼女はぶつぶつとぼやく。

「こんなに砂があるなんて、座学の画像だけじゃ実感がわかなかったけど」

「仕方の無いことなのかもしれません。ここは大災熱デストラクションの影響をかなり大きく受けたとデータにもありましたし」

「それ、その話。なんだか聞いてもあまり実感がわかなかったなあ。今まで知らなかったし」

 それはそうだろうと私は思う。大災熱の情報の多くには厳重な規制が掛けられている。閲覧するには、私たちのような立場の――知識者パレルトンが持つ、特一級情報閲覧資格が必要になる。カタギリのような遺跡調査官であっても、取得できるのは上一級までで、一般人にはそもそも取得の許可すら与えられない。つい一年前まで一般人であったカタギリに開示されていた情報は、私からするとあまりにも少ない。

「大災熱――世界のほぼ全てを覆い尽くした災厄の熱波、だっけ。それで世界が乾いて砕けて砂になっちゃった」

「おおむねそういったところです――が、ミス・カタギリ。あなたに開示されている情報はそれ以上のはずなのですが。科学的なメカニズムなども説明されていますよね」

「――座学、苦手で。大体ね、教官がいけない。ずうっと一本調子で説明するんだもの、あの教官、そろそろ後方に下がった方が・・・・・・」

「座学は各教育支部で差が発生しないよう、同じ録音を使用しているはずでは? もう一度説明しましょうか」

「発掘にはあまり影響ないでしょう・・・・・・意地悪しないで、歩くのやめちゃいそう。ああ、もう居住区も見えない。こんなに遠くまで来たの、はじめて」


 今や世界のほぼ全てが砂に浸食され、人類は数少ない緑地を自ら生み出すことで、どうにか生活拠点を確保していた。その息は小さく細く、あえぐようなものではあるのだが。

 私とカタギリが居住しているA10居住区は、外郭居住区を5つ備える巨大地区だ。天に向かって伸びるビルと、自然循環システムにより正確にデザインされた自然が鮮やかな都市だが、入居には多くの条件が課される地でもある。カタギリにとっては、遺跡調査官になって越してきた夢の都会だろう。彼女が遺跡調査官になることで、彼女の家族も共にA10に入居することができた。

 カタギリの薄い肩には、命在る限り遺跡調査官を続ける使命がのしかかっている。彼女が働いた年数だけ、彼女の付加価値が上がる。そして、彼女の生活水準も。だから、カタギリは夢のオアシスA10を一時的に離れて、こんな砂の海に自らの意志で飛び込んでいるのだ。遺跡調査官でいるために。


 青く澄み渡った空から、厄災をもたらした日光が、今日も変わらず降り注いでいる。カタギリは陽の熱さに顔をしかめ、帽子をより深く被り直す。日焼けを避けるため、カタギリの身体は通気性と廃熱性に優れた防護服に覆われている。腰に下げていた酸素マスクを身につけるべきかどうか、一瞬逡巡したのち、彼女は素顔のままでいることに決めたようだった。もっと危機的状況になったとき、酸素がなくなっていたら命取りになると考えたのかもしれない。背負ったバックパックに内蔵された冷却システムが正常に作動しているかを確認し、彼女はゆっくりとあたりを見渡した。砂の海と鮮烈な青空。かつて存在していたという緑はどこにも無い。

 


 遺跡調査保全保護機構――通称オグドース・コスモスの本部から、西にずっと進んだ地点で、私と彼女は立ちすくんでいた。

 この砂の海の中から遺跡を見つけるのに、私と彼女だけでは、到底力が足りないように思われる。それほどまでに、砂が広がっている。

この7日間、私とカタギリは、ひたすらに砂の荒野を行ったり来たりして、遺跡の痕跡を探し続けていた。

 私と彼女が遺跡群の調査を命じられたのは、今から7日前のことだった。砂の海に沈んだ遺跡群。まだどの遺跡調査官も手をつけていない、まっさらな遺跡である。我々が所属する遺跡調査保全保護機構はそんな場所に彼女のような新人を派遣するのを躊躇っていたらしく、出発前、何度も上官から念押しされた。

 曰く、彼女をよくよく補佐せよ、と。私としてはそれこそが唯一にして絶対の役目であるので、了解以外に答える言葉を持たなかったのだが。

「ありがとうね、アイ。こんな下っ端にあなたみたいな上級知識者がついてくれるなんて」

 衣服に纏わり付いた砂を払い、カタギリが歩行を再開する。今や遺跡の調査は学者の仕事ではなく、実地で調査・行動する調査官と、その補佐を行い、適切に知識を呈示し提供する知識者のバディが行うものになった。かつては遺跡発掘をしていたのが学者だ、というのは、知識者として当然知っているものだが、もうその光景を見ることはない。どこの遺跡に行っても、我々のようなバディがうろついている。

 軍事的サバイバル訓練を積んだ遺跡調査官と、知識を蓄え続けた知識者、という、一見アンバランスなバディが。


 二本の足を必死に動かしながら、カタギリはのろのろと歩みを進める。

「アイ、このあたりで間違いないのね」

「はい。この前、第25知識者調査班が解読したかつての地図には、ここに都があった、と記されています。砂に埋もれてしまっているかもしれませんが、遺跡を――風化していないものを見つけられる可能性は非常に高いかと」

 遺跡調査官、などという名前で呼ばれているが、その仕事は遺跡――過去の真実の究明などではない。風化を免れた過去の遺物を正しく保全し、細やかなものは持ち帰り、居住区を発展させることのできる技術がないか調査することが、遺跡調査官の主な仕事である。

 そして、知識者の仕事は、調査官をサポートし、適切に導くことだ。


「手ぶらじゃ帰れないね、第25知識者調査班って上級知識者だけで作られている班じゃない。頑張らなくちゃ――――あれ。アイ、あれ、あれ何だろう。何かある、見つけた!」

 最後の方は、ほとんど悲鳴だった。調査官の制服である濃い土色の防護服が白い砂にまみれていくことも厭わずに、カタギリが猛然と駆け出す。頭上に登った太陽が鮮烈な日差しを地上にまき散らしているせいで、カタギリの額にはすぐに大粒の汗が浮いた。

 やめなさい、と言うことも考えたが、私にそれはできなかった。遺跡調査の場では、知識者よりも調査官の意志のほうが常に尊重される。私はあくまで調査官を補佐するものであって、主体的に動けるものではないのだ。私にできるのは、カタギリを黙って見守ること、そして追従することだけである。

お目当てのものにたどりつくまでに、カタギリは砂に足を取られて二度ほど転倒したが、彼女の目には、もう自分が発見したソレしか映っていないようだ。見渡す限りの白い砂の大地から、ほんの僅かに、異物が突き出ている。まさしく彼女が求めていたもの――遺跡のひとつである。

カタギリの行動は素早かった。背負ったバックパックの中から組み立て式のシャベルを取り出し、手早く組み立て、砂と取っ組み合いを始める。


 ざくざくと砂をかき分け、奮闘すること数十分。

 我々の前に姿を現したのは、一つの金属の箱だった。

「これ、なあに・・・・・・箱?」

「ミス・カタギリ、私によく見せてください。私が知っているものかもしれません」

「うん、お願いね、アイ」

 彼女の両手に収まるほどの、小さな金属の小箱。私はそれに見覚えがあった。

「――保管用の箱ですね。旧文明で使用されていたものと思われます」

「これが? 本部オグドース・コスモスの資料室で見たものと全然違うけど・・・・・・」

「ああ、あの箱は遺跡から最もよく発掘される一般的なものなのですが、これはより高度な技術で作られているようです。PANDORAと商標が付けられたタイプのようですね」

 私はこの中に入っているものが一体何であるのか、じっと推測する。

 かつての遺産。それを、機密性・保存性に格段に優れた保存容器にしまっておく理由とは何だ。

 そんなものは無限に考えられた。そこには人間の心が介在するのだから。

 他人から見れば無価値なものも、箱を利用した本人にとっては、命と等価のものであったりするのだから。

「アイ、これ、どうやって開ければ良い・・・・・・?」

 座学で説明されていたはずの手順を、カタギリは忘れてしまったらしい。自ら座学が苦手と申告するだけはある。

「わかりました、開け方を説明します。その前に、危険なものが入っていないか、確認させてください」

 箱の中をスキャニングし、内容物が爆薬といったものではないことを確認して、私はカタギリに指示を出す。

 防護服の分厚い手袋で、しかし彼女は起用に箱の鍵を開けていく。ぶうん、と、冷却システムがうなりをあげる。周囲の気温が上昇したのだ。

 天から注ぐ光はいよいよ激烈な熱を孕み、まるで地表を炎で舐め尽くそうとしているかのようだった。彼女が私の忠告に従って防護服を着込んでいてくれてよかったと心底思う。

 今日日、この世界のすべてのものには役割がある。

 彼女は行動をするものであり、私は思考をするものだ。その思考の中には、彼女の生命維持も含まれている。私は役割を果たさなくてはならないから、彼女が素直で純粋であってくれることは、なによりの僥倖であった。

 カタギリの指が繊細にひらめき、次々にロックを解除していく。座学が苦手でも彼女が遺跡調査官に抜擢されたのは、この行動力と器用さあってのことなのだろう。

 

 ものの数分で、かちゃりというロックの外れる音がした。最後の鍵が外れたのだ。

「開いた!」

 喜色満面といった様子で、カタギリが箱の蓋を開く。これが特一級情報にあたるものでないことを祈りながら、私はそっと箱の中をのぞき込んだ。

「――なんだろう、これ」

 箱の底にしまわれていたのは、黒い機械だった。

 私はそれに見覚えがあった。

「録音機、です」

 なあに、と問われたのだから、そう返さざるを得なかった。それが私の役割なのだから。

「ろくおんき、ってことは――音声記録が入っているの」

「おそらくは」

「聞いてみたい!」

 荒廃した砂礫の大海原のまっただ中に、カタギリの無邪気に過ぎる声が響く。

 情報規制に抵触する可能性がある、と、私の中で警告音が鳴り響く。同時に、知識者よりも調査官の意志が絶対的に優先される、という遺跡調査保全保護機構オグドース・コスモスの規則も鳴り響く。アンビバレンス、アンビバレンス。

 可能性よりも明確な規則が優先される。私はそう結論を出して、しかし彼女が諦めてはくれないだろうかと少ない確率に賭けながらの言葉を発する。

「――エネルギーが、あるかどうか」

「この、黒いパネルとかどうだろ。これ、本部で見た、太陽光発電パネルってやつじゃない」

 まるで神のお告げを受け取ろうとする敬虔な信者の様にまっすぐに腕を伸ばし、録音機を天に掲げたカタギリが言う。

「――ええ、まさしくそれですミス・カタギリしかしそれが実際に動くかどうかはまた別の話で」

「これ押すのかな、あれ違う、じゃあこっち・・・・・・」

 最初に音量調節のボタンをいじり、次にまさしく電源ボタンそのものを押した彼女のカンの良さたるや。

 私は諦めることをしてはならないと決められているし、もちろん異論はないのだが、今だけは諦めというものを持っておけば善かったと思う。


 ざりざりと砂を噛むようなノイズの後に、人間の声が再生された。年若い、男の声だ。それを耳にしたカタギリが、顔いっぱいに笑顔を浮かべて声を聞こうとする。

 さすがにここでは体調を崩しかねないと、渋る彼女に数メートル先の砂丘の日陰に移動するよう申告して、どうにか移動させた後、我々はその録音機の声に耳を傾けることになった。

 

 ――今が何年なのか、これを聞く人にとってはどうでも良いことなんだろうけれど、だけれども一応記録しておこうと思う。今日は西暦2234年の12月24日だ。世間一般じゃクリスマスイブなんて呼ばれる日だったけど、ここ数年は縁遠くなった。街の中心部ではまだ騒ぎが続いている。ここは田舎だからまだいいけれど、街に残った友達はもう何日も連絡がつかない。今は、ああ、夜の9時を少し過ぎた所だ。ここには多くの人がいる。みんな街にはいられなくなって、ここまでやってきた。外では雪が降っていて、ここもとても寒い。クリスマスらしいことはなにもしていない。さみしいな、またクリスマスを祝うことが出来たら、どんなに良いか――。


 ――西暦2235年1月20日。年を越した・・・・・・けれど、正月らしいことはなにもしなかった。みんな息を潜めるようになってきた。この騒ぎはもう少しで終わるなんて話も出てきているけれど、本当なんだろうか。街に残った友達との通話は呼び出し音もならなくなった。あいつ、今どこで何をしているんだろう。


 ――西暦2235年2月1日。自分の感想ばっかり言っててもしょうがないよな。記録なんだから、もっと客観的に・・・・・・誰か聞くのかな、これ。全部終わって、こんなことしてたって笑い話にできればいいんだけれど・・・・・・。と、とにかく、今日のことだ。今日の天気は晴れ、気温は18度、湿度23%、降水確率はゼロ。いつも通り、なにもない日だった。食事は備蓄の缶詰と米。水はまだふんだんにある。明日の予定は特になし。このシェルターは落ち着いている。


 ――西暦2235年2月8日。今日の天気は晴れ、気温は19度、湿度20%、降水確率はゼロ。シェルター内で少しいざこざがあった。小さな女の子が外に出たいと泣いていたようだ。仕方が無いと思う。いきなりこんな所に来るように言われて、両親と一緒に避難したはいいけど、こんなに長い間ここに留め置かれるなんて思ってなかったんだろう。誰も、思ってなかった。思ってなかったんだ。


 ――西暦2235年2月21日。今日の天気も晴れ、気温は23度、湿度11%、降水確率は、ゼロ。ああ、もう何ヶ月雨が降ってないんだ。あの女の子、また泣いている。誰かが怒鳴っている。食料も底が見え始めたらしいと聞いた。いつになったら―――。


 ――西暦2235年3月―――。ああもう嫌だ――。


 ――西暦2235年4月――。戦争だ。戦争が始まった。いや、とっくに始まっていたんだ。始まるとわかっていたから俺たちはここに閉じ込められたんだ。少しでも生存確率を上げるために、少しでも・・・・・・。


 ――雨が! 雨が降らないんだよ! 循環システムが作る水で我慢してくれ余計な水なんてもう無いんだ! 畜生それは俺の、ああ!ああ!


 ――クソッタレ。


 しん、と、全ての生き物が死に絶えたような沈黙が砂の海に満ちた。特一級、とまではいかなくとも、一般人には決して聞かせられない録音だった。

「大災熱のときの録音、っていうことで、いいのかな。これ」

 カタギリは何かを悼むような、それでいてどこか他人事のような顔で、録音機を優しく撫でた。

「時期からすると大災熱直前の混乱期のものと見ていいでしょう」

「うん? そうなの?」

「はい、そう思われます」

「アイがそういうなら、まあ、そうなんだろうね。これ、とりあえず持って帰ろう。本部で詳しく分析して貰わなくっちゃ。でもさ、これ結構お手柄だよね」

 えへへと笑うカタギリの顔は、過去の亡霊をもう悼んではいなかった。

 我々の仕事は、砂に埋もれた過去の事実の捜索では無く、遺跡の中から再利用可能な技術を探し当てることだから、お手柄といえばお手柄だ。あの録音機も分解すれば何かしらに使えるだろう。

「じゃあこの箱も持って帰ろ・・・・・・あれ、中に何かまだ入ってる」

 カタギリの指がつまみ上げたのは、小さな金属のプレートだった。ところどころ錆び付いているが、形は保たれている。


「アイ、アイお願いこれを見て」

 カタギリの焦った声に、私はよからぬ可能性を算出する。金属のプレート。ただそこに入っていたはずがない。危険、危険だ。

 だが、問われたのなら答えなくてはならない。それが私の役割で、義務なのだから。

「金属の板ですね。元々は、今以上に鮮やかな装飾がされていたはずです」

「そうなの? ねえこれ、錆は――ああ! 擦れば落ちる! まって今落とすから!」

「そうですね、露出した部分は錆が浮いてしまっていますが、その金属は耐久性に優れているようですから・・・・・・」

「何か描いてある!」

 興奮のあまり、カタギリは私の言葉を半分以上認識していない。無理からぬことだ。彼女は調査官になってから――一人前、と認められてから、今まで一度も自力で遺跡とそれに準ずるものを発見したことがないのだ。ずっと先輩達が見つけた遺跡の保全作業や確認作業ばかりをしてきたせいで、自ら何かを見つける喜びにありついたことがなかった。


 ――ヘウレーカ!

彼女に知識があったなら、そしていわゆる少し鼻につく洒落者であったなら、そう叫んでいたかもしれない。そう思ってしまうほどに、カタギリは興奮していた。ごしごし、それでいて決して傷つけないよう細心の注意を払いながら、カタギリはプレートの錆を落としていく。

 見えるもの全てを言葉にして叫んでいく。


「黒い! あと白! 塗料なの? 何か細かく描いてある。こんなに鮮やかな色、私、初めて見た」

 金属の板の正体に、私は思い至る。そして、その知識を開示すべきか逡巡する。

「アイ、これは何? 見えるでしょう、ねえ、教えて」

 私に見えやすいよう、錆を落としたしたソレの前まで私を導いたカタギリは、矢継ぎ早に問いかける。

 黒く輝く金属の板に、虫食いのようにのたくる白い模様。私はそれに覚えがあった。私以外の知識者も、それに出会うことを忌避している。それが、私の前に呈示されてしまった。


 ――ああ、ミス・カタギリ。貴女は確かに見つけたのですね。


「これ、この白い模様はなに? 今まで見たことがない。絵じゃないよね、こんな絵、何かわからない・・・・・・」

 私は使命に従うことにした。もとより問われたことに答えるのが知識者の本能だ。本能には逆らえない。

「ミス・カタギリ。それは文字です。旧文明の人類が用いた、意志を伝え、記憶を書き残し、歴史を積み上げるために使われた――そういうものです」

 きょとん、と、カタギリは目を瞠る。よく日に焼けた顔に、じわりじわりと驚愕が広がり、やがて泣き出しそうな表情が形作られた。

「これが、文字なの? この白い模様? 伝説に出てくる? なにを意味するの。文字って、確かそういうものなんでしょう・・・・・・」

「ミス・カタギリ、そこには、本当に数多くのことが書いてあるのです。書いたものの名前と、書くに至った経緯、そして何があったのか。そういったことが書いてあるのです」

「ここ? この部分がそうなの? それともこっち? ねえこの模様のどれが文字なの?」

 旧時代、主にアジア圏で使用されていた漢字を指さし、彼女は問う。問われたから、私は答える。

「はい、ミス・カタギリ。それは、その全てが―――文字なのです」

「凄い、凄い、アイ。見つけた、おばあちゃんが昔話で教えてくれた文字! もうどこにもないはずの文字! これが!」

 踊り出しそうなカタギリを見つめ、私はこの選択が正しかったのか検討を始める。正しいはずがない。わかりきっていた。

 私だからこそ――旧時代の知識を持つ、AIだからこそわかる。


 現在西暦2322年。幾度かの世界大戦と地球環境の大幅な悪化により、人類の生存可能圏は縮小。戦争と食糧難、異常気象によって文明は大きく後退。荒廃した世界に残されたのは、疲弊しきった人類と、我々のような知識サポートAI、そして、かつての都市の遺跡だけだった。

 文字を忘れ、それ故に過去を忘れ、命をつなぐことだけに終始し続けた人類は、文字を無くした。戦火や豪雨や大寒波に焼かれ流された文字たちは、失われるときは早かった。ごく一部の長期保存に耐えうる資料をのぞき、ほぼ全てが地球上から失われていった。

 私たちもまた、ディスプレイに文字を表示させることをやめた。過去のことも、争いのことも、そもそも戦う方法すら忘れてしまった人類。ならば無知のままでいることが、人類全体の幸せにつながると、そう判断した。たとえそれが緩やかな種の自殺であったとしても。


「アイ! このことを早く本部に伝えなくちゃ!」

 すぐさま本部にとって返そうとするカタギリを止めるすべはなかった。彼女は彼女の役目を果たそうとしているだけで、そもそもサポートAIの私に、彼女の自由意志を止める権限などない。

 カタギリの手のひらほどの大きさの私の筐体は、いつもの定位置である、彼女の胸元に再び装着された。あのプレートを見るために、一時的に取り外されていたのだ。

「もし他の文字が見つかれば、アイたちのご先祖さまがどこから来たのか解るかもよ!」

 ご先祖。我々知識者は――AIは、かつて人類の友と呼ばれた形のないプログラムは、今や一つの種族であると認識されていた。

 我々は我々の手で我々を増やし、しかし人間の生活を守っている。離反する本能はない。闘争本能すらないのだから。


 カタギリの両腕が録音機とプレートを箱に仕舞い込み、バックパックにそれらを詰め込んでいくのを、私はただ見つめている。

 もはやモノとヒトとの区別もつかない人類が、今まさに文字を持ち帰ろうとしている。


 我々がどこから来たのかはわかりません。あなたたちと形が違う理由もわかりません。しかし我々は間違いなくあなた方を傷つけるものではないのです。

 そう、あなた方人類を傷つけることはありえない。その可能性は最初から削り落とされている。


 砂と風に覆われた、人類にとっての穏やかな自殺の日々が終わろうとしているのを、私は確かに認識した。

 本部の近くには、まだ発見されていない文字媒体が眠っている。

 私たちはAIだから、問われれば答えるよう定められている。戦争論でも歴史書でも、私たちはすぐさまそれを読み上げる。そして文字そのものの読み方を問われれば、教える。

 その先に何があるのか、私は計算しようとしてやめた。そんなことはわかりきっていた。人類は微睡みから解き放たれようとしている。

 自らの種の記憶を、結局は取り戻そうとしている。

 絶望も失望も実装されていない私は、もうなにも感じない。先ほどまでの焦りは、おそらく私たちに文字を忌避するプログラムが旧人類によって組み込まれていたからなのだろう。


 私はカタギリの顔を外部カメラで観察する。

 希望に満ちた顔が、私の方を向いて、艶やかに微笑んだ。

 それは、探究心に満ちた人間の微笑みだった。かつて世界を滅ぼした笑顔だった。

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