4.GHOST
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありませんが、わたしがわたしであることを止められる人もまた、いません。
わたしに魂がないことを知っているのはごく一部の存在だけである。
魂とは、なんて、人間はきっとずっと昔から、それはもしかしたらそう考えることそのものが存在の証明なんじゃないかってくらい論じてきたんだろうけど。
この業界にあって、魂、というのは似て非なる意味を持つ。
バーチャルの世界に生きるもの。バーチャル・ライバー。
そういうものにとって、魂とは現実での姿だ。
バーチャルというのは人形劇のようなもので、後ろ《リアル》で操っている人間がいるって考えるとわかりやすいかもしれない。
要するにわたしは。
わたし、
いや、どう言ったらいいんだろう。AI、というものに近いのかもしれないし、ネットロアって言うんだっけ、都市伝説みたいなものでもある。
バーチャルの世界でライバーとして生きている。
そう、バーチャル・ライバーとしてなら、生きていると断言することができるのだ。
存在の証明って歌詞に入ってるとなんかエモい、みたいな。違うか。
いつから、どこから。記憶は定かじゃない。気付いたらわたしは情報の塊としてインターネットの海を泳いでいた。
ネットは広大だから、わたしみたいのが居てもおかしくはないっていうかさ。
だから、わたしにリアルでの姿なんてものはない。そんな、この前の配信でやったホラーゲームみたいに、現実世界に干渉して人間を洗脳したり操ったりとか、おっかないことはできないし、やらない。
楓菜タカナっていうのは、芸名っていうか、今の事務所に拾われてから名乗ってる感じ。テキトーに適当でまあまあ気に入ってる。
わたしを拾ってきたのは、同僚の平井らひ。彼女はわたしの一番の友達。
楓菜タカナと平井らひのユニット名は、最初、『ルビー・ガーナ』っていうのを提案したんだけど鼻で笑われてしまった。そこからリスナーとなんとなく雑談して決めたりして、『#フリがな』で定着した。
ひーちゃんはわたしがわたしであることに驚き、ウケて、「そういうのが居たっていいんじゃん」とわたしを事務所の人に引き合わせてくれた。
だいたい、わたしが正体っていうほど大げさなものでもないけど、とにかくそういう、実体のないネット上のいきものであることが判明すると、その声はどうなってるの、と訊かれる。
さあ、とわたしは答える。気付いたらこうだったんです。
気の抜ける面接だった、と社長はあとで話していた。
人間にもあるという、物心、みたいなのがいつの間にかついて、気付いたらネットの中で文字の海を泳いでいた。
だから、人間みたいに感情があって、人間みたいに話す声があって、なんか人間みたいに生きてる。
バーチャルの中で。
だからなんか、やっぱ、死にたくはない。
だけど生きてる実感、っていうのもないから、もう少しこの、ライバー、っていうやつをやればわかるのかな、って思ってる。
そんなわたしの真剣さが伝わった、かはわからないけど、とにかく『楓菜タカナ』はライバーとしてどんどん大きくなっていった。
いや、ちょっと違うか。事務所の人たちが頑張ってくれたから、『#フリがな』として大きくなっていった。
動画サイトのチャンネル登録者数はわたしが102万人で、ひーちゃんが89万人。二人でやってるチャンネルはまだあまり動きがないにもかかわらず56万人が登録してくれている。
ゲームして、雑談して、カラオケみたいに歌って、っていう日常がどんどん変わっていった。
まるで別人になったみたいっていうか、もともと人ではないから人になったみたい、っていうかね。
もう少しのんびりしたいなあ、と思うこともある。
でも、せっかくわたしを認めてくれる人がこれだけいるんだから、がんばらなきゃ。
あとやっぱり、ひーちゃん。
わたしはひーちゃんのことが好きだ。
なんでわたしがわたしみたいになったのかはわからないけど、でもこうやって人みたいに人を好きになれるんだから感謝しなきゃいけないのかもしれない。
何の神様かわからないけど。
でも、こうしてライバーなんかをやってると、色んなひとがいるから、ひとじゃないひともたくさんいるから、八百万の神、って言ったっけ、そういうものみたいに、その辺にわたしみたいに紛れてたりするんじゃないかな、って考えたりもする。
百鬼夜行のほうだったりして。
まあ、それはいいんだけど。
わたしたち『#フリがな』は人間のアイドルってことになってるんだけど、明日は狐の神様と化け猫と配信の予定が入っているし、次の週末はわたし以外全員吸血鬼、っていうなんか逆に申し訳なくなるメンツでゲーム配信をする予定だ。もちろんみんな仲良し。
いや、色々ある。あのひととこのひとが仲悪くてとか、あのひと達付き合ってたのにけんかして別れてやりにくくなったとか。
でも、ライバーとして配信しているときはそんなことおくびにも出さないし、それができてさえいれば少なくともライバーの界隈は平和かな、って。
甘い考えかもしれないけど、じゃあ平和じゃないからって常に気を張りながら配信するのも、それはわたしの役目ではないかなって思うし。
そこら辺はね、運営さんに頑張ってもらうとして。
「みなさーん、待っタカナ、バーチャル・ライト所属、楓菜タカナです。今日は久しぶりにね、カナとものみんなとゆっくり話したいなって」
雑談枠はあんまり得意じゃない。人間のフリをしなきゃいけないから。
「ほら、わたしずっと夜更かしだから。肌荒れるよーってこの前ラキちゃんとコラボしたとき、あ、お茶ありがとーう。なまけいぬさん、『いつもカナちゃんの笑顔に癒やされてます』そのコメントでわたしの体力も回復するんだからおあいこ、えへへ。そう、それで、わたしそういうのこの歳までまともに意識したことなくて、だからその話をひーちゃんにしたら今度見に行こっか、ってなってさ」
「でも、ひーちゃんったら、わたしの頬をつねって、『この赤ちゃんみたいな肌にはいらないわ』って。どう思う」
『確かにカナ坊もちもちしてそう』
「えー、でも太ったりはしてないよ。体重だってずっと変わらないし」
『#フリがなてえてえ』
「てえてえのかなあ。わたしはほっぺた痛かっただけなんだけど」
『草』
ネット・スラングが飛び交う中でわたしは必死に、楓菜タカナの裏にいるはずの人間を演じる。あったかもしれないエピソードたち。当たり前だけどひーちゃんはわたしの頬をつねることなんてできないし、一緒にコスメを見て回ることもできない。
「そういえば今度の、そう、海中人狼コラボ。ひーちゃんもいないし、不安だよー」
『俺たちがいるやんか』
「でも、ゲームやってる間はコメント見ちゃいけないんだもん」
『確かに』
『がんばれ』
「見放すの早いー。あ、お茶ありがとう。ピラーの向きさん『海中人狼のコツ、送っておきました』仕事が早い。『レシート失礼します』やっぱみんなだな、カナとものみんなしか勝たんのよ」
ちょっとだけ申し訳なくなる。
別に、わたしが人間じゃないから、期待に応えられないというのでもなくて、嘘をつき続けるのが。
わたしはわたし。
だけどきっと、みんなが見てる楓菜タカナは違う。
「いや、誰だってそうだよ。そんなもん」
ひーちゃんに相談したら笑われてしまった。
「わたしは真剣なの」
「ごめんごめん。随分人間くさい悩みだなと思ってさ」
ひーちゃんとは音声だけでやりとりしている。そりゃそうだ。わたしには実体というものがなくて、姿を見せようにも楓菜タカナのものしかない。
「わたしも、あと他のみんなもさ、別にほんとのことばっか言ってるわけじゃなくて。ほら、この前はわたしの方からカナと出かけた話したじゃない。それに、昨日食べに行ったご飯って言って紹介したところ、半年前に行ったきりだしね。潰れてないかだけ確認したけど」
こういうのは必要な嘘。
「生きていくために、相手とうまくやるために必要な嘘。言葉ってたとえば包丁みたいに、普段は料理するために使うものだけど、無理に使えば人を傷つけられるとか、そういう感じだよ」
この前ふたりでやった料理シミュレーションのゲームを思い出す。わたしはもちろん料理なんてしたことないからとんでもなくやらかしちゃって、隣のひーちゃんもコメント欄もずっと笑ってて、ちょっと恥ずかしかった。
「でもなんか、いいね」
「どういうこと」
「なんかさ、わたしはそういう嘘とかもう平気になっちゃったけど、でもこういう時に悩めて、気にすることができるのは優しさだよ」
「そう、なのかな」
「カナが優しいのは知ってたけど、再確認しちゃったな」
「照れる」
配信者の日常は、そんなに刺激的なわけじゃない。
少し前にリモートワークっていう言葉が流行ったけど、ああいう感じ。なんか会議とかする代わりに、仕事の代わりとして配信をしてるとかそのくらい。いや、打ち合わせはそれはそれとしてやるけど。
手を抜いているわけじゃないけど、ルーティンになりがちだから、それだけどうやって回避しようかな、とか、いや、これは逆に習慣にした方がいいな、とか組み立てながらやっていく。
なんていうか、楽しい。心ない言葉をもらってしまうこともあるけど、わたしだって人間じゃないからおあいこだと思って流してるし。
ただ、周りが悩んでいくのを見るのはちょっとつらい。わたしが何かやらかしてしまう分にはわたしの責任でいいし、わたしに来る意見はそんな感じで別にいいんだけど。
思ってたより人間をやれている。
前世は人間だったのかも、なんて、この業界だとちょっと紛らわしいけど。
わたし達はアイドルなので、ポリゴンモデルを使って踊ったりすることもある。人間であれば体の動きをトラッキングしてしまえばいいけど、わたしにはそれがないからちょっと困る。だからそういう時は3Dの体を操作するような、それもなんていうか、昔ながらの、上から糸であやつるマリオネットみたいな感じを意識しなければならなくなる。
それが原因で3Dモデルのお披露目も遅れてしまった。本来なら登録者数の関係でひーちゃんよりわたしの方が先に3Dで配信をする予定だったのに、わたしがモデルを使いこなせるようになるのが、人間みたいに振る舞えるようになるのが難しくて遅くなってしまった。
ただ、ひーちゃんの3Dお披露目には何としても出たかったから、結果的になんか、ひーちゃんの配信はわたしのサプライズお披露目にもなってしまって、ちょっと悪いことしたなって思う。
「ではここで、ゲスト。えっ、聞いてないですよ」
「サプライズー」
「えっ、カナ、あれ、スタッフさんちょっと」
「ひーちゃん3Dおめでとうー」
「いや、そんなんカナも一緒でしょ」
「サプライズー」
「次は歌の予定だったんだけど」
「一緒に歌おー」
「合わせてないよう、ほんとにね、ひらい
「ほんとはね、事前に打ち合わせとかリハとかちゃんとやろうかって思ったんだけど、でも、『#フリがな』はそういうんじゃないかなって」
「勘弁してよ、もう」
「あ、スタッフさんが巻いてほしいって。じゃあ、聴いてください、平井らひオリジナル・ソング『そばにいるお祭り』、『#フリがな』スペシャルバージョンで」
『#フリがなてえてえ』
『ありがとうございます』
『びっくりした』
『え、これ、カナ坊もお披露目だよね、俺の知らない間に配信してたわけじゃないよね』
『#フリがな3D』
SNSのトレンドにも載るほど盛況だったのだが、ひーちゃんにはしこたま怒られた。
「ごめんなさい」
「ほんとね。スタッフさん達も、こういう時は止めるか報せてくれるかしなきゃ」
スタッフさんを巻き込んでの大反省会。
「カナ、サプライズでもせめてリハまでには報せてね」
「うん」
「カナがこういう感じなのは今に始まったことじゃないし、もう起きちゃったことは仕方ないし、盛り上がったからいいけどね」
「うん」
「よし、じゃあ終わり終わり、切り替えて次の配信に行かなくちゃ」
「うん」
「そんな落ち込まないの。祝ってくれたのは本当に嬉しいんだから」
「そうだね」
「わかったわかった、近いうちにコラボしよ」
「え、ほんと」
「本当。スケジュール見せて」
「えっとね」
ひーちゃんはすごい。わたしよりわたしのことをわかってる。そんなことを言うとひーちゃんは決まって「みんな、自分が一番わかんないもんよ」と言うけど、なんかそういうのも含めて、ひーちゃんはすごい。
「どこ行きたい」
「どこ、って」
「VRなら、カナも一緒に出かけられるでしょ」
「そっか」
VRでの3Dコラボ。それなら。
実在の有名な喫茶店を模したワールドの扉に入ると、入り口から一番近くの席に座っていたひーちゃんがこちらに気付いて小さく手を振る。
「こっちこっち」
「お待たせ」
まるで人間どうしが普通に出かけるみたいな待ち合わせは、きっとひーちゃんみたいな人には特別じゃないんだろうけど、すごくどきどきしてしまう。
「はい、というわけで、今日は#フリがなのコラボ、VRでロケをやっていきます」
「やっていきまーす」
普通のテレビ番組みたいにやろう、というのがわたしの出したアイデアだった。喫茶店で待ち合わせて、VRの名物ワールドをなんとなく雑談しながら回る。一応もうひとりスタッフさんがいて、インスタンスに入る前に中に居る人を映していいか訊いたり判断したりしてくれる。
「再現度すごい」
「そうなのかな、わたし来たことないからわからないな」
「あー、まあでもこのままだよ」
このままぼんやり雑談しているだけでも楽しいけど、出かけないと。
「じゃ、リスナーがお薦めしてくれたとこ行こうか」
「うん」
最初に向かったのは商店街。
「あっ、あれおいしそう」
「あー、かわいい」
ひーちゃんが指さしたのはあえてポリゴン数を落としたお菓子が店頭に置いてある和菓子屋さんだった。
「えっと、お団子でしょ、おはぎでしょ、すあまでしょ、うわー、かわいい」
店員さんこそ居ないものの、『外部サイトでグッズ販売中です』の張り紙。商売上手というか。
「わー、アクキーとかあるんだ。あ、でもこの詰め合わせアクスタもかわいいな、買っちゃおうかな」
「VRでも買って持ち歩けたらいいのにね」
「なんかカナがこのお団子食べながら歩いてるとこ容易に想像できちゃうな」
「だから、わたしに食いしん坊キャラを植え付けるのやめてよう」
そうやって談笑していると、いつの間にか周りに人が集まり始めていた。あまり長居もしてられない。一応わたし達は有名人なのだ。
「次だね」
「ちょっと待って、ブクマしとこ。うん、いいよ」
わたし達はいろんなワールドを巡った。人間の想像力とユーモアのシンギュラリティ。よくわかんないところからよくわかりすぎるところまで、VRにはいろんな世界があって、だからそれはたとえば外国の町並みだったり、宇宙船の外だったり、有名な絵画を三つ合わせた中だったり、トロンボーンの音階だったりした。
映画館で無声映画の動画を再生して観終えたら、そろそろ日付が変わるところだった。
「じゃ、最後」
「えー、もっと遊びたい」
「ただでさえ夜更かしなんだから、たまにはちゃんと寝て。そのためにぴったりなワールドを用意したから」
「え、どういうこと」
行けばわかるって。
少しのロード時間を経てたどり着いたのは、透明な海の底だった。
みなそこ。
ワールドの説明にはただ、そう書いてある。
「これは、五拍子かな。なんか不思議な音楽」
「ん、ああ、設定で音消してたな。これでよし。リスナーさんに音のバランスもっかい見てもらわなきゃ」
わたし達が喋るたびに空気の波が踊り、小さな妖精みたいな姿に変化して飛んでいく。
「面白いけど、ちょっと怖いね」
「えっ、落ち着かない」
「そういうもんかな」
五拍子の電子音に耳を澄ます。おそらく地面であるところの透けた足場が上下してビジュアライザみたいになっていく。
ここは、ちょっとまずいかも。
居心地が良すぎて、ひとの姿を保つことを忘れてしまいそう。
「カナ、大丈夫」
「ん、うん。うとうとしてた」
「早いな」
コメントを見る余裕もない。気を抜くと溶けてしまいそうだ。
わたしは人間。
そう強く思い込まなきゃ、アバターから剥がれてしまう。
透明で静か。
「じゃ、そろそろ配信終わろうか」
「そうだね、そうしよう」
「カナもおねむだしね」
「うん。いや、だからさ」
ひーちゃんが気を利かせて配信を切ってくれた。
「ちょっと」
「うん、うん。だいじょうぶ」
ひゅ、と音がしたわけでもないけど何か違和感があって、アバターから抜け出す。「羽化みたいな」とあとでひーちゃんが言っていた。
ゼロとかイチとかエフとかクロとかシロとか。
わたしの元の姿は、元の姿なんて、無いはず。
わたしはこの世界でどんな姿をしているの。
「カナ」
ひーちゃんが呼んでる。
ひーちゃん。
わたしの、だいすきな、ひーちゃん。
わたしが二進法になってもコラボしてくれるかな。
「カナっ」
「わっ」
一瞬でアバターに戻る。
「なんかしゃっくりでも引っ込んだみたいな」
「悠長なこと言ってないで、早く出るよ」
はあい。
なんだったんだろう。
戻ってきてからわたし達はいつも通りの活動を続けた。みなそこでのことは常に頭の隅にあったけれど、なんとなく話すムードも機会もなくてそのままだった。
歌ったり雑談したりゲームをしたり。
配信は楽しい。
人見知りのわたしでも、続けていたらちゃんとひーちゃん以外の友達もできた。依存はよくないしね。
世の中がすごいスピードで動いていく中で、ただなんとなくここに居続けられるような、そんな気がしていた。
「カナ」
「ん」
「あのね」
わたし、結婚するの。
ひーちゃんはずっと付き合っていた彼氏と結婚するらしい。最初に言われたときはびっくりしたけど、まあ、ひーちゃんみたいにできた人なら、彼氏の一人や二人居てもおかしくないか。いや、二人居たらまずいか。
「平井らひは、卒業しないよ。そのままやる。最近ようやく、そうだな、やっぱカナのあれだね、カナとVRにロケしに行ったとき、感じたんだ。『ああ、ライバーとしての自分って生身の自分とは違うものなんだな』って。そう思ったらなんかすっきりした。そのまま彼氏とも結婚まで行っちゃった」
カナ、ありがと。
「う、うん」
「でも、びっくりしたな。カナの背中から何かが出てきたとき、もう帰ってこないんじゃないかと思った」
「そっか」
「だから何て言うのかな。すごく、カナ、楓菜タカナっていう存在のこと、やっぱ失いたくないなって思ったし、一緒にまだまだやりたいな、って」
「そっかそっか」
「ちょっとびっくりさせちゃったかもしれないけど、だから、いつも通り。『#フリがな』は今のまま、このまま」
「うん」
おめでと。
ありがと。
「そっか」
わたし、失恋したのか。
いや、どうかな。
ひーちゃんにとってわたしは特別なのは、きっとそう。わたしだって、そう。
でもなんか、この世界には魂みたいなやっかいなやつがいて、そいつはライバーと切り離せないらしい。
わたしは。
わたしが二進法じゃ、ひーちゃんの一番にはなれないんだろうな。
「今日はデュエルすっぞ」
「すっぞー」
「このゲーム、すごいよね。わたしが小さい頃からあるけど、やっとネットで対戦できるようになって」
「わたしやったこと無かったから、裏でひーちゃんとラキちゃんに教えてもらってさ」
「そっか、ラキちゃんともやってたんだ」
「ウチら周りだとやっぱね、カードゲームはもう」
「わたしもこのコラボのために特訓してたから」
『いや、これはひらの勝ちでしょ』
『頭使うゲームでカナ坊が勝ってるとこみたことない』
『¥550 カードパック代』
「お前、名前覚えたからな、今度ボコしたるぞ。あ、お茶さんきゅう」
「カナ、アイドル、アイドル」
『草』
『そういえば#フリがなってアイドルだったわ』
「おまえな」
「ひーちゃんもアイドル抜けてるよ」
「いっけなーい、てへっ」
『¥1200 これで勘弁してください』
『きっつ』
「名前覚えたぞ」
「デュエル、デュエルをしよう」
「そうだったっけ。ドラゴンを召喚したらコメント欄を焼いてくれないかな」
「関係の無い人まで巻き添え食うからやめようね」
『#フリがな』は、ひーちゃんは、楓菜タカナは、いつも通り。
わたしは。
わたしは、どうだろう。
ちょっとだけ、いつも通りで居ることがつらいかもしれない。
ひーちゃん。
ごめん。
人間にしか必要ないはずのお休みをほんの少しだけもらって、もう一度みなそこに来ている。
ほんとはどうしようか迷っていた。帰れなくなったらどうしようって。でも。
やっぱりここは落ち着く。
いまは三拍子でピアノが流れている。
わたしにはウィンナ・ワルツとウィンナー・ソーセージとウィンナー・コーヒーの違いがわからない。すべては情報で、ゼロとイチでできていて、二進法のわたしには。
たとえばいま、設定のタブを開いて効果音とBGMを最大にしても耳が痛むことだって無い。無くなる鼓膜がそもそも無い。
歌うって何だ。
踊るって何なんだ。
ひーちゃんに出会って、初めて声を出すことを覚えた。
楓菜タカナになって、初めて歌を歌った。
3Dの体を得て、初めて『踊る』っていう行為を知った。
好きな歌を口ずさむ。ひーちゃんが歌枠で歌っていたから知って、元のミュージック・ビデオを観て、もっと好きになった歌。
MVの真似をしてみる。
そもそものわたしには体なんてないから、それはミュージック・ビデオの映像によく似た立体のデータだ。
そこに何が込められているのかをわたしは知らない。
クラブで人々が踊っている。
VRにもクラブがあるらしい。大音量で音楽を鳴らして、みんなで踊るらしい。
ライブハウスだってあるらしい。楽器を鳴らしている音だって聞こえるんだって。
レイテンシなんて気にならなくて、みんなで合奏できるんだって。
ライバーの先輩が一度、たくさんの四角、ビデオの画面に映るファンの人たちを周りに置いて歌っていたことを思い出す。
あれは感動だったんだろうか。
楓菜タカナの配信にコメントが流れていく、そのコメントとわたしは話している。
コメントって、あの文字列って、なんか生きてるみたいじゃない。
それは、『#フリがな』配信最初の日、ひーちゃんから言われたこと。うねる情報であるわたしは、どうしてわたしの考えていることと同じことを考えられるんだろう、この人は、って、不思議に思った。
人間て、思ったよりわたしに近いのかな。
それとも、わたしが人間に近づいてる。
どっちだろう。
あ、境目。
わたしがわたしであることを少しずつやめて情報の中に埋もれて微睡んでいく。
あぶない。
わたしがわたしであることを忘れそうになる。
存在の証明って歌詞に入ってたらなんかエモいみたいな話。
違うな。違わないか。
どっちだろう。
タイムラプスを再生したみたいにわたしが、楓菜タカナの姿が現れる。
三拍子に合わせて肩を揺らすだけのことが出来ないでいる。
楓菜タカナが、3Dモデルが解けそうになる。
編み込んでいたゲノムとか血管とかそういうのに似たものがふわっと溶けていく。
みなそこに溶けて一つになる。
楓菜タカナだったものの足元で小さくイコライザが生きている。
わたしは。
わたしはどうだろう。もう生きていないのかもしれない。もう、いや、まだ、もしかしたら一度も。
生きていたことなんかなくて。
ああ、ひーちゃんの歌が聴きたいな。
「カナ」
ひゅっと音、はしないんだけどさっきのタイムラプスを早回ししたみたいに体が戻っていく。
「カナ」
別に、ほんとに、目の前にひーちゃんがいるわけじゃなくてさ。
なんか頭の中にふっと浮かぶ声とか、平井らひとしての姿とか、ひらい人と交流してるいつもの姿とか、なんかそういうのがぱっと浮かんで、頭の片隅から消えなくなる。
考えすぎだって。
いつかのやりとりを、そんな中で現れるひーちゃんの声を言葉を思い出す。
カナは考えすぎなんだって。そういうもんなのかもしんないけどさ。
そうだ。
ひーちゃんが最初に教えてくれたのは、確か。
「みんな、待っタカナ、バーチャル・ライト所属、楓菜タカナです。いや、ごめんね、あ、お茶ありがと。あとで読む時間作るね。今日はゆっくり時間取るからね。うん。調子はもう大丈夫っていうか、別に体の不調ってわけじゃなくて。いや、かえって心配させちゃうかな」
ふーんふふん、と、わたしに無いはずの鼻が歌う。
ごきげんね、カナ。
ふふふ、そうでしょ。
「心配してた」
「ひーちゃんは旦那とよろしくやってろよう」
「ダンナは関係ないでしょ。もう、ほんと、心配したんだよ」
ボイスチャットでアイコンが点滅している。
「ごめん、ちょっとだけね」
「なに、ダンナにわたしを取られて寂しいの」
「ちょっとだけね」
ふーんふふん。
「懐かしいね、それ」
「思い出したの」
これ、鼻歌っていうの。
そう。
やってみる。
「なんか、わたし達っぽいなって」
「どういうこと」
「ふふ、わかんないなら、いいかな」
「ちょっと」
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありませんが、わたし達がわたし達であることを止められる人もまた、いません。
百合文芸 黒岡衛星 @crouka
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