3.きみの愛だけがぼくのハートをこわす
隣の部屋で恋人がボカロを歌いながら笑っている。
扉には『配信中』のプレートがかけてある。
ネットでの彼女はブイチューバーというやつで、そこそこ人気らしい。
もともとは別の事務所に所属していたけどいろいろあって今の事務所に移り、ユーチューブのチャンネル登録者数は十八万。
たぶんわたしが二次元のオタクじゃないからだろう。彼女の配信を観てもあまり面白く感じることができなかったのだが、当人は「べつにいいよ」って言ってたから特に気にしてない。
アバターはもちろん美少女。でも現実の姿の方がもっときれいだし、かわいい。
彼女と知り合ったのは彼女がまだ地下アイドルとして活動していた頃で、わたしは彼女のファンだった。
そのグループは特に男性ファンしかいなくて、どの現場でもほぼ唯一女性だったわたしは目立った。扱いもよかった。
卒業する、と聞いたとき、思ったより悲しくなくて、チェキを撮るときに向こうは泣いていたのにこっちがしれっとしていたのが気にくわなかったらしく、向こうから連絡先を渡してきた。
それからそれなりに色々あって、今では付き合って同居までしている。
魔女谷ウィッチの配信ではわたしは姉ということになっていて、姉谷<あねがや>と呼ばれている。同性だとこういうときにラクだ、というのは良いんだか悪いんだか。
ラクだから、とポジティブに捉えるしかない。
目の前の、ネットワークを切ったノートパソコンに淡々と文字を打ち込んでいく。
わたしは小説家をしている。もう少し言えば、官能小説家というやつ。
最初に彼女の現場に行ったのも、元々は取材のためで、彼女たちはわたしの妄想の中で再構成され、古臭い男の欲望に汚されたことになる。
彼女がわたしの仕事をどう思ってるのかは知らない。特に訊いたこともないし、だから何かを我慢させているというのでもなし。少なくともそう見えるし。
「ご飯ちょうだい」
「終わったの」
「うん」
手を止めて、冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出す。ミートソース。
「そんなにお腹空いてるなら自分でやんなよ」
「めんどい」
時間かかんないやつで、と念を押される。
おとなしくパンに塗ってチーズまぶして、ピザトーストみたいにするか。
「ネムケのお腹はどう」
「わたしはさっき食べた」
「ずるい」
配信中だったでしょうが。
ネムケ、というのはわたしのこと。
魔女谷ウィッチ、こと
生まれは日本で、育ちはドイツ。アメリカのコリアンタウンで就職して、結局日本に帰ってきた。
なんか色んな国に家族や親戚がいて色んな言葉が喋れるし、ラップとかもできるし、凄いっぽい。
よくわかんないけど。
「いただきます」
心理の目の前に置いたミートソースのトーストが、コマ撮りのアニメみたいにさく、さくと消えていく。
「んんっ」
「ほら、慌てないの」
オレンジジュースを飲み、すっぱそうに顔をしかめる。
牛乳とかにすればいいのに、と思うのだが、彼女からしたら「このすっぱいのがいい」んだそう。
「ごちそうさま」
「ん、もっとゆっくり食べなさい」
「はいはい」
思わず、はい、は一回、と言いかけてこれはいよいよ保護者だな、と苦笑する。
壁に掛けてあるカレンダーには大まかな予定が書いてあって、今日は心理はフリー、らしい。
「心理」
「ネムケ、原稿進んでるの」
「うっ」
わざと大げさに狼狽えてみる。
「なんてね、遊びに行くくらいの余裕はあるよ」
「やった」
こんな、子供っぽく喜怒哀楽を示してみせる心理につられてすっかりわたしも外国人かぶれだ。
ボディランゲージがうるさくなったともっぱらの評判である。
とはいえ。
「って言ってもどうしよっか」
世はすっかりコロナ禍が続いてしまっている。都心とまでは言わないにしろ、それなりに都会に住んでいる身としてはある程度覚悟して動かなきゃならない。
「カラオケはどう」
「あんたさっきまで歌ってたじゃない」
喉いたわれよ。
「歌いたりないの」
曰く、昔ちゃんと喉に負担のかからない歌い方を教わってるからいくらでも歌えるよ、とのこと。
「なんならフリータイムでもいいよ」
「わたしが良くないわ」
特別な訓練を受けているのは心理だけなのだ。
「ネムケはどっか行きたい」
「そうね」
本屋はつい長居してしまって心理が退屈するし、カラオケ行って不用意に喉を酷使するのもどうか。
「どっか、ドライブでもしながら決めようか」
「え、車出すの、やった」
心理はわたしの車に乗るのがとにかく好きだ。それは別にドライブが好きだというだけではなく、ちょっと買い物のために近くまで行くだけでも喜ぶ。
子供か。
とはいえ、その子供っぽさに助けられている部分も多いのだけど。
車のエンジンを先にかけて暖めておく。まだそこまで寒くもないかな、とは思いつつ。
はやく、はやく、とまるで散歩に行きたがる飼い犬みたいにそわそわする心理を横目に見ながら支度をする。
「いいから、あんたも早く支度しなって」
「はい」
心理はいちいち動きが漫画っぽいというか大げさで、最初はかわいいなと思ってたんだけど、いい加減そこそこの付き合いになるとちょっとうっとうしい。
それがキャラとかじゃなく地だから、余計に。
「行ってきます」
「いってきます」
誰も居ない部屋に向かってあいさつするわたしを心理が真似する。一度、「誰に言ってるの」と訊かれたときに、少し考えてから「神さま」と答えたところ、こうなった。
もっとしつこく訊かれたりからかわれたりするのかと思っていたけど、素直だった。心理の中の宗教観がどうなってるのか少しだけ気になる。あまり深入りする気はないけど。
FMラジオをつける。親が車でずっと流していたのでわたしもそのまま受け継いでしまった。
古い英語の曲が流れている。
心理がうっすらと口ずさんでいる。もちろん英語で。
「知ってるの」
「ううん」
いい曲だね、とか、そういえばなんか古いバンドの映画やってたよね、とか、そういう話をしながら車を走らせる。
「買い物あるならこの辺で寄るけど」
「ううん、いい」
心理はぼんやりと外の景色を見ている。
こういう時の行き先はだいたい決まっている。
『喫茶くろうりい』。
町の郊外から少し行って、山の手前くらいにぽつんと建っているお店。オカルトとハードロックが好きな夫婦がやっている店とは思えないようなやわらかい雰囲気で、初めて訪れたときからずっとお気に入りだ。
もちろん、ふたりにとって。
駐車場に車を止める。コロナの前までは混んでいる日もあったが、今ではいつ来ても空いてしまっている。
マスクを付ける。どうせすぐ外すけど、とはいえ。
アルコール除菌はする。
「あら、心理ちゃん、寝言ちゃん」
「眠気です」
いつものやりとりを聞いて爆笑する心理。たまに笑いのツボがわからなくなる。
「いらっしゃい。いつもの、でいいかしら」
「はい」
「はい」
授業参観の子供みたいに手を挙げて威勢良く返事をする心理のもとに、猫が寄ってくる。
ご夫婦が飼っているジョウくんだ。
猫、というか動物一般に言えることなのだが、わたし達がふたりで居ると必ず心理の方に寄ってくる。
確かに、ジョウくんと遊ぶ心理はでっかい猫みたいで、動物も意外とそういうところを観ているのかもしれないな、なんて思う。
「いつもごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ」
うちのでっかい猫が、というと奥さんは小さく笑った。
「今日は、旦那さん居ないんですか」
「ちょっと、裏で休んでるの」
ぎっくり腰が癖になっちゃって。
大変ですよね。
眠気ちゃんも気をつけてね。
はい。
入り口で心理が猫と遊んでいる間、カウンターで奥さんと世間話をする。それはたまに旦那さんの方だったりするけど、基本的にはいつもの流れ。
「あれ」
「気付いた」
いつもは少し音量を抑えてハードロックが鳴っている店内なのに、いつもとは違う、今風の電子音が流れてる。
「ウィッチちゃんの新曲」
「へえ」
確かに、加工されているけどよく聴くと心理の声、のような気がしなくもない。
「へえ、って、気付いたんじゃなかったの」
「いや、珍しいのかけてるなあとだけ」
「心理ちゃんかわいそう」
「いや、ネムケはいつもこんな感じだよ」
いつの間にか猫から人間に戻った心理が隣の席に座る。
「はい、お待たせ」
わたし達の前に置かれたのは所謂『モーニング』というやつである。
それも名古屋流の、コーヒーの値段でトーストにあずきが乗ったものと、ゆで卵が付いてくるタイプ。
別にここは名古屋でもないし、なんなら朝でもないのだが、わたし達はここに来るといつもこれを頼むし、出してくれる。
ご夫婦のどちらかが名古屋というわけでもなく、なぜ出しているのかと聞いたら、なんとなく、としか返ってこなかった。
そういう店、といって伝わるかどうかわからないけど、いい感じにいい加減で気に入っている。
マスクを外し、いただきますをして、まず心理はコーヒーに砂糖とミルクを入れる。わたしはあずきトーストをかじる。おいしい。
何が違うんだろう。家で似たように作ってみてもなかなかこうならない。
「眠気ちゃん、仕事はどう」
「まあ、ぼちぼちですね」
「変な脅迫とか来ない」
「今のところ大丈夫ですね」
ここの二人はわたし達のことを知っていて、いつも気にかけてくれる。隠れ家、って何から隠れるわけでもないんだけど、いざってときがあれば真っ先に頼るだろうな、という予感がある。
「なんかでも、熱のこもった手紙もらってなかった」
「わたしのところに来る手紙、そんなんばっかだからなあ、どれ」
「百合のやつ」
「ああ」
「え、なになに、聞いてもいいやつ」
端から見たら『かしましい』を体現してるなわたし達、とちょっと苦笑しながら話し始める。いや、別に誰か他の客が居るわけじゃないしいいんだけど。
わたしは官能小説家なので、作品には男性のファンが多い。特に官能小説というジャンルでわざわざ手紙をしたためてくるというのは、良きにしろ悪しきにしろとにかく熱量があるものになりがちなのだが、先日、珍しく女性の読者からメールをいただいた。
彼女が最初に読んだというその作品はレズものではないものの、二人の女性が主人公の男を取り合うというもので、女性同士の絡みもあった。3Pの最中にレズり始めるようなあれだ。
普段、官能小説家としてわたしが書いている文章は特別に女流作家であるということを強調するものでもないし、文章だけでわたしのことを女性だと思うことはまずない、はずなのだ。
なのだけど。
「なんか、すごい研究熱心なひとで」
「研究って」
「なんか、その本で気になるっていうか、思うところがあったらしくて、わたしの本を全部集めて読んだんだって」
「えっすごい」
大ファンじゃん、と、もちろんからかうような声音。
「確かにね、嬉しいんだけどさ。でもやっぱ怖いよ。それは別に、ストーカーだ、なんてことが言いたいわけじゃなくてね。自分がこれまでに残してきた、そりゃプライドもって仕事してはいるけど昔の仕事とかさ、至らない部分もあって。至らないのは今だってそうだけど、許容範囲っていうか、ううん」
つい長くなってしまう。良くないなとわかってはいるんだけど。
「そういう、今にして思えば半人前とか新人の頃にやってた仕事を全部掘り返されて、恣意的な角度から掘り返されたらやっぱ怖いもんよ」
「よくわかんないけど」
「うん」
「もうね、全部見破ってくるの。気分は名探偵、安楽椅子探偵って言うんだっけ、あれににらまれた犯人。これを書いていた頃は多分このくらいの年で、おそらくこういう風に書くのだから女性で、女性同士の書き方は同性愛者のそれだな、みたいな」
「それらしく適当言ってるんじゃなくて」
「いや、言われた辺りを自分でも読み返してみたら確かに、ちょっとした文章の端々にあるんだ、そういうのが」
「えっすご」
「まあでもさ、だからどうした、今からこうするぞ、こうした方がいいぞ、とかってんじゃなくて単に、良かったです、感動しました、これからも応援しています、って締めてあってさ」
やっぱ官能小説のファンは変な人多いな、と思った、って話。
「へええ」
「下手な仕事できないじゃん」
「仕事で手は抜かないけどさ、でも確かに、気は引き締まったよね」
うちもちゃんとしないとなあ。
いい店じゃないですか。
いや、まだやれそう。
何を。
雑談に興じていたら、心理のスマートフォンが鳴った。電話だ。
出るだけ出て、店からも出る。
仕事かな。
戻ってきた心理はばつが悪そうに、事務所に用事、とだけ言った。
わたし達は少しだけ急いで飲み食いをして、ごちそうさまをした。
「ありがとうね」
「いえ、こちらこそ、いつも」
ゆっくりできなくてすみません。
「行くよ」
「うん」
店を出ると、車に乗り込み、心理、というかウィッチの事務所へと向かう。
例によってFMを付けると、キズナアイちゃんの曲が流れていた。
「ごめんね」
「いいって。心理のせいじゃないでしょ」
「うん」
そうなんだけどさ、とだけ言って、電波のキズナアイと一緒に歌い始める。
「いい歌」
「わたしの曲は知らないくせに」
「わたしの耳に入ってくるくらい売れてから言いな」
いつものやりとり。
「ねえ、ネムケの好きな曲って、なに」
「なに、いきなり」
「なんでもいいから」
少し、運転の邪魔にならない程度に考える。
「そうだなあ」
カーステレオではいつの間にかキズナアイの歌は終わっていて、渋めの洋楽が流れていた。
「あ、この曲」
ニール・ヤングの、「オンリー・ラブ・キャン・ブレイク・ユア・ハート」。今流れているのはたぶん、誰かのカバーだと思う。女性ヴォーカルになっている。
「好きだな」
「そっか」
心理はスマホを取り出して、おそらく曲のことを何か調べている。
「どしたの、いきなり」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
「そう」
なんかあるんだろうけど、別に深追いする気は無い。それで今までやってこれたし、これからもそう。
「ネムケ、辛気くさい曲好きだよね」
「何その言い方」
まあでも、そうかもしれない。明るい歌でぱっと盛り上がろう、という気分にはあまりなれない。いつでも。
「辛気くさいネムケも好きだけど」
「おお」
なんて返事していいかわからなくて間抜けな声を出す。
「でも、アイちゃんの曲とかも聴くし」
「そっか」
何かを考えている。
「前の歌枠で歌ってたじゃん」
「それは覚えてるの」
釈然としない、と小さくじたばたする。
そんな心理もかわいいと思うよ、とは言わない。
流石に恥ずかしい。
「ほら、着いたよ」
「ありがとう。じゃ、あとで」
事務所に直接送る、わけではなく、最寄りの駅まで。
そんな急な呼び出しでもないのか、のんびりと駅に吸い込まれていく心理を眺めながら、さあどうしたものかと考える。
コロナ禍にあってこっち、一人で時間を潰す、というのが難しくなってしまった。いつもは適当に近くのカフェでノートパソコンを広げて仕事に没頭するのだが、今日はオフのつもりで来たのでその用意もない。
だからといってこのまま車内でスマホのソシャゲやって過ごすとか、そういう虚無を感じる行動もあまりしたくない。
『くろうりぃ』に引き返そうか、どうか。
あ、こんな時こそウィッチのユーチューブか。
確か近所にスタバがあったはずだ。車を駐車場に駐め、少し歩くことにする。
田舎で引きこもっている作家仲間は人出が減って静かだと言っていたが、東京は変わらない。
都心だとまた変わってくるのかもしれないが、この辺は普段から人の多い地区ではないし。
入り口でソイラテを注文し、席に着く。
バッグから完全ワイヤレスのイヤホンを取り出しスマホとペアリングをする。
去年の誕生日、心理がくれたものだ。
正直、こういう、滅多なことでしか使わないのだが、なんとなく持ち歩くのにいい感じなのでバッグに入れっぱなしにしてある。
そこまで考えてくれたならすごい、とちょっとだけ思うのだが、どうだろう。あまりそういう気の利かせ方をする人間にも見えない。
ユーチューブで登録チャンネル一覧を見ると、心理、いやウィッチが同期の配信に顔を出していた。コラボというやつだ。
これで呼び出されたのか。
急な用事、というわけではなく単に雑談をしている。どうやら、同期のうちウィッチ以外の三人が集まったので、せっかくだからウィッチも呼んで同期コラボにしよう、ということだったらしい。
そういう雑な扱いに律儀に付き合うウィッチも別にお人好しというわけではなく、同期の仲の良さ、こういうフットワークの軽さ、をアピールするのが大事なんだそう。
小さな画面で二次元の女の子たちがわいわい喋っている。
言うまでもなくウィッチが一番かわいい。そりゃ元の推しが中身なのだから、恋人なんだから、そりゃそうだろう。
でもやっぱり、変な感じ。
ウィッチは心理ではなくて、自分とこのチャンネル登録者数がもう少しで二十万に手が届く、っていう有名人で、いや、人っていうかブイチューバーなんだけど。
馬鹿馬鹿しい話ではある。たとえば、野球場にいる、いや遊園地でもどこでもいいが、着ぐるみのマスコット。あれが人気だからと嫉妬しているようなもの。
少なくともわたしにはそんな感じだ。
ウィッチしか知らない人にとってはきっと逆なんだろうけど。中に人なんていない、みたいな。
わたしはウィッチの同期、仲間たちのことを何も知らない。なんとなくこうやってたまにウィッチが出ている配信を観たりはするけど、だからといってそれ以上の情報を入れようとは思わないし、ウィッチ、心理も特に何かを伝えたいわけではなさそう。
知りたいと思わない、という方が正確なのかもしれない。こうやって放送を観ていれば多少の情報なんて入ってくるし、そんな明確に拒絶しているということもない、つもりだけど。
子供っぽい嫉妬、なんだろうな。
年上なのに、とか、作家なのに、とか俗なことばかり考えてしまう。人生の経験なんて効率がどうこうとは思わないけど、きっと心理の方が色んな、面白い経験をしてる。
ほんのちょっとだけ、作家としての自分を見失いそうになる。
画面の中のウィッチは楽しそうに同期と話している。自分の嫉妬が本当につまらないものに見えてきて、落ち込む。
手元にパソコンさえあれば、何も考えず、いや考えてはいるけどこういう余計なことを考えないで小説を書いていられるのに。
そういえば、なんかそんなのあった。ポメラだっけ、小さいワープロみたいの。
ワープロ、っていうのももう言わないのかな。
ちょっと残っていたソイラテを飲み干して、店を出る。イヤホンの電源を落とす。
気分転換に電器屋に行こう。電器屋でいいんだよね、もしかしたら文房具だろうか。事務用品とか。
とりあえずヨーカドー行けばあるか。ということで車を出す。
買うかどうかはわからない。意外と値が張ると聞いたような気もする。
ただ、実物を見てなんとなくこんな感じか、というのを確認したい感じ。ウィンドウショッピング、よりはいくらか失礼なやつ。
ヨーカドーってスーパーなんだろうか。子供の頃はもっとデパートみたいに思ってたような気がするけど。
そういうどうでもいいことを考えながら駐車場に車を駐め、マスクをして店内に入る。
自分もそうだけど、人がわりといる。
自分も、こんな時になに不要不急の外出をしてるんだ、って怒られる側なんだろうな。
よっぽどわたし個人が馬鹿をやらない限り炎上するなんてこともないだろうけど、なんかあってウィッチに、いやこの場合は心理だろうか、迷惑がかかるのは避けたい。
心理はまた、気にしてないよとかなんとか、許してくれるんだろうけど。
ポメラは置いてなかった。やっぱちゃんとした電器屋に行かなきゃだめか。ドトールでコーヒーだけ買って車に戻る。
イトーヨーカドーってもっとデパートっぽいと思ってたな。頭の中で繰り返す。
コーヒーに砂糖を入れなくなっても、大人しか読んじゃいけない小説を書くようになっても、どこか、自分だけ子供のままみたいな気持ちが抜けない。
運転しながら考えることでもないけど。
ラジオでは清志郎のスローバラードが流れている。
どうせならこういうのは心理が乗ってる時に聴きたいけど、と思っていたらラインが来た。このまま電器屋に行こうとか思わないで良かった。
降ろした時の駅で車を駐めて待つ。
「おまたせ」
流石にちょっと申し訳なさそうにしている。
「いや、いいよ」
それよりご飯どうする、と訊くと、すぐに通常モードに戻って返事がくる。
「うどんたべよ」
「うどんか」
「うん」
ちょっと行ったら丸亀があったっけ。
「持ち帰りでいい」
「いいよ」
丸亀製麺に向かいながら世間話をする。配信はどうだった、途中までは観てたけど、なんてなんだか子供のお稽古事に口を出すママみたいな。
「ええ、じゃああの辺で観るのやめちゃったの」
「うん」
「その後が面白かったのに」
「そっか」
これで、後からアーカイブ観ておくよ、とか言えないのがわたしで、それでも気にしないでいてくれる、少なくとも表面上はそう扱ってくれるのが心理だ。
「うどん、楽しみだなあ」
「この前も食べたでしょ」
「いや、今度はちくわ天とね、春菊ってまだあるかな」
「そんなに天ぷらが好きなら天丼にすればいいのに」
「それもいいけど、いまはうどんの気分」
丸亀製麺に着いて、持ち帰り用のセットを注文する。このご時世だからか、大盛りが無料だ。
天ぷらだけではなくいなりも付けられると聞いて心理は迷っていたけど、結局ちくわ天とかしわ天にしていた。
わたしは、えび天といも天。
家の財政はわたしが仕切っているので支払いはわたしがするし、その間に心理は受け取ったうどんと天ぷらを袋に入れている。
そのまま心理に持って乗ってもらって、帰り路を少しゆっくりめに走る。
「春菊じゃなくてよかったの」
「だって、かしわととり天があったんだもん」
「で、かしわを選んだ決め手は」
「かしわだ、って思ったから」
「そもそもかしわ天ととり天て何が違うの」
「さあ」
ネムケのほうが知ってるんじゃない、と返されてしまった。
でも別に、わたしの小説にかしわ天が出てきたことないし。
出てこないの。
今のところは。
そんな感じでとりとめのない話をしていたら家に着いた。
「ただいま」
「ただいま」
二人して上着を脱ぐと、心理は手元のうどんをテーブルに置き、手を洗いに行く。
洗面台に並ぶのもなんだかな、と思いわたしはスマホでニュースを見る。特に気になる見出しはない。
「ネムケ、はやく」
呼ばれてテーブルを見るともう並べて終えていた。こんなときだけ仕事が早い。
手洗いを済ませて食卓に着く。
「いただきます」
「いただきます」
ずるずる、さくさくと食べる音が響く。
前に何かやっていたけど、こういう音もユーチューブでコンテンツになっているとか。
わからん。
わたしもおそらく一応はデジタル・ネイティブとかそんな感じの言葉で括られる人間のはず。
なんか、そういう、世の中について行けてるかどうかを考え始めると老化だ、みたいな言説があったと思うけど、流石にまだ若いと思いたい。
みかんの箱で勉強していたような人間ではないけど、あまりネットというものに接してこなかっただけなのだ。
「お茶淹れてこようか」
「おねがい」
席を立って、ティーバッグのほうじ茶を淹れる。
最近は日本茶もティーバッグで淹れられるので大変助かっている。
好きな人が見たら怒るんだろうけど。
「ほら」
「ありがとう」
ずずず、とお茶を飲む音が増える。
わたしはそのまま流し台で片付けをする。
「心理は夜も配信とかないの」
「うん、ネムケの原稿は」
「大丈夫」
「じゃいちゃいちゃしよっか」
「しない」
「しないの」
「いや、したいんだったら、いいけど」
「ネムケはすなおじゃないな」
何とでも言え。
恥ずかしいものは恥ずかしい。
「映画観ようよ」
「心理、趣味悪いからな」
「ええっ、でもネムケだってこの前」
しょうもない言い争いになりそうだったので適当に切り上げてネットフリックスを立ち上げる。
たまたま目に入った『ボヘミアン・ラプソディ』を再生。
「わたしに選ばせてよ」
「だめ。心理、絶対スプラッタ選ぶから」
「もうしないって」
心理はよく、ウィッチの配信でホラー映画の同時視聴配信をしている。
「違うのにするって」
「どうせまた『ブルース・ブラザーズ』でしょ」
「2000にするから」
「同じくらい観た」
映画が始まると徐々に私語も少なくなっていく。心理はその作品が面白いかどうかに関わらず真剣に観る。わたしはそれに合わせてはいるけどつまらないときはそれなり。
部屋の中にクイーンの曲が、物語が流れている。
面白い。見入ってしまってあっという間に映画は終わり、エンドクレジットが流れ始める。
「面白かったねえ」
「うん」
「アレクサ、クイーンをかけて」
スマートスピーカーが不自然に自然な声で返事をすると、さっそく映画で流れていた曲がかかる。
「心理はイギリスに居たことってあるの」
「旅行だけかな」
「どんなとこ」
「いいとこだよ」
「むしろ、心理にとって悪い国なんてあるの」
「そうだねえ、どこもいいよ」
もちろん、ここも。といって抱きついてくる。
「ちょっと」
「いいじゃん」
もう。
「心理」
「なに」
「またいいとこ見つけたらどっか行くの」
「こんなんじゃ行けないでしょ」
そうじゃなくて。
「行けるようになったら」
「一緒に旅行しようか」
「そうじゃなくて」
心理がちょっと困った顔をする。
「今日のネムケはめんどくさいな」
「そうかも」
じゃあさ、と心理がわたしを真っ直ぐに見つめる。
「ネムケは、わたしがどっかいいとこ行こうって言ったら、付いてきてくれる」
「どうかな」
「ええっ」
「少なくともわたしは、外国で暮らしてける自信がない」
「わたしといても」
「うん」
「そっか」
二人ともあとは何も言わなかった。
朝からぽろんぺろんと気の抜けたウクレレの音がする。
発声練習も兼ねているのだろう。はー、とかあー、とかマイクテストみたいな声も聞こえる。
起床のBGMにはちょうどいいくらい、かもしれない。
今日は特に外出の用事もないし、ぼんやりしてから原稿を進めよう。
ダイニングテーブルにはラップのかかった目玉焼きとトースト用に切ったパンが準備してある。
心理はわたしが居るからだらしなく頼ってくるだけで、わたしが居なければこうやって何でも器用にこなす子なのだ。
ウクレレの音が止んだと思ったら心理の部屋の戸が開いた。
「ネムケ、起きた」
「うん、おはよう」
ありがとね、と言うと、笑顔で、今日はね、と返ってくる。
「歌枠、聴いてみて」
夕方六時からだよ。
ずいぶんと機嫌がよさそうだ。
「どうせそこから聞こえてくるけど」
「いいじゃない」
それはネムケにしかできないぜいたくだよ、と言われてしまっては、返す言葉がない。
そういうものか。
バーチャルと現実の間で恋人の声を聴くことができる。ぽろんぽろんと間の抜けたウクレレの音付きで。
わたしの中にしか居ない心理。
どこにも行かないでね。
そんな風に、言いたくもなるけど。
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