8

 丸一日の休日を経て、茅野は朝の勉強を終えオフィスの前に立っていた。扉を開けると、食欲をそそる香りが茅野の鼻をくすぐった。

「お、おはよう茅野。ちゃんと休めたか?」

 笑顔で掛けられた鵜ノ沢の声は、普段と変わりなく明るいものだった。切り分けられたスパニッシュオムレツが香ばしい匂いを漂わせており、鵜ノ沢によって手際良く茅野のデスクに配膳される。挨拶と共に礼を言って、茅野は自席についた。

 ふわふわととろけるオムレツを味わいながら、オフィスを見渡した。暮と三門はともかく、東堂の姿も見当たらない。自身のデスクについた鵜ノ沢が、椅子を回して茅野に体を向けた。

「社長は用事があって出てる。すぐ戻ってくるってよ」

「そう、ですか」

 茅野はオムレツに添えられたサラダをつついた。

「……ごめんな、茅野」

 小さく落とされた鵜ノ沢の言葉で、茅野は顔を上げた。

「一昨日は、勝手なこと言っちまって。よく考えたらあれって、お前のこと信用してないようにも見えちまうよな」

「それは……」

 当然ではないか。言いかけた口を、茅野は閉じた。鵜ノ沢の言葉を待つ。

「大丈夫。でかい仕事任すのが急すぎやしねえかって思っただけなんだ。茅野のこと、ちゃんと信じてるよ」

 信じる。信用。信頼。茅野にとってのそれらは、双方が感じてこそ成り立つものだ。一方的な信用こそ、茅野には信用できないものだった。しかし。

「……ありがとう、ございます」

 鵜ノ沢は人として、一般的に付き合いやすいと言われる部類の人間なのだろう。茅野は、人間のふりをするために、まずは鵜ノ沢を観察しようと考えた。演じるならば、対象人間を知る必要がある。

 鵜ノ沢の表情が和らいだ。

「ん。こっちこそ、ありがとな。これからもよろしく頼むぜ、茅野」

「はい。……鵜ノ沢さん」

 笑顔の練習も要る。茅野は考えて、自室の洗面所にある鏡を思い出していた。


 茅野が朝食を終え、空になった食器を給湯室に運ぶと同時にオフィスの扉が開き、東堂に続いて三門が入室した。

「夏生くんおっはよー! 美鶴くんも! 今日もいい朝だね!」

「おはよーっす」

「おはよう、ございます」

 東堂が楽しげにしている時はろくなことがない。茅野が警戒心を露わにするが、東堂は構うことなく茅野に歩み寄り、その手を取った。

「美鶴くん! 僕とデートしない?」

「………………は?」

 やはり、東堂の機嫌が良いとよくないことが起こる。掴まれたまま上下に振られる手を眺めながら、茅野は改めてそう実感した。




 かくして茅野は、東堂が運転する車の助手席に座っていた。行き先を告げられないまま押し込まれた茅野は眉を顰め、嬉しそうにハンドルを握る東堂を横目に見た。

「どこ、行くんですか」

「ふふー、着いてからのお楽しみかな」

 東堂はそれきり口を閉じた。上機嫌に鼻歌をうたう東堂は、行き先を言う気が無いらしい。茅野は諦めて背もたれに寄りかかり、目を閉じた。

 茅野は思考を巡らせる。少なくとも戦闘ではないのだろう。東堂が異形と戦ったという話は未だ聞かない。能力者であるのなら、一体どんな能力を持っているのか。思えば、自分は三門の能力も知らないでいる。知らないことがあまりにも多すぎる。好奇心など持っていないが、最低限生き残るための知識は必要だ。時間を取って東堂と三門に問うべきだろうと、茅野は思考に結論付けた。

 スピードを緩やかに落とした車がやがて停車し、東堂は茅野に顔を向けた。

「着いたよ、美鶴くん」

 茅野がシートベルトを外し車外に出ると、東堂もそれに続いた。東堂の先導のもと、店舗の駐車場らしい場所から移動すると、ガラス張りのいかにも高級店らしい建物が看板を掲げていた。

「さ、行こっか」

 微笑んだ東堂は迷いなく入店した。茅野は少し躊躇って、後に続いた。


「いらっしゃいませ……おや」

「どうも、ご無沙汰しております」

 東堂の姿を見た店員が、ゆったりと歩み寄ってきた。店と店員の雰囲気に気圧された茅野は居た堪れなくなり、東堂の陰に身を潜めた。茅野の様子に気付き、強面の店員は表情を和らげた。

「そちらが、東堂様が仰っていた?」

「ええ。彼に合うスーツを」

「かしこまりました。失礼致します」

 店員は茅野の前に立つと、柔らかく腰を折った。

「初めまして。東堂様にご贔屓にしていただいております、テーラーの山崎やまさきと申します。恐れ入りますが、お名前をお聞かせいただけますか?」

「……茅野、です」

「茅野様でいらっしゃいますね。本日は東堂様より、茅野様のビジネススーツのお仕立てを承っております。少々お時間をいただき、ご質問や採寸などをさせていただくこともございます。ご了承ください」

 ようやく事情を理解した茅野は、東堂の顔を見上げた。東堂はただ、黙ったまま微笑んでいた。


 店の奥に通された茅野はデザインや生地を選ばされたが、そのほとんどを東堂と山崎に任せた。スーツ、特にオーダーメイドなどとは無縁であったし、似合うと思うものや好みのものと言われても、茅野にはまるでぴんと来なかった。注文そのものを断ろうとも考えたが、言ったところで東堂が聞くとは思えなかった。

 採寸を終えた茅野が店内を見て回っていると、しばらくして満足げな顔をした東堂と山崎が奥の部屋から出てきた。

「それでは、このように。一度フィッティングでお越しいただくことになるかと」

「分かりました。また伺います」

 東堂の言葉に微笑んだ山崎が、茅野に礼をした。

「茅野様。茅野様にお似合いのスーツをお作りしますので、どうぞ楽しみにお待ちくださいませ」

 人の良さそうな山崎の笑みに居心地の悪さを感じ、茅野は目を逸らすように頭を下げた。




 店を出て再び車を走らせた東堂は、オフィスとは逆方向に向かっていた。採寸で疲れ切っていた茅野は、不機嫌に眉根を寄せた。

「……次は、どこに」

「ああ、ごめんごめん。次行くところくらいは言っておかないとね」

 先のテーラーも言っておいて欲しかったがと茅野が考えた瞬間、東堂は「スーツのことは言っちゃったら美鶴くん断ると思って」と続けた。

「次は、通信制高校に行ってみようかなって。ほら、前にパンフレット渡したところ」

 茅野はデスクの引き出しに入れたままのパンフレットを思い出した。十数分の後、東堂は車をコインパーキングに停めた。


 ごく普通のビルに見えるそれは、入り口に中央高等学院説明会と書かれたパネルが飾られ、係員と思しき男女が冊子を配っていた。東堂は迷わず歩み、冊子を受け取ってビルに入っていく。茅野は慌てて東堂の後を追った。

 エレベーターから降りると、受付のカウンターから女が声を掛けてきた。

「こんにちは。説明会の参加でしたら、こちらにお名前をお書きになってお待ちください」

「はい。本日はよろしくお願いします」

 にこやかな笑みを浮かべ、東堂は渡された名簿に東堂と茅野の名を連ねて書いた。茅野が受付の女を見ると、東堂の顔をちらちらと覗き見ては顔を赤くしていた。

 受付の横に置かれたソファーで待っていると、やがて係員の男が部屋への案内を始めた。人の波が落ち着いてから歩き出した東堂に続き会議室らしい部屋に入ると、既に入室していた十数人が各々雑談を交わしており、室内はざわついていた。前方の扉から初老の男が入室すると、部屋は一気に静まった。

「えー、本日は中央高等学院説明会にお越し頂き、ありがとうございます。本日の案内を務めます、柳田やなぎだと申します」

 柳田は室内を見渡した。柳田が自己紹介を終えると、部屋の明かりが落とされた。学校の成り立ちや入学条件についてのスライドショーをスクリーンに映し出し、赤いレーザーポインターで指し示しながら、柳田が淡々と話していた。茅野は欠伸を噛み殺しながら、柳田の話をパンフレットと照らし合わせた。

 口頭での説明が終わると、校舎の案内が始まった。ビルのワンフロアが校舎として使われており、柳田の先導に続いて校舎内の設備を見て回った。茅野が広々とした自習室をガラス越しにぼんやりと眺めていると、一人の少女が茅野の隣に並んだ。

「ね、あの綺麗な人ってあなたの付き添い?」

 驚いた茅野が視線を向けると、同年代程度のその少女は東堂を指差していた。茅野が目を見開いたまま頷くと、少女は快活な笑みを浮かべた。

「へぇー、なんか外国人っぽいよねあの人。あっ私ね、稲森美咲いなもりみさきっていうの。あなたは?」

「か、茅野……美鶴」

「茅野くんかぁ。よろしく!」

 にっこりと笑う稲森を見る。シンプルな眼鏡を掛けた稲森は、肩につかない程度に切り揃えられた髪を揺らして茅野の顔を覗き込んでいた。

 フロアを一通り見て回り、最後に入った休憩室で自由時間と称して柳田が退室すると、説明会の参加者は二、三人のグループを作る者や保護者と話し合う者などに分かれた。休憩室に備え付けられた自動販売機で、茅野は紙パックのりんごジュースを購入した。空いた椅子に腰掛けると、対面を稲森がすかさず陣取った。どうすべきか分からず目を伏せると、茅野の隣に東堂が座った。

「良かった、美鶴くんはもう友達ができたんだね」

 微笑む東堂を睨む。山崎、そして稲森に話を畳み掛けられた上に東堂に連れ回され、茅野は疲れ切っていた。東堂の視線から、顔ごと逸らした。

「茅野くんの……お兄さん? 初めまして!」

「ふふ、初めまして。美鶴くん、少しシャイなところがあるけど良い子だから。よかったら仲良くしてあげてね」

「はぁい」

 上機嫌になった稲森と、兄と呼ばれたことを否定しない東堂に溜息を吐き、茅野はジュースを一気に飲み切った。ゴミ捨てを口実に席を立とうとすると、東堂に空いた紙パックを奪われた。

「せっかく友達ができたんだし、美鶴くんはゆっくり話してて。僕は先生と少しお話があるから」

 茅野と稲森に軽く手を振り、東堂は休憩室を出て行った。ほうと息を吐いた稲森に視線を向ける。

「かっこいいねぇ……あんな優しくてかっこいいお兄さんがいて、茅野くんが羨ましいな」

 肘をついた稲森が言う。

「よく、分かんない人、ですから」

「あはは、敬語なんていいのに。なんなら呼び捨てとかでもいいよ!」

「……いや」

 茅野は稲森の勢いに圧され、目の前の少女を無視できないでいた。しばしの沈黙の後、稲森がぽつりと零す。

「私ね、孤児院で育ったから。家族とか憧れあるんだ」

 聞いてもいないことを語り出す女子は、茅野が最も苦手とする人種だった。その場を離れようとして、思い至る。人間の観察は、なにも鵜ノ沢に限らずとも良いのではないか。茅野は椅子を引き、座り直した。

「それでね、一度は仕事しようと思ったんだけど。結婚とかもね。でも、高校出てないと会社にも男の人にも相手にされなくてさ。そんでここに通おうと思ったの」

 見渡せば、稲森の周囲に保護者らしき大人はいない。彼女は一人で来ているようだった。茅野の視線に気付き、稲森が笑う。

「孤児院の人はみんな忙しくてさ。赤ちゃんとかもいるし、付き添いはお願いできなかったんだ。みんな優しいけど、私最年長だし、ちゃんとしなきゃって思って」

「……そう」

「それでね、その……私、親がいないからってすっごい落ち込んでいた時期があったの。でもね」

 稲森は胸元からネックレスを取り出し、茅野に見せた。傾いた十字架に見えるそれを、稲森の指が愛おしげに撫でた。

「私を救ってくれた人がいるの。その人のためなら、私は頑張れる。その人が友達を作れって言ってくれて、だから今日、勇気出して茅野くんに声掛けてみたんだ」

 柳田が入室し、稲森の話が途切れた。柳田から説明会の終了を告げられ、他の参加者達は休憩室から出て行った。やがて戻ってきた東堂が、茅野の肩を叩いた。

「疲れたでしょ。そろそろ帰ろっか」

 疲労の原因である東堂に恨みを込めた目を向けて、茅野は何度目かの溜息を吐いた。茅野に続いて立ち上がった稲森に顔を向ける。

「……それじゃ、稲森さん。……また」

 会釈をすると、ぱっと明るい表情を見せた稲森が「またね!」と大きく手を振っていた。




「良かったね、お友達ができて」

 嬉しそうな東堂から目を逸らす。茅野にとって何一つ良いことなど無かった。強いて言えば、人間観察のサンプルが見つかったことは辛うじて幸と呼べるかもしれないと、茅野は考えた。

「入学は期間が決まっていてね。あの学校で良ければ、10月の入学に申し込めるけど。どう? 他の学校も見比べてみる?」

「……いや」

 茅野の心は決まっていた。

「あの学校で」

「うん、分かった。申し込みに関しては、美鶴くんの確認が必要なところ以外は僕が手続きを進めちゃって平気?」

「はい」

 見比べたとて、茅野に良し悪しは分からない。他に連れ回されるのも面倒だった。オフィスに着くまでの間、茅野は助手席に体を預け、周囲に張り巡らされた結界を思い浮かべながら、弱々しく目を閉じた。

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楽園戦線 びどろ @vidro_ss

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