第142話 キスの仕方
「ごめん。待った?」
久美はかなりのスピードで自転車に乗ったまま公園に入ってきて、あずまやの前で急ブレーキをかけた。
「ううん」
凛太郎は首を横に振った。
「寒かったよね?ごめんね。こんな雪の中、待たせちゃって」
自転車を降りて駆け寄ってきた久美の頬が真っ赤だ。
肩を上下させ、早いテンポで吐く息が白い。
懸命に自転車を漕いできて来てくれたことが分かって、それだけで温かい気持ちになれる。
「でも、雪のおかげで早めに部活が終わったんだし、ここも他に人がいないし、良かったよ」
微笑もうとしたのだが、寒さで顔が強張って上手に笑えない。
「どこか行く?この寒さじゃ、りっくん風邪ひいちゃう」
「だけど、どこかって、どこに行っても人が……」
バレンタインデーの喫茶店やファミレスは高校生がうじゃうじゃだ。
誰に出くわすか分からない。
スタバに行ったら、もれなくバイトをしている麻実に見つかるし。
このあずまやも、いつまでも安全というわけではないが。
「あの……、あのね……。りっくんの家はまずい?」
「うち?」
訊き返すと、久美は恥ずかしそうに俯いた。
しかし、その手があったか、という感じだ。
麻実はバイト。
母さんは仕事で七時ぐらいまで、あと二時間近く帰ってこない。「確かに誰もいないけど、……来る?」
訊ねると、久美は黙ったまま小さく頷いた。
そうと決まれば、こんな寒いところには一分一秒いられない。
凛太郎は自転車に飛び乗った。
二人は黙ったまま自転車を漕いだ。
これから、あの永田久美が凛太郎の部屋に来る。
バレンタインデーの日に凛太郎の部屋で二人きりになる。
そんなことが、この華やかさの欠片もなかった人生に起きるのか。
芯まで冷えていた体が急にじわじわと熱くなってきた。
あっという間にマンションまでたどり着く。
自分の家なのに、心もとない足取りで階段を上がる。
無言でドアを開け、後ろを振り返る。
ピッタリすぐそばに久美がいて、にっこり微笑む。
か、可愛い……。
「あ、上がって。狭いし、汚いけど」
「お邪魔します」
久美はお辞儀をして玄関に入った。
ドアが閉まる。
完全に二人だけの世界だ。
「ど、どうぞ」
部屋に入り、リュックを部屋の隅に放り投げ、勉強机の椅子に座る。
久美はコートを脱いで丸め、ベッドに腰かけた。
「飛島君、どうだった?元気だった?」
「ああ、うん。もう、すっかり元気だったよ。くーちゃんからのチョコ、すっごく喜んでた」
「私の?歩美のじゃなくて?」
「歩美ちゃんのは約束してたからって。くーちゃんのは予想してなかったから、すっごく喜んで、それを見た歩美ちゃんがちょっと怒ってた」
「馬鹿だなぁ、飛島君。歩美、健気に頑張って坂上女流初段のサインもらってきたのに」
「あー。あれの威力はすごかったよ。恭介君、喜びすぎて歩美ちゃんに抱きついてたもん」
「嘘!それ、見たかったなぁ」
「僕もびっくりしちゃって。何だかその場にいるのが気まずかったから、チャンスと思って歩美ちゃんを置いて帰ってきちゃったんだけど」
「あ、それ、上手に帰ってこれたね」
「うん」
久美はバッグから紙袋を取り出した。
「りっくん、こっち座って」
久美はベッドの自分の横のあたりを手で軽く叩いた。
言葉に従って移動すると、久美から紙袋を手渡される。
「こっちが本物の本命チョコです。本当は手作りにしたかったけど、そんなの家でやってたら、お母さんに叱られそうだから。私の好きなチョコのマカロン。お口に合うといいんだけど」
「ありがとう。そんなの食べたことないや。今から一緒に食べる?」
「いいの?」
久美が胸の前で「やった」と小さく手を叩く。
「いいよ。あれ?」
マカロンの箱を取り出すと、紙袋の中に封筒のようなものが見えた。
「あ。それは……、私が帰ってから読んで。恥ずかしいから」
久美からの手紙のようだ。
女子から手紙をもらったことなんて当然ながら一度もない。
何が書いてあるのだろう。
今から気になって仕方がない。
チョコと手紙の高揚感で今日は眠れないかもしれない。
それから二人は紅茶を淹れて、マカロンを食べた。
久美の言う通り、マカロンは美味しかった。
サクサク、フワッとした食感と、少しリキュールが効いているような大人の甘さが上品な感じがした。
「ついてる」
久美が凛太郎の口元に手を伸ばす。
マカロンの欠片がついていたのだろう。
それを久美は躊躇なく食べ、にっこりと笑った。
「くーちゃん……」
不意に何だか熱くたぎるものが腰の周辺から込み上げてくる。
久美のことが好きだという気持ちが急に高まって、久美を強く抱きしめたくなる。
久美の瞳が淡く濡れていて、キラキラと輝いている。
凛太郎は思わず生唾を飲み込んだ。
心臓がドクンドクンと鳴って、胸から飛び出してしまいそうだ。
こんなに近くで見つめ合うのは恥ずかしいけれど、久美のことが好きすぎて、一秒たりとも目から離せない。
きつく抱きしめて、溶けあって、久美と一つになりたい。
久美が目に少し憂いを帯びさせて、手元に視線を落とした。
「私……。あれは、駄目なんだ」
「あれ?」
「……婚前交渉」
「ああ。うん」
それは知っている。
そして、久美が駄目なことを、凛太郎は強引にするつもりはない。
三丸ができないからと言って、久美への気持ちが損なわれることは一ミリもない。
凛太郎としても、未知の領域の三丸に至るのは、はっきり言って怖い。
願わくば、久美とギュッと抱きしめ合いたい。
それだけで十分、いや、それ以外に望むことはない。
「だけど、それ以外は大丈夫って言うか。その……」
サァッと絵の具が水に広がるように、久美の首筋から頬にかけてのあたりが赤く染まった。
「じゃ、じゃあ、えっと……」
凛太郎はこれまで女子とキスをしたいという感情が分からなかった。
そんなことをしたいと思ったことがなかった。
だけど、今、明確に久美とキスがしたくなった。
自分の唇を久美の唇に合わせたいと強く思った。
きつく抱きしめ合うよりも、さらに強く、久美と一つになれる気がした。
「チ、チュウは大丈夫って言うか……」
そう言って、チラチラッと久美が不安げに凛太郎の表情を窺う。
「く、くーちゃん」
凛太郎は震える右手を伸ばし久美の左肩に触れた。
それをきっかけにするように久美がゆっくりと凛太郎の胸に顔を近づけた。
久美の額が凛太郎の鎖骨のあたりに到達する。
その様子を凛太郎は映画を見ているように、どこか現実感なく見つめた。
「暖かい」
しばらくそこにじっとしていた久美が顔を起こす。
凛太郎のすぐ近くに、息がかかる距離に久美の顔がある。
久美の黒い瞳に吸い込まれそうになる。
頭がくらくらする。
「くーちゃん」
「何?」
囁くぐらいの小さな声でもはっきりと聞こえるぐらいに二人の距離が近い。
「ここから、どうしたら、いいんだろ?」
キスってどうやってするのか分からない。
口を近づけたら、鼻はどうなるのだろう。
口だけ近づけようにも、体が固まって動かない。
お互い口を近づけたら、ぶつかったときに痛くないのだろうか。
「私も初めてだから、分かんない。みんなどうやってるんだろ」
久美の顔も緊張に強張っているように見える。「でも、頑張りたい。お互いが同時に動くと、加減が難しそうだから、どっちかが動こうか」
「うん」
「あ、それと……」
久美の顔がさらに赤くなる。
「何?」
「舌って、……どうする?」
「え?」
舌?
凛太郎は久美の舌を想像した。
この小さな口の中にある、小さな赤い舌。
「本当のキスって、互いの舌を、その、……絡め合うんでしょ?それって、……最初から唇を開けてそうするのか、それとも、最初は唇は閉じてて、少しずつ……」
そこは凛太郎に知識がある。
恭介からタブレットを何度も借りて、こういうシチュエーションも見学済みだ。
「それは、キスの中でも、ディープなやつで……。僕たちみたいな初心者はまず唇だけのやつで、いいと思うんだけど」
「そうなの?歩美が、本当のキスは互いが舌をむさぼり合いながら、唾液を絡ませるもんだって教えてくれて……だから、……」
歩美は久美に何を吹き込んでいるのか。
久美も、どういう家庭で育ったのか、まだ分からないが、そんなにも無垢だったのか。「じゃあ、りっくん、じっとしてて。私が近づいてくから」
「うん」
久美が掌をブレザーの脇で拭い、その手を凛太郎の太ももに置く。
そして少しずつ久美が近づいてくる。
……が、途中で止まる。
「ごめん。ちょっと、あれ」
「あれ?」
久美が凛太郎の机の上にある窓を気にしている。「窓?」
「うん。何か気になるの」
久美が立ち上がって窓に近づく。「カーテン閉じていい?」
「うん。気付かなくってごめん」
「ううん。私が気にし過ぎだと思うんだけど」
久美はカーテンに手を伸ばして、サッと閉じた。「私たちのことは秘密にしておきたいから。その時が来るまで……」
Fin.
童貞ミーティング! ~おくて男子高校生2人が治外法権の部室で炸裂させる静かで熱い妄想。あるか、一発逆転彼女ゲット!これが青春ってやつですか? 安東 亮 @andryo
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