第18話
二日たっても晴子は離れから出なかった。体を丸めて畳に転がったまま動かなかった。
スマホは電源を切ったまま押し入れの奥に押し込んだ。仕事を休むという連絡はしていない。桃比呂が出るかもしれないのに、電話をかけられるわけがなかった。
声を聞いてしまったら、もう終わりだ。世界は崩れて晴子はいなくなってしまう。
世界中の人間がいなくなってしまえばいい。
誰もいなくなった世界に晴子は一人だけ。一人だけで膝を抱えて終わりの時を待って座り続けるのだ。
でも、そんなことは起こらないし、今はもう晴子が本当に望んでいるのはそんなことではないのだと認めるしかない。晴子は、晴子自身が消えてなくなることを望んでいるのだ。生き辛いこの世界から、今まで知ることのなかった恐ろしいなにものかに晴子を変えてしまおうとする離れの外の世界から、消えてしまいたいのだ。
喉が渇いていた。けれど何も飲みたくない。桃比呂が淹れてくれた紅茶以外のものは飲みたくない。
幸せになんかなりたくなかった。幸せな現実なんかに触れたくはなかった。いつまでも不幸の真ん中で傷ついていたかった。そうすれば新しい不幸がやって来ても気づかずにいられる。
痛い思いをし続けていれば麻痺して痛みがわからなくなる。だから晴子は幸せになんかなりたくなかった。
意識が朦朧として来た。体が冷えてとても寒い。何度目になるのかわからないけれど、また気絶しそうになっていた。今度こそ、目が覚めないかもしれない。そうなればいい。そうすれば、もう離れから出なくていいのだから。
何度目かの深い眠りから覚めた時、離れは薄暗かった。朝なのか夕方なのかもわからない。カーテンを引いていないのに隣のビルの陰になって晴れているのか曇っているのかすらもわからない。
意識が遠のいて目が閉じかけた時、天井から音楽が聞こえてきた。どこかで聞いたことがあるようなクラシック音楽だ。明るくて優しくてゆっくりと踊っているような曲だった。
「天井から天上の音楽……」
呟こうとしてみたが唇も口の中も乾燥しきって声にはならなかった。それがおかしくて晴子は体を起こそうとした。ものすごく重くて腕で自分の体を支えきれず何度も畳に転がった。
起き上がるのに成功した時には音楽は止んでいた。もう一度聞きたいと天井を見つめてもピアノの音は響いては来なかった。壁に両手を付いてなんとか立ち上がる。
ふらつく足で離れを出ると、ダイニングのドアが開いていた。水を飲もうと入って行くと、朝子がぎょっとした顔で晴子を見た。
「お姉ちゃん、どうしたの!」
きっとひどい見た目なのだろう。けれど答えている余裕はなかった。キッチンで水道の蛇口から、手で直接掬って水を飲んだ。すぐに苦しくなって咽たが、時間をかけて少しずつ喉を湿らせた。
「もしかしてずっと部屋に籠ってたの? まさか一昨日から出てきてなかったの?」
「ピアノ聞いた?」
かすれていたが声は出るようになった。
「上から聞こえてきたやつ? 聞いたけど」
「なんていう曲?」
「知らない。クラシックでしょ、わかんないよ」
晴子は力のない足取りで玄関へ向かう。
「どこ行くの、大丈夫なの?」
朝子の声は晴子の耳をすり抜けて行った。言葉が意味のない音としてしか捉えられない。スニーカーを引っかけて外へ出た。エレベーターを待っている晴子の横に朝子がやって来た。晴子の腕を引っぱってまた尋ねる。
「ねえ、どこ行くのよ」
「上」
「ええ? 上って上の部屋? 何しに?」
答えている余裕はない。やって来たエレベーターの扉に手を突いて乗り込む。朝子も一緒についてきた。晴子は『河野夏生ピアノ教室』と表札を掲げている部屋のチャイムを鳴らす。出てきた夏生は、晴子を見て目を丸くした。
「どうしたんですか? 顔色がとても悪いですよ」
晴子は質問されたことにも気づかなかった。ただ必死に喉を震わせた。
「なんていう曲?」
「曲?」
晴子の唐突な質問に戸惑った夏生が朝子に視線を移した。
「すみません。私たち、下の階の相良と申します。先ほど聞こえたピアノ曲の題名を知りたくて……」
「教えて」
朝子の言葉を遮って晴子が口を出す。夏生を睨むような目で見上げる。
「よかったら聞いていく?」
夏生はドアを大きく開けて晴子と朝子を通してくれた。
廊下を左におれた奥の部屋、離れの真上の部屋にはピアノと椅子が数客あるだけで広々と感じた。夏生は椅子を勧めてからピアノに向かって先ほどと同じ曲を弾いてくれた。
晴子の胸にぽっかり開いている穴に音楽が溜まっていく。まるで水が溜まるように滔々と流れる音楽が満ちて、すうっと溢れ出した。
この曲は知っていた。子どものころ、まだピアノを習っていた時に聞いたのだ。同じ教室に通っていた少女が弾いていて、晴子ももっと上手くなったら弾きたいと思っていた大好きな曲なのだ。
「……『愛の挨拶』」
晴子が呟くと夏生が顔を向けて、にこりと笑って頷いた。そのまま最後まで弾き続けてくれた。晴子は色々なことを思い出した。
いつだったかとてもきれいな虹を見たこと。
夏休みに学校のプールに飛び込んで上げた水しぶき。
近所の公園で拾った子犬の飼い主を探して帰してあげたこと。
誕生日のお祝いの日には毎年、両親と朝子と四人で大きなケーキを食べたこと。
欠けていた記憶のピースが次々と戻ってくる。真っ黒だった記憶はカラフルで痛くて暖かくて、きれいな色もあれば濁った色もある一枚の絵になった。晴子のこれまでの人生が描かれた大きな絵だった。晴子の思い出は大きすぎて、もう離れには収まりきれないだろう。
ピアノの音が止んだ。晴子は動けないまま呆然と思い出を見つめていた。夏生は一度、部屋を出ていき、CDを一枚持って戻ってきた。そっと差し出して、晴子に手渡した。
「エドワード・エルガーの『愛の挨拶』。ゆっくり聞いてみてごらん。大好きなものは、きっとあなたのための力になるから」
晴子は頷いて立ち上がった。玄関を出る時に朝子が夏生にお礼を言っていたが、晴子はただぼんやりしていた。この曲を聞かせたい。そう思った。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」
顔を覗きこむ朝子に晴子はしっかりした声を返した。
「朝子、教えて」
「なにを?」
「電話のかけ方」
晴子はそれだけ言うと急ぎ足でエレベーターに乗った。あわてて追いかけてきた朝子も並んで家に戻る。そのまま朝子は離れまでついて来た。
晴子は離れに人が入ってくることに、もう嫌悪感も怒りも感じなかった。押し入れから出したスマホを朝子に渡す。
朝子は電源を入れて電話帳に一件だけ登録されている桃比呂の名前を見て晴子に尋ねた。
「桃比呂って変わった名前だね。何か由来があるのかな」
晴子は桃比呂の名前が世間一般の常識でいうと、変わっている部類に入ることに今まで一度も気づかなかった。
「知らない」
「気にならない?」
「ならない」
今までは気づきもしなかった。自分に不必要なことには目も向けなかった。だが、今は違う。見ないふりをしているわけではない。本当に知らなくてもいいとわかっているのだ。
「変わっててもいい。桃ちゃんは桃ちゃんだから」
「そうなんだ」
朝子はスマホを操作して晴子に返した。
「ここの通話ボタンを押したら繋がるから。じゃあ、私、向こうの部屋に行くね」
離れを出て行く朝子を晴子は呼び止めた。
「朝子」
「ん、なに?」
「結婚おめでとう」
朝子は一度、瞬きをした。じわじわときらめく清水が湧くように少しずつ、少しずつ、朝子は笑顔になっていく。
「ありがとう、お姉ちゃん」
離れのドアを閉めて朝子は出て行った。
晴子は夏生に借りたCDを見つめた。この曲を聞かせたい。自分が大好きで、でも力足らずで諦めざるを得なかったことがあったことを話したい。自分がどんなに情けない人間なのか、どんなに弱い人間なのか、それも全部見て欲しい。MOMOKOに助けてもらったことで、どれだけ自分が変わったか。桃比呂に伝えたいことがたくさんあった。
晴子はそっと通話ボタンをタップした。コール音が三回流れて、電話が繋がった。
「もしもし」
晴子が話しかけると、大きく息を吸ったような音が聞こえた。
『もしもし』
「仕事?」
『いえ、しばらく有給休暇を取っています。引っ越し準備があるので』
引っ越し。桃比呂がどこかへ行ってしまうのだと改めて思い知り、晴子は地球に一人ぼっちになることを想像した。家にも町にも世界中のどこにも誰もいない。テレビもラジオも何も伝えず、水も電気もガスもすぐに止まってしまうのだ。
そんなからっぽの世界で晴子は遠い声を聞く。自分を呼ぶ深く響く声を聞く。一人ぼっちの世界に、いつまでもその声はこだまする。
晴子が生きている限り、聞こえ続ける。
もしも桃比呂の中にも一人ぼっちの世界があるのなら、そこに響かせたい音がある。ちっぽけな自分が存在したことをいつまでも覚えていてほしいと思う。
「聞いて欲しい」
『何をですか』
「愛の挨拶」
しばらく無言が続いた。桃比呂はきっと呆れはてて怒っているだろう。晴子は桃比呂を拒絶したのだ。それなのに自分の要求はつきつける。晴子は電話を切られるのではないかと身構えた。
切られても何度でもかけなおそう。そう決めた時、桃比呂が返事をした。
『それは、何ですか』
桃比呂の声は平板で感情が読み取れない。
「CD。聞いて」
『電話越しに?』
晴子の動きが、はたと止まる。それから部屋を見回してみたが、晴子の部屋にCDを再生できるプレーヤーなどない。
「機械がない」
『わかりました。僕が持っているものを使いましょう』
晴子は目を丸くした。声が出るまで、時間がかかった。電話の向こうから、桃比呂が次の言葉を待っている気配がする。
「怒ってないの」
『怒っています』
「でも、聞いてくれるの」
『聞きます。そうすれば、晴子さんがなにを考えているのかがわかると思いますから』
桃比呂に説明しなければならないと思った。自分がなにを恐れていたのか、どれだけ弱虫なのか。過去から逃げようとして、目をつぶり耳をふさいでいたことも。だが言葉は容易には出てきてくれない。
『今、自宅ですか? 駅まで迎えに行きましょうか?』
「ううん、一人で行ける。行くから」
桃比呂は優しい。怒っていても晴子を気遣ってくれる。晴子は伝えたいことがありすぎて、うまく言葉にすることができない。
無言の時が続いた。ぐるぐると考えて、晴子は一番大切なことを聞く。
「桃ちゃん」
『なんですか』
「どれにする」
『どれ、とは?』
「あのドレスにする?」
一瞬の静寂のあと、桃比呂が硬い声で尋ねた。
『それは、映画の話ですか?』
「うん」
きっともう桃比呂は晴子と一緒に映画に行きたいなどとは思わないだろう。だが聞かずにはいられなかった。
『外で女装は無理です』
桃比呂が『映画は無理』と言わなかったことに晴子は驚き、呟いた。
「……あの時は出来た」
『それは晴子さんが泣いていたから』
「また泣く」
『そんな困らせるようなこと言わないでください』
桃比呂の声は穏やかだった。きっと晴子がなにも言わなくても怒りをおさめてくれるだろう。けれどそれは嫌だった。
「桃ちゃん」
『何ですか?』
「たくさん話したいことがあるの。聞いてくれる?」
『それは電話でですか?』
「ううん、桃ちゃんの顔が見たい」
声がぴたりと止まった。晴子は耳を澄ませて待った。桃比呂の声を聞くためならいくらでも待てると思った。
『……晴子さん』
「うん」
『待ってます』
「うん」
長い沈黙があった。電話が切れる瞬間に『じゃあ』と小さな呟きが聞こえた。
晴子は背伸びして押し入れの天袋から紙袋を取り出してピンクのかわいらしいセーターを選ぶ。セーターを鼻につけると桃比呂の部屋の香りがしたような気がした。
着替え終わって押し入れの襖も天袋の襖も取り払う。『離れ』という文字は年月を経たせいか、読めないくらいに薄くなっていた。
窓を開け放った。冬の凛とした空気が流れ込む。ドアも開けると、昏い色は姿を消した。壁は白くて、畳は日焼けした麦わら色で、天井からは時々、天上の音楽が降ってくる。
離れはただの普通の部屋だった。
玄関でショートブーツのひもを結んでいると、朝子が見送りにやって来た。
「お姉ちゃん、さっきの竹田さんって、上司の人?」
晴子は立ち上がって、朝子の目を見た。
「私の好きな人」
朝子は、にっこりと笑ってくれた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関のドアを開けた。
離れから一直線に吹いてきた風が晴子の側を吹き抜けていく。透明な新しい風はまっすぐに、どこまでも遠くへ飛んでいく。
晴子はその風を追って、広い広い世界に向かって歩き出した。
離れの晴子 かめかめ @kamekame
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