第17話

 大きな窓にはブラインドが下りていて外は見えない。今日は晴れだったか曇りだったか雨だったか思い出せない。自分で歩いてきたのか、担がれて連れて来られたのかわからないまま、晴子はカウンセリングルームにいた。


 精神科に通い始めて三回目になる。一回目と二回目は知能テストと性格診断テストを受け、ストレスチェックシートも書いたし、小さい頃からのこともいくつか話した。二回とも疲れ果てて待合室のソファを独占して寝るしかなかった。


 三回目の今日は診断名がついた。双極性障害だった。去年、大学をやめるころから鬱状態ではあったのかもしれないねと主治医が言っていたらしい。今は母が主治医と話をしているはずだ。


 初老の女性カウンセラーは、もう一度子どものころからの話を繰り返すようにと言った。晴子は一番古い記憶、朝子が生まれた時のことを話し始めた。


 母がいない期間がどれくらいだったかわからない。その間、とても不味いものしか食べられなかったことはぼんやり覚えている。父は料理はからっきしダメな人だったらしい。七歳だったのだからもっと昔のことも覚えていて当然だとみんなが言うが、晴子はそれ以前のことはまったく覚えていなかった。

 

 はっきりとした記憶は母が赤ん坊を抱いているところから始まる。疲れ果てた様子の母が、重そうに赤ん坊を抱いていた。長い髪を編んで右の肩にかけて左の腕に赤ん坊の頭を置いて抱いていた。

 赤ん坊はとても小さかった。真っ白で、弱弱しくて、壊れそうで怖かった。晴子を病院まで連れてきた父は赤ん坊に夢中で、太い腕で赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊が壊れてしまうのではないかと恐ろしくて目を離すことが出来なかった。

 父が赤ん坊を叩くのではないかと震えながら見ていた。父は晴子と違って妹のことは叩かなかった。目じりに皺を寄せて赤ん坊を晴子に近づけた。


「ほら、妹だぞ。抱いてみるか」


 とても無理だった。ふにゃふにゃした、形があるようなないような、生き物なのかなんなのか全くわからない怪訝なものを抱いて壊してしまったらと思うと、とても手を差し出すことは出来なかった。


「なんだ、お姉ちゃんになったんだぞ。妹をかわいがらないとだめだぞ」


 父は晴子の頭に重い手を置いてぐしゃぐしゃと髪をかきまぜた。乱暴な父の手が痛かったし、こんなに弱弱しい生き物をどうやってかわいがればいいのか想像も出来なかった。


 その次に記憶に残っているのは、それから半年ほどたったころだ。

 朝子が手を伸ばして晴子になにかをねだっていた。晴子はいろいろなものを朝子に与えた。いつも遊んでいる鈴のおもちゃ、よくしゃぶっているタオルで出来たウサギ、最近食べだしたすぐにとろけるウエハース。

 なにを与えても朝子は一度は口にくわえたが、ぺっと吐き出した。そうして泣いた。

 朝子が泣くと父が来て晴子を叱った。父がいない時は母が来て、ため息を吐いた。晴子はできるだけ朝子に近づかないようになっていった。


 それから、またしばらく記憶はない。

 次の記憶は初めて家族四人で行った海水浴の時のことだ。晴子はスイミングに通っていて泳ぎは得意だった。大きな浮き輪につかまって、バタ足であちらこちらと泳いでいた。楽しくていつまでも水面に浮かんでいた。

 大きな波が来て、晴子は見当はずれのところまで運ばれた。必死に泳いで砂浜までは戻れたが、海水浴場は人の山でごった返していた。その人ごみの中を、両親と朝子がいるはずのパラソルを探して歩いた。


 どこまで行っても目印になるはずのパラソルは、その下にいるはずの家族は見つからなかった。海水浴場を端から端まで四回往復した。

 晴子は十歳になっていたし迷子センターに行くのは恥ずかしかった。けれど不安で泣きそうだった。

 ようやく見つけた時、家族はパラソルを畳んでしまっていて、帰り支度がすんでいた。


『どこに言ってたんだ、晴子。もう帰るぞ』


 父にそう言われて、晴子はただ頷いた。


 晴子の記憶はコマ切れだった。しかも時系列には並んでいない。

 朝子が生まれた時の記憶の後が、時系列に並べなおすと三年後の海水浴場の記憶だと突き止めたのはカウンセラーだった。


 晴子にとって記憶とは曖昧模糊とした、感情の波に流されているガラスの小瓶のようなもので、どれが先でどれが後かも関係なかった。波に揺られて手許にやって来た記憶の小瓶を拾ってコルク栓を抜き、中に入っている羊皮紙を読む。記憶とはそういうものだとずっと思って来た。

 だが、普通の人は記憶が時系列に整頓され、必要な時に必要なことを引き出せるのだと知ったのはカウンセリングに通いだして三年たったころのこと。精神科の待合室で、やけにしつこく話しかけてくる少年から教えてもらったのだ。


『えー。なんで覚えてないの。お姉ちゃん、頭おかしいんじゃない』


 頭がおかしい自覚はあった。過去も現在も未来も何もかもぐちゃぐちゃで、生きる意欲はわかず、だというのに、ふとした時には手が付けられないくらいの怒りに支配されて周囲の人も自分も傷つける。それが普通なはずはなかった。

 それどころか、普通じゃない、狂っていると言われたことがどれほど救いになったか。狂っているものは治せばいい。狂ったピアノを調律するように。正しい音を出せるように。ただ問題は、その調律を誰もやってくれない、自分で行わなければならないということだった。


 晴子は学校の授業で教わることはなんでもできる子どもだった。勉強も運動も努力を惜しまなかった。周囲からの賛辞を浴びて晴子の自尊心はいつでも満たされた。

 晴子が中学生になった時、朝子が小学校に入学した。朝子はなにも出来なかった。勉強も運動も何もかも。それでも無条件に大人たちから愛されたが、その愛は傍から見ても重そうだった。愛のムチなどという言葉があるが、朝子が受けていた愛は見せかけだけで、実際はムチでしかなかった。誰もが、朝子を晴子と比べた。


『お姉ちゃんはあんなにすごいんだから、朝子も頑張ってお姉ちゃんみたいにならなきゃ』


『朝子さんのお姉さんは小学校で一番優秀だったんだ。君もそうならないと』


 朝子はいつも抑圧されていた。けれど朝子は優しくて誰にも鬱屈した思いを告げられなかったのだろう、いつも半端な笑みを浮かべていた。

 クラスでも落ちこぼれていたし、どうやら軽いいじめにもあっていたようだった。当時の晴子はそのことに気づいていたが、そのことがどんな意味を持って朝子に迫っているのかをまったく理解できずにいた。


「お姉ちゃん」


 朝子が晴子の部屋に最後にやって来たのはまだ離れに越して来る前、晴子が高校受験を控えた冬の日だった。朝子は小学校三年生になっていた。


「私、お姉ちゃんみたいになれないよ」


 眠れなかったのだろう。深夜に晴子の部屋にやって来た朝子は涙をいっぱいためた目で晴子を見つめた。晴子はすぐに朝子の涙から目をそらした。

 だが気持ちは参考書から離れ、ノートに書くべき数式も思い浮かばない。代わりになにか心に浮かんだ言葉があるような気がしてペンを動かしたが、それは形にならなかった。晴子はいつも親から言われていることを口にした。


「人間は、頑張らないと終わりなの。評価されないとダメ人間になっちゃうのよ」


 晴子は参考書に目を落としてノートになにかを書くふりをし続けた。


「そうだよね。そうだよね。お姉ちゃん、勉強の邪魔してごめんなさい」


 晴子はノートに書いた意味のない文字の羅列をぐしゃぐしゃと塗りつぶした。振り返ると朝子はいなかった。ドアは中途半端に開いていた。晴子は立ち上がってドアを閉め、鍵をかけた。

 本当に言いたかったこと、朝子に言ってやるべきだったことは、言葉にできないまま、よどんだ空気になって部屋中にわだかまって消えなかった。

 このことを人に知られるわけにはいかない。自分がどれだけ冷酷な人間か知られるわけにはいかない。それ以来、晴子はいつも部屋のドアに鍵をかけるようになった。


 その後の記憶はもうグチャグチャだった。

 アルバイトで色鉛筆をひたすら削っていた日があり、大学受験があり、中学校で作文が表彰されてスピーチさせられたことがあり、ぼろビルに引っ越して離れに閉じこもるようになり、道に迷ってぼんやり空を見上げた日があり、いくつかもわからない子どものころ怪しいおじさんに声をかけられたことがあり、指をくわえて父に抱かれていたことがあり、ピアノを叩き壊したことがあり、芸術だと言って家中をペンキだらけにしたことがあり、何も食べずに病院に運ばれたことがあり、朝子の成績表を燃やして泣かせたことがあり、両親の寝室に押し掛けて意味の通らないことを喚き散らしたことがあり、起き上がることが出来なくなって母に看護されたことがあり。


 まだまだ思い出したくもないのに忘れられないことばかりだった。波のようにたゆたいながら秩序もなく記憶が漂着する砂浜は、無意味に晴子を傷つける、とげとげした思い出の砂で出来ていた。砂は消えない。燃やすことも埋め立てることも出来ない。ただ風に吹かれて少しずつ去っていくのを待っていることしか出来ない。

 だが、晴子にはもう十分な時間が残っていなかった。たった今にも、離れが晴子を飲み込もうとしていた。



 目を覚ますと午前十時を過ぎていた。始業時間の九時をはるかに超えている。家族はとっくに仕事に出ている。

 きっと家の固定電話の留守録には会社からの連絡が入っていることだろう。無断欠勤。もう取り返しはつかない。

 皆勤で三年間勤め続けてきた。皆勤賞なんてもらえないけれど構いはしなかった。自分だけのひそかな喜びだった。そんなわずかな喜びも、自尊心も、たった一度の失敗で水の泡だ。無断欠勤。なんて間抜けなんだろう。仕事も出来ない上に社会人としてのマナーも守れない。毛布に顔を押しつけてみても涙も出なかった。


 畳の上でスマホのランプがぴかぴかと光っている。手に取ってみると画面が明るくなった。大きな文字で「竹田桃比呂」、その下に「拒否」「応答」の文字。さらにその下に初めて見る「メッセージ」の文字が表示されていた。「メッセージ」の文字をタップするとスマホから桃比呂の声が聞こえてきた。


『晴子さん、大丈夫ですか? 熱が下がらないようなら病院に行ってください。仕事のことは心配しないで療養してください。風邪の時にコンビニ弁当はダメです。ご家族に甘えるのは不本意かもしれませんがなにか作ってもらって、暖かくして、早く良くなってください。あなたがいないと僕はさび』


 録音時間が足りなかったのかメッセージはそこで途絶えていた。熱? 風邪? 何のことだろう? 


 何もわからないまま離れを出ようとして、ドアが中途半端に開いていることに気付いた。誰かがドアを開けたのだ。ぞっとした。

 いや、それ以前に、昨晩は気を失うように眠ってしまったのに、晴子の体には毛布がかけてあった。あわてて離れから出てダイニングに駆け込むと、朝子がテーブルに雑誌を広げて読んでいた。


「あ、お姉ちゃん、おはよー」


「あんた、あんた、何したの」


「会社から電話あったから風邪で休むって言っておいた。熱のせいで起き上がることも電話も出来ませんでしたって」


「そんなこと聞いてない」


 本当に熱があるかのように赤い顔をしてぶるぶる震える晴子に、朝子は真面目な表情を見せる。


「昨日、寝ようと思ったらお姉ちゃんの部屋から悲鳴が聞こえて。あわてて見に行ったら倒れてるじゃん。救急車呼ぼうと思ったんだけど、お母さんが少し様子を見ようって言ってさ。お姉ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫じゃない!」


 晴子が叫んでも朝子は平気な顔で、目を逸らして、テーブルの上のあられを取って口に入れた。


「なんで勝手に入るの! 離れは私の……、私のものなの! なんで入ったの!」


「そんなこと言ってもさ」


 朝子は雑誌を離して、晴子の顔を正面から見つめた。


「お姉ちゃん、何度も倒れてるらしいじゃん。お母さんは何度も部屋に入ってるってよ。呼吸と脈拍を確かめたりとかなんとかさ。なんか心配かけてたみたいじゃん」


 晴子の顔から血の気が引いた。


「何度も……、そんな! プライバシーとか! 大人なんだから放っておいてよ! 離れは私の……!」


 朝子がため息をついて姿勢を変え、晴子に向き合った。


「お姉ちゃんさ、いい加減、自立したら」


「なによ! あんたは専門学校のお金全部だしてもらったんじゃない! 私は奨学金を返さなきゃいけないんだから、仕方なく今も家に……」


「そうじゃなくてさ。大事なものとかないの? やる気のない仕事と家の往復だけって、むなしくない? 将来の展望とか、生き方の指針とか、なにかさ」


「うるさい!」


 晴子は手近な壁にあったカレンダーをむしり取って朝子に向かって投げつけた。


「結婚がそんなに偉いのか! あんたなんか外に自由に出ていけて、なんでも手に入れて、一生安泰で、健康で、それからそれから」


 ずかずかテーブルに近づいてテーブルの上のリンゴを朝子に叩きつけた。


「私は間違ってない! 私は正しい! なんでわかんないのよ!」


 テーブルをバン!と叩いて朝子に顔を近づけた。目が血走って歯をむき出しにした凶悪な顔だった。朝子は目をそらさずに晴子を見据えた。


「会社の人、竹田さんって言った」


 桃比呂の名前を聞いて晴子の肩から力が抜けた。


「お姉ちゃんのことすごく心配してた。お姉ちゃんさ、職場でちゃんと好かれてるじゃん。それじゃダメなの? それじゃお姉ちゃんには足りないの?」


 晴子は顔を伏せて歯を食いしばった。桃比呂の名前を出すなんて、ずるい。


「お姉ちゃんはなにが欲しいの? なにがあれば満足するの?」


「そんなことわかったら、こんなふうに、こんなことにならないよ!」


 晴子は朝子に背中を向けて離れに戻ろうとした。自分を唯一欲してくれる場所。晴子を食おうと虎視眈々と狙っている場所へ。


「お姉ちゃん、結婚式に来て」


 朝子がなにを言っているかわからない。たった今、晴子を傷つけて打ちのめそうとしたばかりなのに、なんで誘えるのだろう。


「お姉ちゃんにも認めて欲しいの。私が幸せになること、ゆるして欲しいの」


「……知らない。勝手にすればいいじゃない」


 晴子は離れに入って思いっきりドアを叩きつけた。離れはよそよそしかった。離れはもう、晴子を求めて牙をむいていた捕食者ではなかった。ただのジメジメした居心地の悪い部屋だった。たったそれだけだ。

 晴子の救いにも崩壊にも、なんの影響もありはしない。離れはもう、晴子をかくまってはくれなかった。



 晴子は離れから飛び出した。勢いよくぼろビルから走り出た。習慣でスニーカーを履いてきてしまった。走りにくいし足が痛い。それでも急いだ。駅に向かって、電車に飛び乗った。

 目的の駅について、コンビニの角を曲がって走って行った。いつも暖かいその場所まで、もうすぐだ。昔からずっと欲しかったもの、自分を受け入れて甘やかしてくれる、たった一つの居場所。


 インターホンのボタンにしがみついて、306とボタンを押した。誰も出ない、当たり前だ。今はまだ午前中だ。仕事に行っていて留守なことは知っていた。それでもここに、桃比呂の部屋にしか、もう晴子の居場所は残っていなかった。


 マンションの塀の隅に寄りかかって、ぼーっと空を見上げる。頭の中を色んな事が通り過ぎる。いつも頭の中を支配している霧のような邪魔なものが少し薄くなって記憶が見えやすくなっている。

 最近の思い出したい出来事が、やすやすと思い出せる。桃比呂にスマホをもらったこと。MOMOKOの美しさ。初めてのワンピースの嬉しさと悔しさ。一緒に映画に行こうと言われた時の不可解さ。汗を垂らしながら食べたコンビニのカレー。初めて間近で聞いた桃比呂の声の深さとその響き。

 桃比呂に会いたかった。


 それからも、ぼーっと脳を解放して大切な記憶を思い出すような、そうでもないような、未来を夢想するような、そうでもないような、早過ぎるのか、遅すぎて待てないのか、なんの感情も手ごたえもないゆっくりとした時間を過ごした。

 時おり見上げる空は青く澄んでいて、雲がぽかりと浮いていたり、どこかでスズメが鳴いていたり、飛行機が飛んで行ったり、なんだか忙しそうだった。


「晴子さん?」


 呼ばれた方を見ると桃比呂がいて、晴子の方へ駆けだしたところだった。


「どうしたんですか、こんなところで。熱は? 寝ていなくて大丈夫ですか」


「仮病だから」


 桃比呂はあっけにとられたという顔をした。ああ、怒るなと思ったけれど、桃比呂は細い目をさらに細くして笑った。


「健康なんですね、安心しました」


「うん」


「これからお見舞いに行こうと思っていたんです。行き違いにならなくて良かった」


「仕事は?」


「サボりました。人生初です」


 桃比呂は嬉しそうに言う。


「お茶にしましょう。せっかくのサボリなんだ、満喫しましょう」


 桃比呂は晴子の肩に手を置くと、そっと押した。晴子はされるがままに歩きだし、マンションのエントランスに足を踏み入れた。桃比呂より一歩先に入った晴子はインターホンのボタン、306を押してみた。


「はい」


 後ろから桃比呂が返事をして、鍵を取り出し、ガラスの扉を開けた。晴子は満ち足りた気持ちでエレベーターに乗って三階に上った。


 桃比呂の部屋に入って、MOMOKOではなく桃比呂がお茶を淹れるのを始めて見た。できれば女装姿を見たかった気もするが、ここにいられるだけで満足だった。お茶はどこか甘い香りのする、赤っぽい色のもので「キームンです」と桃比呂が知らない言葉を教えてくれた。紅茶の名前なのだろう。


「晴子さん、スマホは持っていますか」


 晴子はポケットからスマホを出して掲げてみせた。


「今から電話をしていいですか」


「うん」


 桃比呂は自分のスマホを触った。すぐに、目の前の桃比呂から電話がかかって来て晴子は「応答」のボタンを押した。


『晴子さん』


「うん」


『お話ししたいことがあります』


「うん」


『直接お話しする勇気がなくて電話を持ってもらいました』


「うん」


 桃比呂は黙り込んだ。晴子も黙って続きの言葉を待った。


『転勤が決まりました』


 晴子の口は開かなかった。なくなってしまう。やっと手に入れた暖かな居場所がなくなってしまう。真っ白な天井、やわらかな日差し、晴子のために淹れられる紅茶の優しい香り。いつまでも変わらず居心地の良い場所。

 桃比呂は晴子の無言に耐えられないというふうに、早口で続きを話し出した。


『直接顔を合わせて言う勇気がなかった。晴子さんが「じゃあ、さよなら」って言ったらどうしようって思って切り出せなかった。僕は臆病者です』


 晴子はめまいを感じてテーブルにしがみついた。変わってしまう、何かが変わってしまう。自分が自分でなくなってしまう。桃比呂が自分を変えようとしている。


『転勤と言っても隣の市だし、帰ってこようと思えばすぐです。でも、寂しいんです』


 桃比呂の声がどことなく湿っぽいように感じる。晴子の感情を湿らせて力づくで同調させてしまおうとしているようだ。


『毎日、晴子さんの顔を見られないと寂しいんです。今日も、いてもたってもいられなくて帰ってきてしまった。晴子さん、僕と……』


 晴子はその先の言葉を聞きたくなくて、聞いてしまったら自分が変質して壊れてしまうような気がしてスマホをぎゅっと握りこんで電源を切った。桃比呂が静かにスマホを耳から離してテーブルに下ろす。晴子と目が合うと固い笑いを浮かべた。


「お茶が冷えちゃいましたね。お代わりはいりますか」


 晴子は首を横に振る。


「そうですか。僕も、もうお腹いっぱいかな」


 晴子は無言で立ち上がると玄関へ歩いて行った。桃比呂は座ったままピクリとも動かない。晴子はスニーカーを引きずるように、振り返らずに部屋を出た。暖かい部屋のドアがパタンと閉じた。


 家に帰ると朝子はいなかった。ダイニングへ続くドアが開けっぱなしになっている。テーブルの上に朝子が読んでいた結婚情報誌が置き去りにされている。表紙の写真は幸せそうに笑うウエディングドレス姿の花嫁。晴子はなんの表情も浮かべないまま離れに入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る