第16話

 終電はとっくに行ってしまった。それでも帰るという晴子を、桃比呂が送ってくれることになった。駅前まで行けばタクシーがつかまるかもしれない。けれど晴子は歩きたかったし、桃比呂はついてきてくれると言った。


 二人並んで星空を見上げて歩く。桃比呂は白いスカートのまま、ハイヒールを履いて歩いていた。足許がややふらついている。女装姿で外に出ない桃比呂は、ハイヒールに慣れていなかった。今にも足首をねんざしてしまいそうだと思うほど不安定で、晴子は手を握って引いてやった。大きな桃比呂が、まるで小さな子どもになったかのようで、とことなくおかしくて、晴子は微笑む。

 冬の空は空気が澄んでいるようで、今日も星が美しく見える。小学生の時に習った星座の位置や形を思い出そうとしたけれど、晴子はひとつも思い出すことが出来なかった。


「桃ちゃん、星座わかる?」


 空を見上げたまま聞くと、桃比呂は手を伸ばして空の三点を指さした。


「冬の大三角」


「なにそれ」


「さあ。なんだったかしら。忘れちゃったけど、きれいね」


「うん」


 繋いだ手を軽く振りながら並んで歩いていると、二人はこの世界に二人ぼっちになったような気がした。

 晴子はうっとりと妄想する。ある日突然、誰もいなくなる。家にも町にも世界中のどこにも。テレビもラジオも何も伝えず、水も電気もガスもすぐに止まってしまうのだ。晴子は途方に暮れて立ち尽くしてしまう。どこに行けばいいのか、なにをすればいいのか、なにもわからない。自分が誰なのかも忘れそうになる。


「晴子さん」


 遠くからハイヒールを鳴らして、桃比呂が駆けてくる。たった一人で立ち尽くしていた晴子は、泣きじゃくりながら桃比呂の側に駆け寄る。桃比呂は晴子の手を握ってくれる。涙を拭いて頭を撫でてくれる。美しくカールさせた髪が風に揺れて、晴子はこの世界で一番美しいものを一人占めできた幸福を噛みしめる。


「晴子さん?」


 呼ばれて振り向くと、桃比呂が首をかしげて微笑んでいた。


「何を考えているんですか?」


「ひみつ」


 桃比呂は晴子の手をきゅっと握った。


「いいことですか?」


「とっても」


「それなら良かった」


 目を合わせて二人は笑った。



 ぼろビルのエントランスの明かりは消えていた。蛍光灯が切れているのか、普段からこのとおりなのかはわからない。

 晴子が手探りで先へ進もうとすると、桃比呂がスマートフォンのライトであたりを照らした。文明の利器とはこういうことかと晴子は黙って感心した。


「晴子さんは携帯電話を使わないんですか」


「かけないから」


「電話はかかってくることもあるんですよ」


「こない」


「僕がかけます」


 スマホのライトで逆光になっている桃比呂の顔はよく見えなかった。真面目な顔をしているのか、真っ赤な顔をしているのか、それとも晴子みたいにニヤニヤしているのか。


「……なんで笑ってるんですか」


「かけるの?」


「かけます」


「とらないかも」


「それでもかけます。留守電にメッセージも残します」


 やはり桃比呂の顔はよく見えなかったけれど、深く響く声を聞くと、ニヤニヤしていないことだけは確かだった。


「買った方がいい?」


「それは晴子さん次第ですけど。でも」


「でも?」


「電話が出来たら嬉しいです」


 晴子は黙ってエレベーターのボタンを押した。ぼろビルのエレベーターは驚くほどゆっくりだ。一階層下りるのに、十秒はかかるのではないかという暢気さだった。

 なのに今日は驚くほど速い。あっという間に下りてくる。二人は手をつないで上から順に降りてくる数字を見ていた。6、5、4、3、2、


「晴子さん」


 呼ばれて桃比呂を見上げる。エレベーターが一階に下りてきて、ガラス窓越しに電灯の明かりが漏れてエントランスいっぱいに黄色っぽい明かりが広がった。


「晴子さん」


 明かりを受けた桃比呂は、泣きそうな顔をしていた。晴子は背伸びして桃比呂の頭を撫でてやる。エレベーターの扉が開いた。晴子は桃比呂から手を離すとエレベーターに乗った。桃比呂は泣きそうな顔のまま手を振った。


「また明日」


「うん」


 扉が閉まって晴子はこの世にたった一人になった。



 音を立てないように鍵を開けて玄関に入る。家の中はしんとしていて真っ暗だ。手探りで玄関扉の鍵を閉めて離れに向かう。ドアの前で洗濯物の山に足を突っ込んでしまって立ち止まった。離れのドアを薄く開けて明かりをつけた。

 洗濯物の上には、ピンク地に白いレース柄の封筒が置いてあった。差出人は朝子と、連名で知らない男性の名前が書いてある。結婚相手だろう。宛名は「相良晴子様」。開けてみた。


 固い台紙にテディベアがあちらこちらに配された結婚式の招待状だ。とてもかわいい。桃比呂に見せてやったら喜ぶかもしれない。

 テディベアの一匹から噴き出しが出ていて「ぜひ来てください」と書いてあった。晴子は指でツンツンとそのテディベアを突っついた。


「あいたたたたた」


 クマのセリフを代弁して晴子はふっと笑った。



 翌日の仕事中、晴子は右からやって来たデータの中に間違いを発見した。別部署の記載ミスだ、上司に報告しなければならない。

 作業を中断して桃比呂の席に向かって歩いて行くと、桃比呂はすっと立っていなくなってしまった。仕方なく隣の席の永井に報告書を持っていくと「面倒臭いから竹田が戻って来てから報告して」と言われてしまった。

 仕方なくデスクに戻り、次の作業に取りかかる。キリが良いところで報告書を持って立ち上がり、桃比呂に近づいて行くと、またどこかへ歩いて行ってしまった。それをあと二回繰り返した時に、永井が口を開いた。


「ケンカでもしたの」


「しません」


「しょうがないなあ。もらうよ」


 永井はおおげさなため息をついて書類を受け取った。


「竹田さあ、朝から変なんだよね。どうせ今日もランチ一緒なんでしょ。しっかりしろって伝えといてよ」


 晴子は頷いて自分のデスクに戻った。三十分ほどして、ふと桃比呂のデスクを見てみると、普通の顔をして普通に仕事をしているように見えた。どこが変なのかわからないが、とりあえず永井の言葉は伝えようと思いながら午前の仕事を終えた。


 休憩室でいつもの茶色のコンビニ弁当を食べた。季節の彩りシリーズはクリスマス商戦に押されて姿が見えなかった。いつも通り喉に詰め込むようにして弁当を食べ終えても桃比呂は姿を現さなかった。

 することもないので寝たふりをしていると本当に寝てしまったようで、隣の席の椅子が引かれた音にびくっと震えて目を覚ました。見ると桃比呂が思いつめたような顔をして座っていた。


「しっかりしろ」


 晴子が預かった言葉を伝えると桃比呂は「は?」と言って首をかしげた。


「伝言。永井から」


 上司を呼び捨てにする不遜な態度も、桃比呂はまったく気にせずに、ただ頷いた。はたして伝言の内容が伝わったか確かではない。

 テーブルには、おにぎりではなく携帯電話会社の紙袋が乗っかっていた。


「晴子さん。これ、もらってください」


 桃比呂は思いつめたような表情で、紙袋をずいっと晴子に差し出した。


「なに」


「スマートフォンです。僕と同じ機種です」


「使えない」


「教えます」


 桃比呂は新品のスマホを取り出して電源を入れた。起動するまでの間、じっとスマホを見つめている。昼休みはあと十分で終わる。

 晴子は腕時計を見て、もうそろそろデスクに戻りたいと思ったが、桃比呂はまだまだ戻る気はないようだった。


「覚えてもらいたい動作は三つだけです。長く押さえる。チョンと押す。押さえて指を滑らす。やってみてください」


 桃比呂の指が動いたのを真似てやってみると特に難しいことではなかった。


「僕が電話をかけると着信画面が出ます。そうしたら応答と書いてあるところをタップしてください」


「タップ?」


「チョンと押してください。そうすると電話が通じます」


「わかった」


「では、僕は先に戻ります」


 桃比呂はばたばたと走って行ってしまった。腕時計を見ると昼休みはあと三分しかなかった。紙袋にスマホを突っ込んで晴子もあわてて休憩室を後にした。


 休憩時間に給湯室でロッカーから引っ張り出したスマホをいじってみた。長く押さえる。チョンと押す。押さえて指を滑らす。長く押さえる。チョンと押す。押さえて指を滑らす。

 何度か繰り返していると画面が暗くなった。バッテリーが切れたのかとも思ったけれど、機械の側面についている小さなランプは光ったままだ。

 

 壊したかもしれない。血の気が引いた。晴子は機械はてんでダメだ。どうしたらいいかもわからず立ち尽くした。桃比呂に聞けばいいとは思ったが、買ったばかりの機械を壊したと知られたら、呆れられるかもしれない。

 自分で何とかしなければ。スマホを振ってみたり、叩いてみたり、ツンツン突っついてみたりした。気付くと先ほどまで点灯していたランプも消えてしまっていた。


 体が強張って指先が冷たくなっていく。誰にも知られないように隠そう。ワークエリアに持ち込むことが禁じられていることも忘れて、スマホを持ったまま急いでデスクに戻って引き出しを開けた。スマホを入れようとして、ずいぶん前から入れっぱなしにして忘れていた飴に気が付いた。

 いつだったか井上順子にもらったものだ。立ち上がって見てみると順子は自分の席に座ってぼーっとしていた。おそらく順子はスマホの使い方くらい知っているだろう。今行って聞けば教えてくれるだろう。


 だが、晴子は動けなかった。どう言えばいいのかわからなかったし、スマホの操作程度のこともわからないのかと蔑まれるかもしれない。そんなのは我慢できない。きっと昏い穴に沈み込んでしまう。晴子は引き出しを閉めて目の前の危機を見ないふりをした。


 仕事が終わると晴子はスマホを掴んで駆け出した。早く離れに戻ってなんとかしよう。もう何年も本気で走ることなどなかったので、すぐに呼吸が荒くなった。冷たい空気が肺までいっぱいに詰まって鼻も喉も痛い。

 だが、それどころではなかった。早くなんとかしなければと気が焦って速度をゆるめることが出来ない。なお一層、先へ先へ飛んでいきたいと思うほどだ。

 頭の奥では落ち着いて対処すればなんてことないはずだという思いがあるのに、晴子はそれを信じることが出来ないほど狼狽していた。


 離れに駆け込んで乱暴にドアを閉める。電気をつけようと壁を探るが焦っているため、電灯のスイッチが見つからない。壁をバンバンと音を立てて何度も叩いて探し当てたスイッチを押して、明るい光の下でスマホを見てみた。

 画面は黒いままだ。どうすればいいのかわからない。裏返してみたり撫でまわしたり画面に何度も触れたりしたが変化はない。


 ドアをノックする音がした。突然の物音に驚いて、びくっと肩が揺れた。


「お姉ちゃん、どうかしたの?」


 ノックの音と共にドアの向こうから、朝子の声が聞こえた。


「どうもしない!」


 叫び返してドアに背を向けた。もしかしてドアを開けられるかもしれない、離れに入ってこられるかもしれないと思うと、恐ろしくて体が動かなくなった。ドアに鍵がついていないことを、こんなに怖いと思ったのは初めてだった。


 誰も見ないで。誰も入ってこないで。私の大切なものを壊さないで。私の場所を踏み荒らさないで。

 晴子はスマホを握りしめてしゃがみこんだ。このままドロドロに溶けて畳に染み込んで、いなくなりたかった。





「どうして電源を切っていたんですか」


 翌日、出勤してみるとロッカールームの前で桃比呂が待ち構えていた。晴子は桃比呂の顔を見て回れ右をして逃げ出そうとしたのだが、腕を掴まれて動けなくなってしまった。


「クラシックのコンサートにでも行っていたんですか」


 なぜ突然クラシックなのかと晴子は首をかしげた。


「行かない」


「冗談です」


「冗談言うの」


「頑張りました。コンサートでなかったのなら、何だったんですか」


 晴子のポケットの中にはスマホが入っている。桃比呂は電源が切れていたと言った。もしかして壊れたのではなかったのだろうか。晴子は恐る恐るポケットからスマホを取り出して桃比呂に差し出した。


「黒くなった」


 桃比呂はスマホを受け取って側面のボタンに触れた。画面を見つめてじっとしている。無言の時間に晴子は居心地悪さを感じて俯いた。


「電源の入れ方を教えるのを忘れていました、すみません。このボタンを長押しすると電源を切ったり入れたり出来ます」


「長押し」


「三秒ほどです」


 渡されたスマホの画面は明るくなっていて水色の背景の中にいくつかのアプリが並んでいた。晴子にはアプリがなんなのかすらわからず、ただの模様にしか見えない。

 でもそれでよかった。壊れていなかったというだけで十分だった。ほっとして泣きそうになっていることをごまかそうと画面を見つめていると、急にスマホが震えて鳥のさえずりが聞こえてきた。

 画面が切り替わる。「竹田桃比呂」という名前と「拒否」「応答」という文字が並んでいる。見上げると桃比呂がスマホを耳に当てていた。


「応答を押すと繋がります。拒否を押すと……、まあ、文字通りの拒否です」


 晴子は画面の文字をじっと見つめて覚悟を決めた。「応答」のボタンを押して、スマホをそっと耳の高さに持っていった。


『もしもし』


 目の前にいる桃比呂の声がスマホからも聞こえてきて妙な感じだった。黙っていると桃比呂も黙り込んで、晴子の返事を待っている。


「……もしもし」


 肉声では、聞こえるか聞こえないかの声量で答えた晴子の声を、スマホはちゃんと拾って桃比呂に伝えた。


『今夜、また電話します』


「うん」


 桃比呂が通話を終了させ、晴子のスマホも静かになった。桃比呂は電話のかけ方も教えたが、晴子は覚える気がなくて、うわの空で聞いていた。発信させるのは諦めて、充電の仕方を教えて朝のスマホ講義は終了した。



 仕事が終わり、離れに帰った晴子はスマホを握りしめて畳に正座していた。いつ鳴るか、いつ鳴るかとビクビクして足を伸ばすことも出来ない。


 子どものころから晴子は電話が苦手だった。突然、誰ともわからない人から話しかけられるということに耐えられず、電話が来ても取らずにいた。

 親からかかってきた電話に居留守を使い、叱られたことも何度かある。だが、どうしても受話器を持ち上げることが出来なかった。

 もしかしたら電話の向こうにいるのは恐ろしい怪物かもしれないではないか。受話器から呪いの言葉が聞こえてきて死んでしまうかもしれないではないか。そんなことを考えていた。


 中学生になって防犯の意味もあり携帯電話を持つようにと説得されたが、晴子は決して首を縦には振らなかった。業を煮やした親が買ってきた携帯電話を学校帰りに下水溝に捨てて、落としたと言い張った。

 父は怒り、母は呆れた。それからは携帯電話を無理強いされることもなく、自宅の固定電話には居留守を使い、電話とは無縁の生活を送ってきた。


 まさか自分がスマホを持つことになるとは、夢にも思っていなかった。機械が苦手な晴子にとってスマホは手を触れるのも恐ろしい繊細過ぎる精密機械だった。そんな恐ろしいものに、さらに電話がかかってくるなど、晴子にとってのスマホとは災いが詰まっているパンドラの箱のようなものだ。


 そんなものが自分の手の中にあるなどと今でも信じられない。本当に大丈夫なのだろうか。よく知りもせずに触って、爆発などしないだろうか。それはなくても、触ったらいけない部分があって、不用意に触っていると今度こそ本当に壊してしまうのではないだろうか。


 神経をすり減らして待っていると、天井がググっと下りてきたような感覚に襲われた。

 離れが晴子を押しつぶそうとしている。どんどん部屋が狭くなって空気が薄くなってきた。呼吸が出来ない。体がうまく動かない。全身がしびれたように痛んだ。


 ゼエゼエとあえいでいると、スマホが震えた。画面に桃比呂の名前が表示される。ぶるぶる震える手で応答の文字をタップしようとしたが、なんど触ってもスマホは反応してくれない。


 晴子は離れを隅々まで見回した。部屋は今度はぐんぐん大きくなって晴子は世界から途方もなく遠く離れた場所まで連れて行かれるのだと感じた。必死にスマホを握った。

 頼れるものはもうこれだけだった。晴子を連れ戻してくれるのはこのスマホだけだった。電話の向こうにいるのが桃比呂に化けた悪魔だったとしてもかまわない。最後の希望を掴もうと祈るような気持ちで液晶画面をタップした。


『もしもし』


 桃比呂の声だ。桃比呂が自分を呼んでいる。自分の返答を待っている。急に呼吸が出来るようになった。返事をしようと口をぱくぱくと動かしたけれど、荒い息が出て行くだけで声は出て来なかった。


『晴子さん? どうかしたんですか?』


 なんとか答えようとするのだが、呼吸が整ってもやはり声は出て来ない。電話に出たら何て言うんだっけ。さっき桃比呂は何と言った? 考えても思い出せない。


『大丈夫ですか、晴子さん?』


 まったく大丈夫ではなかった。だがそれを認めてしまったら、離れに知られてしまう。晴子を飲み込んでしまおうと虎視眈々と狙っている離れに、弱みを握られてしまう。


『晴子さん?』


「……うん」


 やっとそれだけを答えると、電話の向こうから、ほっとため息を吐いたような音が聞こえた。


『今、話せますか』


「うん」


『電話に出てくれてありがとうございます』


「うん」


『元気ですか』


「うん」


『……本当に?』


「うん」


 桃比呂はそれ以上追求することはしなかった。なんで何も言っていないのに桃比呂には自分のことがわかるんだろう。本当は元気じゃないということ、それを認めるわけにはいかないということ。


 聞いてみたかったけれど晴子はまともな言葉を発することが出来そうにないと諦めた。「うん」しか言わない晴子と電話していても、桃比呂はつまらないだろう。何か言わなければ。だが晴子には電話で伝えたい情報などひとつもなかった。桃比呂のために言ってやれる言葉はひとつもない。


『晴子さん』


「うん」


『名前を呼んでくれませんか』


「……桃ちゃん」


『もう一度』


「桃ちゃん」


 そうか、と晴子は思う。桃比呂に言ってやれるたった一つの言葉を、自分はもう持っていたのか。


『ありがとうございます』


「うん」


 桃比呂は今どんな顔をしているのだろう。やっぱり電話は嫌いだ。桃比呂の顔が見たい。


「明日」


『はい』


「仕事?」


『はい。晴子さんは』


「仕事」


『じゃあ、明日も会えますね』


「うん」


『では、また明日』


「うん」


『おやすみなさい』


「おやすみなさい」


 電話はなかなか切れなかった。晴子は何も言わずに耳を澄ませ続けた。


『じゃあ』


 本当に小さな声が聞こえて電話は切れた。


「うん」


 スマホを握りしめて額に当てた。内部の機械が熱を持ったのか少し温かくなっていた。桃比呂の体温が伝わってきたようで嬉しかった。


 ぐらり、とめまいがして横倒しに倒れた。電話をしている間も離れの膨張は止まってはいなかったのだ。離れがどんどん大きくなっていく。いや、晴子が小さく小さくなっているのだ。

 このままでは塵になって消えてしまう。声を出そうと口を開けた。ほんの小さなかすれた声が漏れ出る。スマホにすがりついて体を丸めた。


怖い。


消えるのは嫌だ。


消えたくない!


そこで意識が途切れた。

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