第15話
今月最後に二人の休みがかぶったのが、土曜日だった。晴子は家族と顔を合わせないようにと早朝に離れから抜け出てきた。
シトシトと冷たい雨が降っていた。駅までゆっくりゆっくり歩いても、たいした時間はかからない。待つほどもなく電車がやってきて乗り込んだ。
休日の早朝、車内はがらんとしていて暖房があまり効いていなかった。冷えた体が温まる間もなく目的の駅に電車がついた。
家を出てからまだ一時間も経っていなかった。待ち合わせの時間はまだまだ先だ。駅の近くに居座れるような場所はないかと歩いてみたが、小さな公園があるくらいだった。雨に濡れたベンチを横目に来た道を戻り、駅前のコンビニに入った。
商品棚を端から端まで丹念に検分した。特段、欲しいものはない。週刊誌を取ってめくってみたが、相変わらず文字はちっとも頭に入ってこない。
文字が少ないだろうと、ファッション雑誌に切り替えてページをめくる。おしゃれな服装の女性がたくさんいる。どの人もきれいだったが、MOMOKOにかなう人はいない。晴子は満足して雑誌をもとの棚に戻した。
腕時計を見たが、まだまだ待ち合わせ時間までは長い。なにも買わずにいつまでもコンビニに居続けるのも、気がひけてきた。店員は迷惑そうな顔をしているだろうかと、うかがい見ると目が合った。特に表情はなかったが、晴子はなにごとか声をかけられることを怖れて、店を出ることにした。
雨脚が強まっていた。傘を開いてみたが、一歩踏み出す勇気が出ない。踏み出したところで時間が来るまで行くところはない。また腕時計を見てみた。もう早朝とは言えない時間になっていた。駅に向かって歩いて行く人もいる。
二十分悩んだ。悩んでいるうちに、気持ちが晴子の離れから桃比呂の明るい部屋へと移っていった。
あの素晴らしい部屋に行けるということを考えただけで、普段からでは信じられないほどの気力が湧いて、桃比呂の家に突撃することにした。
まだ起きていないようだったら、また駅前まで戻ってくればいい。もう道はすっかり覚えた。晴子は走り出したいくらいうきうきした気持ちで歩きだした。
桃比呂のマンションがオートロックだったと思いだしたのは、ガラス扉の前に立った時だった。いつも桃比呂と一緒に中に入っているので、晴子はオートロックの存在を失念していた。
インターホンのボタンを押そうとして動きが止まる。桃比呂の部屋の番号をすっかり忘れてしまっていた。三階だったことは間違いない。だがそれ以上が思い出せない。
三階の真ん中あたりの部屋だった。郵便受けを見てみると、ワンフロアに十部屋も並んでいる。301号室から310号室までずらりだ。
真ん中あたりといっても完全に真ん中だったかは覚えていないし、もしそうだとしても305号室か306号室かわからない。
試しに押してみるかという考えが浮かんだ。ボタンの前に戻って、さて、305からにするか306からにするかと迷っていると、レインコートを着てゴミ袋を抱えた中年の女性がエントランスに入ってきた。
邪魔にならないようにと晴子がエントランスの隅に寄ると、女性は晴子をきつい目で見据えた。
「どちらにご用ですか」
「え」
「私はここの管理人ですけどね。あなた、さっきから何してるんですか」
晴子は桃比呂を訪ねてきたのだと言おうとしたが、桃比呂の苗字が思い出せない。
「用がないなら出て行ってください。警察を呼びますよ」
イライラした。せっかく離れから出て来られたというのに、すぐ手の届くところに夢の国があるというのに、なぜ邪魔されなければいけないのかと腹が立った。女性を押しのけるようにしてインターホンのボタンを押す。
305、二度押した。留守だ。次は306。
「ちょっと、本当に警察呼ぶよ!」
立て続けに違う番号を押した晴子の怪しい行動を止めようと、女性が晴子の腕をぎゅっと握った。晴子は振り払って次の番号を押そうと手を伸ばした。
『はい』
インターホンから桃比呂の声がした。
「桃ちゃん!」
『晴子さん?』
「桃ちゃん、桃ちゃん、桃ちゃん!」
『すぐ行きます』
晴子はインターホンにすがりついたまま動けなくなった。管理人があっけにとられた顔で晴子の背中を見ている。
その視線が晴子を昏い穴へ、膝まで浸かったところで何とか耐えている昏い穴の一番底へ、突き落とそうとしていた。そこへ沈んでしまったら、もう帰ってこられなくなる。晴子は自分ではなくなってしまう。
脅えた晴子はエントランスの隅に追い詰められて、逃げることも出来ない。穴に足を取られて今にも倒れそうになった時、ガラスの扉が開いた。
「晴子さん、どうしたんですか」
桃比呂の声が昏い穴の奥まで染みとおって闇を震わせた。晴子は必死にもがいて穴から抜け出すと桃比呂の腕にしがみついた。管理人はぽかんと口を開けて見ていたが、桃比呂と目が合うと迷惑そうに顔を顰めてみせた。
「竹田さんの知り合い? そうならそうと言えばいいのに、はた迷惑な」
そう言いおくと、ガラス扉の側の管理人室に入って行った。
晴子はがたがた震えていた。桃比呂が晴子の肩を抱いて「大丈夫ですよ」と言ったのだが、晴子の震えはなかなか止まらず、桃比呂に支えられてなんとか306号室まで歩いて行った。
部屋に入り、桃比呂はとりあえず晴子を座らせようとしたのだが、晴子は桃比呂の腕にすがったまま手を離さない。
桃比呂が肩をさすってやっていると徐々に落ち着いて腕を握る力が弱まってきた。晴子の手を取って座らせる。不安そうに桃比呂を見つめる晴子の横に並んで、桃比呂も座った。
二人は何も話さなかった。桃比呂はなにも聞かなかったし、晴子もなにも語らなかった。桃比呂の部屋はいつも通り、ピンクでかわいらしくて、良い香りが晴子の体を包む。
外はみぞれ模様だというのに、まるで窓からぽかぽかと日が差しているかのように暖かい。
だが今日の晴子はこの部屋で落ち着くことが出来ない。この部屋のすぐ側まで昏い穴を連れてきてしまった。
いや、穴はいつでも晴子とともににあったのに、見ないふりをしていただけだ。この部屋があまりにも眩しくて、目を奪われていただけだ。忘れていたのだ、光が強いほど影が濃くなるということを。
「もうだめだ」
晴子がぽつりと呟くと、桃比呂が晴子の顔を覗きこんだ。晴子の視線は茫洋として桃比呂の顔が見えているのかもわからない。
「捕まっちゃう」
「捕まる? 誰に?」
黙ったまま首を横に振る晴子の手を取って、桃比呂は優しく尋ねる。
「晴子さん、何か困ったことがあるなら話してください。僕は晴子さんの力になりたいです」
晴子は首を振り続ける。
「晴子さん」
呼ばれていることも、もうわからなかった。ふっと体から力が抜けて、晴子は昏いところに落ちていった。
お母さんが台所で料理をしている音が聞こえる。
そろそろ起きないと大声で怒鳴られちゃう。でもまだ、まぶたが開かない。
そうだ、朝子のおむつを替えてやらなきゃ。今朝は私が早起きしてお手伝いするって言ったんだった。
お父さんはもう仕事に出かけたのかな。それとも今日は一緒に朝ごはんを食べられるのかな。
料理の音が止まった。
あ、そろそろお母さんがやって来る。
足音が近づいてきた。
ほら、もうすぐ怒鳴るぞ。
「晴子さん」
あれ、珍しい。怒鳴らないで起こしてくれるなんて。
うっすらと目を開けると、目の前に何か水色の、フワフワしたものがあった。なんだろう。頭がぼーっとしてよくわからない。
「晴子さん、気が付きましたか」
声を追いかけて見上げると、とてもきれいな女の人がいた。桃色のセーターと白いスカートに白いフリルのエプロン。
「……桃ちゃん」
にこりと微笑んで、桃比呂は晴子の顔にかかっている髪を避けてくれた。
「起きられますか」
桃比呂に肩を支えてもらって身を起こす。
晴子は水色のイルカの抱き枕に抱き着いていたようだ。イルカはとぼけた顔をして晴子を見上げている。
「お腹は空いていませんか。スープを作りましたが、飲みますか」
空腹は感じなかったが喉が渇いていた。こくりと頷くと桃比呂がキッチンに立った。
白いフリルのエプロンがよく似合っている。優しい後ろ姿だ。どうして子どものころの夢なんか見たんだろう。もう二度と思い出したくもない幸せだったころの夢なんか。
キッチンには野菜を刻んだあとらしい、まな板と包丁が置いてあった。そうか、桃比呂が作っていた料理をしていた音だ。もう長らく聞いていなかったから、夢に出てきたんだ。あれは、あの光景は、あの食卓は今はもうない。幸せな夢が急速に遠のいた。
背筋に寒気が走った。貧血で倒れそうになった時のような、背筋から足許へ血が引いていく感じと、わずかな頭痛。
頭の中がぐらぐらと揺れているような気がする。ひどいめまいで何かにすがっていないと、また深い穴に落ちてしまいそうだ。両手で顔を覆った。気分が悪い、吐き気がする。
「晴子さん」
すぐ側で名前を呼ばれた。深く響く優しい声。手を握られて肩を撫でられた。暖かかった。そっと顔を上げてみると、めまいが治まりかけていた。
自分の両手を覆う大きな右手が見えた。柔らかなその手にすがりついた。両手でぎゅっと握って額にすりつける。目をつぶって何かに祈るように握りしめた。
背中を優しく撫でる手を感じた。寒気が治まって温かくなってきた。目を開けると白い腕が見えた。ほっそりとしているのに、力強い腕だ。安心して目をつぶった。
優しく撫でられる感触を背中に感じて体温がどんどん戻ってきていた。晴子が落ち着くまで桃比呂は黙って側にいた。スープはとっくに冷めていたし、窓の外は真っ暗で、冷気が部屋に忍び込んで来ていた。
それなのに震えていた晴子の背中はいつの間にか温まって、静かな呼吸にあわせて上下するようになっていた。冷え切っていた指先も血色を取りもどして、桃比呂の体温に近づいていた。
「晴子さん」
呼びかけられて晴子は顔を上げた。まだ青ざめてはいたが、視線はしっかりと桃比呂を捉えた。
「……桃ちゃん」
「はい」
「桃ちゃん」
晴子は桃比呂の頬をそっと撫でた。
「泣いた?」
「泣いてないわ」
晴子は桃比呂の目を覗きこんだ。その目に映った自分が歪んで見えた。
「でも、世界がにじんでる」
桃比呂の頬がふっとゆるんだ。
「泣いているのはあなたよ」
晴子は自分の頬を押さえてみた。濡れていた。少し頬がかゆい。桃比呂が頬の涙をぬぐってくれた。
「たくさん寝たわね。たくさん泣いた。まだ足りなかったら、いくらでも泣いて、寝ていいのよ。ずっと側にいるから」
桃比呂の手が晴子の髪を撫でる。その温かさが呼び水になったように晴子の目から、ぼとぼとと涙がこぼれた。
晴子は桃比呂に抱きついて赤ん坊のように大声で泣いた。
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