第14話
翌日、休憩室で彩り野菜の冬シチューを箸で食べているところに桃比呂がやって来た。いつも通りコンビニの袋を持っていたが、いつもと違ってすぐには座らなかった。箸をくわえている晴子の顔をじっと見つめている。
晴子が眉根を寄せて椅子を引いてやると、桃比呂はやっと座ってコンビニの袋をテーブルに置いた。それでもまだ晴子を見つめ続ける桃比呂に「食べれば」と顎でおにぎりを指し示すと、やっとおにぎりのフィルムを剥き始めた。
「晴子さん」
「ん」
ん、と返事して晴子は、はたと気づいた。いつから桃比呂は自分のことを「晴子」と呼ぶようになっていたんだろう。昨日はそんなことには、まったく気づきもしなかった。それどころか桃比呂の部屋で自分の役柄を考えることすら忘れていた。
今日は「相良」ではなく「晴子」としてなにか特別な役どころを演じなければならなかったような気がする。今まで通り、無言の同僚でいてはいけないような気がする。
桃比呂が期待している役になり切らなくては、ここに座っている資格がなくなってしまう。せっかく居場所の一つになったと思っていた休憩室が、とてつもなく居心地の悪い場所になってしまう。
だが、どう考えても自分の役どころなどわからなかったし、たとえ教えてもらったとしても、とても自分に演じられるとは思えなかった。なぜ昨日はあんなにも考えなしでいられたのだろう。あんなのズルだ、自分じゃない。自分の真似をした何ものかが自分に化けていたんだ。
「晴子さん」
「ん」
また、なにごともなかったかのように返事をしてしまって、そのことに晴子は狼狽した。
「服はどうですか」
桃比呂は、至極真面目な顔で晴子を見ていた。
「うん」
曖昧な返事を残して晴子は立ち上がった。まだ残っているシチューに蓋をして休憩室を出た。デスクに戻ろう。仕事が出来ないダメ社員に戻ろう。自分の居場所はそこであり、居心地の悪い給湯室であり、つまるところが離れなのだ。一刻も早く離れに戻りたい。それだけを念じて晴子は午後の仕事をなんとかこなした。
会社を出て、小走りに数十メートル行ったところで後ろを振り返った。誰も追いかけてきてはいなかった。今日は桃比呂は残業のはずだ。
晴子は深く息を吐いて歩調をゆるめた。帰ろう。自分が変色してしまう前に。茶色のままでいられるうちに、離れに帰ろう。
乱暴に鍵を開けて廊下を大股で通る。背後でダイニングへ続く扉が開く音がした。家族の誰かが顔を出して覗いているのだろう。
そんなこと知ったことではなかった。とにかく離れに戻りたかった。ドアの前に畳んで置かれた洗濯物を足でどけて、ドアを開けた。音高くドアを閉めて、着ていたオレンジのセーターを脱ぎ捨てた。
この部屋にオレンジなんて似合わない。この部屋に似合うのは灰色と茶色と昏い昏い黒だ。
はっとして動きを止めた。黒い穴が開いていた。離れが端から端まで穴の中に取り込まれていた。
昏い昏い昏い。
窓からは月の明かりも入らない。穴が晴子を飲み込もうとしている。そうだ。ここが自分の居場所だ。自分だけの、ほかの誰も、なにものも入ってこられない晴子の離れだ。
晴子は抵抗していた力を抜いて、足の先からずぶずぶと生ぬるい昏い穴に浸った。
ティーシャツにカーディガンを羽織ってコートを着て離れを出る。チェーン店の牛丼屋で納豆朝食を食べる。初めて見るバイトの店員は晴子が指さしたメニューを確認して一言も話さず注文から会計まで済ませた。
仕事は右からやって来るデータを左の自社システムに入力するだけの簡単なもの。特別なスキルもキャリアアップも関係ない。コミュニケーションも必要ない。ただ漫然とキーボードを打ち続ける。
いつものコンビニ弁当を買って、近くの公園のベンチで食べる。風は冷たいがコートがあればしのげる程度だ。厳寒期でさえ雪も積もらないこの町では、凍えきるような心配もない。
雨が降れば便所飯にすればいい。誰かに気付かれたとして、それがなんだというのだ。人からどう思われようと関係ない。ずっとそうやって生きてきた。
ご飯の白、から揚げの茶色、焼きそばの茶色、茶色、茶色、茶色。晴子の離れと同じ、なにもかもが日にさらされた畳のようにくすんだ茶色になっていく。晴子の毎日をくすんだ茶色に染めていく。
それが、晴子が選んだ日常。髪をきれいに結い上げた女の人たちとは違う。選ばなかった普通をいまさら欲しがっても、晴子は離れから出ることは出来ない。どんなに遠くへ逃げようとしても、離れは晴子を逃がしはしない。
朝からみぞれが降っていた。気温はそれほど低くないのに、なぜだか雪の日よりもずっと寒く感じる。コンビニ弁当を買った晴子は、昼休み、トイレにこもった。
ちょうど誰もいない時に入り込めた。一番奥の個室に入って、便座に腰を下ろす。コンビニの袋から弁当を取り出して割り箸を割った。なんとなく気が焦っていたので温めなくていいと店員に告げたせいで、ご飯がひんやりと冷気を放っていた。臭いが広がらないのはいいが、食欲はちっとも湧かない。
箸で茶色のおかずを突っつき回していると、誰かが入ってきた足音がして、続いてドアをノックする音がした。晴子は眉間にしわを寄せた。個室はまだ二つとも空いている。なぜそちらへ行かないのか。
もしかして食べ物の臭いが充満していて誰かが注意をしに来たのか。晴子は面倒なことにならないうちに弁当に蓋をして、なにごともなかったフリをして個室を出ようと水を流した。トイレを使用していたフリ完了。これで文句は言えまいと思いつつドアを開けると、目の覚めるような美人が立っていた。
「なんで」
女装姿の桃比呂は低い声で答える。
「なんではこちらのセリフです」
「どこで」
「ロッカールームで着替えてきました」
「なんで」
「ネクタイ姿で女子トイレに入るわけにはいかないでしょう」
「でも」
「話をしましょう」
桃比呂は晴子の手を取ってトイレを出た。
女装姿のまま休憩室に入るわけにもいかず、二人は倉庫に忍びこんだ。今日の桃比呂は紺のタイトスカートにストライプのシャツ、ざっくりと網目の大きなたまご色のセーターというOL風なスタイルだった。
社内を歩いていても違和感がないだろう。晴子がぼんやりとそんなことを考えていると、桃比呂が倉庫の奥から折り畳み式のパイプ椅子を持ってきた。
立ち並ぶスチール製の棚の間、狭い通路に向かい合わせに置いた椅子に桃比呂が座って晴子を見つめるので、仕方なく晴子も腰かけた。
「なんで便所飯なんですか」
桃比呂の声がいつもより大きいような気がした。
「天気が悪いから」
「なんで休憩室に来ないんですか」
「べつに」
「人間関係の悩みがあるんですか」
「べつに」
晴子は気が抜けたような返事をするだけで、桃比呂の顔を見るでもなく見ている。あわてて化粧をしたのだろう。いつもと違って素顔に近い。ぼけっとしている晴子をしばらく見つめていた桃比呂は、大きく息を吸って核心に触れた。
「僕が嫌なんですか」
「べつに」
「じゃあ、なんで!」
「……べつに」
なんでと言われても晴子にはどう言えばいいのかわからない。どう説明しても桃比呂に伝えられる気がしない。そもそも晴子は話すべきなにものも、大切なものを持ってはいない。ただ昏い穴に捕まっているだけの影のような存在なのだ。
「僕は晴子さんのことを知りたい。それは迷惑ですか? 教えてください。どうしたら話をしてくれますか」
桃比呂の言葉を聞いて苦い思い出がよみがえった。
高校三年生の時だ。担任の教師が熱血な若い男性だった。男性が嫌いな晴子にとってはそれだけでも嫌なのに、彼はクラスに馴染もうとしない晴子をなんとかして人の輪に入れようとした。
放課後の教室に残されて「もっとみんなと話そう。人は一人では生きていけないんだよ」と、手垢まみれの言葉で説得されていた。
晴子が返事をしないでいると、担任は晴子の手を取ってぎゅっと握った。ガサガサと荒れた手の感触が気持ち悪かった。
「話をしよう。先生がなんでも相談に乗るから」
晴子は恐れと同時に胸糞悪くなって、担任の手を振りほどくと教室から走って逃げた。そのまま止まらずに家まで帰り、その後、高校に通えなくなった。
「晴子さん」
嫌な思い出に絡めとられて、ぼーっとしていた晴子の手を桃比呂が握った。びくりと震えた晴子の顔色が青ざめていく。
「嫌なら話をしなくてもいい。側にいてくれるだけでいい。だからまた隣に座ってくれませんか」
桃比呂の手はなめらかだった。ひんやりとしていて指が長くてきれいだ。間近で見ると桃比呂の、MOMOKOの肌はとてもきれいだった。
桃比呂もMOMOKOも関係なく、その姿は美しいのだ。白くてなめらかな頬を見ていると心がだんだん落ち着いてきた。なにものでなくてもいいのだ。晴子にとってのMOMOKOのように。一番心地良い姿を選んでいいのだ。
桃比呂は晴子になにものも求めてはいない。ただ、そのままでいればいいのだ。
「また、うちに来てくれませんか」
「うん」
桃比呂は泣きそうな笑顔で、晴子の手を優しく撫でた。
昼休み、晴子は休憩室のいつもの席に戻ってきた。桃比呂がやって来て、小さく頭を揺らす。
晴子は椅子を引いてやって桃比呂が隣に座る。晴子はいつもの茶色のコンビニ弁当、桃比呂はオカカとシャケのおにぎりを無言で食べる。
たまに桃比呂が晴子の方に向けている視線は感じたが、晴子は無言で無視した。そうしていないと自分がなにかとんでもないことを口走ってしまう気がしていた。
それはとても苦しくて怖いことで、きっと晴子には耐えられない。
話さなくてもいいと、桃比呂はそれでもいいと言ってくれたのだ。晴子は変わらず、晴子のままでいていいと。
弁当を食べ終わると、晴子は寝たふりをして、桃比呂は本を読む。最近、ブックカバーはクリスマスツリーとサンタの絵柄のものに代わった。少し気が早いなと晴子は思う。
もうすぐ、冬も本番を迎える。
二人は出来るだけ休みを合わせることにした。とはいってもシフトを組む都合上、管理職の桃比呂はなかなか融通が利かず、晴子の有給休暇を駆使しても、月に五日が限度だった。
晴子を迎えに駅まで桃比呂がやって来る。二人黙って並んで歩いて、部屋についたら桃比呂は着替えてMOMOKOになる。
向かい合ってお茶を飲んで、MOMOKOお手製のケーキを食べて、なにをするでもなく見つめあって一日が終わる。
暖かな桃比呂の部屋を後にするとき、晴子はフワフワした良い香りのする夢の中にいるような気分で歩く。
改札で手を振る桃比呂と別れ電車に乗ると、視線が勝手に桃比呂が住む部屋の方角に向かう。出来ることなら今すぐ降りて引き返したい、あの良い香りがして、暖かく自分を包みこんでくれる場所に。
離れに戻ってからも、ソワソワして落ち着かない。こんなことは初めてだ。自分がいてもいい場所を外に持つことができるなんて。
晴子は目の前に新しく開けた現実に目を奪われて、離れの昏さを忘れていた。
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