第13話


 翌日、晴子は生まれて初めて、スカートで出勤した。いつもの牛丼屋には寄らず、コンビニでドーナツとコーヒーを買った。歩きながらドーナツをぱくつく。

 通勤の途中で見ることがある、歩き食いを真似てみたのだ。


 だが口の周りが砂糖だらけになるし、コーヒーで片手がふさがっているしで、ドーナツはとても食べにくいものだとわかった。それでも牛丼屋よりは、上品な花柄のスカートを履く女性の役に合うのではないかと思って満足だった。


 朝食を歩きドーナツで済ませたので、いつもよりずっと早く職場にたどりついた。することもないので給湯室で温かい麦茶を飲んでいると、通りかかった順子がいきなり晴子の二の腕を叩いた。


「やだ! 相良さんたら、イメチェン!」


 突然の出来事にどう反応したらいいか思いつかず、晴子は驚き見開いて丸くなった目で順子を見つめた。


「その服、桃ちゃんからのプレゼントでしょ!」


 なんでわかるのだろうと思いながら、晴子は頷いた。順子はなにがそんなに嬉しいのかと尋ねたくなるほど、ニンマリと笑う。


「だと思った。かわいいじゃない!」


 もう一度、晴子の腕を叩いて、順子は通り過ぎていった。晴子はかなりの強さで二度叩かれた二の腕をさすりながら、今のはどんな役どころが正解だったのだろうか、自分はうまく立ち回れたのだろうかと考えたが、よくわからなかった。


 業務フロアに入ると、皆の視線が一斉に晴子に向いた。順子が、イメチェンだとでも言いふらしていたのだろう。晴子は無遠慮に見られることにイラっとしたが、順子の良い同僚の役を演じるべきだと思い至り、なにごともないふりをして自分のデスクに向かった。

 デスクにはなぜか飴が三つ置いてある。椅子を回して遠い席の順子を見ると、ニンマリ笑ったので、順子が晴子にくれたものなのだろうと飴を引き出しにしまって、デスクに向き直った。

 お礼を言うべきではないかと気づいたのは始業後三十分もたってからで、作業を中断することも出来ず仕事を続けるうちに、飴のことは忘れ去ってしまった。


 昼休み、晴子はコンビニで彩り野菜の冬シチューを買った。レジでスプーンと箸のどちらがいいか聞かれて迷ったが、かわいいスカートを履いた女性の役にふさわしかろうとスプーンを選んだ。

 休憩室で蓋を開けてみると、シチューの具材は大きめにカットされていて、スプーンでは食べにくいことが判明した。四苦八苦してスプーンで牛肉を二つにわけたところで桃比呂がやって来た。


 すぐ近くまで寄って来て、しばらく晴子を見つめていた。晴子が見上げて小首をかしげると桃比呂の細い目がさらに細くなったような気がした。

 その後は声もかけず、いつものように軽く頭を揺らす会釈をして隣の席に座り、いつも通り、おにぎりを二つ食べ、文庫本を取り出して読みだした。それを見ていると晴子は口の中が苦い味でいっぱいになったような気がして、自分でも驚くほど不機嫌になった。

 シチューの外装に書いてある原材料名を見てみたが、苦みが出るようなヘンなものは入っていないようだ。

 ブックカバーのキリンのアップリケと目が合って、晴子はちょっと眉を顰めてみせた。とくに意味はなかったが、なぜか、ほんの少し気分がましになった気がした。


 仕事が終わって外に出ると、もうすっかり日が暮れていて暗い。このところ太陽を見る時間がかなり減っていた。離れにも日が入らないことだし、精神的に落ち着くためには日光浴でもした方がいいのかもしれない。

 運動もした方がいいらしいが、それは通勤の往復で、まあ及第点だろうと満足して歩いていると、自分の隣にいつの間にか桃比呂が並んで歩いていることに気づいた。 

 ぎょっとして立ち止まる。桃比呂も並んで立ち止まって晴子を見つめた。晴子は驚きのあまり、カパッと口が開いてしまった。


「なんで」


「なんで、とは?」


「いるの」


「追いかけてきました」


「なんで」


「食事に行きませんか、おごります。カニでいいですか」


 晴子は勢いよく三度頷いた。桃比呂の頬が少しだけ動いた。無言で歩きだした桃比呂の隣について歩く。

 二人の靴がカツカツと鳴る。同じ歩幅で歩いているので音がそろっていて心地良い。昼間から感じ続けた苦い味は、いつの間にか消えていた。靴を鳴らして、このままいつまでも歩いていたかった。


「靴、かわいいですね」


 歩きながら桃比呂が話しかけてきた。


「百貨店で買った」


「よく似合ってます」


「選んでもらった」


 桃比呂はちょっと眉根を寄せて首をかしげた。


「誰に?」


「お店の人」


「そうですか」


 桃比呂の頬がちらりと動いた。そこで会話は途切れて、二人は並んで電車に乗った。



 カニ専門店は今日も閑散としていた。どうしてこの店は潰れないのだろうかと晴子は内心首をかしげる。

 奥から出てきた和服の店員に案内されて二階の小さな座敷に通された。掘りごたつ式の座敷で烏龍茶を頼み、テーブルに差し向かいで座る。


 桃比呂の顔を正面から見て、晴子は不思議な気持ちになった。楽しいような、寂しいような。原因は桃比呂が化粧をしていないからだろうと晴子はあたりを付けた。

 美人な桃比呂を知った今では、男装の桃比呂は普通過ぎて面白味が足りない。面白味は足りないが、また差し向かいで座れたことが嬉しいような気もした。


「服、着てくれたんですね」


 晴子が頷くと桃比呂が笑顔を浮かべた。なんで桃比呂は人が見ているところでは笑わないのだろうか。ふとそのことに思い至った晴子は小首をかしげて考える。女装した美人の桃比呂はよく笑うのに。

 男装の桃比呂の外での役は、笑ってはいけないものなのだろうか。そうかもしれない。人に話しかけられるのが嫌いで一人を貫きたいなら、笑わない方が都合がいい。


 それが外向きの桃比呂の役だとしたら、本当の桃比呂はやはり女装した時の美人な姿なのだろう。でも、じゃあ、今はなんの役を務めているのだろう。同僚役? 友人役? それとも自分が知らない他のなにか?


 そこまで考えて晴子はハッとした。役を演じるのを忘れている。自分はなにものを演じればいいのだろうか。桃比呂は笑ったけれど、自分も笑った方がいいのだろうか。いつもの休憩室のように黙っていた方がいいのか。前回、この店に来たときは、いったいどうしていただろう。まったく思い出せなかった。


 晴子はなにものにもなれず、途方に暮れた。この感覚には覚えがあった。あの時もカニだった。朝子が甲殻類のアレルギーだとわかった夜だ。

 カニ鍋を前に、やはり晴子は、なにものにもなれずにいたのだ。良い娘にもなれず、良い姉にもなれず、冷酷でなんでも食べつくそうとする餓鬼にもなれないまま、置いて行かれた状況が飲み込めず、ただ立ち尽くしたあの夜と同じだった。


 自分がなにものでもないことが、急に恐ろしくなって身動きできなくなった。どのくらいの時間がたったのかわからないうちに、食事が運ばれてきた。

 前回来た時と同じコース料理だ。知らない料理ではない、なにも起きない、食べても大丈夫だと思うのに、晴子は箸をつけることが出来ずにぼんやりと皿を見下ろした。


「相良さん?」


 顔を上げると桃比呂も箸を取らずにいた。晴子が食べ始めるのを待っている。待っている桃比呂に合わせるには、なんの役を演じればいいのだろう。休憩室で並んで座っている時なら同期なのに上司と部下という関係で、晴子は迷惑をかけない同僚でいればいい。だが今はなんだか違うような気がした。


「どうかしましたか?」


 その質問にどう答えればいいかわからない。イエスかノーで答えられる質問ではない。自分で考えて答えを探さなければならない。晴子はじっと桃比呂の顔を見つめた。そこに答えが書いてあるような気がしたのだ。けれど桃比呂は晴子が答えを見つけるまで待つ気はなかったようだ。


「食べましょうか」


 そう言うと箸を取り、カニの酢の物を口に入れた。いつも通り十回噛んで飲み込む。なにも変わらない、いつも通りだ。晴子もなにごともなかったふりをして箸を取った。

 桃比呂は晴子の苦悩も知らぬげだ。いつもの休憩室と同じように、二人、黙々とカニを食べた。今日のカニはなんだかスカスカして、うまみが感じられない味だなと晴子は思った。



 店を出て建物を振り仰ぐと、今日も作り物のカニが足を蠢かしていた。観察していると、足が動くたびにカニの内部の何かの機械が軋む音が聞こえる。隣で桃比呂も同じように作り物のカニを見上げていた。


「油がきれているのでしょうか。軋んでますね」


 本物のカニは動くたびに軋むだろうか。作り物だから軋むのだろうか。


「どうかしましたか?」


 桃比呂の顔を見上げて晴子は黙ったまま、小さく首を横に振った。結局、今日の役どころを掴めないまま、桃比呂とわかれた。




 翌日から、なぜか桃比呂が休憩室で話しかけてくるようになった。晴子はやはり自分の役どころが掴めず、頷くか、首を横に振るかしか出来ない。桃比呂はそれでもかまわないらしく、何か二言三言しゃべってから、おにぎりのフィルムを剥がす。


「相良さん、今の服ではそろそろ寒いんじゃないですか」


 晴子は今日も桃比呂からもらった服を着ていた。言われれば、秋物の服では少し肌寒い季節になっていた。頷いて桃比呂を見上げる。桃比呂はいやに真面目な顔をしていた。


「うちに来ませんか」


 また桃比呂の美人な姿を見られると思うと楽しくなって、晴子は間髪おかずに勢いよく頷いた。桃比呂の頬が少し動いた。細い目もさらに細くなって笑っているようだった。


 シフトの休みを二人で合わせた。桃比呂が休みを取りやすいのが平日だったので晴子は家族の目をはばかることなく、離れから出てきた。久しぶりにティーシャツとジーンズで、少し早いがコートを着込んだ。

 底が抜けそうなスニーカーで歩いていると、足の裏が痛くて不愉快だった。もう二度とこのスニーカーは履くまいと心に決めた。


 今回は駅まで桃比呂が迎えに来ることになっていた。晴子は地図を読む能力が少しはあるのか、やっぱりちっともないのか確かめずにすんだことにほっとした。地図が読めないとわかってしまったら、初めての場所へ一人で行こうという気持ちには一生ならないだろう。


 電車を降りると、改札の向こう側に桃比呂が立っているのが見えた。女装ではない。晴子は残念なような、安心したような複雑な気持ちになった。


「化粧は?」


 挨拶もせずに桃比呂に問いかける。


「さすがに外で女装はできません」


「前の時は出来た」


 桃比呂は苦笑いを浮かべた。


「あの時は緊急事態でしたから」


「緊急事態?」


「相良さんが泣きそうだったから」


 晴子はむっとして眉間にしわを寄せた。


「泣かない」


「ちょっと泣いてましたよ」


「泣かない」


 桃比呂の目が細まった。晴子の機嫌は急降下して、久しぶりに、ぶすっとした表情を見せた。


「行きましょうか」


 先導して歩きだした桃比呂の背中を睨みながら、絶対に自分は泣いていないと自分自身に言い聞かせた。


 桃比呂の部屋は相変わらずピンクだった。前回と変わったところも二つある。水色で大きなイルカの抱き枕と小さなウサギのぬいぐるみがベッドの上に横たわっていた。


「ぬいぐるみ、好き?」


「はい、もちろん。相良さんからいただいたボールペンも大切にしています」


 そう言ってドレッサーの小さな引き出しを開けた。中には化粧品ではなく、手の平に納まるほどのぬいぐるみやミニチュア家具が整理されてしまわれている。どれも晴子が桃比呂にあげたものだった。


「捨てないの」


「まさか」


 引き出しからちゅーりっぷるのついたボールペンを取り出して、桃比呂はぎゅっと握った。


「僕の宝物です」


「MOMOKO」


「はい」


 桃比呂からもらったボールペンに刻印されていた名前を思い出して口にしただけだったのだが、桃比呂が当然のような顔をして返事をした。MOMOKOとは桃比呂が自分につけた名前だったのかと、晴子はなぜかほっとした。きっとなにかの記念に自分のために刻印したのだろう。


「MOMOKO」


「はい」


「化粧しないの」


 唐突な話題の転換についてきていない桃比呂は、二、三度ゆっくり瞬きをした。晴子はそれを否定されたのだと捉えて眉根を寄せた。


「せっかく来たのに」


「相良さんは僕の女装が好きなんですか」


 晴子はしばらく考えてから頷いた。桃比呂は真顔で晴子を見つめていたが、徐々に頬がゆるんできて最後には笑み崩れた。


「では、お言葉に甘えて」


 クローゼットのドアを開けて晴子に「どれがいいですか」と尋ねる。晴子はずらりと並んだ服を端から一着ずつ確認していく。色もとりどり、形もとりどり、布にただ穴が開いているだけのものや、布が数枚からまっているようにしか見えない不可解なもの、チャイナドレスまである。


 晴子はじっくりと厳選して、柔らかな手触りで紺色の、袖口と立ち襟に白いレースが縫い付けてある上品なドレスを選び出した。ロング丈で長身な桃比呂に似合いそうだ。手渡すと桃比呂はいそいそと洗面所に向かう。


「覗いたらダメですからね」


 そう言い残してドアの向こうに消えた。鶴の恩返しみたいだ。覗くなと言われたら、覗いてやらねばならないような気もする。それは晴子に振られた役柄なのかもしれない。晴子は、しばし考えて、よし覗こうと足を動かした。その瞬間、桃比呂が出てきた。


「……早い」


「そうですか。この服はかぶるだけですから。でもこれから、化粧もします」


 ドレッサーの前にやってきた桃比呂を観察しようと晴子は鏡が見える位置に移動した。たくさんの瓶を並べて顔を拭いたり、液体を塗ったり、クリームを塗ったり、粉をはたいたり、その手馴れた動きが速すぎて、晴子にはなにをしているのか今一つぴんとこない。


 だが、桃比呂の顔はだんだんと女性に近づいて行った。細いだけだと思っていた鼻が高く上品な鼻になり、感情がわかりにくい目が、まつげが長い知的な目になり、薄い唇がぷるんと膨らみ艶を得た。

 化粧が仕上がると、最後にドレッサーの下段の引き出しから取り出した長髪のかつらをかぶる。ヘアアイロンで毛先を縦に巻いて胸元に垂らす。夢の中から抜け出してきたような美女が、ゆったりと晴子に微笑みかけた。


「いかがかしら」


「美人」


 晴子はぱちぱち拍手して褒めたたえた。桃比呂は満足そうな表情で立ち上がる。紺色のドレスは貴族の令嬢が着ていそうな雰囲気だった。上品に仕上がった美女の桃比呂によく似合っている。


「このドレス、一番好きなの。映画の中に入り込んだような気持ちになれるから」


「映画好きなの」


「うーん、普通かな。相良さんは映画は見に行く?」


「行かない」


「そうなの」


 桃比呂が黙ってしまって部屋はしんと静かになった。晴子と桃比呂はなんとなくローテーブルを挟んで座り込んだ。晴子は、カニ料理専門店で出会ったときの夏生の言葉を思い出した。


『親しい友人や恋人じゃないと無言の食事は気まずくなるからね』


 晴子には気まずくない食事というものが、どういうものかよくわからない。いつでも誰とだって、一緒に食事をするのは大嫌いだった。一人でないと食べ物の味がわからなかった。

 誰かと食卓を囲むと、話をしなければならないのも苦痛だった。誰かと一緒に食事をするときに無言でいたらどうなるか実験してみれば、夏生の言ったことが真実かどうかわかるだろう。だが、晴子はそんな実験はまっぴらごめんだ。


「お茶飲む?」


「飲む」


 桃比呂が立ち上って紅茶を淹れる準備をしている後ろ姿をぼんやり眺める。桃比呂と出会った頃は一緒に食事をしていたとはとても言えない。二人並んで一人で食べていた。

 だがちゅーりっぷるのボールペンと、MOMOKOと刻印されたボールペンを交換してから、二人は並んで、二人で共に食事をするようになった。差し向かいで無言でカニも食べた。晴子はちっとも気まずくはなかった。桃比呂はどうだったのだろうか。聞いてみようかと思ったが、なんと聞けばいいものか思いつきもしない。


「どうぞ」


 テーブルにティーカップが置かれた。今日は白い磁器に青紫の花の絵が描かれたものだ。これもとても上品だった。

 黙って紅茶を飲む。桃比呂も黙って紅茶の香りを楽しんでいる。独特の香りがする。カップを覗き込むようにして香りを嗅ぐ。


「アールグレイよ。香りが強いけど大丈夫?」


「うん」


「ミルクを入れても美味しいけど、どうする?」


「うん」


「ホットミルクにするからちょっと待ってね」


「うん」


「今度一緒に映画に行く?」


「うん」


 桃比呂はキッチンに立って、ミルクパンにミルクを注いで火にかけた。晴子はなにかがおかしいと思ったが、それが何かわからなかった。繰り出された質問に、ただ答えを返しただけのはずだ。

 眉根を寄せて考えているうちに、桃比呂が温まったミルクを晴子のカップに注いでくれた。


 温かいアールグレイのミルクティーは心がホワンとほぐれる味だった。肩の力が抜けて、ほうっと息を吐いた。

 良い香りだと思っていたアールグレイはミルクと混ざると子守歌を聞いた時のように安心感を与えてくれた。晴子は自分が子守歌を歌ってもらったことを思い出そうとした。

 だが思い出せたのは朝子が赤ん坊のころに、母が朝子に歌ってやっていた子守歌のイメージだけだった。自分も聞き覚えて朝子がぐずっていた時には歌ってやった。

 あれはどんな歌だったっけ。ぼうっとそんなことを考えていると、ふと視線に気づいた。桃比呂が頬杖をついて楽しそうに晴子を見ていた。


「なに」


「ん。嬉しいな、と思って」


「なにが」


 桃比呂は腕を上げて袖口のレースをひらひらと振ってみせた。


「こんな僕の姿を誰かに見てもらえる日が来るなんて、思ってもみなかったから」


「なんで」


「だって、気持ち悪いでしょう。大人の男が女装するのって」


「子どもならいいの」


 晴子が聞くと桃比呂は苦笑して額を手で覆った。その姿はなんだか男らしくて、晴子はせっかくの女装が台無しだと唇を突き出した。桃比呂はそれには気づかないようで、晴れ晴れとした笑顔を晴子に向けた。


「相良さん、映画に行きましょう」


「うん」


 先ほど言われたことを繰り返されて、晴子はなぜ二度言うのかと、いぶかしく思いながら返事をした。桃比呂は晴子の表情は気にせずに上機嫌だ。


「なにか見たいものはありますか」


「ない」


 桃比呂はにっこりと、天女のように美しい笑みを見せた。


「僕もないんです。映画館に行って決めましょう」


 なんじゃそりゃ、と晴子は思ったが口には出さなかった。晴子の口から出るにはその言葉は軽すぎて、眉間にしわを寄せた仏頂面の晴子には似合わな過ぎた。軽くてシャボン玉のように喉の辺りではじけて消えてしまい、とても口から外へは出て行かなかった。

 でもそれでいい。もっと大事なことのために、しゃべる気力を取っておけばいいと晴子は一人頷いた。


「いつ行きましょうか」


「どれにする」


 桃比呂は自分の質問にかぶせて返ってきた晴子の質問の意図が読めずに、首をかしげた。


「どれ、とは?」


「どの服で行く」


 晴子は立ち上がってクローゼットの扉を開けた。これこそ今日の一番大事な要件だ。確信をもって晴子は桃比呂を振り返った。


「まさか、女装ですか」


「まさか?」


「外で女装はしませんよ」


「なんで」


「なんでって……。じゃあ、聞きますが、なんで相良さんは僕に女装させたがるんですか」


「きれいだから」


 桃比呂は晴子のストレートな褒め言葉に動きを止めた。晴子は桃比呂の動きが止まったことをいぶかしんで眉根を寄せた。桃比呂は俯きがちに小声で尋ねる。


「今、なんて言いました?」


「きれいだから」


 桃比呂は両手で顔を覆った。耳が真っ赤だ。そのまま動かなくなってしまったので、晴子は座ってミルクティーを飲んだ。冷めてきていたがアールグレイのミルクティーはとても美味しい。お代わりはあるのだろうかとキッチンに目をやったが、ポットはもう洗ってあった。

 がっかりして床に寝転がる。天井が真っ白できれいだった。壁紙も、フローリングの床も、クッションも、晴子の離れとは全然違った。日当たりが良くて広くて良い香りがして、もうこのまま寝てしまいたかった。

 きっと何年も悩まされた不眠なんかどこかに行って、何時間でも眠れるだろう。


「晴子さん」


 呼ばれて首をもたげると、桃比呂が耳を真っ赤にしたまま晴子の方を向いていた。


「女装で外は無理です」


「そ」


 晴子は床にぺたりと顔を付けた。窓から差し込む日の光がぽかぽかと晴子を包んだ。心地良くて本当に眠ってしまいそうだ。


「晴子さん」


 顔を上げると、やはり真っ赤な顔の桃比呂が、泣きそうな表情で両手をついて晴子に頭を下げた。


「見捨てないでください!」


 晴子は何を言われたかわからずに起き上がった。桃比呂は床に額をこすりつけるようにして、晴子に懇願し続ける。


「僕を見捨てないでください! 僕は女装姿を見られるのが怖い、中途半端な女装趣味です。でも晴子さんは別なんです! 僕はあなたになら、どんな姿を見られてもかまわない! いや、どうか見て欲しい! だから、僕を見捨てないでください!」


 深々と床につきそうなほど低く頭を下げた桃比呂を見て、晴子はクローゼットに視線を移して、また桃比呂を見た。きれいに巻いた縦ロールの髪が床の上で踊っている。せっかくのドレスが引きつれて腰のあたりで破れてしまいそうだ。晴子は今にも悲鳴をあげそうなほどのショックを受けた。


「や」


 その声が聞こえたのか、桃比呂が、がばっと顔を上げた。ドレスは今にも裂けそうという絶体絶命のピンチから逃れることが出来た。晴子は、ほっと息を吐いた。


「どうしても嫌ですか」


 泣きそうな顔をした桃比呂の顔を見ても、晴子はなにを言われているのか、わからない。まさか自分の呟きを桃比呂が拒絶の意味に受け取ったとは考えも及ばない。

 膝を進める桃比呂に距離をつめられて、困った晴子は無意識の内にジリジリと尻を動かして玄関の方に移動を始めた。桃比呂は晴子の姿を見つめて涙目でうったえる。


「どうしたら僕の側にいてくれますか? 晴子さんは僕の女装姿を褒めてくれた。それは、僕を認めてくれたのとは違うんですか?」


 涙目の桃比呂は美しかった。晴子は思わず動きを止めて見惚れた。桃比呂がなにがしか大声でうったえていることが意識の外へ転がり出た。

 なにを言われても頷くだけでいい。こんなに美しい人を、がっかりさせたり出来るわけがない。このまま時間が止まって、この部屋で、長いまつげの桃比呂といつまでも向かい合っていたかった。


「晴子さん!」


 桃比呂の目から涙がこぼれた。涙が真珠にたとえられるのは滑稽だと思っていたが、この涙を見てしまっては、もう否定はできなかった。間違いなく、桃比呂の涙は真珠のようだった。きらきら輝いて、世界中のなによりも美しかった。


「女装をしているこんな僕でも、好きになってはくれませんか!」


「うん」


 桃比呂の涙を見つめたまま、その姿の美しさに夢心地で晴子は頷いた。桃比呂がなにか、とんでもないことを言ったような気がしたが、ろくに聞いていなかった。


「……本当に?」


 桃比呂の目が丸く開いて、涙がぽろぽろとあふれる。ああ、きれいだなと晴子はうっとりと見惚れた。


「うん」


「晴子さん、僕を見捨てないでください」


「うん」


「女装で外出も出来ない、臆病な僕を見捨てないでください」


「うん」


 桃比呂が何かしゃべっているのはわかったが、晴子は美しい涙から、なまめかしい唇から目を離すことが出来ず、うわの空で頷いていた。


「晴子さん、本当に?」


「うん」


「また、こうやって会ってもらえますか」


「うん」


 桃比呂はずりずりと膝立ちでにじり寄って来て、晴子の膝に顔をうずめた。晴子は膝にこぼれ落ちる真珠の温かさを感じながら、桃比呂の美しいうなじに見惚れていた。


 桃比呂が泣きやむのを待って、晴子は立ち上がろうとしたが、かなり長い時間、桃比呂の上半身を膝で支えていたために、足がしびれて動けなかった。床に転がって足のしびれを解消しようとしている晴子に、桃比呂がイルカの抱き枕を貸してくれた。

 しびれのなんとも言えない苦痛からは逃れられなかったが、気持ちはだいぶ救われた。晴子がごろんごろん転がって悶絶している間に、桃比呂が冬物の服を袋に詰めてくれた。男装に着替えた桃比呂は夕暮れの駅まで晴子を見送りに出た。


「晴子さん」


 改札を通った晴子を桃比呂が呼び止めた。


「また明日」


「うん」


 肩の荷物をゆすりあげた晴子に笑いかけた桃比呂の目は新月間近の月のように細かった。そこに女装の桃比呂の美しさの名残は見えず、晴子は夢からさめたような気持ちで電車に揺られた。


 ぼろビルのエレベーターを降り通路を歩く。通路を照らすはずの蛍光灯が一本切れていて薄暗い。桃比呂が住んでいるマンションとは大違いだ。

 大きな紙袋を肩にかつぎあげて、そっと鍵を回す。今日も音を立てることなくドアを開けることに成功した。紙袋の音もさせないように、そーっとそーっと廊下を歩く。ダイニングへ続くドアの隙間から明かりが漏れ出ていた。晴子には縁のない、暖かそうな明かり。

 そのわずかな明かりでなんとか離れまでたどり着き、ドアを開けた。そっとドアを閉めて、ようやく大きく息を吐き電気をつけた。


 蛍光灯が白々と光っても、離れはどこか薄暗かった。紙袋を畳に下ろして服を出していると、桃比呂の部屋の良い香りがした。服に鼻をつけて、もっと香りを嗅ごうとしたのだが、あっという間に消えてしまって、いつもの離れのジメジメした昏い空気だけが感じられた。

 美しいものを少しでも離れの空気から遮断しようと、紙袋を急いで押し入れに突っ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る