第2話 一人ぼっちの観覧車

 そんなある日、大学の友人に誘われ安居酒屋で飲むことになった。

 夕方六時までであればハイボールが九十九円という破格の値段のこの店は、ただ酔って騒ぎたいだけの学生たち御用達の店だ。


 いつものメンバーの中に、安達という男がいる。

 この安達、顔は特段良いわけではないのだが、なぜか女が途切れないモテ男だった。

 高校まで男子校で恋愛経験の乏しい俺は、それとなく安達に話しかける。


「安達さぁ、今まで付き合った女でメンヘラみたいな奴とかいた?」


 さも「ただ話題を振ってみました」といったていで聞いたつもりであったが、安達は俺の顔をちらりと見て「はんっ」と大きく鼻を鳴らしてからこう続けた。


「なんだ? 吉村。メンヘラにでも惚れたんか? やめとけやめとけ。メンヘラだけは絶対オススメできねぇよ」


 なんだか馬鹿にされたような口調に聞こえた俺は、少しだけムッとしながら「なんでだよ」と言い返す。


「初めはいいぜ? あいつら寂しがり屋だからよ。機嫌の良いときの猫みたいに甘えてくるしよ。……何より夜が、ホラ」


 安達はいやらしい笑みを浮かべながら顔を寄せて卑猥な言葉を続ける。


「だけどまぁ、だんだんツラくなってくるんだわ。アイツらマジで切ったりするからな」


 そう言って安達は手ぶりで腕を切るような動きをする。


「そんなんが続いてみろ、こっちの精神がまいっちまうぜ。……悪いことは言わないからよ。メンヘラだけはやめとけ」


 そこまで言うと安達は別の友人の話題にするりと入り込んで行った。



 一人残されたような形になった俺は手に持ったハイボールのジョッキをグイっとあおり「……そんなんじゃないけど」と誰に言うでもなく言い訳じみた言葉を吐いた。




 数日後、俺はまた深夜帯のシフトで沙織と一緒になった。


 受付が落ち着いたバックヤードの休憩室では、お互いに確保したマンガをめくる音だけが定期的に聞こえるだけだった。

 俺は悟られないように沙織に意識を向ける。マンガを読んでいる間は集中しているのか、まじまじと見ていたとしても本人は気付かないと思えるような女ではあるが、やはり横目で様子を伺う時は多少緊張してしまう。


「く、黒木さんはお菓子とか好き?」


 意を決して話しかけた言葉は少し震えていて、我ながら情けなくて泣きそうになる。


「はい、嫌いではないです」


 沙織は少しだけ顔を上げてこちらを見るが、俺には「それがどうした?」といったような表情に見えて、逆に沙織から目を反らしてしまう。


「いや、なんか好きな物とかあるのかなーって」


 顔が痺れるように熱い。もしかして今自分の顔は真っ赤に染まっているのだろうかと不安になって、より一層沙織のほうを向けなくなっていた。


「そうですね。……チョコとか。普通に食べますよ」


 本人にその気があるかどうかは分からないが、沙織の口調は話題を膨らまさないようにしているような、そんな雰囲気があった。


「そ、そう。チョコいいよね」


 あわよくば共通の話題でも見つけて、飯にでも誘おうと思っていたが、――正直、完敗だった。


 自分自身のあまりの不甲斐なさにいたたまれなくなった俺は「ちょっと見回り行ってくる」と言ってバックヤードを後にした。


「最悪じゃねぇか、クソ!」


 男子トイレの個室に入って頭を抱える。


 気恥ずかしさと悔しさと不甲斐なさが入り混じって、それがいつしか沙織への八つ当たりの感情に変化していく。


「あの野郎。むちゃくちゃにしてやる」


 いつの間にかギンギンにたぎっていた股間の熱にそそのかされるように、ズボンを下ろして壁に手をついたまま夢中でシゴく。

 脳内では先ほどまで匂っていた沙織の香りと、力づくで服を脱がせ、欲望のまま乱暴をしている妄想で埋め尽くされていた。


 妄想の中の沙織は悦んでいた。力づくで乱暴されて、それでも恍惚の表情を浮かべて「もっと、めちゃくちゃにして下さい」と俺に懇願している。


「クァッ」という南米の鳥のような声と共に、あっという間に俺は果ててしまった。



「何してんだよ……」



 マグマのような欲望が噴火した後には、山の頂上から日没をみているような静かな後悔が押し寄せてくる。


 手を念入りに洗ってから、俺は休憩室に戻った。

 部屋に入ってきた俺を一瞥いちべつすることもなく、沙織はマンガを読み続けている。

 俺は悟られないように小さく息を吐いてから、机に開いて置いていた読みかけのマンガを再び手に取った。


「……アルフォートとか」


 ふいに聞こえた声に俺は顔を上げた。


「アルフォートとか、好きですよ」


 あまりに突然のその言葉に一瞬なんのことかと混乱した俺だが、それが先ほどの質問の答えだと気づいた瞬間、胸がじわりと熱くなった。


「あ、美味しいよね! アルフォート」


 返事にしては少し大きめの音量で俺が言葉を返す。多分いま自分の顔を鏡で見たらめちゃくちゃ気持ち悪い笑顔をしていることだろう。

 そんな俺を見て、沙織が微かに笑った。その笑顔に、すべてを持っていかれた。


 ――あ、好きだ。


 そうはっきりと自覚してしまった。

 蕾だったものが花開いた感覚だった。


 しゃぼんが弾けるように、モノクロがカラーになるように。ある種の爽快感が身体に広がっていく。

 沙織はすでに意識をマンガに戻していた。でも俺は、そんな沙織の横顔を呆けたようにしばしの間眺め続けていた。


 

 それからというもの、俺の頭の中は沙織のことでいっぱいになった。


 彼女の横顔を思い出し、彼女の声を思い出し、彼女の匂いだけは該当の柔軟剤を探り当て、衣服に使うのはバレた時に恥ずかしいからタオルに少量染み込ませて毎晩抱いて眠りについた。


 そこから狙って同じシフトに入るようにした。店長は少し怪しんだかもしれないが、元々出勤の数が多い二人だったので特に何も言われることは無かった。

 そうして同じシフトに入った俺は、タイミングをみつけては沙織に話しかけるようにした。

 住んでいる場所や好きな食べ物、好きな芸人はいるのか、休みの日は何をしているのか。

 その度に沙織はぽつりぽつりと一言二言で返答してくる。でも、それだけでも俺にとっては確かな進展だった。


 そしてある日、思い切って聞いてみた。


「そういえば黒木さんって彼氏はいるの?」


 平然を装ったつもりだったが、喉から心臓そのものが飛び出してくるんじゃないかと思えるほど鼓動は荒ぶり、震えていた。


「……今は、いないです」


 沙織のその言葉に一瞬の喜びと、じくりとした胸の痛みを感じた。「今は」ということはかつては居たということだ。


「あ、そうなんだ。……じ、じゃあ、タイプの人とかいる?」


 俺がそう問いかけると、沙織が俺のほうを向いてしばらく見つめてきた。こちらを見つめる沙織の目は静かで、そしてとても官能的だった。いま彼女はどういう感情なのだろうか。微笑むでもなく、照れるでもなく、ただ俺の目を見つめている。


「趣味が合う人がいいですかね。……あと、私を受け入れてくれる人」


 そう言葉を吐くと、まるで興味が失せたかのように俺の顔から目線を外し作業に戻った。

 俺はというと、今の出来事を消化しきれずにしばしの間呆然と沙織の横顔を見つめていた。


 沼にはまるとはこういうことか。

 ダメだダメだと思うほど、俺はどんどん沙織に惹かれていった。そしてもう一つの欲求が自分の中でどんどん大きくなっていく。それは「手首の傷を見たい」という欲求だ。

 どうしてももう一度あの傷を見たい。確かめたい。それは秘めたるものを覗きたいという欲求、隠されているものを暴きたいという欲求。

 初めから全裸の女よりも、着衣の状態から脱がせたいといった欲情にも似ているかもしれない。


 俺はチャンスを伺い、沙織と共に棚の整理をするといった作業を画策した。

 そしてそれは功を奏し、沙織が高い棚に手を伸ばした瞬間、長袖が少しずり落ち彼女の秘部が顕わになった。

 改めて見るそれは、真横に数本走った細いミミズ腫れのようなもので、傷痕の生々しさ感じさせると同時に俺の胸をひどく躍らせた。


 ――やっぱり、見間違いじゃなかった。


 釘付けになっていたおれの視線に沙織が気付き、慌てて長袖を押さえ傷痕を隠した。


「あ、いや……」


 俺はなんとかごまかそうと声を出すが、その後が続かない。


「……早く、終わらせましょう」


 沙織はぽつりとそう呟くと、今度は長袖に気を付ける様子を見せながら黙々と作業を続けた。

 俺は何も言えないまま、同じく黙って作業に戻った。



 その日のシフトが終わり、自宅に戻った俺は興奮を抑えきれずにすぐさまズボンを下ろした。

 ベッドに倒れ込むと、沙織の傷痕を思い出し必死で手を動かした。


 妄想の中での俺が沙織の手首を舐め回す。愛おしいそれを独占するかのように、よだれを垂らしながらしゃぶりつく。

 一度では満足しきれずに続けざまに二度目の絶頂を迎えると、下半身だけを顕わにした情けのない格好で、泥のように眠りについた。



 いつか、機会を見つけて、沙織に告白をしよう。

 俺はどうしようもなく君に夢中なのだと、熱い思いを伝えよう。

 そんなことを考えていた矢先のことだった。

 ――俺の恋は唐突に終わった。



 その日もバイト先に向かうため、自転車を軽快に漕いでいた。

 秋の訪れを感じさせるような爽やかな風を全身に浴びながら、鼻歌交じりで足を動かす。

 今日は沙織は休みだから、それは少し残念だななんて考えていたその時。

 ふと視界の端に映った光景に、俺の息が止まる。

 

 乱暴にブレーキをかけて急停止したその目線の先に、――沙織がいた。

 そして沙織の隣には見知らぬ男の姿があった。沙織の手はその男の手に繋がれている。

 沙織の表情は穏やかなものだった。楽しそうに笑ったり、恥ずかしそうに照れたりすることもなく、ごく自然に男の隣を歩いている。


 それがなおさら俺の心に痛みを与えた。


 つまり、沙織にとってその男と手を繋いで歩くことは「ごく普通」のことなのだろう。


 鼓動の高鳴りで全身が震える。喉元まで胃液が上がってきている。上手く呼吸が出来ない。

 俺は無意識のうちに胸に手をやり、ぎゅっとシャツを握りしめた。

 奥歯の奥からしょっぱい液体がどんどんと溢れ出してくる。液状になった鼻水が鼻の奥で待機している。

 気を取り直そうと奥歯をぎゅっと噛み締めるが「くはっ」と息を漏らした瞬間、俺の心は崩壊した。


 実はどこかで余裕を持っていた。

 手首に傷のある地味な女。

 そんな女を好きになるやつなんかそうそういないだろうと。

 そして自分なら。自分がちょっと行動すれば。そんな女を口説くことなど容易いことだろうと。

 どこか心の奥底で、油断して、馬鹿にして、格好つけて。

 

 だけど結局この有様だ。


 ぼろぼろと流れ出てくる涙と鼻水を垂れ流しにしながら、ついにはその場で力なく座り込んだ。手放された自転車がゆっくりとした動きで倒れこむ。


 なんだこれは。

 

 まるで一人っきりで観覧車に乗っていたことに気付いたような気分だった。

 話しかけて、沙織との距離が近づいて、景色は確かに変わっていたように感じていたんだ。

 

 だけど結果はどうだ。

 

 俺一人だけが動いている気がしていただけだ。

 観覧車の中から変わる景色を眺めて、だけど自分自身は、俺だけは、実は全く動いていなかったんだ。

 

 ――なんて馬鹿で、情けなくて、みじめな男だ。



 怪訝な表情で通り過ぎる人々の中で、俺は嗚咽を漏らしながら泣いた。

 

 まるで許しを乞うかのように、声を上げて泣き続けた。






 【一人ぼっちの観覧車:終】

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一人ぼっちの観覧車 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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