一人ぼっちの観覧車

飛鳥休暇

第1話 手首の傷

 ナイトパック利用客の受付もひと段落し、俺はバックヤードの休憩室に戻った。

 休憩室の中には椅子に腰かけてマンガを読んでいる黒木沙織がいた。

 ファッション性の一切感じられない銀縁の眼鏡をかけ、静かにページをめくっている。


「お疲れ様」


 俺が声を掛けるとびくりと肩を揺らしてから「お、お疲れ様です」とか細い声で返してきた。


 沙織を一言でいうと「地味」。この言葉を具現化したような女だった。

 大学に通っていると言っていたが、彼女からいわゆる「女子大生」という匂いは感じられない。


 後ろで一つに束ねた今まで一度も染めたことがないような黒々とした髪は、それなりに光を弾いてはいるが、それは例えば美容室で手入れをしているとかそういった類のものではないと思う。

 化粧っけもほとんどなく、しかしそのせいか肌だけは少女のようにハリがあった。


「何読んでんの?」

「あ、……これ、ブリーチです」


 遠慮がちに沙織が表紙を見せてくる。


「前も読んでなかった?」と言いながら俺もバックヤードに確保しているマンガの一つを手に取った。


 小さなネットカフェであるこの店では、ここから朝までは新規の客も少ないだろう。あとはたまに来るシャワー室の利用や返却本の確認などを適当にこなすだけだ。


「はい。あの、好きなんで。何度読んでも面白いです」

 そうぼそぼそと呟くと沙織は視線をマンガに戻した。


 俺はマンガを読むふりをしながら、気付かれないように沙織に目線を向ける。


 とても地味なこの女のことが最近気になっているのは事実だ。

 同じ大学生の俺が言える立場ではないのだが、沙織はひと月を通して非常に多くのシフトに入っていた。

 しかも朝・夕・深夜の時間を問わずだ。

 俺自身は仕事自体が楽な深夜の時間帯を好んで選んでいるが、沙織は女子にも関わらず深夜の時間も嫌がることなく入っている。


 そうして何度も同じ時間に入っているうちに、それなりに彼女のことが分かってきた。

 沙織は自分から話題を振ることはほとんどない。こちらからしゃべりかけると、一言二言返すだけでそこから話が盛り上がることもない。

 教育学部らしいが先生になるつもりもあまりないと言っていた。


 ――そして何より。


 おれは気づかれないように沙織の手首あたりを注視する。

 長袖のワイシャツに隠れてしまっていて今は見えないが、あのシャツの裏、左の手首に傷があるのを俺は知っている。


 横に何筋か走った、切り傷のあとだ。


 ネットなどで目にすることはあったが、初めて実際に自分の目でその痕を見た瞬間は、鼓動が自然と早くなり少しだけ背筋が寒くなった。

 一緒に棚を整理していた一瞬のことだったので、沙織自身は俺がその痕を見てしまったとは気づいていないはずだ。

 しかし、その傷痕を見たその日から、俺の頭の中で沙織の存在が大きくなっていた。


 一見して地味な沙織になぜそんな傷があるのか。

 家で一人でいる時になんとはなしに自傷行為について調べてみた。――そして後悔した。


 出てきたのは見るに堪えない画像の数々。顔をしかめながらスクロールをした。メンヘラやオーバードーズなんて言葉も目にした。


 さらに俺の興味を湧きたてたのは「メンヘラはエロい」という書き込みだった。


 沙織はいわゆるメンヘラなのだろうか。

 あの地味な見た目で実はエロいだなんて、それはそれで興奮するかもしれない。


 そんなことを考えていると、いつの間にか俺の中で沙織の存在がどんどんと大きくなっていき、最近では一緒のシフトになると無意識のうちに彼女を目で追っている自分に気が付いた。




「あ、私見回り行ってきます」


 沙織が読みかけのマンガを机に置き、俺の脇を通ってバックヤードを後にした。ふわりと香ってくるのはいやらしい香水などではなく、柔らかな柔軟剤の香りだった。


 俺は少しだけ大きく息を吸い込み、その香りを堪能する。


 夜の時間帯の見回りなんか適当にしても誰にも咎められないにも関わらず、沙織は生真面目にマニュアルに書かれた通りのチェックをこなし、さらには乱れたところも目ざとく見つけては、整頓をして帰ってくる。

 そんな真面目なところも、今となっては俺のときめきポイントの一つになっている。


 ――どうにかして飯でも誘えないだろうか。


 最近は同じシフトになる度にそんなことを考えている。しかし、共通の趣味なんてものも無さそうだし、会話もさして盛り上がったりしない。そんな状況で食事なんか誘えるはずもなく。

 俺は悶々とした気持ちを抱えながら、沙織との業務を心待ちにしているのだった。


 ******


 バックヤードに戻ってきた沙織が、扉の前で立ち止まりその入り口の鍵を掛けた。

 鍵が掛かる音に気付いた俺は何事かと顔を上げて沙織の方を向く。

 沙織はどこか恥ずかし気に顔を伏せている。


「どうしたの?」


 俺が声をかけると、沙織がゆっくりと俺のすぐそばまで歩み寄ってきた。沙織の柔軟剤の香りが――そう「匂い立つ」とはこういう状況のことなのか。どこか官能的なその香りに、脳みそが溶け出しそうな感覚を覚える。


「な、なに?」


 椅子に座った俺を見下ろすように、沙織が俺の顔を見つめている。その銀縁眼鏡の奥の眼は潤んでいて、やけに色気を感じてしまう。

 戸惑う俺をよそに沙織が制服代わりの白いワイシャツのボタンを上からひとつずつ、ゆっくりと外していく。

 驚きのあまり声も出せない俺の目の前に、薄い桃色の下着が姿を現す。


「ほんとは――」


 沙織が声を出したので俺は目線をブラジャーから沙織の顔へと上げる。


「ずっと私とこういうことしたかったんじゃないですか?」


 そう言って笑う沙織の顔はひどく挑戦的で、そして官能的だった。


 俺は生唾を一つ飲み込み、誘われるまま沙織の胸元に手を伸ばす。グラビアなんかで見るような大きな胸ではないけれど、指先に触れたその肌は驚くほど柔らかく、恐ろしいほどなめらかだった。


 沙織の顔が近づいてきて、優しく俺に口づけをした。――ぴちゃっという音が鼓膜を通り越して脳内に反響する。


 そこでタガが外れたのか、俺は沙織の両肩を鷲掴みにし、夢中でその唇に吸い付いた。

 舌と舌が触れ合った瞬間、体中に電撃が走ったかのような快感を覚えた。

 唇をくっつけたまま、そばにあるソファーに沙織を押し倒す。

 沙織の顔を改めて見ると、ほのかにその目に笑顔を浮かべ、まるでさらにその先を期待するかのような表情だ。


 完全に理性を失った俺は、夢中になって沙織の首筋にかぶりつく。きめ細やかなその肌に舌を這わせる。沙織の息遣いがどんどんと荒くなっていく。


「もっと、……もっと汚してよ」


 頭上で沙織の声が聞こえる。

 俺は乱暴にブラジャーを下げ、顕わになった乳房に顔をうずめる。

 良い匂いがする。良い匂いがする。良い匂いがする。


 *******



 果てる寸前でベッド脇に置いてあるティッシュを乱暴に掴み、股間に当てる。

 短い喘ぎ声と共に、ティッシュの中に独りよがりの欲望を吐き出す。

 息切れにも似た自身の呼吸を聞きながら、しばし呆然とする。


 ――我ながら、酷い妄想だ。


 先ほどまで脳内で演じさせていた沙織の姿を思い出し、苦笑する。

 なにが「もっと汚してよ」だ。


 ティッシュを丁寧に丸めてから、トイレに流す。

 最近はほとんど毎日沙織をオカズにしていた。

 その度に、自分の中で沙織の存在が大きくなってくる。


「あぁ、クソ! ヤリてぇ」


 それを恋心と呼ぶのは、どこか気恥ずかしい感じがして、折り合いをつけるためなのかなんなのか、俺はすべて性欲のせいにすることにした。


 地味でクソ真面目な沙織に恋をしただなんて、なんだか自分が負けたような気がして、そんな気持ちから出た逃げでもあった。

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