ラジオドラマ脚本「夕立列車」

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

人物

長内京介(45)『週刊真実』編集長

新井哲子(25)『週刊真実』記者

阪元綾子(31) 女優。実は長内絵美の妹。

川上駿人(30)『週刊ワケアリ』記者

小学生の駿人(11)

川上 順(58) 駿人の父。新聞記者。故人。

長内絵美(26) 京介の妻。故人。

哲子の父(55) 受刑者。三ヶ月前に獄死。 

運転士(40)

映画監督(55)

芸能記者(35)

長内の友人(45)





  室内(週刊誌編集室)の喧噪。

長内「(電話)睡眠導入剤?」

友人「うん、ネットでさがしているらしいぜ。一応知らせておこうと思ってね」

長内「…ありがとう」


  客車内の喧噪。三十名ほどの乗客がたてる細やかなそそき。

  蝉の声。

  車内スピーカーのノイズ。

運転士「(アナウンス)本日は清津線をご利用いただき誠にありがとうございま

 す。一番線に停車中の列車、十六時丁度発の清津行ですが、本日は二両編成で運

 行しております。先頭より一号車、二号車です。これより冷房運転を行うため一

 旦ドアを閉めます。乗車口右横のボタンを押しますとドアは手動で開けることが

 出来ます。車外にお出になる方はご利用下さい。また、お近くの窓で開いている

 窓がありましたら、閉めて頂きますようお願い申し上げます。発車まで十分ほど

 お待ち下さい。一旦、ドアを閉めます。閉まるドアにご注意ください」

  乗車口ドアが閉まる。

  途絶える蝉の声。

  ディーゼルエンジンが始動し冷房の運転が始まる。

哲子「本日は二両編成って、いつもは一両編成ってことですか?」

長内「だろうな。二両編成の時にしか乗ったことがないから確かなことは言えない

 が」

哲子「編集長、以前この電車に乗ったことあるんですか?」

長内「まあな。あと、これ電車じゃないぞ。気動車きどうしゃっていうんだ。ディーゼル

 エンジンで動いている。屋根にパンタグラフ無かっただろう。昔、ローカル線の

 鉄道は大概たいがいディーゼルカーだった」

哲子「へえ~、ディーゼルカー。ディーゼルエンジンってバスとかトラックのエン

 ジンですよね。そう言われてみると、確かにバスのエンジン音って感じ。運転席

 にアクセルペダルとかあるのかしら。おっと、いけない。ねえ、編集長、通路側

 に座ってて下さいよ。発車ベルが鳴ったとたん、閉まる間際まぎわの乗車口から犯

 人が逃げ去る。刑事ドラマなんかによくあるシーンですよ」

長内「逃げやしないよ。彼女いま、どこに座っている?」

哲子「第二車両最後尾のボックス席、その窓側にお独りでお座りです」

長内「しかもホームの反対側。窓の外に眼をりながら、マッタリとお寛ぎだ。

 ということは?」

哲子「編集長の仰せの通り、逃亡の可能性は限りなく低いです」

長内「あと、もうひとつ。このホームじゃ発車のベルは鳴らない。発車する時は運

 転士が警笛を鳴らす。車掌もいないだろう? 発車準備も車内アナウンスも全

 部、運転士がひとりでやるんだ」

哲子「そう言えば改札もあの運転士さんがやってましたね。へぇ、人件費削減って

 わけですか。でも、けっこう乗客いますよ。これでも赤字路線なのかしら」

長内「客が多いのは九月の初めだけだ。普段の利用客は、町の高校に通う生徒とか

 病院や市役所に用事のある年寄とか、多くても一日三百人ってとこだろう。

 二両編成で走るのも、二百十日前後のこの時期だけ」

哲子「二百十日? 有名な風祭でもあるんですか? 風のぼんみたいな」

長内「いや、風祭なんて話は聞いたことがない。この辺りは台風とはあまり縁がな

 いからね。何故、二百十日前後だけ乗客が増えるのか、『週刊真実』の新井哲子

 記者、君の意見を拝聴しよう。人に訊いてばかりいないで、自分でも考えてみた 

 まえ」

哲子「かしこまりました、『週刊真実』の長内京介編集長。えーと、先ず、前後二

 両の客車のうち、私たちがいま乗っている一号車、つまり先頭車両の乗客は私た

 ちを除いて皆さん地元の方々のようです。従って、二百十日前後の期間限定乗客

 は主に後続車両、つまり二号車に乗車している方々ということになります。二号

 車の乗客は全員、誰と話すこともなく無言で座っています。つまり、ほとんどの

 方がひとり旅と推測されます」

長内「うん」

哲子「私、ひとり旅と申し上げましたが、二号車の網棚には荷物がほとんど乗っか

 っていませんでした。乗客がリュックや旅行鞄を席に置いている様子もありませ

 んし、坂本綾子一人を除けば、よそ行きの格好をしている方もいません。

 観光だとしても一般的な観光ではない様です。ビジネススーツを着た乗客もいま

 せんので、出張という旅の目的も考え難いと思われます。また、お土産を持った

 人も見当たりません。つまり帰省客でもない様です。第一、風の盆ならぬ人の盆

 は二週間前に終わっています」

長内「意外と素晴らしい観察力、そして洞察力だねえ。で、哲子君、結論は?」

哲子「はい、後部車両乗客の目的は、今私たちが乗っているこの列車そのものでは

 ないかと思われます」

長内「これは驚いた。哲子君、キミには優れたジャーナリストとしての素質がある

 ようだ。で?」

哲子「珍しくお褒めの言葉、ありがとうございます。最終的に、次のような結論に

 達しました。この列車は、むかし懐かしいディーゼル気動車です。つまり、後部

 車両の乗客約三十名は、レトロな鉄道の乗車を目的とするてっちゃんすなわち鉄道オタ

 クと思われます。二百十日にこだわるのは車両型式の数字と一致するからで

 はないでしょうか。キハ210とか」

長内「(ため息)お前って、本当に優秀なジャーナリストだよね。但し週刊誌限

 定」

哲子「有難うございます。当りですか? 鉄道オタク」

長内「お目当ての列車に乗りたくて乗った鉄道ファンがあんな神妙な顔して座って

 いるかよ。カメラも時刻表も持ってないし」

哲子「じゃあ、あの人たち、なんでこの列車に乗ってるんでしょう」

長内「まあ、今にわかるよ」

哲子「そうそう、この路線、清津線って名前ですよね」

長内「そう、清津線。『清い』に津津浦浦の『津』って書いて清津」

哲子「へえ。サンズイが付いた漢字を並べて地名にしているってことは、近くに広

 い川とか湖とかあるんでしょうね、きっと」

長内「取材に行く場所の地理くらい調べておけよ。雑誌記者なんだから」

哲子「だって、昨日の夕方ですよ。編集長がついて来いって私に言ったの」

長内「あのね、雑誌記者は常在じょうざい戦場せんじょう。二十四時間営業なの」

哲子「はいはい。ちょっとスマホで検索してみますね、この辺りの地理情報」

  携帯端末の操作音。

哲子「あっ、やだぁ、電波来てない。ああ、そうか。それで坂本綾子、ここを逢引

 の現場に選んだんだ。情報化社会といわれる現在、お忍びで行く場所の絶対条件

 は、携帯がつながらないこと」

長内「日本国中どこだって、電源切っとけば携帯はつながらないんじゃないの? 

 彼女、人に会いに来たわけじゃない、と俺は思うけどね」

哲子「だって、色恋いろこい沙汰ざたの総合商社という異名をもつ元アイドル・阪元綾子が、

 変装してひとり旅ですよ。密会みっかいという目的以外ありえないでしょう。第一、

 今まで坂元綾子にだけは見向きもしなかった『週刊真実』の編集長・長内京介

 が、優秀な部下同伴で自ら取材にお出ましなんだから。来週号のヘッドは 

 『女優阪元綾子、その逢引現場を直撃』できまりです」

長内「優秀な部下って、お前のことか。まあ、どうでもいいけど、アイビキとかチ

 ョクゲキとか、ふる過ぎないか、そのヘッド。見出はこう直した方がいい。

 『傷心しょうしんの女優、夕立列車に乗る』」

哲子「夕立列車?」

  車内スピーカーのノイズ。

  多少静まる車内。

運転士「(アナウンス)乗車口ドアが開きます。開くドアにご注意ください」

  乗車口が開く。

運転士「(アナウンス)まもなく一番線より清津線十六時発清津行きが発車しま

 す。ご乗車の方はお急ぎ下さい。(肉声)お客さーん、急いで下さい」

川上「(第二車両入口ドア)すみません」

運転士「(肉声)前方よし、後方よし。(アナウンス)ドアが閉まります。閉まる

 ドアにご注意下さい」

  ドアが閉まる音。ディーゼル車発車音。

  レールジョイント音の間隔が徐々に短くなってゆく。


  二号車の乗客同士の話し声は無く、響くのは列車の走行音のみ。

川上「ふぅっ、間に合った。おっと、すみません」

  揺れる車内を歩く川上の足音。

  足音に乱れがある。

  歩みをとめるが、

川上「あれっ?」

  さらに歩く川上。

川上「ここ座っていいですか?」

綾子「どうぞ」

川上「坂本さん、妙な所で逢いましたね」

綾子「えっ?」

川上「川上ですよ」


  一号車の細やかな喧噪(二号車より多少騒がしい)

哲子「ほうら案の定、発車直前、男がとび乗って坂本綾子の前に座ったわ。

 噂の花島正也は今ニューヨークだから、二股ふたまた交際こうさい? これはスクープで

 すよ、編集長。私の女の勘、信じてくれました?」

長内「彼は同業者だよ」

哲子「同業者?」

長内「そう、『週刊ワケアリ』の記者」

哲子「えっ、『週刊ワケアリ』って、あのエゲツナいスキャンダルとゴシップで売 

 っている週刊誌」

長内「そう、うちと同じエゲツないスキャンダルとゴシップで売っているうちのラ

 イバル誌。そこの川上駿人かわかみはやとって記者」

哲子「川上? あの人が、食らいついたら雷が鳴っても離れないっていう…」

  

  列車の走行音だけが響く二号車(人の話し声は全くない)。

川上「スッポンの川上ですよ」

綾子「ああ、週刊…ごめんなさい、何でしたっけ?」

川上「週刊『ワケアリ』です」

綾子「そう、週刊『ワケアリ』のスッポン記者さん」

川上「僕の事、ご存じなんだ。光栄だな」

綾子「貴方を知らない芸能人なんかひとりもいないわ。スッポンさん」

川上「できれば『スッポンの川上』とフルネームで呼んでくれませんか。『スッポ

 ン』抜きの『川上』だけでもかまいませんが」

綾子「ごめんなさい、川上さん。お世話になっています、と言うべきかしら。

 いつもいつも私のことを面白可笑しく書いてくれてどうもありがとう。今日

 は私をツけていらしたの? 巧くマいたつもりだったんだけど。変装だって完

 璧だし」

川上「ご忠告申し上げますが、変装なさるんだったら、そんなシックなブランド物

 はお召にならない方がいい。目深にかぶったつばひろ帽子にサングラス…

 オードリー・ヘップバーンかと思いましたよ」

綾子「そうかしら。だって、いくら変装だって言っても、ジーンズに地味なTシャ

 ツってわけには行かないでしょ? これでも一応、女優なんだから」

川上「だから、女優に見えないようによそおうのが変装なんですって」

綾子「そうかなあ。完璧な変装だとおもうんだけど」

川上「はいはい。まあ、僕以外の人には気づかれていないようだし、いいんじゃな

 いですか? 実を言うと、僕、今日は仕事じゃないんですよ。貴女とは偶然乗り

 合わせただけ。綾子さんこそ、こんな田舎に何で? 噂の彼は、今ニューヨーク

 のはずじゃ?」


  一号車内の細やかな喧噪。

哲子「あのスッポン記者、阪元綾子と話し始めたわ。突撃インタビューか。

 あーあ、先越されちゃった」

長内「彼は取材に来たんじゃないよ。カメラもボイスレコーダも持っていない」

哲子「じゃ、あのスッポンさんが阪元綾子のお相手ですか?」

長内「いや、それも違う」


  二号車。

綾子「私、死のうと思って来たのよ」

川上「えっ?」

綾子「この鉄道の終点、有名な自殺の名所なんですってね? 清津きよつでしたっけ?」

川上「そう清津です。自殺って、本当に?」

綾子「冗談よ。でも、一寸ちょっと考えているかも」

川上「よして下さいよ。貴女に死なれたら、我々ゴシップ記者は飯の食いあげだ」

綾子「独りになりたかっただけ」

川上「今回の映画出演の件が可成かなこたえているようですね?」


  カメラシャッター音。

記者「監督、今回の作品、評論家の先生方にはあまり評判が好くないようですが」

監督「ああ、興行成績だけは抜群だけどね。作品的には失敗と云われても仕方な

 い。反省してるよ」

記者「ズバリ、失敗の原因は何だと思われますか?」

監督「俺の監督としての力量りきりょう不足かな。好い脚本ほんだったんだけどね」

記者「キャスティングミスが無ければ、カンヌの審査員賞くらいは獲れたんじゃな

 いかという評論家もいますが、監督はどう思います?」

監督「キャスティングミス? 綾ちゃんのことを言っているの? あんまり彼女い

 じめないでくれよ。彼女なりに一生懸命やってるんだから。まあ次回作に期待し

 て下さい、ってとこかな」

記者「監督は、次回作にも坂本綾子さんを起用するおつもりなんですか」

監督「そのつもりだけど。そりゃあ彼女、芝居が上手とはお世辞にも言えないけど

 さ、演技力だけが女優じゃないだろう」

記者「その阪元綾子さんですが、今回共演した花島正也さんとの熱愛報道につい

 て、監督はどう思われますか」

監督「おいおい、今度のお相手は花島君なの? 綾ちゃんも恋多き女だねぇ。

 まあ、映画の宣伝になるから俺はいいんだけど。そうだ。今度は俺と綾ちゃんの

 仲を噂にしてくれよ。綾ちゃんと俺、けっこう仲いいんだよ」

記者「そんなこと言って、恋女房の奥さんに怒られますよ」

監督「大丈夫だよ。俺と綾ちゃんの不倫なんて天地がひっくり返ってもありえない

 とカミさん思ってるから。事実そうだけど。君たちだってそう思ってるだろう」

記者「はい、その件については我々も確信しています」

監督「おい、はっきり言い過ぎだよ」

  満場の笑い声。


  列車の走行音のみが響く二号車。

川上「花島さんとの噂、本当なんですか」

綾子「やっぱり貴方、お仕事で来てるんじゃない」

川上「申し訳ない。つい何時もの癖で」

綾子「撮影中に一寸話をしただけで、何であんな大騒ぎされるのかなぁ。でも仕方

 ないか。私、そんなことでも無かったらとっくに世の中から忘れられているも

 の。スキャンダルで食いつないでいる元アイドル、それが私の現実」

川上「なんか投げりですね。綾子さんらしくない」

綾子「私、演技の才能無いの。みんなそう言ってるわ。川上さんだってそう思って

 るでしょ?」

川上「まあ、そう思っていないと言ったら嘘になりますけど。あっ、失礼」

綾子「いいのよ。監督もスタッフの人たちも私にお芝居の才能がないことなんか百

 も承知。でも、私の素人みたいな芝居を見て誰も何にも言わないの。みんなすご

 く優しくて、それが私にはかえって苦痛なのよ。クランクアップの時、スタッフ

 が花束をくれるでしょ。あの時のみんなの拍手と笑顔が、私、一番つらい」

川上「人気はあるのに本人は演技力のない自分を許せない。日本版マリリン・モン

 ローですか。芸能記事のネタとしては面白いですけどね」

綾子「私は面白くないわ。私ね、ちいさいころ、観光バスのガイドさんになりたか

 ったの。今の私は、観光案内も出来ない、歌も歌えない、そんなバスガイド」

川上「でも、バスガイドの貴女目当てにバスに乗ってくれる客は大勢いる」

綾子「ええ、私、ファンには感謝してるわ。本当に感謝している」

川上「バスの乗客だけじゃない。旅行会社もバスの運転手もみんな貴女をバスガイ

 ドに指名する。貴女は観光案内も満足に出来ないし歌も大して上手くない。

 でも、そんな貴女は何故か一番人気のバスガイドだ。何でみんな、貴女のバスに

 乗りたがるんでしょうね」

綾子「あなた達が面白がって話題にしてくれるからでしょ?」

川上「いや、ただ単に、貴女がバスガイドをしているバスは乗っていて楽しいか

 ら、それだけのことじゃないかな。観光案内が下手でも、うまく歌えなくても」

綾子「えっ?」

  

  警笛。圧される列車の走行音。

  列車がトンネルに入ったのだ。

哲子「わぁ、トンネル。ねえ編集長、編集長はトンネルって怖いと思います」

長内「唐突に何だよ。別に、トンネルが怖いと思ったことはない」

哲子「ですよね。私もトンネルが怖いと思ったこと一度もないんです。何故かし

 ら。私、暗いとこ嫌いなのにトンネルだけは例外なんですよ。トンネルって、

 何故かワクワクするんです」

長内「真っ暗闇からスポッって明るさの中に抜け出る時の快感。そんなものへの

 期待があるんだろうな。絶望と不安の後に必ず来る希望、みたいなものをトンネ

 ルは象徴しているのかもしれない」

哲子「編集長って、けっこう哲学者なんですね。おっといけない。お仕事、お仕

 事。こんな人気ひとけのない所にスキャンダルの総合商社って呼ばれている元アイド

ルが独りで来る理由って、逢引きじゃなかったら何なんですかね。いま流行の

 B級グルメかな?」

長内「何で女優がお忍びでB級グルメ食いに来なきゃいけないんだ」

哲子「坂本綾子は、一応シリアス系女優ですよ。その彼女があんかけスパゲッティ

 とかトロロご飯入りカレーうどんとか食べて『どえりゃあ美味いがね』とか言っ

 たらイメージぶち壊しだがね。お忍びで旅するのは、シリアス系女優というイメ

 ージを保全するため」

長内「お前、ジャーナリストより小説家に向いてる。ただし、お笑い小説な」

哲子「じゃあ、何をしに来たんですか? 坂本綾子は」

長内「洗い流しに来た」

哲子「洗い流す? 何を」

長内「迷い、かな?」

哲子「迷い? どんな?」

長内「生きるべきか死ぬべきか」

哲子「ハムレットかよ。迷いと言えば、当然三角関係でしょ。どっちの男を選ぶべ

 きか、とか」

長内「哲子君、君はどうしても色恋いろこい沙汰ざたに話をもって行きたいようだね」

哲子「はい、コテコテのゴシップ記者ですから」

長内「(ため息)見上げた心掛けだ」

  列車がトンネルから出る。


  ディーゼル車の走行音。

綾子「トンネルを抜ければ、少しは景色が好くなるかなって期待したけど、かわり

 映えしない風景ね。この辺に名所旧跡とかあるのかしら?」

川上「綾子さん、この列車に乗るの初めてですか?」

綾子「ええ」

川上「ということは、今日十六時発のこの列車に乗って清津に行ってみろって、

 誰かに言われて来た?」

綾子「ええ、そう」

川上「綾子さん、さっきの話、冗談じゃなかったんですね」

綾子「さっきの話って?」

川上「死のうと思っているって話」


  車内の細やかな喧噪

哲子「編集長、降りる気配が全く感じられませんけど、坂本綾子はどこの駅で下車

 するんでしょうね」

長内「清津という駅まで行く。この路線の終点だ」

哲子「何でわかるんですか?」

長内「俺たちが買った清津までの乗車料金はいくらだった?」

哲子「ちょうど五百円でした」

長内「終点清津以外の駅までの乗車賃は、百三十円、二百九十円、三百三十円、

 とキリの良い金額ではない。坂本綾子は切符を買う時、硬貨を数えなかった。

 そして、お釣りを受け取っていない。つまり、五百円玉一枚で五百円の切符を

 購入したということだ」

哲子「シャーロックホームズみたい。素晴らしい観察力、そして洞察力です、編集

 長」

長内「俺を褒めてもお前の給料は上がらん」

哲子「そんなこと言ってると、誰もめてくれなくなりますよ。さっき編集長、

 洗い流しに来たっておっしゃったでしょ? 清津に温泉でもあるんですか? 幻の秘

 湯みたいな」

長内「清津に温泉は無い」

哲子「じゃ、滝? 修験者が水に打たれて修行する、そんな滝」

長内「それもない。いや、滝か、ちょっと近いかな? 伝説がひとつある。

 ありふれた伝説だけど」

綾子「伝説?」

長内「弘法こうぼう伝説でんせつって聞いたことあるだろ? 弘法も筆のあやまり、の弘法だ」

哲子「弘法伝説? 弘法大師こうぼうだいし空海くうかいが諸国を旅して巡り、りの田畑に雨を降らせ

 たり物のを退治したりって、あれですか?」

長内「そう、清津の伝説も弘法伝説の一つだ。こんな話だ。むかしこの辺りに小さ

 な湖があった。澄んだ水を静かにたたえた美しい湖だ。その湖には、湖面すれ

 すれの高さに、人が一人やっと通ることができるくらいの幅の狭い吊り橋が掛か

 っていた。その吊り橋を旅人が渡る。橋の中ほどで、旅人は湖面に目をる」

哲子「すると、眼がくらんで湖の底に吸い込まれてしまう。よくある話ですね」

長内「吸い込まれて、じゃなくて、自分でとびこんでしまうんだ」

哲子「(声の調子を暗くして)自殺…ですか?」

長内「湖面を見ていると、世の中の嫌なことや辛いことばかり思い出されて、生き

 ているのが辛くて辛くて仕様がなくなる。ついには橋から湖に身を投げる」

哲子「(暗く)湖には魔物がんでいた?」

長内「そうだ。湖には人生をおっり出したくなるほどに人を寂しくさせる魔物が

 棲んでいて、彼の姿を見る旅人達をマインドコントロールし彼らを死の淵に引き

 ずり込んでいた」

  ディーゼル車がクラッチを外す音。

  エンジンの回転数がおちる。

運転士「(アナウンス)間もなく、遍照へんじょうどまり、遍照泊です。遍照泊には、一分ほど

 停車します。遍照泊を出ますと次は金剛沢こんごうさわに停まります」

哲子「もしかして、向こうの客車の乗客は、みんなその湖がお目当て? 自殺志願

 者なの?」

長内「自殺志願者…そうかもな」

哲子「編集長は、自殺しようとしたことありますか?」

  ブレーキをかけ始めるディーゼルカー。

長内「自殺?(間)一度だけ、考えたことがある」

哲子「えっ」


  花火の打ち上げ音。

絵美「きれい」

  花火の笛音(ヒュー)。続いて開花音(ドーン)。

絵美「人生は花火のようだって誰かが小説に書いてなかったっけ?」

長内「芥川竜之介だろう」

絵美「あっ…」

  次の花火開花音。次の花火の開花音。

絵美「まるで人生の追いかけっこをしているみたいね」

  また次の花火。

絵美「私ね、赤ちゃん出来たみたい」

長内「えっ」

  次の花火。

絵美「お医者さんは産まないほうがいいって言うの。私の心臓は出産に耐えられな

 いだろうって」

長内「俺は子供なんか欲しくない」

絵美「本当は欲しいんでしょう?」

長内「俺は、君と二人で暮らせればそれでいい」

絵美「私は産みたい。私、お母さんになりたいんだ」

  絵美の意志の強さを象徴するような花火の大音響。


  ディーゼル車のブレーキ音

運転士「(アナウンス)遍照泊、遍照泊です。右側のドアが開きます。開くドアに

 ご注意ください」 

  ドアが開く。車内に入る蝉の声。

運転士「(アナウンス)遍照泊には一分ほど停車します」

哲子「ねえ、編集長」

長内「えっ?」

哲子「もしかして、十五年前に亡くなった奥さんのこと考えていました?」

長内「まあな」

哲子「あっ、ごめんなさい。編集長の前で亡くなった奥さんの話、しちゃいけない

 って編集部のみんなに言われていたんです。すみませんでした」

長内「別に、構わないよ」

哲子「奥さんを愛していたんですね」

長内「うん」

哲子「うちが坂元綾子を記事にしないのは、坂元綾子が編集長の亡くなった奥さん

 に似ているからって、本当ですか?」

長内「うん、確かに似ている。そっくりだ」

哲子「ごめんなさい。馬鹿なことを訊いちゃって」

長内「いいんだ。あいつのことも子供のことも、俺はみんな忘れた」

哲子「(小声で)うそつき」

運転士「(アナウンス)お待たせしました。間もなく清津行きが発車します。

 次は金剛沢に停まります。閉まるドアにご注意下さい。(肉声)前方よし、

 後方よし」

  警笛。

  ドアが閉まる音。ディーゼルエンジンに負荷がかかる。


  ディーゼルカー走行音。

綾子「川上さんだって、死にたいと思ったことあるでしょ?」

川上「ありますよ」

綾子「何故、死にたいと思ったの?」

川上「生きていても仕様がない。そう考えたんです」

綾子「仕事に失敗した? それとも失恋?」

川上「仕事の方です。でも、失敗したわけじゃない」

綾子「もしかして、私と同じ理由? もっとも、私が失恋で自殺なんてことはあり

 得ないけど」

川上「自分に失望したんですよ。それで、生きていても仕様がないと思った」

綾子「やっぱり私と同じ理由ね。生きていても仕様がないなら死ぬしかないわ。

 どうして、死ななかったの?」

川上「延期したんです」

綾子「死ぬのを?」

川上「いいえ、どちらにするか決めるのを延期したんです。死ぬか生きるか」

綾子「まだ決めてないの?」

川上「ええ」

綾子「私は、どっちにしたらいいと思う?」

川上「迷っているんですか? 生きるべきか死ぬべきか」

綾子「さっきまでは迷っていなかったんだけど、今は、迷ってる。川上さんが余計

 なこと言うから。ねえ、どっちにしたらいいと思う?」

川上「それは、貴女が決めることです。少なくとも僕が決めることじゃない」

綾子「決められないから訊いているのよ」

川上「なら、決めなきゃいい。今直ぐに決める必要はないんでしょ? だったら僕

 みたいに決断を先送りにすればいい」

綾子「何かそれって、優柔不断ゆうじゅうふだんって感じがする」

川上「優柔不断? 臨機応変りんきおうへんと言って欲しいな」

  近づく踏切の警報音。

綾子「あら立派な踏切。あんな草ボウボウの道、誰も通らないでしょうに、踏切な

 んか、必要ないんじゃないかしら」

川上「昔は車や人が行き来していて、あの踏切も役に立っていたのかもしれないで

 すね。この辺りが開発されれば、再た役に立つことがあるかもしれない」

  踏切を過ぎる列車。

  周波数を下げ遠ざかる踏切警報音。


川上(小学生)「僕のお父さんは、今年、日本一の新聞記者しかもらえない賞を受

 賞しました。僕の夢は、お父さんのような立派なジャーナリストになって、社会

 の役に立つことです」

  カーブにさしかかる列車の音。

  大きくなるレールジョイント音。


  車内の喧噪

哲子「編集長、スッポンさんと綾子さん、何かとても親密って感じなんですけど。

 やっぱりあの二人、男女の関係じゃ」

長内「いや、偶然同じ列車に乗り合わせた、それだけの関係だろう。悩みも同じ。

 そんなとこかな?」

哲子「悩み? そうか、スッポンの川上も恋に悩んでいるんだ」

長内「あのね、コテコテのゴシップ記者さん、先ずその、全てのストーリーを

 色恋沙汰いろこいざたに還元しようとする強烈な先入観を何とかしたまえ」

哲子「すみません。ついつい」

長内「昔の新聞記者で川上かわかみじゅんって人を知っているか」

哲子「川上順? 馬鹿にしないで下さいよ。私、これでもジャーナリストの端くれ

 ですよ。日本の良心と云われた伝説の新聞記者・川上順を知らないわけ…

 カワカミ? それじゃ、あのスッポンさん」

長内「川上順の一人息子だ」


  警笛、ディーゼルカー走行音

綾子「ねえ、川上さん、貴方は何でこの列車に乗っているの? 私を追いかけてき

 てくれたんじゃないみたいだけど」

川上「実はね、僕、二度目なんですよ。この列車に乗るの。一度目は去年の今頃」

綾子「去年?」

川上「ええ、一年前この列車に乗った理由はさっき話しました。今綾子さんがこの

 列車に乗っている理由と同じです」

綾子「死のうとしていた」

川上「ええ、正確に言うと、生きるか死ぬかを決めようとしていた。ほぼ後者に決

 めていましたけどね」

綾子「でも止めた」

川上「ええ、だから今こうして生きている。さっき言ったでしょ。一年延期したん

 です。生き死にを考えることをね」

綾子「じゃあ、もしかして再た考えるかもしれないってこと? 生きるか死ぬか

 を」


  一号車。車内の喧噪

哲子「編集長、弘法伝説の続きは?」

長内「ああ、続きね」

哲子「わかった。弘法大師は湖の魔物と戦ってそいつを退治しました。そして、

 自殺の名所という湖の汚名をそそいでくれたんですね」

長内「その通り。でも空海さん、その魔物と格闘したわけじゃない。妨害工作をし

 ただけだ」

哲子「妨害工作?」

長内「そう、雨を降らせた」

哲子「雨、ですか?」

長内「水面に魔物の姿が現れる。それを見た旅人が世を果無はかなんで湖に身を投じ

 ようとする。すると、雨が降って来る。雨粒あまつぶが湖面にあたる」

哲子「わかった。無数の雨粒が波紋をつくって水面に映った魔物の姿をぼかして

 しまう」

長内「その通りだ。魔物が旅人を水中に誘い込もうとするときまって雨が降る。

 そして雨粒が水面に映った魔物の姿を消してしまう。以来、この湖で命を絶と

 うとする旅人はひとりもいなくなった」

哲子「なるほど。でも、その弘法伝説と女優坂本綾子のハムレット的悩みとがイマ

 イチ結びつかないんですけど」

長内「女優阪元綾子は、魔物の姿を見にきた。そしてそれを消しに来た」

哲子「今度はぜん問答もんどうかい。自殺未遂を体験しに来たということ? でも、

 自殺未遂を体験させてくれる湖はまだあるんですか?」 

長内「もうないよ。近くにダムが出来てね、湖は干上ひあがっちゃたんだ。だが、

 旅人の自殺幇助ほうじょを唯一の生きがいとしている魔物は未だ亡びていない。湖が

 干上がっても、死にたがっている人間や死んでもいいと思っている人間はいる」

哲子「(暗い声で)死にたがっている人間や死んでもいいと思っている人間?」

長内「(間)お前はどっちだ」

哲子「えっ?(間)編集長、編集長は今日、どうして私を連れてきたんですか。

 私は、いま取材中の記事、今日、書きあげるつもりだったんですよ」

長内「『蔓延まんえんするネット自殺、使われる薬物の入手ルートを探る』って記事か。

 お前、俺に黙って睡眠導入剤や青酸カリの入手ルートを探っていただろう。

 そんなものを手に入れてどうするつもりだった」

哲子「実際に入手できるかどうか試してみたかっただけです」

長内「嘘をつくな。お前がやっていたことは取材じゃない。私的情報の収集だ」

哲子「私は…」

長内「さっきの俺の質問に答えろ。死にたがっている人間か死んでもいいと思って

 いる人間。お前はどっちだ」

哲子「私は…」

長内「俺は三流のライターだが、文章を読めば、それを書いた奴が楽しく暮らして

 いるかどうかくらいの事はわかる。この頃、お前はやけっぱちで記事を書いてい

 る。世の中なんてどうなったってかまわない。どうなろうが自分の知ったことじ

 ゃない、そんな記事をお前は書いている。(間)お父さんが亡くなったことを、

 なぜ俺に言わなかった」

哲子「ご存じだったんですか。普通の死に方じゃなかったので黙っていました。

 お葬式も挙げられなかったし」

長内「俺が知らないと思っていたか、お前とお父さんの事」

哲子「ご存じかもしれない、とは思っていました」

長内「十年前、お前のお父さんの事件を記事にしたのは俺だ」

哲子「知っています。私は、その記事を読んで『週刊真実』の記者になろうと思っ

 たんです」


  鉄扉てっぴが閉まる音(刑務所のイメージ)

哲子「お父さん、私、雑誌の記者になったんだよ」

哲子の父「アナウンサーになりたかったんじゃなかったのか?」

哲子「本当はね。でも…」

哲子の父「受刑者の娘を雇ってくれる放送局なんかあるわけないよな。哲子の人生

 まで台無しにしてしまったようだね。すまない」

哲子「お父さん、私の人生はお父さんのせいで台無しになるようなヤワな人生じゃ

 ないわ。だから気にしないで。『週刊真実』って週刊誌、お父さん知ってるでし

 ょ。お父さんのことを極悪人呼ばわりしなかった唯一の雑誌だった。そこの記者

 になったの」


  車内の喧噪

哲子「被害者の側にも立たず父の側にも立たず、一切の感情を排して父の事件の

 真相を伝えていたのは『週刊真実』だけでした」

長内「一切の感情を排して、か。残念ながら、それが、うちが発行部数を伸ばせな

 い最大の理由だ」

哲子「私が受刑者の娘だってことは何時知ったんですか?」

長内「お前が入社した時だ。うちみたいな三流出版社だって、入社希望者の身上調

 査くらいはする」

哲子「受刑者の娘だとわかっていて私を雇ってくれたんですか」

長内「お前を雇うのを決めたのは社長だ。これも何かの縁だろうって言ってな。

 俺はお前を推薦しただけだ。悪かったか」

哲子「いえ。ありがとうございます」

長内「三年前、俺は刑務所に行って、お前のお父さんに会ってきた」

哲子「刑務所に? 私のことを訊きに?」

長内「いや、ただの追跡取材だ」

哲子「追跡取材?」

長内「三流週刊誌の記者のくせに一端のジャーナリスト気取りかよと笑われるかも

 しれないが、俺はどんな記事も書きっぱなしにはしない」

哲子「父は、私の事、何か話しました?」

長内「お前が自分の娘だってことを俺に知られたらまずいと思ったんだろうな。

 面会時間が終わるギリギリになって『私、娘が一人いるんです』って言うんだ」

哲子「編集長が私のことをご存知かどうか探りを入れようとしたんですね」

長内「うん。『娘さんは、私の部下です』と言ったら動揺していたよ。面会室のア

 クリル窓越しに、娘をよろしくお願いします、と泣いて頼まれた。俺は、思わず

 『承知しました』と言ってしまった」


  エンジンの回転数がおち、

  レールジョイント音の間隔が徐々に長くなってゆく。

運転士「(アナウンス)間もなく、金剛沢、金剛沢です。金剛沢の次は、田之沢に

 停まります」

綾子「それで川上さん、もう決めたの? 生きるか死ぬか」

川上「生きるか死ぬかについての判断は、また今年も延期する予定です。今度は二

 年くらい延期することになるかな。日本を出たらしばらくここには来られないから」

綾子「えっ?」

川上「僕、先週、会社を辞めたんですよ」

綾子「会社を辞めて日本を出る? 海外へ行くの?」

川上「ええ、書いてみたい記事があってね。残念ながらゴシップじゃないですよ。

 得意分野以外でもスッポン取材をやってみたくなったんです」

  ディーゼル車がクラッチを外す音。

  ディーゼル車のブレーキ音。


運転士「(アナウンス)金剛沢、金剛沢です。右側のドアが開きます。開くドアに

 ご注意ください」 

  ドアが開く音。

  蝉の声。

哲子「私が受刑者の娘だったこと、編集部の人たちは、知っているんですか?」

長内「社内で知っているのは社長と俺だけだ。もっともそんなこと気にするような

 ナイーブな奴は、うちの編集部には一人もいないけどな」

哲子「そうですよね。(間)父が受刑者だったことで、私は人並みの人生は送れな

 いと思っていました。まともな就職も出来ないだろうし、結婚も無理だろうっ

 て。父を恨もうとしたこともあります。でも私にはそれもできませんでした。

 母と私を心から愛してくれた父です。家族だけじゃありません。誰にでも優しく

 て、周りの人たちからも慕われていました」

長内「お父さんの人となりは、直接話してみてよくわかったよ」

哲子「私は父が大好きでした。どうしても父を責めることはできませんでした。

 世界中の誰が父を嫌っても、私だけは父を好きなままでいよう。そう決めていた

 んです。父が受刑者だという事実が明るみに出ることも最初は怖かった。

 でも、犯罪者の家族への偏見も差別も、それがどんなに辛くても私が父を愛して

 いる限り受け入れられる。そう信じていました。父が受刑者だった事は何れみん

 なに知られるだろう。その時はその時だ。堂々と居直ってやる。そう決めてもい

 ました。でも、獄中死した父の遺骨を受け取って帰るとき、ふと思ったんです。

 私、生きていて何になるんだろうって。父はもう死んでしまった。もう私が生き

 ていなきゃいけない理由はない。私が生きている意味もない。父の事件の一年後

 に母は自殺しました。私、思いました。今度は私が死ぬ番だ」

運転士「(アナウンス)お待たせしました。間もなく清津行きが発車します。

 次の停車駅は田之沢たのさわです。閉まるドアにご注意下さい。

(肉声)前方よし、後方よし」

  警笛。

  ドアが閉まる音。負荷がかかるディーゼルエンジンの音。

長内「お前いま、本当に死んでもいいと思っているのか」

哲子「はい」

長内「嘘をつくな」

哲子「嘘じゃありません」

長内「俺は女房に死なれた。子供も、生まれてくることはなかった。俺は物心つい

 た頃から今まで、一旦引き受けた頼まれごとを反故ほごにしたことは一度もない。

 この上、面倒めんどうを引き受けたお前にまで死なれたら、俺の気持ちはどうなる。

 お前は、人一倍、人の気持ちを思い遣ることのできる人間だ。俺はそう信じてい

 る。(間)『私は死にません』と言え」

哲子「いえ、私は…」

長内「『私は死にません』と言え」

哲子「私(間)死にません」

長内「そんな辛気臭しんきくさい顔で言うな。いつものアホっぽい笑顔で言え」

哲子「(泣き声)私、死にません。私、死ぬつもりはありません。私が死にたいな

 んて思うわけないじゃないですか」

長内「よし、じゃあ、移動するぞ」

哲子「ええ? どこに行くんですか」

長内「綾ちゃんのところだ」

哲子「綾ちゃん?」

  

  揺れる車内を歩いて行く長内の足音。

  長内を追う哲子の足音。

哲子「編集長、待って下さいよぉ。(小声で)私の生き死にの話はあれで終わりか

 よ。何が『私は死にませんと言え』だ。誰が死んでやるもんか。二百歳まで生き

 てやる」

  車両間のドアを開け、長内を追う哲子。

  列車の走行音。

長内「綾ちゃん、お久しぶり。川上君も」

綾子「あら、何でこの列車に乗ってるの? 観光旅行?」

長内「俺、今日は綾ちゃんのパパラッチ。向こうの車両から、ずっとこっちを見て

 いたんだけど、気づいてくれてなかったみたいだね」

綾子「気がつくわけないでしょ。同じ列車に乗ってるなんて夢にも思っていないも

 の。声をかけてくれればよかったのに」

長内「ゴシップ記者はお忍び旅行中の取材対象に声なんかかけないよ」

川上「長内さん、お世話になってます」

綾子「川上さん、お義兄にいさんと知り合いだったの?」

川上「ええ、一応、同業者ですからね」

哲子「(追いついて)ちょっと編集長、私をおいて勝手に行かないでくださいよ

 ぉ。あっ、坂本綾子さん、こ、こんにちわぁ。川上さんも、初めまして」

川上「今日は」

綾子「こんにちは。哲子さん、よね?」

哲子「綾子さん、何で私の名前、ご存知なんですか?」

綾子「編集部の紅一点だって、お義兄さんに伺っているわ」

哲子「おニイさん?」

川上「長内さん、綾子さんにこの列車のことを教えたの、長内さんだったんです

 ね?」

長内「まあね」

哲子「あの、話が全然みえないんですけど」

綾子「お義兄さんも哲子さんもお掛けになったら?」

哲子「ありがとうございます、って、何で編集長が、おニイさん?」

川上「綾子さんのお姉さんが君のボスの奥さんだった。そういうことだ」

哲子「編集長、本当なんですか?」

長内「まあな」

綾子「哲子さん、貴女、それ涙の後じゃない? 泣かされたの? お義兄さんに」

哲子「はい、泣かされたんです。編集長に」

川上「パワハラって奴ですか」

綾子「パワハラ? まさか。お義兄さんは優しさの総合デパートって云われている

 人よ。人情にんじょうばなしかなんか聴かされたんでしょ?」

哲子「人情噺? ええ、そんなところです。(小声で)いや、どちらかと言うとパ

 ワハラかも」

長内「川上君、会社辞めたんだって?」

川上「ええ、二年ばかし日本を離れてみようと思いましてね」

長内「そうか、これでうちも宿敵『週刊ワケアリ』をおさえて発行部数、業界一位

 ってわけだ。帰国したら、うちに来ないか。スッポンの川上を味方にいれたら向

 かうところ敵なしだ」

綾子「何考えてるのよ、お義兄さん。川上さんはね、二年後に帰国する時にはすご

 くビックなジャーナリストになっていると思うわ」

川上「いや長内さん、もしかしたらお願いするかもしれません。その時は宜しくお

 願いします。(小声で)一応、保険かけとこ」

長内「で、綾ちゃん、例の件どうするの?」

綾子「面倒くさいから、取りあえず延期して、来年もう一度考えなおすことにしま

 した。来年になったら、再来年さらいねん考えなおすことにすると思うわ」

川上「そうやって延々と先送りするんですか。優柔不断って感じ」

綾子「臨機応変って言って欲しいわ。死ぬか生きるかなんてこと、今決めなくても

 いいことよ。川上さんもそう思うでしょ?」

川上「はいはい、僕もそう思います。(小声で)まるっきり僕の受け売りじゃない

 か」

哲子「(小声で)こっちも生き死にの話かよ。綾子さんも川上さんも何でこの列車

 にのってるんですか?」

綾子「自殺しに来たの」

哲子「そうだったんですか。ええっ!」

川上「僕は、自殺延期の確認に来たの」

哲子「えっ? すみません。話が全然見えないです。(小声)また死にたくなりそ

 う」

哲子「ねえ、お義兄さん、何で私に清津に行ってみろって仰ったの? 清津の湖な

 んて、もう無いらしいじゃない」

長内「それは」

川上「もう直ぐわかりますよ。ほら、空が暗くなってきた。去年この夕立列車のこ

 と僕に教えてくれたの、長内さんでしたよね」

哲子「夕立列車?」

川上「長内さんは、夕立列車のこと、どうやって知ったんですか?」

長内「川上順さんのコラムだよ」

川上「親父の? 親父、そんなコラム書いてたかなあ」

長内「日本を発つ前にお父さんの記事は残らず読んでおいた方がいいと思うよ」

川上「はい、頑張って読んでみます。あっ、そろそろ始まりそうですね」

  レールジョイント音に天蓋てんがいを打つ雨音が雑じり始める。

運転士「(アナウンス)雨が降って参りましたが、注意雨量を超える恐れがありま

 すので、安全走行を行います。これより先の駅への到着時間が予定より十分ほど

 遅れますが、ご了承下さい」

川上「去年と同じアナウンスだ」

哲子「雨?」

綾子「本当。さっきまで晴れていたのに。にわか雨ね」

 車蓋を打つ雨音。激しさを増してゆく。

綾子「この雨の音、聴いてて気持ち好いわ。心が軽くなった気分」

哲子「本当。不思議」

綾子「変だわ。私、何にも憶い出せなくなってる。嫌なことも楽しいことも。(間)まあ、いいか。生きるか死ぬかなんて、もうどうでもいい」

哲子「私も。何でだろう」

川上「弘法大師の雨だ」

哲子「弘法大師の雨?」

長内「そう、心に映った魔物の姿を消してくれる弘法大師の雨」

  車蓋を打つ雨音は列車の走行音(レールジョイント音とエンジン音)を完全に

  圧し、やがて、水面を打つ雨音にかわる。

川上「親父のコラムか…」

川上順「湖や沼に棲む魔物が旅人を水底に誘い込み死に至らしめる。そのたぐいの伝承

 は世界中至るところにある。吊橋などから美しく澄んだ湖面を覗き見て、斯様かよう

 昔話に思いをせた読者もおいでだろう。清津という山間の地にあった小さな

 湖にも同様な魔物が棲んでいた。湖に渡した吊橋から旅人が下を見おろすと魔物

 が水面に姿を現す。それを見た旅人は人生に嫌気がさし、湖に身を投じて自らの

 命を絶つのだ。旅の僧が魔物の悪行あくぎょうを止めさせた。彼は、旅人が橋を渡る際には

 必ず雨が降るようにと念じた。旅人が湖面こめんを覗くと雨が降り出す。無数の雨粒

 が水面に当たり其処そこに映った魔物の姿をぼかす。以来、この湖で自らの命を絶つ旅

 人はひとりもいなくなった。清津の湖はダム建設によって枯れてしまったが、魔

 物は未だ亡びてはいない。心という深遠な湖の、その水面に映る魔物の姿とは、

 それを見る者本人の姿に他ならない。だが、安心して頂きたい。くだんの雨は今で

 も至る所で降っている。その雨を降らす者は家族や友人、或いは、仕事仲間かも

 しれない。人は何れ死ぬ。だから、急いで死ぬことはない。それでも早急さっきゅうに自分

 の生き死にを決める必要のある方には、二百十日前後の清津線乗車をお勧めす

 る。列車の屋根を打つ不思議な雨の音が、心に映った絶望という名の魔物の姿を

 消してくれるはずである」

   激しい雨の中を走り抜けるように、夕立列車の警笛が響く。

                                   (了)

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ラジオドラマ脚本「夕立列車」 Mondyon Nohant 紋屋ノアン @mtake

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